2006年09月01日

創価学会について語ろう

 私は、EnjoyLife掲示板を創めた頃(2005/01)、突き詰めれば仏教は、「縁起・無常・無我」を説く教えであることが解り、学会組織の問題は学会教義のおかしさに根本原因があるんじゃないかと思い、それを理解してもらおうと学会内外で言動してきました。

 ただ残念なことに、何かを強く信じ込んでしまっている多くの方に、それは理解することすら拒まれ、結局学会を変えていくことなど私の手には負えないと判断するに至り、組織とは距離をおきました。
 幸せになりたいとか、願いを叶えたいとか、そういう欲求の強い方には、私の意見などはほとんど無意味なのかもしれないと思ったりもしています。
 それは、幸せになれるかどうかの結果はともかく、創価学会は幸せになりたい方達の集まりで、いわば幸せになることが主体で、仏法や学会教義や指導は客体であり、客体はどう変わろうと主体優先の団体だからなのでしょう。

 私にとっては、創価学会はあまり興味の持てる団体ではないですが、社会・政治的側面から見れば問題も多いように感じますし、コメント欄での意見交換など有意かなと思いまして記事にしてみました。
 って誰からもコメントが貰えなかったら、まったく意味のない記事になりそうです。汗
posted by わめ at 02:11| Comment(88) | TrackBack(0) | 今、創価学会に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月29日

橋の下で拾われた?

 子供(幼児)の頃、悪いことをしたり言うことを聞かないと、母親から「橋の下で拾った子供だから、また置いてくるよ」なんて言われたことってありませんか?
 それとか縁側に出されて鍵閉められるとか、私はこんな懐かしい経験があります。^^
 最近じゃこんなことはないのかな?
 でも「悪いことをしたり、言うことを聞かない」と、好きなTVを見せてもらえなかったり、おやつが貰えなかったりといったペナルティを受けたりした経験は皆さんあるんじゃないでしょうか。
 「・・・でしょ?」、「・・・しょうね!」、「わかった? ちゃんと聞いてる? 返事は? はいでしょ!」等々、最近私がよく遭遇する母親の子供に対する躾・説教・説得です。
 日本じゃこんなの今でも当たり前なのかもしれませんが、これってすごく悪い子供の躾・教育であるように私は思います。

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posted by わめ at 03:04| Comment(17) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月23日

人と人との間

 あることをふっと思い出し、柄にもなく寂しさが込み上げてきた。
 それは約10年間、一緒に暮らした人とのことです。
 まだ離れて3年半も経ってないし、今でもたまに電話やメールもきたりして、お互い過ぎ去った過去のことと思ってないのかもしれない・・・
 とはいえ、現在お互いそれぞれ一人で暮らしているわけでもなく、やっぱり過去は過去です。
 これは【自立 03】の記事で、私がある種の自立のキッカケとなった人のことです。

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posted by わめ at 01:52| Comment(18) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月22日

意識について

 自身の守るべきもの、守備範囲とでも申しましょうか、自分・家族といったものは我が身そのものの縄張範囲、友人・知人といった守備範囲、できることならのこうなって欲しいという希望範囲、細かくそういった範囲を立て分ければ以外とその範囲種別は多いのではないでしょうか。
 仏教では無我といって、自立自存するものなど何もない(無自性)と説きますが、それを自分の事として理解するためにも、自我意識及び自分と強く影響を及ぼし合う他者との相互関係について、明確に自覚を持つことは大切なことのように思います。
 縁起に依るひとつの現象に過ぎない自分であっても、そこにはちゃんと意識があり、自分という現象を守り続けたいと思うことは、この世に生を受けたものとして、正常なことのように思います。
 また、そこからでしかその先に進めないのかもしれません。

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posted by わめ at 17:26| Comment(15) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月20日

暫定真理と専門書

 熱力学の第二法則、一般相対性理論、万有引力の法則などは、暫定真理(反証可能性があり、反証・反駁に耐えている仮説)と私は呼ぶのですが、ブッダの縁起説も、その説のすべてではないかもしれませんが、暫定真理と呼べると思います。

