2005年12月10日

自分をどれだけ見つめても

 2005年12月04日の記事のコメント欄からずっと関連しているような記事ばかりが続きますが実は今回もです。(^^;;
 
 EnjoyLife掲示板のわめのコメントから抜粋。
 人は笑ったり泣いたり感動したり苦しんだりできる特典を持ってますけど、それも他者や環境と切り離しては味わうことができません。

 笑ったり泣いたり感動したり苦しんだりできる特典を、自分の中からどれだけ探してみたって見つかりっこないような気がします。
 このことも『少なくとも我々の世界は”ものは依存関係のなかで存在している”』という事実・暫定真理が、心が持つ感情にも当てはまると思うのですが、もう一歩分け入って考えてみると、人が笑ったり泣いたり感動したり苦しんだりする心の様は、自分と他者や自分と自分を取巻く環境との関係性の中から生まれてきているということがわかります。

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posted by わめ at 00:21| Comment(0) | TrackBack(1) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月09日

他者との関係優先の思想

 くまりんさんはわめの掲示板での書き込みを読んでくださって、そのことを御自身のブログにエントリーしてくださいました。わめの書き込み内容が内容なだけに恥ずかしいやらうれしいやら複雑な気持ちなのですが(うれしいのですけどね。(〃∇〃) てれっ☆)
 その中でくまりんさんは『理想は確かに「始めに大悲ありき」の他者との関係優先の思想でしょう。』とコメントされ、これはわめの関係性重視の考え方を認めてくださっているように読み取れ、このことはもっともっとうれしいのですが、この後に続くコメントでは『しかし悲しいかな人間はそんなに良くは出来ていません。だからこそ自分を戒め自己反省の時間の先頭に立って未来を選択し峻別することで他者に応えていくしかないんです。』と書かれてあり、この理想は人間にとって不可能とおっしゃられておられるようです。

 人の心の奥底までわめには見透かすことはできませんが、でも自身の心やわめの周囲の方達を出来る限り観察してみると、必ずしもそうではないように思えてくるのです。

 続きを読む 追記訂正 2005/12/09 10:53
posted by わめ at 02:58| Comment(8) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月07日

テーラワーダ仏教で言う障害者

 今回は『今、創価学会に思うこと 01』のコメント欄でLeoさんがリンクと引用くださったテーラワーダ仏教の『【48】 慈悲の冥想(続き)/業と障害者』について、わめの意見を書いてみたいと思います。

 その前にお断りしておきたいのが、この記事を書くに当たって「障害者」と言う言葉を何度も使わないといけないことで、これは一般的に便宜上使われている言葉で差別用語ではありませんし、わめもそのように理解して使っておりますしここでも使わせていただきます。

 ですがどうもテーラワーダ仏教の『【48】 慈悲の冥想(続き)/業と障害者』では差別用語としてこの言葉が使われ
完全な悟りを開いた人のみを『健常者』と認定することが出来る
と書かれ、決め付けているように思えるのです。
 
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posted by わめ at 21:58| Comment(34) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月06日

ネットは良き時代の人情復古

 仕事も趣味もネット環境が欠かせないわめだから余計に思うことかもしれませんが、チャットや電子メールやブログや掲示板などのインターネットを活用してのコミュニティは、今やリアルを凌ぐほどの心の通い合う世界のように思います。わめの性格にも合うのか、好きな時間に思ったことを書き込みができることや、相手に返事を要求しないといった互いに束縛のない自由なやり取りができるなどのリアル世界ではなかなか難しいコミュニケーションをとることができます。また意気投合したりしてオフ(会)で会うなども可能で、その後リアルでもお付き合いするケースも少なくありません。わめもネットで知り合い、リアルでもお付き合いしだした方達は相当の人数に及びます。

