2005年09月11日

男子部時代のわめ 10(終)

 わめやわめGは、非学会員で勤行唱題・教学研鑽する仲間達に、入会や本尊流布を勧めておりませんでした。それよりもやっていることが大事で、その必要を感じなかったと言うのが本音だったかもしれません。

 もっとも当の本人達の中には、入会や御本尊を早く頂きたいとの思いを強く持つ方も少なくなくて、そんな方達には、もっとしっかり勤行唱題・教学研鑽をしていかないと、御本尊を保ち続けることは大変で、軽はずみに受けるようなものではないとか、また、親の承諾など絶対条件とか、まだ始めて日が浅過ぎるとか、かなりもったいをつけていたように思います。

 それでも最初に参加し始めた十代の女の子などは、親や会社の寮長に仏壇をおくことの承諾をもらい、御本尊を頂きたいとの強い思いに負けて、比較的短い期間で入会・御本尊を下付されました。

 もったいをつけているようなことを書きましたが、わめにとって実のところ、御本尊とは末代の衆生を救うため、日蓮大聖人が魂を込めたものとの強い思いがあり、自分の命よりも大切にしてもらわなければ、御本尊をお受けするものではないと考えていたからです。なのでほとんどの方が約半年から二年程の間、未入信で勤行唱題・教学研鑽・学会活動をやられていました。中には自分は未入信のままで、自分の友人を入信させる方も出てきて、それではその方は紹介者とはなれず、内(学会員)のわめGの誰かの紹介と言う形で入信された方もおります。(^^;;

 そんなこんなで共に学会活動をするわめGの総人数は、男女学生部など合わせれば30名ほどにもなっていったように思います。また、住む地域が遠く離れていることから、わめGと共に活動はできない方達や、就職・転職で離れて行った方、その方達がまたそれぞれの地域で折伏をして、わめからすれば孫・ひ孫会員となった方達などと、学会内外の大きなイベントなどで顔を合わせることもあり、当時は何とも言えないほどの喜びを感じていたように思います。

 ただわめ達は、日蓮仏法を中心とした学会教義を非常に重んじていましたので、男女学生部の個々の活動には批判的な面もありました。

 そのようなことから、ちょっとしたトラブルがありました。男子部が行なう折伏セミナーへ新来者を集めようとのお達しで、非学会員のまま活動するわめGのメンバーも出させるようにとの話が持ち上がり、わめとしては気が進まなかったのですが、折伏セミナーの場では入会させないし、入信(御受戒・御本尊下付)などは決めないとの約束で、渋々ではありましたが何人かは出てもらうことになりました。後から思えば、その折伏セミナーにわめ達も参加すればよかったのですが、何か他の用事があったのか参加しませんでした。

 結局、その折伏セミナーでわめGのメンバー二名が入会し、入信日(御受戒・御本尊下付)の日取りなども決めてしまったのです。もちろん約束が違うと抗議しましたが、副部長は「本人達が希望したから」と、その本人達の意思を尊重したなどと言いましたが、元々入会したくて活動していたメンバーであることは、最初から伝えてあったわけで言い訳にもなりません。埒が明かないので部長・本部長にも抗議しましたが、本人達も同意してしまったことと、今更覆すことはできませんでした。
 またその二名も、入会・入信できると喜んでいることもあり、わめとしても引き下がるしかなかったのです。

 もちろん、わめもその方達を意地悪で入会させなかった訳ではなく、入会までには学会組織に入っても、しっかりと信心がやっていけるようにとの思いでいたわけですが、組織としてはそのようなことは、極端な言い方をすればどうでもよくて、ただ折伏の成果が欲しかっただけのように思えます。
 そんな人を数字としか見ない学会組織の体質は、当時から20年以上も経った今でも、変わらない悪しき体質だと思います。

 この折伏セミナーの一件は、ほんの一例ではありますが、このような組織の体質は随所に現れていたように思います。わめが組織に疑問を抱くようになっていったのもこのようなことからです。

 そしてわめGは、男女学生部の枠を超えて、学会行事とぶつからない範囲で、独自の学会(信心)活動(活動者会・御書研鑽会他)を行なうようになっていき、わめGは学会組織の団結より、わめGとしての仲間意識を重視し、互いを高め合いながら活動を続けていきました。

 このようになっていったのは、学会組織の体質にも問題意識を持ったこともありますが、わめGは学会以外の色々なイベント・活動を通して、人間的成長を目指すことが元々の目的であったわけで、その意味において日蓮仏法の素晴らしさ(昨年夏までそう思っていた)を知り、仏道修行が大事との思いがあったわけで、学会とか学会組織に対して、深い思い入れがなかったのも事実でしょう。