 これら暫定真理は、直接的には一般相対性理論はともかく、知っていたほうが時と場合により役立つことがあると思います。
 間接的にはほとんどの暫定真理は、ある条件内であれば結果が予測でき、あらゆる分野で生かされ、私たちの生活に役立ってくれているといえるでしょう。

 これらそれぞれの暫定真理とは何かを知る方法として、専門書などを読むことや、現在ではネットで検索エンジンを使うことでもある程度は知ることができるでしょう。

 ブッダの縁起説も、仏教においては苦からの解放や、解脱・涅槃(寂静)などの心理状態に導く教えに活かされているようです。

 このことで注意すべきは、仏教からブッダの縁起説を切り離すことはできませんが、ブッダの縁起説は暫定真理として、仏教と切り離すことができるということです。

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posted by わめ at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月11日

輪廻説は仏教ではない

 この記事は当初2005/11/10に書いたものですが、この記事に新たに「佐倉さんの無我論への感想1〜5」のリンクと一部引用を加え、輪廻転生は仏教の教えではないことの援用とさせていただきました。

 軒ちゃんのブログの『過去世と来世は存在するか』の記事にコメントさせていただいた中で、Libra師匠の雑記の『輪廻説は仏教ではない』をリンクさせていただきましたが、その内容についてのコメントを以前掲示板で書いておりましたのでまずはコピペします。

 脳が壊れていくことで心が壊れていくというアルツハイマー病患者での事実は、心(性格やその方の人間性等)は脳の働きであると言えると思います。
 輪廻があるとした場合には、前世で脳が壊れるわけですから、心も壊れた状態もしくは心とは別の何かが輪廻するわけで、まったく別人格の自分になっているように思うのです。
 それなら、人が死んで焼かれ土に返り、またそれが植物などに吸収されそれを動物が食べ、人は意識・人格を無くしながらも、何らかの形で存在していくのと何ら変わりはなく、それは縁起そのものじゃないかと思うのです。
 そういった意味で一個の生物は、無数の命を取り込んで(ながら)生存活動を続けているわけで、またその一個の生命も死によって、他の多数の生物の中に取り込まれていく。これを輪廻と言ってもいいんじゃないかと思うし、そういったことを指すのが輪廻なら”ある”と思います。』
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posted by わめ at 11:48| Comment(15) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月05日

釈尊が肯定する信仰

 釈尊の「信仰を捨てよ」について、Libra師匠Leoさんと以前に議論しましたが、Libra師匠の言われる「仏教的信仰」を信仰と規定されるものの概念内に収めるなら、釈尊の「信仰を捨てよ」に該当する信仰とは言えないとの見解を私は示しました。
 しかしながら私の表現能力不足か、はたまた信仰という言葉自体が広範な概念を持つ言葉であるが故か、どうもすっきりと腑に落ちていかなかったという感が私には残ってしまいました。
 そこで改めて私の主張を明確にし、ご批判を頂ければと思いこうして記事にすることにしました。^^

 続きを読む 追記 2006/08/05 17:15
posted by わめ at 05:39| Comment(44) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月31日

我の強さ

 仏教には無我と表現される無心の状態というか、あらゆる事物は現象として生成しているだけで、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないとする見解がありますが、これは大乗的には空を指しているのかな?