 それにテーマ別にHNを変えてのそれぞれ違った方達とのネット世界でのコミュニティも可能ですし、わめも自鯖チャット3つとブログだけでも5つ、ML(メーリングリスト)主催を6つ、掲示板はいくつあったか忘れるくらい、HNも数種ありますしそれぞれ違った方達とお付き合いしています。

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posted by わめ at 00:54| Comment(35) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月04日

今、創価学会に思うこと 01

 ネットで発言しててずっと気にしていたことがありましたが、それは自分なりに公正に思う発言ができていなかったと思うことです。
 それはわめは学会員であり活動もそれなりにしてきたわけで、学会擁護的発言は身内を庇うようでしずらかったと言うことです。
 今も相変わらず正役職はあるわけですが、上層幹部との円満な話し合いで実質役職を降りたと同じ状態が望ましいとの意見の一致で組織からは離脱状態となり、晴れてシンパ・アンチ両翼から一線を画す立場になり、今は学会批判・肯定共のわめの思う正直な意見が言いやすくなったと感じています。
 ってことで言いやすくなったことを受けてのこの記事です。(^-^)
 お題に01が付くように、相当自身の心には「創価学会に思うこと」が溜まっているようなので、2桁台の記事になっていくだろうとの推測で01が付きました。^^

 
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posted by わめ at 14:57| Comment(48) | TrackBack(0) | 今、創価学会に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月03日

バランス

 人間の手が入らない世界の事象をつぶさにみてみると、バランスが保たれていることばかりが目に付きます。
 人間の体はバランスを崩すと病気になりがちですし、心もそうだと思います。
 範囲を広げて人と人、思想と思想、集団と集団、国と国などのバランスも大切なように思います。
 このバランスが急速に現状から大きく崩れるとそこに歪が生まれるように思います。
 逆にアンバランス状態が何かの力(政治権力等)で持続されている場合も、いずれはバランス状態に戻ろうとする力によってアンバランス状態は崩れるのではないかと思います。この場合は振り子のようにその反動で逆方向にいってしまいまたアンバランス状態が生まれることもあるかもしれません。

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posted by わめ at 17:10| Comment(42) | TrackBack(2) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月02日

理解し合うため

 ネタ切れ状態で何かよいネタはないかとブログの巡回をしてたら、gizmoさんのブログからいい感じの記事を発見しました。(⌒∇⌒)
 正直言ってgizmoさんのテキストは全般的に断定的で乱暴だと思うのですが(わめにだけは言われたくないって?w爆)、それは本人も認めるところでもあると思うし、ああでもないこうでもないと考え過ぎると、思っていることが書けなくなるってこともあるし、全面的に賛成はできませんが自身のブログですしそれでもいいようにも思ったりします。
 ただ、批判的コメントはブログでは控えるべしとの風潮もあるとは思うけど、コメントを許可している以上は批判も大いにやっていくべきじゃないかと思うのです。

 でもわめには今回のお題のように批判するにしてもそれは意見の違うもの同士が『理解し合うため』の批判であったり、議論であったり、互いを訂正し合うためであったりが目的であって欲しいとの願いがあります。
 それとこの記事のお題は、わめの以前からの思いでもあるし、ジョゼさんの最近のコメントアネゴもたまにはいいこと言ってるし(笑)、意外と多くの方の共通する思いでもあるのかと感じておりますし一度に書ききれるものじゃないとの思いからシリーズ化していきたいと思っちょりますばい。

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posted by わめ at 02:25| Comment(21) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月01日

何書こう・・・

 ちょっと自分なりにはずっと書きたかったことをまとめようとこの二日ばかり頑張ってみたのですが、どうも支離滅裂(いつもかw)でとりあえず断念しちゃいました。涙
 軽い記事はEnjoyLife2で書いてるし、新しい海外ドラマも観てないしこっちに書くことが詰まっちゃった。汗
 何かご提案があればコメントください。(m。_。)m オネガイシマス

 EnjoyLife掲示板も進行中のスレは『○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について』だけかな・・・