 学会と言うひとつの宗教組織の中で、その組織人としてお行儀よく活動していく人達を、わめG達にとっては何だか哀れに思えたのかもしれません。自分達では社会に対し、自発的に何一つできず、限られた世界の中でしか、自分の価値を見出せない人達とは、どうしても馴染めなかったように思います。

 ちょっと学会組織批判めいたことを最後に書いてしまいましたが、それは男子部時代のトラウマ話の今後に譲るとして、学会=日蓮仏法との思いに変わりなく、わめはその後の二十年以上も、組織には疑問を持ちつつも、学会と共に昨年夏まで歩んできました。

 ただ学会内でこちょこちょしてるのは性に合わず、07・08で紹介した学会外の活動も、後継にバトンを譲り、わめはその後いくつかの小さな事業を起こし、それらが発展してそれぞれ株式・有限等の法人となって夢を叶え欲を満たし、そしてそれらも終わっていくのですが、これはまた機会があればということで、これでお話を終わらせていただきます。(終)
posted by わめ at 02:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 男子部時代のわめ  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月10日

男子部時代のわめ 09

 わめの学会以外の活動では、市長はじめ、その秘書課や記者クラブの皆さんも尽力くださり、それらも含めてこのような幅広い活動ができたことを申し添えておきます。おかげをもちまして、社会福祉協議会や国際ソロプチミストなどから、表彰状や感謝状をいくつも頂くことができました。

 さて、この頃の男子部での活動ですが、これはわめの男子部時代のトラウマで書いているので、ここでは極力割愛させていただこうと思いますが、わめGの男子部の活動と折伏話は、どうしても分けて書くことは難しいので、重複してしまう部分もあるかもしれません。

 学会以外の活動も学会活動も、わめの家は拠点でした。以前書いたように仕事が日曜午後3時間程度だけだったこともあり、朝から夜まで色んな活動・イベントに関わる方が、わめんちに来ていたわけです。昔は不良の溜まり場だったのが、集まる人が変わっただけで、溜まり場なのには変わりがありません。

 もちろん男子部メンバーもおりましたが、それはわめが折伏した夕刊配達のお手伝いをしてくれた二人と、高等部支部責時代に掘り起こした、二名の高等部員(実家が田舎で高校に通うため、両名とも親元を離れて下宿暮らしで、この頃には一人は学生部員)くらいでした。

 信心に目覚めたわめには、この状態はちょっとつらいものがありました。それは家も狭くて、朝晩の勤行を、集まってくる方達に隠れてできないことでした。二十歳前の男女が多く集まっているわけで、一人仏壇の前に座って、勤行唱題をしている姿を見られるのは恥ずかしかったのです。(^^;; 

 しかし、夕刊配達のお手伝いをしてくれた仲間二人のうち一人は、事情があり御受戒のみ受けて御本尊が家になかったため、仏壇(御本尊)の前で勤行唱題をしようと思うと、わめんちでやるしかなかったわけです。(いわゆる内得信仰)
 彼は一人の時は一人で、もう一人の片割れとか、高等・学生部員がいると一緒になって、若い男女が集まってわいわいとミーティングなどしているにも関わらず、そこからちょっと失礼とばかりに出て、隣の部屋で朗々と勤行唱題を始めるのです。そこには恥ずかしさなど微塵も感じさせないほどの、信心に対する熱情のようなものを感じました。火を点けたのは誰だ?って話はおいといてぉぃw、その純真な姿は、凛々しくもあり輝いてたな・・・。

 当然首謀者(笑)のわめも、一緒にやらざるを得なくなるわけで、最初は不思議なものを見るように、こっそり覗いていた他メンバーも、毎度のことと徐々に慣れていきました。

 そんな日々が続く中、多分最初は県外からこちらに働きに出てきて、三交代勤務の会社で働き、その寮で暮らす十代の女の子だったと思うのですが、わめGがいつものように勤行をしようとした時、「私も一緒にやりたい」と言い出し、例の内得信仰の仲間が偉そうに、「遊び半分でやってるんじゃないんだぞ!」なんて真剣な顔して言い返したりしてましたが、興味本位じゃなくその子も何かを感じてたようで、毎日ではありませんが、わめG達と一緒に勤行唱題に参加するようになりました。

 教学(日蓮仏法・学会教学)研鑽は、初代総B長より「無疑曰信(むぎわっしん)」の信心を教わったことの影響も大きかったのか、教学試験の有無に関わらずしっかり学んでおりましたし、わめGや外(非学会員)の勤行唱題をする子達にも、疑問に思うことなどを言えないことが、信心の妨げになるとばかりに、しっかりと教えていきました。

 長くなりそうなのではしょりますが、その後、勤行唱題・教学研鑽に、学会員以外のメンバーが多く参加するようになり、また座談会などにも参加、やってることはまるで学会員と同じ状態になっていきました。