 ある人を指して「あの人は我が強い」とか言われたりしますが、我が強いということは無我の対極にある状態なのかもしれません。

 恋愛などで心が熱くなっている時ってのは、やっぱ我が強い心理状態なのかもね。(^^;
 
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posted by わめ at 04:11| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月29日

今、創価学会に思うこと 04

 ここ半年、夜の街で散財しまくりな私でしたが、元々散財するほどの蓄財もなかったし、そろそろ生活を改めようと努め始めたわめです。^^
 いや、これ(夜の街)がなかなか癖になっちゃって、夕方には自然とシャワーを浴びちゃったりして、もう毎日暗くなる頃にはいつでも出掛ける準備が自然とできていたりするので抑えるのが大変です。汗
 と言うか、いくつも会社を経営していた時代に、毎日数年、嫌というほど「飲む・唄う・女」に明け暮れていたのですから自分でも「今更何やってるんだろ?」と呆れてもきております。コホン
 
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posted by わめ at 05:16| Comment(2) | TrackBack(0) | 今、創価学会に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月02日

対話と論議

 私は対話と表される事柄には、打算や詭弁や欺瞞が含まれる場合が多いと感じている。
 対話の目的や規範や前提として、「互いに理解し合うため」などと言われたりもするが、正直に申せば背中がむず痒くなってきたりもします。
 対話の本音・目的は、「互いに理解し合うため」ではなく、「自分や、自分の(正しいと信じる)思想・考え方を、対話相手に理解・受け入れてもらいたい」ということではないだろうか。
 その目的のためには相手の考え方を理解した”ふり”も必要だろうし、好感を持たれる言動も必要なのだと思うのですが、それが私には打算や詭弁や欺瞞に感じてしまうのです。

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posted by わめ at 13:15| Comment(67) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月30日

あらw

 記事更新もままならないまま6月も終わろうとしています。汗

 そう言えばリアル世界(夜の街?w)にどっぷり浸かって早半年、そうは言ってもEnjoy系界隈ではメモ帳に記してるようにちょこちょこ足跡は残しているのですが、肝心の記事は書けてないですね。(^^;;

 リアルはリアルで、ネットはネットで、皆さん色々なことがあるとは思いますが、わめのこと忘れないでくださいね。

 それと記事がさっぱり更新されてないのに、沢山の方に見ていただけているようで感謝しております。

 今後ともよろしくです。ヽ(  ´  ∇  `  )ノ ♪
posted by わめ at 17:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月24日

格差社会

 最近世間では勝ち組と負け組とかの話題、所得格差の問題が取り沙汰されてきているようですが、昨日(5/23)の毎日新聞の記事によれば、生活保護世帯は約105万世帯(2006年1月)でここ5年間で25万人も増えたそうな。
 また学校給食費が払えない児童数が全国で134万人(2004年度)。
 国民健康保険の保険料が払えず資格証明書を交付された人が30万人(同)。4年前の3倍。
 リストラで正社員が減り、非正社員が日本人の労働者の3割になった。その平均月収19万円。

 景気拡大が戦後2番目で今後も続きそうだと予想されているが、一般庶民はとても潤ってきているとは言えないと思う。
 勝ち組は潤い、負け組は困窮する世の中。
 資本主義・競争原理の利点も数多くありますが、無制限な競争原理がもたらすものはこの社会の破綻以外の何者でもないように思います。
 一見利益に結びつかない情操・道徳教育、教養・美徳・慈悲・慈愛などの崇高な精神は等閑にされ、果たしてどのような人格が形成されていくのか。
 これは予想ではなく、今現実に起こっているこの日本社会の様相そのものが物語っているように思います。

 無制限な競争原理は、今後も勝ち組の絶対数減少と負け組の増大、また一段と所得格差(『能書き垂れるより金をくれ!』)を生み出していくのではないでしょうか。

 記事(参考リンクと一部援用)追加
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2006年04月17日

Re: 地獄への道は人びとの善意によって舗装されている

 今回はLeoさんのブログ記事、『地獄への道は人びとの善意によって舗装されている』にコメント代わりにトラックバックしようと書いてます。^^

 「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」...は逆説的な表現だ。
「善を為そうとして悪を為してしまう現実」...平和を目指すはずだった昔の学生運動の内ゲバやある種の宗教など該当する例は枚挙にいとまがないのかもしれない
 分かりやすい例ですが、Leoさんのこの記事のリンク先にもアメリカのイラク攻撃や、公立学校の敷地内完全禁煙などの例も引かれています。
 善や平和や正義という心地よい言葉で飾られた行いにより殺されたり苦しむ人達がいる。
 どうも善や平和や正義という心地よい言葉は、人々を扇動するために誠に都合のよい言葉のようです。
 