 左サイドメニューに、わめが感銘を受けた・これは忘れちゃいかん!と言う記事を、いつの頃からか『記事ウォッチング』として追加してますのでよかったら覗いてみてください。
posted by わめ at 17:29| Comment(4) | TrackBack(0) | 日々雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月29日

仕事じまい

 3年半あまりやってたある村役場の毎月の広報のWebページ製作ですが、町との合併で今日仕上げた12月号で仕事じまいでした。村の広報自体が今号でなくなってしまうわけで、Webページとしては始まりから終わりまで手掛けさせてもらって感無量です。^^
 思えば村役場の有志職員の方達に村役場のホームページの製作指導と並行しての広報Webページ製作でしたが、製作指導は車で2時間近くもかかる村役場なので最初はお断りしようか迷いました。(^^;;
 でも結局受けてしまって長い道のりを指導に何十回と通い、そして有志職員の方達とも心が通い合い、仕事なのか友人達に会いに行くのかその辺が微妙な感じになっていきましたが、そのようなわけで感慨深いです。また指導以外にも個人の相談にものったりして、中には役場を退職して事業を始められた方もおられまして、先日その方から電話があってその事業がTVで紹介されたことにびっくりと、順調よくいっているのか心配だった思いも吹き飛んで、アドバイスしただけのわめのおかげだって改めて感謝され照れもしました。(^^;

 ってことで今回はまったくの個人日記になりました。笑
posted by わめ at 17:50| Comment(5) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月28日

ありがとうの心

 軽いお話なのでEnjoyLife2にアップしようか悩んだのですが、慈悲の瞑想話と関わりそうなお話なのでこっちにアップします。

 わめっちは3人(うち一人子供)とネコ1匹暮らしなのですが、「ありがとう」と「いえいえ〜」「どういたしまして」が毎日何度も飛び交っております。

 別に三人とも大したことをするわけじゃないのですが、常時ちょっぴり他者を思いやる、労わる気持ちがネコも含めあるみたいで、さりげない行動としてそれが出てしまいます。

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posted by わめ at 03:03| Comment(17) | TrackBack(1) | 日々雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月26日

慈悲の瞑想について

 何だか仏教めいたお題がついてしまいましたが、まさに初期(原始)仏教のお話です。^^
 その慈悲の瞑想の中に
私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように
 と言うのがあるのですが、って知ったのはくまりんさんの『人に噂されるのは有名ブロガーの特典さ、なんてね』の記事からなのですが、わめはこの『私の嫌いな人々』にこのように思いやることはできないという気持ちがあって、でも初期(原始)仏教の教えはわめも共感できるところも多くて、頭を捻って(90度まで捻りましたw)考えたのですが理解できずくまりんさんに以下のような疑問を投げかけてみました。

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posted by わめ at 17:09| Comment(12) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月25日

宗教のイメージ

 宗教と呼称されるもののイメージがすごく悪くなっているように思うのだけど、実はわめもよいイメージは持てないでいたのですが、これはオウム真理教やイスラム原理主義者の一部がテロを起こしたり、他にもカルト宗教の行き過ぎた勧誘等のニュースなどもありますけども、このような新興宗教や原理主義(教条主義)のことから宗教全般のイメージダウンに繋がっているのかなって思ったりしますが、キリスト教でもボランティアや奉仕活動など幅広くやっておりますし、わめも関心がある仏教にしてもこの社会において無意味なように排斥されるのは、わめ自身にも自戒の念もあり再考する必要性を感じます。宗教というものを一括りにして悪感情を抱くのでは、カルト宗教が他の宗教を邪宗・邪教と吹聴するのを何も考えずに鵜呑みにしてしまうその信者と大差がないのではないかと思うのです。

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posted by わめ at 16:31| Comment(0) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月24日