 学会員の方なら理解できると思いますが、座談会等に多くの若い新来者が出席し、入会はしてないにも関わらず、その方たちが日々勤行唱題・教学研鑽をし、座談会の場で職場や学校等でそれらをどのように活かしているかの発表等は、信じがたいほどの驚愕であり、また内外は別にしても、心通じ合う同志のような、見守ってあげたい、応援しているよとの思いのこもった拍手で迎え入れてくれたのは言うまでもありません。(続く)
posted by わめ at 21:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 男子部時代のわめ  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月03日

男子部時代のわめ 08

 更に学会活動以外のことを続けます。

 ライブハウス以外にも、公民館・公会堂等を借りてのコンサートや、野外ステージのある大きな公園などでも野外ライブ等もやるようになり、高価(数百万)なPA機材(音響機器)と、運搬用のキャラバンという大きな車も購入しました。ライティング関係(照明機材)までは手が出ず(超高価過ぎでw)、投光器にスチールのゴミ箱の底をくり抜いて、そこにセロファンを貼って、壊れたマイクスタンドに取り付けて等の手作り照明機材や、電気パーツ部品でそれらのコントロールボックスを作り間に合わせました。これらもひとつの団体となり、PAレンタル屋として、各地のイベントを請け負うようになりました。

 ボランティア関係の活動を始めるキッカケは、これだったのか記憶が曖昧なのですが、市の主催のお祭りイベントの野外特設ステージのイベントを担当することになったわめたちだったのですが、その大通りの道を隔てた反対側でバザーをしている方達と交流を持ちました。その方達とは肢体不自由児の会の方達で、不自由な体で作業所で車のゴム部品等のバリ取りなどの自立支援の作業(仕事)をし、その傍ら自分達で作った、小物を展示して売っておりました。そこの代表の方も車椅子で障害を持っておられたのですが、とにかく皆さん明るい方達で、音楽の話やサークル活動についてなどお話をしました。このようなことがあって、その会の作業場へもお邪魔するようになり、自分達にできるお手伝い等も始めました。そんなわめたちのメンバーの中には、ボランティア活動に大変興味を持ち、手話を覚えたりその他の活動をしたいとの意見が出て、ボランティアサークルが生まれました。そしてできて間もない地元の大学にも、大学生のメンバーが福祉部を作り活動をしていきました。

 またその地元大学での大学祭が毎年行なわれるのですが、その大学祭実行委員会でも、その大学に在籍するわめたちのメンバーが活躍していました。

 このような活動を通して仲間は数百名にもなりました。そして仲間達は音楽、ミニコミ誌製作、PAレンタル、ボランティアなどの団体に別れ活動をするようになったものの、それぞれの団体の規約には、「あらゆる活動を通して、相互の人間的成長を目指すことを目的とする」と定めて、活動する内容はそれぞれ違えど、その目的とするところはそれぞれの人間的成長にあることを目的としました。またこの人間的成長を目指す意味で、それら団体の代表・副代表を主要メンバーとし、統括する組織も作りました。そこで生まれたひとつの全体企画を紹介します。障害者の方が作られた詩に曲をつけ発表し、会場ロビーではその方達の作業の様子を写真にして展示、また作品の展示等も行なおうというものです。また作品(詩の紹介も含め)集のパンフも作成し、来場者に配りました。これには市の共催も得られ、市や新聞各社、民間企業の協力の下、多くの方に参加していただき、立場の違う者達でも、協力し合うことでこのようなイベントが行なえるということを、多くの方に伝えることができたと思います。

 このような活動を上げれば、数限りなく行なってきたように思います。また、人の集まりですから、意見の相違やトラブル等も多々ありましたが、「人間的成長を目指す」ことからの考え方が、それらを解決し、乗り越えて活動を続けられた大きな要因かもしれません。

 う〜ん、読んでもらうと何だかわめの昔の自慢話のように感じません?w(^^;; そんなつもりはないのですが、若かりし頃にやってきたこのようなことに、わめは誇りを持っているのは事実で、読んでもらっている方達に、自分でもよく分かりませんが何かを訴えたいのかもしれないなんて、思ってたりするのかもしれません。
 ってことでご批判などありましたら、遠慮なくコメント欄にお書きください。<(_ _)>

 さて、学会活動以外の活動の紹介はこれくらいにして、次回はまた学会活動の話に戻そうと思います。(続く)
posted by わめ at 08:43| Comment(1) | TrackBack(0) | 男子部時代のわめ  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

男子部時代のわめ 07

★★★★★★★★★★お願い★★★★★★★★★★ 「男子部時代のわめ」を読んで下さっている皆さん、ありがとうございます。この07以降は、わめの地元の30代以降の方なら、何かピンとくるものがあるかもしれません。 そしてわめが誰か分かる方もおられるかも知れませんが、個人を特定するような、また匂わせるような(県・市名・団体・イベント等)書き込みは、わめのコメント欄を含め、Web上のすべてにおいてお控えください。 またそれが間違っている場合もあり、間違って個人特定された方が迷惑し、プライバシー等の侵害になる可能性もあることを何卒ご承知ください。m(_ _"m)ペコリ わめにメールはその限りではありません。

