2005年10月12日

自立 03

 この一ヶ月間、Poh師匠よりアドバイスをいただき続けておりますが、そのアドバイスに触れ、過去の自分に思い当たることが多々あり、もしかしてこれは、Poh師匠にわめの私生活を覗かれていたのか!って思うくらいで、隠しカメラを探してみたりしてw(^^;;

 冗談はさておき、過去の自分を振り返りはっきり思うこと、それは「人生に疑問はない」でした。

 わめは今年の6月までの約1年間、宗教を中心とした自分の心を取り巻く事柄に、読む・聞く・調べる・検証するなどの受け手に徹してきました。

 それはそれだけの期間が、従来の自分をぶち壊し、新たな自己の目覚めのために、最低限必要な期間だったように思う。


 それまでは、学会教学(学会流日蓮仏法)を学び、心肝に染め、そして実践し、心の闇が晴れていったのです。
 我が人生において起こったこと、これから起こることに、なんの疑問もなく、答えを手に入れることができたのです。
 だからこの仏法は本当に素晴らしいと思ったし、この仏法を知らず、苦悩する人達を哀れにも思っておりました。

 このような思いは、わめの人生の大半の時間を埋めてきました。

 それがあるキッカケから崩れ始めました。

 それは他の宗教を疑いも持たず信仰する、わめにとってとても縁のある方が原因でした。
 この方を誤った宗教から救いたいとの一心で、この仏法の素晴らしさ、この方の信じる宗教を調べ、その教義のおかしさを訴え続けました。
 数年話し合いました。でもまったく通じなかったのです。
 その方は体験的にその宗教を心から信じきっていて、わめの言葉はその方の心に届かなかったのです。

 この話はここまでです。これで終わっています。

 ですがわめに大きな疑問が生まれました。それは信じるとは一体なんなのだろうと。

 その方にとって、その誤った宗教を信じる心が、正しい宗教を受け入れることができない、大きな妨げになっていると思いました。

 また自分に当てはめて、この仏法を信じる心が、自分を支えていることにも気付きました。

 そして人は皆、何かを信じることで、自らの支えとし、生きているのではないかと。

 今まで信じてきたことの否定は、これまで生きてきたこと、そしてこれから生きていくことの、そのすべての支えを失うことになってしまうのではないかと。

 だから信じきってしまうと、訂正は難しい。

 信じることを、自らの支えとするところに、間違いがあるのではないかとも思い始めました。

 この時点でわめは、まだこの信仰をとことん信じ切っておりましたので、日蓮の「法門をもて邪正をたゞすべし」との教えに照らし、間違いなく正しいことを信じる、信じているから正しいのではないと思い始めました。


 これがわめの自立への第一歩だったように思います。
posted by わめ at 15:28| Comment(1) | TrackBack(0) | 自立  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月11日

自立 02

 前回の『自立』に続きまして、今回は宗教団体等の諸組織の在り方、特にこのブログを閲覧してくれている多くの方達の関心事である創価学会について、仏教的な面や、軒ちゃんの心理学的な考察や、また学会員としての立場から、意見を述べてみたいと思います。

 まず軒ちゃんの「宗教というのは親の代わりの役割を果たすという」意見からの記事、『あなたの宗教は自立させてくれるか?』や、『心理療法と宗教−再び、自立の問題−』を一読願いたい。

 わめは『日本人探訪 3』で書いておりますが、日本人の多くは自立できていないのではないかと思っています。

 そして自立のための努力を怠り、宗教・コミュニティ等を依存先として、求めてしまっているように思います。

 落語などに出てくるはっつぁんくまさん、落語では人情・長屋話が多いですが、この人情とは依存関係と言うより、自立した者同士の隣組の助け合いの精神のように思います。

 そこにはその家々人々の生活様式や、人生観、将来の夢等々様々です。
 その互いが様々であることも、隣の父ちゃんが酒浸りで働きもしないといったことがない限りは、さして口も挟んだりはしない。長屋の小うるさい名物婆さんが、言いたい放題ってこともあるでしょうが、これなんかも自由気ままに思ったことが言えるという、長屋のよい雰囲気なのかもしれません。
 まぁ心がまとまるとしたら、長屋の取り壊し反対運動といったことくらいでしょうか。
 わめの好きなバラバラ が(・∀・)ィィと言うのも、このような日本と言う長屋暮らしを指しているのかもしれません。

 現代ではこの隣組の助け合いの精神は薄れてしまったかの感があり、それが災いしてか宗教・コミュニティ等にそれを求めるのも無理はないのかもしれませんが、ひとつ大きなものが欠けていると思うのです。

 それは自立していない者同士の、集まりの場であるということです。

 軒ちゃんの言を借りるなら、「最後は自立させなければならない。」、「別れの儀式に相当することを行わざるを得ない。」と言うことです。

 その集まりの場を、より良いものに改善を行なおうとすることは、悪いことではありません。

 しかし、そこは決して安住の地ではないし、安住の地としていつまでも自立できないままいる場所でもないのです。

 そこは自立のための場であり、自立するまでの巣であると思うのです。

 このことを忘れていては、親となり、子を育て、子を巣立たせることもできないのではないでしょうか。

 幸いなことに、昔の隣組の助け合いの精神は、このネット社会に息づいています。

 日本人も、海外諸国の人達と肩を並べ、自立した人間として堂々と渡り合ってもらいたいものです。

 次回(やっぱりこのシリーズも続くのかw汗)は、仏教面から自立の重要性を述べてみたいと思います。
posted by わめ at 14:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 自立  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月05日

自立 01

 自立ってなんだろうね。

 日本では40代や50代になっても、親から自立できない方が多くいらっしゃるように思います。

 これは「日本人探訪」シリーズでまた書こう。^^

 今回は軒ちゃんの「心理療法と宗教−再び、自立の問題−」の記事から、宗教と自立についてまた考えてみたくなったからです。

 意見をコメントして頂くのは大いに結構ですが、このようなことで実際に悩まれている方、また家族・身近な方にそのような方がいて悩まれている方は、心理学の専門家であられる、軒ちゃんさんのブログのコメント欄で直接相談されるのがよいと思います。

 あっ、みれいしゃんの「宗教に疑問を持ったとき」の記事も、自立を促す内容なのかもしれませんね。
posted by わめ at 02:52| Comment(1) | TrackBack(0) | 自立  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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