05年版犯罪白書

 調査は今年4月、少年院の教育部門で6年以上の経験がある教官546人を対象に実施した。「以前より大きくなっている少年の問題」を聞いたところ、「思いやりや人の痛みへの理解力・想像力に欠ける」(63%)▽「対人関係を円滑に結べない」(58%)▽「感情をコントロールできない」(55%)などを挙げる教官が目立った。また、83%の教官が「指導力に問題のある保護者が増えた」と答え、白書は「少年への処遇だけでなく、保護者に自覚を促す働きかけの強化も重要」と分析している。

 この調査結果から見ると再犯率が高くなっているのかなぁ

 83%の教官が「指導力に問題のある保護者が増えた」との調査結果ですが、その保護者が学校・教育現場に対して影響を与えているケースも多いように思うし、そうなれば教師達も当たらず触らずの教育姿勢になりやすいというか、当然生活がかかっているわけで、生徒のことも大切だけど自己保身も考えないといけないわけだし、事勿れ主義の公務員体質になりやすいと言うことかな・・・

 何だか悲しくなる調査結果だな。(ノ_・。)

 「思いやりや人の痛みへの理解力・想像力に欠ける」(63%)は、わめも幼い頃からそうだったかもしれないし、そうなってしまう原因は友達や家族との会話の欠如等にあるような気がします。

 また友達が悪いこともあるかもしれない。

 自分のこととして昔を振り返って考えてみると、自分という存在を周囲に認めて欲しくて、やたら自分の言動やしぐさを強調してみたり色々信号を出していたような気がします。

 その反面、自分の居場所がなかったからというか、一人の世界に閉じこもっていったようにも思います。

 こんな時に自分を認めてくれるような悪友や宗教団体や、共産党系の青年組織等からの勧誘を受けちゃうとコロっといっちゃって、抜き差しならなくなると言うこともあるし。

 やっぱ周囲が愛情を持って、その子の良い点を見つけ褒めてあげることや、認めてあげることが、自己啓発を促すことに役立って大切かなって思います。^^

以上 元記事 2005/11/09

 2005/11/24追記 続きを読む
posted by わめ at 01:08| Comment(4) | TrackBack(1) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月23日

日蓮(大聖人)も真っ青

 日蓮(大聖人)は本尊は曼荼羅(御本尊)と言いましたか?
 御書全集の中にそのような御文はあったでしょうか?

 御書(全集)を読めば明瞭ですが、本尊抄、報恩抄、開目抄等には、本尊は(本門の)教主釈尊とすべしと断言されておりますし、一歩譲って本尊問答抄(真筆なし)においては「法華経の題目を以て本尊とすべし」との仰せもありますが、日蓮(大聖人)は法華経(本門)を釈尊の教えの結晶・真髄と思われていた(当時としてはやむなし)わけで、曼荼羅の中心にも法華経の題目(題号)たる妙法蓮華経と認めておられるわけです。
 したがって本尊は教主釈尊、一歩譲って釈尊の教えの結晶・真髄(と思われていた)の法華経の題目(題号)を本尊とすべきであると日蓮(大聖人)は明言されています。余談ですが御書には日蓮(大聖人)自ら上行菩薩の再誕と書かれておりますし、それは謙遜(笑)もなにも”本尊は教主釈尊”と明言されておられるわけですから、日蓮(大聖人)自身が仏であると思われていたわけがないと思います。(日寛さんごめんw)

 その曼荼羅が御本尊と呼ばれ、曼荼羅が現代においては印刷されて日蓮仏法を信仰している”つもり”の信者の各家庭に配られ御本尊として信仰対象になっているのを知ったら、また携帯御本尊なるものも作られ配られている現状を知ったら、日蓮(大聖人)はびっくりして真っ青になりさぞやお嘆きのことだろうと思います。

今回の記事で参考とさせてもらったBBSスレッド。
日蓮聖人の本尊観
posted by わめ at 04:50| Comment(13) | TrackBack(2) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月22日