 今回は学会活動以外のわめのことを書いてみたいと思います。

 ギターが職業(内容は秘密だw笑)となり、とは言え以前に書いたように初期の収入は少なく、他の仕事(バイト)もやったりしてましたが、このギターが職業は縛られる時間が非常に短く、最初は月に4回でトータル6時間の仕事でした。少しづつ収入が増えていき、その当時(20歳過ぎの頃、約20年強前)月4回12時間で月40万円前後の収入になりましたので、時給に直すと3万円以上にもなりました。しかも約20年強前ですから、当時の物価から考えてもかなりおいしい仕事だったといえると思います。

 あ、収入の話じゃなく、どれだけ時間的に余裕(月12時間の労働時間ですから)があったかを強調したかったのでしたw汗

 その余裕の時間にいろんなことをやりました。まずその職業を活用して、音楽好き仲間を集めました。(わめが19歳前後の時代) 言うなればアマのシンガーソングライターです。当時は結構ライブハウスもあり、それぞれのライブハウスで何曜日の何時からという感じで、この音楽仲間で、ある組織を作り、ライブ演奏などを行ないました。この音楽組織は次第に大きくなり、所属する個人やグループは30組を超えるようになっていきました。そして最初は市の名前が付いた組織名だったのですが、県内5ヶ所の市にまで広がり、それぞれその市の名前を持つ5つの組織となっていきました。 またロック系バンドも加入するようになり、それらはまた別組織として活動するようになっていきました。で、それらを統括するための組織として、県の名前の入った組織も作りました。

 それとこのような音楽活動の発展と共に、ファンの方達や、自分達もいつかはステージに上がりたいとの思いを持つ方達とも友情が芽生え、それらの方々をもその組織のメンバーとなってもらい、コンサート企画やチケット・ポスターの作成や会場の設営なども、やっていただくスタッフとして活動もしていただけるようになりました。

 また、その中にはミニコミ作りをやりたいなどとの希望もあり、わめたちの音楽活動情報誌としての、ミニコミ誌の発行なども手がけるようになり、それがまたひとつの独立した組織となって、アマだけに限らず、芸能人への取材を行なったりして記事を載せたり、当時”つるべ”(知ってるよね?)も、”ぬかるみ”と言うミニコミ誌発行に関わっていた関係から交流が持てるようになり、当時出来て間もないわめの地元大学の、大学祭への講演依頼(漫談ですがw)も快く引き受けてくださり、会場は満席状態になりとても盛り上がりました。TVで観るより生は数倍面白かったです^^

 そんなこんなで芸能関係(いくつかの芸能プロ)とも少しづつ繋がりが持てるようになり、県内の高校や大学などのイベント、また市のお祭りイベント(とは言っても実際はほとんどJCですが)等に、芸能人の招致依頼や、わめたちの音楽組織の演奏依頼が多く来るようになってきました。(続く)
posted by わめ at 00:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 男子部時代のわめ  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

男子部時代のわめ 06

 二代目総B長改め二代目部長(支部男子部長)は、信心に厚い熱情のようなモノは強く感じるのですが、職人さんってこともあるのか口下手で、うまく言葉では伝えられないようで、口元からほとばしる唾(ハッキリ言って迷惑ですw)のほうが、むしろその熱情をよく伝えていたようです。でもこの方や奥さんは大変気さくな人で、二代目部長宅を支部の男子部の拠点として提供くださり、毎日使わせていただいてました。それに集まりだすのが他の会合等が終わった後が多くて、夜の9時くらいから11時近くまでになる場合も多かったけど、嫌な顔ひとつされない方でした。ずっと先になるのですが残念なことに、このご家族に会えなくなったのは、経営する建設会社が経済的に行き詰ったからか、こんな言い方はしたくないけど他の表現が浮かばず・・・、夜逃げ状態でいなくなってしまいました。(でも後に遠くではありますが、同じ県内でご家族共に元気だとの情報が入りました。^^)

 この頃(18〜19歳)にはわめも地区リーダーとなっていたように思います。あ、牙城会もです。それと、20代前半には牙城会を卒業し、創価班もやっておりました(実は訳あって創価班大学校は2回入っておりますw汗)が、当時の県青年部長(多分&現副会長)との二人だけの約束が守られて、創価班も一年半ほどでめでたく引退できました。^^
 この副会長とは、数年前にも学会関連事業系のお話で、二人だけで語らうことができ、楽しいひと時が過ごせました。