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posted by わめ at 10:05| Comment(90) | TrackBack(1) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月30日

今、創価学会に思うこと 03

 今年も母の命日が近づいて「願いとして叶わざるなし」の言葉が思い出される。
 学会員の方なら日蓮(大聖人)のこの御金言?をまず知らない方はいないでしょうけど、ご多聞に漏れず私も長い間この言葉を信じ心肝に染めていました。
 そして病床の母にこの言葉で叱責していた私が、今更ながら悔やまれてならない。

 健康長寿を願う方は多いと思いますが、多くの学会員はそれを願わないのでしょうか?
 少なくとも私は母に対して、母は自身や家族に対して願っていたと思いますがその願いは叶いませんでした。

 母は心の病(鬱病)も患っていましたが、それを克服せんがためにも折伏・唱題・学会活動に励んでおりましたが、返って悪化し寝込んでしまいました。
 そして皮肉なことに寝込んで活動ができなくなったことで役職を降ろされ鬱病は快方に向かいました。

 譬喩・方便と理解し、相手に合わせ、時に「願いとして叶わざるなし」の言葉で励ますことまで悪いこととは思いませんが、願いは何でも叶うと信じ込みそれを他者にまで言い切るのは如何なものか。
 また願いが叶わないのは信心が足りないとか(ありもしない)宿業が深いから等で、自分や他者を責めないで頂きたい。
 私と同じ過ちで、大切な人を傷つけないように切に願います。

 関連記事 『わめの母に対する複雑な思い

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2006年03月22日

「ドラマ 女王の教室」再び

 先週末から検索ワードに”女王の教室”で『TVドラマ 女王の教室』を見て頂いている方が沢山おられるのですが、なるほど3/17、18の2夜連続で女王の教室のスペシャルドラマがあったのですね。^^
 もちろん私もキャプ・エンコしたわけですがまだ観ていません。汗

 『TVドラマ 女王の教室』の記事では最終回の名台詞を紹介させていただき、『でも超圧巻の先生の最後のお話(名セリフ)は、番組製作スタッフの心意気というか、よくぞ公共の電波に、宗教批判とも取れる(そうとしか取れないw爆)セリフを流してくれた』との意見を述べさせていただきましたが、最終回に限らず番組当初から過激な内容であったように思います。
 番組中盤よりこの番組の視聴者の(賛否両論の)反響の大きさに、スポンサーはクレジット表示(ごの番組はご覧のスポンサーの提供でお送りしていますみたいな)に社名を流すことを止めるなどもありましたが、このドラマの脚本を手掛けられた遊川和彦さんは、「長い間ドラマを書いているが、『放送するな』とまで言われたのは初めて。真矢は、いろいろあった末に自分の生き方を決めた人。最近、自分も出会えない、『尊敬できる大人』『怖い大人』が描きたかった」、「反響によって、話を変えることは一切考えていない。それをしてしまうと、自分が真矢から怒られそうな気がする」と覚悟を述べられていました。

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2006年03月19日

最近思うこと

 最近Enjoy系ネット界隈を離れて浮気してましたが、そろそろこっちにも戻ろうとこの界隈をROMりながら何を書こうか模索中です。
 残念ながら相変わらず学会問題が取り沙汰されているケースが眼につき、私的にはやっぱ悲しいです。
 学会を含む宗教的な問題も、結局個々の心の有り様に思うのですが、その意味では個々が現在の心のポジションを批判から頑なに守ろうという思いが見え隠れしているというか、そう言う自分だってそうかもしれないのだけど、少なくとも他者との議論では主観的意見と客観的な見解を明確に分けて、また客観的見解を重視しながら進めていかないとどうにもこうにも互いの自己主張の応酬に終始し、何も得るものなどないことになってしまっているのじゃないかと感じます。
 また自身の主観を何より大切に思うならば、同じような主観を持つ者同士だけで語り合えばいいことのようにも思います。