つらいなぁ

 書きたくても書けない記事がある。
 否、書かなくてはならない記事だと思う。
 でもわめが、多少なりとも知り得たことをここで書いて、もしもわめが個人特定でもされたら友人が窮地に追い込まれることになる。
 それでも事実を知る誰かが書かなくてはいけないことだと思う。
 もしも大惨事が起こったら、つらいのは大惨事を予測できた実態を知る者たちだからだ。

 友人にはブログを開設し、当事者として実態を書いていくことを強くお勧めした。

 この記事に関することは”このブログでは”もう触れないと思うしコメントも受け付けません。

 ごめんなさい。
posted by わめ at 02:51 | TrackBack(0) | 日々雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月19日

酔った勢いで

 酔った勢いで書いちゃいます。笑

 人には色んな欲があると思う。
 そしてこの人間社会は人のいろんな欲の結実であるように思う。
 人の持つそのいろんな欲はいけないこと? わめにはよく分かりません。

 でも、思想とか主義とか宗教とか、またそれぞれ個々の欲・不満とかもあるとは思いますが、自らも生きている以上、互いの生存する権利を認め合う、助け合うことはできないかな?

 誰もが生存していける社会を作り出すことを、まずは最優先に考えることが一番大切なことだと思う。

 私たちの周囲には、生存していくことの危機にある人はおりませんか?

 わめみたいに痩せ我慢が得意(わめは今のところ生きていけないほど困っていませんがw)で、周囲に困っているのを隠そうとしている方もおりますよ。

 自らが生きていたいと願う(どのくらい?)なら、他の方もそのくらいの気持ちで生かしていこうと努力してもいいんじゃないでしょうか。

 また周囲に生存を脅かす危険な環境はないか考えてみましょうよ。

 そして見つけたら友人や知人や隣近所や行政機関やネットも活用して、より多くの人の力を借りて何とかしようと努力してみませんか?

 そのように皆さんが努力されれば、少しは今より嫌なニュースや新聞記事を見なくてすむかもしれません。
 またそれが先々の、自身や家族、身近な方々が不幸な目にあう芽を摘み取ることになるかもしれません。

 そのような日常の私たちである上で、思想・主義・宗教なども語り合い、わめは議論し合っていきたいと思っています。

 
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posted by わめ at 04:14| Comment(13) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月18日

海外ドラマが面白い! 05

 今回は『デスパレートな妻たち』のご紹介です。^^ このドラマの第一シリーズはBS2で現在放送中ですのでご覧になれる方も多いのではないでしょうか。

 このドラマ、何と言ったらいいのか・・・ってわめの解説より【西田ひかるのOh,my goodness!】デスパレートな妻たちを観てもらったほうがよく分かるかも。(^^;

 わめ好みのドラマではなさそうだったので、実を言うと今日1話目を観ただけなのですが、謎めいたところもあって意外と興味をそそられたりしています。^^

 他に何かお薦めの海外ドラマなどありましたら教えてホシィッ☆O(> <)o☆o(> <)O☆ホシィッ

 あ、映画の話題ならハードゲイ(嘘w)なジョゼさんっちの『私、この映画が好きp(´∇`)q ♪♪』と『私、この映画が好き2p(´∇`)q ♪』なども覗いてみてはいかがでしょう。

 なお、以降のこのシリーズは、EnjoyLife2に移転します。
posted by わめ at 21:56| Comment(2) | TrackBack(2) | 海外ドラマが面白い!  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月17日

教条主義はファシズム?