 この二代目部長時代の後半部分からは、わめの男子部時代のトラウマ話に譲ります。
 ってことで、初代総B長〜二代目部長時代前半にかけての、結果的に折伏に繋がっていくわめの活動全般(学会活動以外を多く含む)を、これからは書いていこうと思っております。

 まぁここまでくるとあと一息です。っていうか、ここから先を詳細に書かないと、あと二〜三回(ポイントだけを言えば数行で足りるかもw)で終わっちゃうかもしれません。
 不良仲間二人の折伏(少し反芻はすると思いますが)も、もう少しリアルに書いたほうがよかったかもなんて思っていますが、また詳細に書くこともあるかもしれませんし、思うままにこのお話は書いて、あとは男子部時代のトラウマ話の続きを書いていこうと思っています。(続く)
posted by わめ at 00:04| Comment(1) | TrackBack(0) | 男子部時代のわめ  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月02日

男子部時代のわめ 05

 この頃(16〜24歳)は、わめの激動の時代だったように思います。いろんなことがありました。そのいろんなことが、いくつも並行してあったために、どうもわめの中でそれぞれのいろんなことは、他のいろんなことのどの辺りかというのが非常に曖昧です。ですので、今後書いていくうちに分かってくることもあるかもしれまんので、その場合は以前の記事を修正したりすることも、出てくるかもしれない。

 総B長の金魚のフン時代(ぉぃw)に、任用試験や助教授補試験があり、試験を受けるために教学も学びました。日蓮仏法に疑いを持ってかかっていった(無疑曰信の解釈参照)のですが玉砕し、なんて仏法は素晴らしいんだと感動しました。日蓮大聖人の言われる通り生きていくことが、最高の生き方であると完璧に信じ込んでしまった時代でもありました。

 わめは元来熱中しやすい性格で、それはギターに凝ってわずか2〜3年で、それが初期の収入はともかく職業と成り得たのもその性格が故だと思いますし、音楽・ボランティア活動等の種々の団体の設立なども、熱中しやすい性格がそれらをやってのけたとも言えるかもしれません。

 学会面においては、総B長がその組織下に男子部大B長(現在の地区リーダー)が4人もいるにも関わらず、何故平会員のわめだけと行動を共にするのか、またわめの助教授補試験後の結果を誰より早く知り、不正解だった箇所のわめの回答までをも知り、試験終了後まもなく駆けつけ、わめの早とちり回答に激怒されたのかを後で考えてみた時、総B長のわめに対する期待の大きさなんだと思え、喜びに体が震えました。教学試験はその数年後の、教授補試験まで無事合格することができました。教学試験は男子部時代の、この3つ(任用・助教授補・教授補)を受けただけです。

 少しだけ話は遡って、夕刊配達を手伝ってくれた(わめはやってないから代わりにやってくれたが正解?w)二人の不良仲間ですが、彼らもわめと同じようにバイクやギターに凝り、そして勤行唱題までにも凝るようにもなり(ぉぃw)、総B長に背中を押されながらわめは折伏しました。多分この二人がわめの最初の折伏相手であったように思います。(勘違いが分かれば修正しますがw)

 総B長はやがて、本部長、圏幹部となり、わめからは遠い存在になっていきました。その後釜となった二代目総B長は、初代総B長よりもかなり年上で、建設関係の小さな会社を経営する温厚な方でした。(続く)
posted by わめ at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 男子部時代のわめ  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

男子部時代のわめ 04

 会場(ロビー)に着くと、十数人の男子部と思われる方々がバタバタ走り回ったり、指示を与える方がいたり、数人で打ち合わせをしてる方がいたりと、ロビーは騒わめいていました。男子部総B長は、その会合の設営責任者らしき方に挨拶をし、わめも紹介されました。わめは「よろしく頼みます。」と言われただけ、誰かがロビーから会場に出たり入ったりしてる時に、会場内が見えましたが、ステージが明るくスローガンのようなものが張られていましたが、設営準備の方たち以外は誰もいないようです。男子部総B長が会場に入る右端の扉の前まで行って、「わめ君はここで入場する方に元気に挨拶をするんだよ。車椅子で来る方もいるかもしれないから、そんな方には扉を開けて誘導して。」などと言われました。ここで初めて、わめは会合に参加するのではなく、裏方をしにここに来たんだということが理解できました。ただ、会合にも出たことのないわめが、何故突然こんなことをしなければならないのかは、さっぱり分かりませんでしたが・・・

 会場に人が集まりだしました。わめは何を言えばいいのかと焦っておりましたが、他の扉の前でわめと同じことをしている方が、「こんばんは〜とか、お疲れさまです!」と元気よくまた会釈しているのを見て、わめも同じようにしました。最初は恥かしかったし、声も小さかったけど、何十回、何百回とやっていくうちに、他の扉の前の方と同じようにできてるようになってたと思います。来場する方からも、「ご苦労様です」と声を掛けてくれる方が多く、わめは気分が高揚してると言うのか、興奮していたように思います。また他の扉の前の方のように、わめは参加する側ではなく運営する側なんだと、参加者に対しても優越感?のようなものを感じていたようにも思います。