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2006年03月08日

不可謬性の否定

 またまた『B.R.アンベードカル著 「ブッダとそのダンマ」 山際素男訳 光文社新書』からの考察です。
 Leoさんから『霊魂について』で、「『ブッダとそのダンマ』はLibraさんの仏教理解に近いものがあり、(相違点が全くないわけではないですが)、理にかなっていて共通する部分が「ダンマ」なのかなとも思ったりもしています。」とのコメントを頂きましたが、私もそのように思います。またLeoさんの仏教理解も同様に近いものがあるように思いますが、そのひとつの共通点として「不可謬性の否定」が挙げられると思います。私がここでいう「不可謬性の否定」とは、私達には不可謬なことの有無や、不可謬なことがあったとしても確証することなどできないとする見解です。

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posted by わめ at 19:50| Comment(3) | TrackBack(0) | ブッダとそのダンマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月27日

霊魂について

 今回の記事は『B.R.アンベードカル著 「ブッダとそのダンマ」 山際素男訳 光文社新書』からの考察です。というかこの本には大変感銘を受けておりますので、今後もこの本の内容を題材にした記事を
書いていきたいと思っております。

 学会では三世(過去世・現世・来世)の生命などと言われたりして、人間の主体は生命(霊魂のこと?)でそれは永遠不滅であるなどと教わりました。
 私は独り言スレで『生命とは意識』であると書いておりますが、当然肉体が滅べば意識(生命)も消滅してしまうわけで、”一人の人間としては現世のみの存在”であると考えております。
 
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2006年02月17日

ブッダとそのダンマ

『B.R.アンベードカル著 「ブッダとそのダンマ」 山際素男訳 光文社新書』

 これほど理解・納得しやすいブッダの伝記は未だかって読んだことがありませんでした。
 またブッダの出家が今まで四門の生老病死をみてと思っていましが、他国との水利権争いにあることが書かれてあり、真偽は分かりませんが他国との水利権争いについて事細かにこの書には書いてあり、出家の動機としては非常に納得のいくものでした。
 ブッダの悟りについても突然悟られたわけではなく、幼い頃からの思考を元に完成されていったと言うことも現実的に感じましたし、ブッダ本来の教えを理解するにはこれほど分かりやすい書はないように思います。
 現在のところ、私の一押しの仏教理解のための書です。

 著者アンベードカル氏についてはWeb検索していただければすぐに分かることですが、少し下記に参考になるリンクを示しておきます。
 
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posted by わめ at 11:54| Comment(0) | TrackBack(0) | ブッダとそのダンマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月15日

父の信仰

 父は創価学会員であり御本尊・題目には信仰心は弱いながらもあるようです。
 また自宅は個人会館として地域組織にも役立ててもらっているようですが、私はそれらに批判的な意見は言ったことはありません。
 父の学会批判めいた小言を聞いてあげることはありますがそれも話を合わせる程度です。父が強引な折伏や新聞啓蒙をしているのであれば、私も何かしら言うこともあるかもしれませんが、父にはそこまで学会や信仰に思い入れがあるわけでもなく、「公明党は好かん」と選挙だって面倒がって行きたがりませんが、姉(娘)に連れられ止む無くといった感じの父です。

 TVで好きな相撲・プロ野球観戦と信仰とどちらが大事なの?と疑問になる時もありますが、それでも信仰は父の限られた生きがいの一つなのかもしれません。

 私の父に対する願いは、毎日を楽しく健やかに過ごしてくれることだけです。他人に迷惑をかけない範囲であれば私は何でも許せそうに思いますし、私も出来る限り力を貸してあげたいです。

 今回の記事はみくさんの『それでも折伏 〜心の支え〜』の記事にトラックバックさせて頂くために書きました。
posted by わめ at 15:47| Comment(2) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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