 こんな仰々しいお題をつけてみましたが、わめが書くことなのでわけわかめ(涙)ではあっても難しい話ではありません。
 宗教を信仰する多くの方が、ここでは絞り込んでわめがよく知っている強信な創価学会員の方の多くが、教条主義に傾注してしまっている状態のように思え、それがわめからは恐ろしいファシズムに見えてしまうということです。

 とはいえ、ファシズムって何よ?って言われるとgoo国語辞典の

ファシズム 2 [fascism]
第一次大戦後に現れた全体主義的・排外的政治理念、またその政治体制。自由主義を否定し一党独裁による専制主義・国粋主義をとり、指導者に対する絶対の服従と反対者に対する過酷な弾圧、対外的には反共を掲げ侵略政策をとることを特色とした。イタリアのファシスト党に始まる。ファッショ。

 この程度しかわめは知らないわけですので、この解釈でこの記事は書かせてもらっていますので、ファシズムに対する解釈の突っ込みはご勘弁願いたいです。

 現代の日本は民主主義国家ですが、まぁどこまで理想的な民主主義かはわかりませんが、”人間の自由や平等を尊重する立場”という意味での民主主義は、日本の民主主義の中にもちゃんとあるように思います。

 教条主義もgoo国語辞典で調べてみました。

教条主義
きょうじょう-しゅぎ けうでう― 5 【教条主義】
事実を無視して、原理・原則を杓子(しやくし)定規に適用する態度。ドグマティズム。

 創価学会は日蓮(大聖人)仏法を基調とし、日蓮(大聖人)の残された遺文(御書)を教義の中心思想としています。この遺文(御書)を集めたものが御書全集と言われるものですが、その御書全集に収められている日蓮(大聖人)の遺文(御書)には、日蓮(大聖人)がほんとに書かれたとされるものは半数をやや越える程度で、真偽未決や後世で加筆されたであろうと予測されるものや偽書の疑いの濃いものが半数近くを占めています。

 強信な学会員は、この日蓮(大聖人)の御書に書かれていることを純粋に信じ、その教えに従った信仰活動及び、その教えを現代にマッチさせた信仰活動とする学会活動をしているわけですが、その教えに従った信仰活動とその教えを現代にマッチさせた信仰活動とする学会活動とが、必ずしも相反しないとはいえないかもしれません。

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posted by わめ at 10:32| Comment(11) | TrackBack(2) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月15日

自身と組織と信仰と

 つい最近より学会組織から離れているわめです。(^^;
 ってこの組織から離れる前は、以前掲示板に書いた状態だったのですが、更にそれ以前は『男子部時代のわめ』カテゴリーを参照してください。

 離れていると言うのもかなり語弊があるかもしれませんが、その辺の事情はまたいずれ書くこととして、今回はリアルでもよく知ることでもあるし、学会員さんのブログでもよく目にする学会活動においての精神的な負担や、学会組織批判・不満めいたことについての解決方法?のようなことを書いてみたいと思います

 まず組織について、組織といっても実際一般的な学会員さんが関わる比重として大きいのは地域の組織であって、創価学会そのものじゃないと思います。もちろん、組織の実情としてトップダウン的要素は強いわけですが、しかし、果たしてそうでなければいけないのでしょうか?

 わめは『男子部時代のわめ』や『男子部時代のわめのトラウマ』で書きましたが、当時の約10年間は信仰心がありましたし、男子部・学生部幹部と多少の衝突・不満はありましたが、組織に縛られた学会活動というのはほとんどやっておりませんでした。学会活動というより日蓮仏法(学会アレンジ)の信仰活動みたいなものだったかもしれませんが、それはとても活き活きとして自主的な活動で、わめ自身もまた仲間たちもすごく楽しかったです。

 わめのその当時と今と学会組織は変わってしまったのでしょうか? たしかに当時は聖教啓蒙や選挙活動の比重は今より低かったと思いますが、その体質自体が変わってしまったようには思えないのです。

 今も自身がその気になれば自由な信仰活動はできるのではないでしょうか。

 学会活動=信仰活動なのでしょうか?
 そう思われる方は組織に大きな不満も少なく思いますし、精神的な負担にもならないように思います。そのような方に、わめはここでは何も言うことがありません。