 会合が始まる頃には、入場者もまばらになり入り口(玄関)のほうに、スタッフ(設営・運営メンバー?)は集まりだしました。わめは相変わらず扉の前にいましたが、会合も終了時間近くになり呼ばれ、演壇横の緞帳を上げ下げするような暗いところに行きました。そこから会場が覗けたのですが、1000人以上は座れる会場は男子部員で埋まっていました。わめに紙テープが両手一杯に渡されました。合図と共にそれをステージに投げるようです。投げ方の注意もされました。ステージからみて、わめのいる反対側に落ちるような投げ方をするようにとのことです。最後に登壇した方と会場が一緒になり勝ち鬨(多分)が終わるタイミング、拍手が沸き起こる時にわめたちは紙テープを手に持っているだけ投げました。わめが投げた紙テープのひとつは最後に登壇した方の顔の側面に当たったように思いますw汗

 これがわめのいきなりの男子部デビューでした。その後の会合への参加もそのような調子で、裏方がほとんどだったような記憶があります。それは総B長が本部長へ、そして圏の主任部長(曖昧)になる頃まで続いたように思います。わめからすればこの総B長(支部男子部長)が、初代部長でありました。またこの総B長は他の地域の方で、わめの地域に派遣された方でした。右も左も分からない平男子部員のわめを、人から見れば総B長の金魚のフンのように連れ回したのでした。男子部的イメージでは明らかにカッコイイ総B長の傍にいれたことは、わめもカッコイイのかなっと、悪い気がしていなかったように思います。(続く)
posted by わめ at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 男子部時代のわめ  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月30日

男子部時代のわめ 03

わめの男子部時代のトラウマ話も、少し更新しましたのでよかったら見て下さい。^^

 02は熱中した趣味の話の前置き部分で終わっちゃったけど、趣味といえば将棋・囲碁に纏わる話もあったな。実はわめにも小学5年生頃に、クラスでお昼休みだったと思うのだけど、クラスメイトAが突然に、「将棋できる?」って聞いてきて、「できるよ」って答えたら、紙将棋(紙で駒や盤を作ったもの)を出してきて、将棋を指した覚えがあります。で、このクラスメイトAが、中学に上がってから最初に家に来た同級生で、家にあがっていい?と言われあげてわめの部屋に入れたら、何やら部屋を見渡し、ベッドと箪笥の隙間に入って、ベッドのカーテンをうまく箪笥の引き出しに挟むようにして隠れ、シンナーを吸いだしたぉぃぉぃw わめにはこのクラスメイトAが、初めての友達となりました。クラスメイトA改め友人Aは、まぁ中一からシンナー・タバコを吸うのだから、不良と言えば不良なんだけど、将棋が強く頭も決して悪く無い奴でした。

 それとお隣の禁じられた遊びのお兄さんのお父さんは、後で知ったのだけど老舗の地元ヤクザの組の元大幹部だったのですが、すごくいいおじさんで、わめんちは当時電話がなく、このお隣さんの家の電話をわめっちの電話みたいにいつも使わせてくれて、当時車を持っている家も少なくて、このおじさんが何かとわめ家族が必要な時に、車を出してくれてました。奥さんも気さくというか面白い方で、わめの家の玄関がお隣の庭側で鯉が泳ぐ池があり、庭を見渡せるような作りの室内テラスというか、応接間的になっていてわめの家の玄関先がよく見えるのですが、、わめが小学校の頃学校から帰って来る時に、その応接間のサッシを開けて、「今日のおばさんの家の夕飯は、わめちゃんの好きなカレーだよ。わめちゃんもうちの子になったら、おいしいものが沢山食べられるのにねぇ〜」などと声を掛けたりしてくれてました。事実手招きされてお邪魔して、本格的なサイホンコーヒーや、おいしいお菓子などもよく頂いたりもしたのですが・・・ まぁこんな感じのお隣さん一家なので、家族のような印象で、大B長夫婦に感じたような、緊張感などはなかったわけです。

 話が脱線気味で、いつになったら男子部話になるのかわめにもさっぱり分かりませんがw笑、このまま続けていきます。^^

 で、お隣の面白くて親切なおばさんの下心?かもしれないことが、分かったのは小学校高学年の時で、このおばさんの旦那さん(老舗の地元ヤクザの組の元大幹部)は、地元が名古屋で中日の大ファンで、中日が負けた日や翌日は、非常にご機嫌が悪くなるらしいのです。で、わめにコーヒーやお菓子で釣って家に呼び寄せ、おじさん(旦那さん)の遊び相手をよくされられたのでした。遊びといっても、おじさんが小学生に合わせて遊ぶわけじゃなく、好きな囲碁をわめに教えて、碁を打つわけなのですw笑 でもわめも囲碁を面白く感じてて、むしろお声が掛かるのが待ち遠しいくらいでした^^

 あ、何でお隣さんの話になったかと言うと、将棋好きな友人Aにわめが囲碁を教え、よく対局をし、友人Aは中学卒業後に定時制高校に入ったのですが、一応高校なので一般高校の囲碁大会にも出られて、そこで県で準優勝までしちゃったのですが、わめはその頃友人Aには、まず囲碁で負けることはなかったので、わめは囲碁が強かったという、自慢話がしたかったというわけです。(こらw

 え〜話を戻しますwコホン ギターが家にやってきた(中学2〜3年生)こともあって、ギターの練習を始めたわけですが、近所(かなり上級生)のギターが弾けるお兄さんから「お前は指が短いからギターは無理だ」って、ショッキングなことを言われたのですが、返って見返してやるぞってな感じで、結構必死に練習をしてたように思います。前にも書きましたが、このギター話というか音楽系の話は、17歳くらいからのわめの人生に大きな影響を与えていきます。

 さていよいよ男子部話に入っていきます。(^^;; 大B長宅での朝の勤行・唱題会を約1週間、そして朝刊配達を始めて、それは一年半ほど続き、車の板金整備工を少し、タップなどの製造加工工場(主に旋盤工)も少しの間やってみたりと、その後仕事は転々としていきます。

 この期間のいつ頃だったか非常に曖昧なので、とりあえず16〜18歳くらいの秋頃とでもしておきましょうw笑 ある日の夕方に近い午後、突然男子部総B長(今の支部男子部長)が、一人でわめっちを訪ねてきました。そして「今から大きな会合があるので、すぐ準備して一緒に行こう」と、細身で身長の少し高い方で30歳前後(実際は27歳くらいだった)、イメージは近藤正臣チックというか、斜に構えてちょっと長めの髪を手でかき上げたりとちょっとシャイ?、でもまぁ何というか威圧感があるというか、Noとは言わせないぞといった気迫が、わめを一瞬硬直させました。もう催眠術に掛かったというか、蛇に睨まれた蛙というか、不良を束ねていたなんて、やっぱりうまい具合に状況が、そうさせていただけと言うのがこれで証明されたというか、わめはもう言いなりですw 何故か既に母の手によって用意されていた、白カッターとネクタイ(色不明)とトレパンに着替え、その男子部総B長の車で、約40分の隣の市にある市の文化会館に行ったのですが、その車中色々その方から聞かれていたように思うのですが、わめは緊張してたのか何ひとつ覚えておりません。

やっと男子部話にたどり着きました。C=(^◇^ ; ホッ! てことで続きは後日にw笑
posted by わめ at 21:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 男子部時代のわめ  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

男子部時代のわめ 02

この頃って、まだ仏法とか御本尊に対して、信じてなかったと思う。母の勤行・唱題する姿は物心ついてからずっと見ていたし、自分も小学生の時からやったりはしていたけど、長い朝晩のご挨拶みたいな感覚しかなかったように思うし、母に頼まれてお水を代えたり、ご飯をお供えしたりもしたけど、これって誰が飲んだり食べたりするんだろうって疑問を持っていたような気がする・・・

 なので前述のように、大B長宅での朝の勤行会(会かよw)をやって自分が変わったというのも、信心の力とか功徳とか、そのようなことは思わなかったと思う。小さい頃からやったりしてたのだし、特別なことといえば、よそ様のお家で複数人でやったということくらいでしょうか。でも母は、信心についての話は別段してこなかったので、大B長から終わった後で聞く信心話で、半信半疑ながら「勤行唱題して真剣に祈っていくと願いは必ず叶うんだよ」って言葉は、へぇ〜そうなんだ・・・と、あまり疑いも持たないでただ漠然と聞いていたような気がする。でもとにかく気持ちよかったのは事実で、大B長から「もう一人で家でもできるかな?」って言われた時に、はいと答えてた。

 ということで、1週間前後の朝の勤行会は終わったわけで、その後はどうなったんだろ・・・、今となっては思い出せないw汗 ただ、夕刊は相変わらず仲間に配ってもらってたけど、新聞販売店から、以前より朝刊も配って貰えたらうれしいようなことを聞いていて、いっちょやってみるかなんて気持ちになって配達するようになった気がする。