 そうは思えない方が、精神的な負担が大きく、学会組織批判・不満めいたこと言っているように思います。
 わめは信仰活動を優先的に選択し、上記に示したような活動をやってきました。

 そしてその自由な信仰活動が自身にとって、価値のある充実したものであるならば、その姿を見て地域組織も少しは変わっていくのではないでしょうか。

 信仰心があるなら受身でネガティブな自身から、ポジティブな自身に変わっていくべきではないでしょうか。もとより日蓮仏法(学会アレンジ)はポジティブな教義でありますから。

 そう簡単に思える・できるなら苦労はしないとの声も聞こえてきそうですが、強盛な信仰心があれば乗り越えていけることではないでしょうか。

 それが自身や家族・友人・知人、また同志を守っていくことにも繋がっていくようにわめには思えます。

 自身の人生は他の誰のものでもないのですから、納得のいく生き方を選び取っていただきたいと思います。

 *****追記*****

 わめの信仰心について、上記で”当時の約10年間は信仰心がありましたし”と書きましたが、信仰心は昨年までありましたので、誤解がないように追記します。(参考記事『信じることをやめた時』)

*****追記の追記*****
posted by わめ at 02:20| Comment(8) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月14日

功徳と罰

 今回は功徳と罰について書いてみたいと思います。

 功徳がでるとは

 ・良い事が起こる これは説明するまでもないでしょう。
 ・悪いことが起きる(転重軽受・試練を与えられる・過去世の宿業がでる/を消す等々
 必ずしも自身にとって都合のよいことばかりとは限らないように思います。

 罰がでるとは

 ・悪いことが起こる これは説明するまでもないでしょう。
 ・良い事が起こる(魔が出来する/つけいられる/たぶらかされる・福運を削る等々

 見比べてください。()内は解釈の仕方であり、起きたことそのものではありません。
 功徳・罰とは解釈の仕方で、事実起こったことに変わりはないとわめは思います。

 例えばある人が人の物を盗んで得をしたとしましょう。
 あなたはそれを知りその人にどのようなことを言うでしょう?
 まさか「良かったね、得したねぇ〜」って一緒に喜んであげるなんてことはしないと思います。

 ではある人が人を助けるためにお金を与えたとしましょう。
 あなたはそれを知り「バカなことして損したねぇ〜」と言わないと思います。

 何故でしょう?お金が入ることは得することだし、何も買わないのにお金が出ていくことは損なことではないでしょうか?

 こんな馬鹿げた質問をして申し訳ありません。でもこんな馬鹿げたことが分からない方が意外と多くいらっしゃるように思います。

 人の物を盗んで得をした人には、いずれ罰が当たる、魔につけいられた/たぶらかされたと思うのではないでしょうか。

 人を助けるためにお金を与えた人には、福運を積んだ、過去世の宿業を消す行為だと思うのではないでしょうか。

 功徳とは良い事が起こることでも得をすることでもないのです。
 罰とは悪いことが起こることでも損をすることでもないのです。

 良い行いと思うことをしていて起こることは、それが悪いことでも良いことでも功徳というのです。
 悪い行いと思うことをしていて起こることは、それが良いことでも悪いことでも罰というのです。

 すなわちその起こる事象に変わりはないのです。

 事象は功徳とか罰から起こるのではなく、原因と結果から起こるのです。
 その結果ではなく原因を考えて、その事象が功徳であるか罰であるかを判断するのです。

 先ほどの例を世法に当てはめれば、前者は犯罪行為をし、それがばれれば罰を与えられます。
 後者は表彰されたり善意の行為として新聞に載ったりするかもしれません。
 世法は原因より結果を重視します。

 更に言えば功徳・罰とは、宗教の教義や思想・主義、そして世法で捉え方が違うのです。
 そして功徳であるのか罰であるのか、最終的判断を下すのは個人の主観でしかないということです。

参考記事リンク
posted by わめ at 12:38| Comment(7) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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