 朝刊配達をやり始めたのはいいけど、早朝の4時頃に起きないと配達しきれないのだけど、わめは生活パターンから言えば、朝の勤行会で6時半頃には一応起きれるようにはなってきたのだけど、4時と言うのは自信がなかったようで、生活パターンとしては夜は寝ないで朝刊配達に行き、帰ってきてから眠くなるまで適当に過ごし、午前中から夕方まで寝るような生活をしばらくは続けていたような気がする。なので当然のように、昼間暇な不良仲間たちは、わめんちから遠のいていったのかな・・・ 

 と、ここからはどうしても熱中した趣味の話を出さないと話が進まないw なのである程度書いていこうと思う。

 わめは中学2年の頃、わめんちの玄関から見て前のお隣の家の姉の同級生(男)が、ギターを弾いているのを聞いた。曲は禁じられた遊びで、今考えればド下手だったと思えるけど、そのギターの音色にすごく感動した。また時をほとんど同じくして、GS(グループサウンズ、特にザ・タイガーズファン)狂いの姉とは違い、姉の同級生が吉田拓郎ファンで、そのレコードを家に持ってきて聴いたりしていた。それもまた、ギターってすげ〜とわめに感動を与えた。そしてまたまた近所の姉の友達(姉より一級下)がガットギターを持っていて、弾かないからと姉に貸したのか、わめに貸してくれたのか、ともかくわめの家にギターがきたわけです。^^

 このようなことが、わめの人生に大きな影響を与えていくわけですが、そのお話は次回へ続く
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男子部時代のわめ 01

 えっと、わめの男子部時代のトラウマ話の続編を書こうと思ったのですが、リクエストされている部分が”わめの折伏について”なので、このトラウマ話の以前に遡らないといけないことに今頃気付き、それとは別に「男子部時代のわめ」としてブログで書いていこうと決めました。^^
 でもわめの折伏の仕方の特殊性はありますが、それ以外は特になんてことのない体験ですので、期待に応えられずにこのお話は、すぐに終わっちゃうかもしれません。笑
トラウマ話は、ここをクリックでお願いします。<(_ _)>

 それとこのお話は「わめのトラウマその一」「わめはボス」からの続きになります。(*v.v)。ハズイ。。。。

 中学を1週間遅れで卒業後は、自宅で仲間と麻雀や、夜中は近所の人気の無いところでシンナー吸ったり、原付バイク(小学校で留年しているのでこの時点で16歳になっていたので原付免許を既に取得済み)を乗り回したりで、小遣い稼ぎ(夕刊配達)は仲間に任せ、わめは働かず好き放題な事をしておりました。これと他にひとつだけ、わめが熱中した趣味があったのですが、これがわめを誰か特定されかねないかなり大きな特徴ですので、今のところ秘させて頂きます。<(_ _)>

 そのような時を過ごし、その年の夏、大B長さんは突然やってきました。大B長さんは温厚・口下手な方で、きっと母に頼まれたのでしょうが家に来て、何を話したかはよく覚えてませんが、たどたどしく世間話?などをして、最後に信心の話というか何か決意したように、「わめちゃん、朝の勤行を一緒にやらないか?」と切り出してきました。

 わめは当時やってることは不良そのものだったのですが、人と接する場合(特に目上の方に)は、以外と好印象を受けるくらいにおとなしく、親や仲間以外に対して、反発するようなことは言わなかったように記憶しています。

 で、話は戻して、大B長さんが「わめちゃん、朝の勤行を一緒にやらないか?」と切り出した時、何故かわめは頷いたようで、気が付いた時には明日の朝から、大B長宅で一緒に勤行する約束が出来上がっていました。(;´▽`A``

 人の気持ちが分からなかった幼少期とは違って、逆にその頃はそのトラウマからか、わめが人からどのように思われているかがやけに気になっていたように思います。 いつものように深夜まで遊び家に帰って、その翌朝の勤行の約束が気になり、結局朝まで眠れずに大B長宅に行ったように記憶しています。

 そして1週間ほど大B長宅での朝の勤行を続け、わめは変わっていったのです。どのように変わったかは、何とも説明が難しいのですが、他人の家に行くこと、同年代じゃない方(大B長とその奥さん)と、普通に長い時間お話したりするのが初めてであったように思うし、いつも寝ている時間に人と同じように起きてて、朗々と朝から勤行唱題をするって、一般人の仲間入りをしたような感覚があったわけです。まぁ勤行唱題は一般的じゃないですけど、学会二世ですからわめ的には一般的であったのでしょう^^

 この一般的と言うのが、今まで人と同じことをやってこなかったわめにとっては、トンでもない経験なわけで、どっかで世間を斜めに見ていたというか、自分は世間から隔離された存在と言うのか、そのように思っていたわけです。

 今夜はここまでw しかしわめの体験話って、読んでもらって楽しんでもらえるのだろうか心配ですw もっと面白おかしく書いたほうがいいとか、何か意見がありましたら、コメント欄にお願いしたいと思います<(_ _)>
posted by わめ at 00:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 男子部時代のわめ  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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