2007年04月17日

尼寺の住職

 昨年10月末頃に仕事の依頼を受け知り合った尼寺の住職(尼僧)。
 この方、パソコンやインターネットはズブの素人ながらお寺のホームページ(業者に委託)も持っていて、ネットでお買い物は日常事で、ネットビジネスにもどこの誰かも分からないネットで知り合った方に勧められやっちゃったり(カモられてました)と、何と言うか私も負けそうなくらいのわけわかめな方です。汗
 まぁ東大出の直弟子もおられるくらいなので、本職(住職)は何とかやっておられるようですが。

 宗教はやっぱり好きになれないと自認している私ではありますが、仕事上上客でもあるこの尼僧の方とはウマが合うというか正逆であるが故か、電話でも直に会って話している時にも「アホか!?」とか「バカ!!」ってしょっちゅう言っちゃっています。

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posted by わめ at 19:56| Comment(1) | TrackBack(0) | 客観的事実と信仰  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月11日

輪廻転生について

 最近わめが強い影響を受けているからかくまりんさん関わりの記事が多くなってきていますが、今回もくまりんさんが新たにエントリーくださいました記事の内容と、『テーラワーダ仏教で言う障害者』のコメント欄で、とゆーかさん、ajitaさん、そしてLeoさんの間で議論されている『輪廻転生』について考えてみたいと思います。
 でも最近わめも頭が固くなってきているのか、前回記事では読者を自論に誘導しようとの作為がありありと出ておりまして、反省の意味を込めて頭をふにゃらか(?w)にしての記事を心掛けたいと思ってますです。(^^;;

 これってよく考えたら客観的事実として輪廻転生はあるのかないのかと、ブッダは輪廻転生をあると思われていたかどうか即便仏教は輪廻転生を説く教えかどうかと、分けて考えないとわけわかめになってしまいそうに思います。

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posted by わめ at 01:16| Comment(4) | TrackBack(0) | 客観的事実と信仰  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月19日

客観的事実と信仰 06

 祈願等で果たして願いが叶うのか。

 どれだけ必死に祈っても、ティッシュペーパー1枚でも動かせる方は稀でしょう。

 また日頃疎遠な方から連絡が入るようにと祈ってみても、まずこれも叶うことは稀でしょう。

 このようなことができる、人並みはずれた能力(通力)がある方は非常にうらやましいですが、ほとんどの方はまず無理だと思います。

 ブッダもこのようなことができるとは言っておられませんね。^^

佐倉哲氏のエッセイ集、無我の思想、--- 第二章 ブッダの沈黙 ---より以下抜粋引用。

 神々への祈願や呪文、犠牲や祭祀、運命判断、胡麻たき、まじないなど、すべて神秘的な力に預かろうとする宗教的行為は、原始仏典の中ではことごとく否定されています。

 たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に大きな石を投じたとするがよい。そのとき、そこに大勢の人々が集まり来たって、「大石よ、浮かびいでよ。浮かび上がって、陸に上れ」、と祈願し、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、汝はいかに思うか。その大いなる石は、大勢の人々の祈祷合掌の力によって、浮かびいでて陸にあがるであろうか。・・・

 たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に、油のつぼを投じたとするがよい。そして、つぼは割れ、油は水の面に浮いたとするがよい。そのとき、大勢の人々が集まり来て、「油よ沈め、油よ沈め、なんじ油よ、水の底に下れ」、と祈りをなし、合掌して、湖の回りを回ったとするならば、なんじはいかに思うか。その油は、人々の合掌祈祷の力によって、沈むであろうか。

(相応部経典42.6 増谷文雄訳)

−−−−−引用終わり−−−−−



 このように祈ったりするだけで、願い事が叶うなんてことはあり得ません。

 じゃ、何かに祈ったり願ったりすることは無意味かといえば、もちろんそんなことはありません。

 軒ちゃんのブログ、「功徳比較論特別講義」カテゴリーの『功徳と罰が生じる仕組み』で、「予言(予測)の自己実現」と書かれておりますように、「自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)とは、最初の誤った状況の規定が新しい行動を呼び起こし、その行動が当初の誤った考えを真実なものとすることである」とのことです。

 また「予言の自己実現」について、入江幸男さんのホームページに非常に参考になることが載っていた。

 第二回講義  §2 予言の自己実現を読んでもらうとよく分かると思いますが、『 マートンはこの予言の自己成就のメカニズムを一般的に次のように説明する。
「この寓話がわれわれに教えるところは、世間の人々の状況規定(予言または予測)がその状況の構成部分となり、かくしてその後における状況の発展に影響を与えるということである。これは、人間界特有のことで、人間の手の加わらない自然界ではみられない。ハレー彗星の循環がどんなふうに予測されようと、その軌道には何の影響も及ぼさない。しかし、ミリングヴィルの銀行が支払い不能になったという噂は、実際の結果に影響を与えたのである。つまり、破産の予言が成就されたのである。」』
の、”これは、人間界特有のことで、人間の手の加わらない自然界ではみられない。ハレー彗星の循環がどんなふうに予測されようと、その軌道には何の影響も及ぼさない。と述べられ、これが先に書いた『ティッシュペーパー1枚でも動かせない』に当たる部分だと思われますが、願い事が叶う(予言の自己実現)のは、人間界特有のことであって、人間の手の加わらない自然界には何も影響を与えないということです。

 このように、人間界特有の事柄に対し、願い・祈り(心理作用)が何の役にも立たないと切り捨てることや、また、人間の手の加わらない自然界の事柄まで、願い・祈り(心理作用)で変えられると信じてしまうことは、大きな誤りであると思います。
posted by わめ at 04:45| Comment(1) | TrackBack(0) | 客観的事実と信仰  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月27日

客観的事実と信仰 05

 わめは盲信が怖いと言ってましたが、これはLibra師匠の言われる『言明じたいの性質についての話ではなく、言明を受け入れている側の態度の問題』で、『自分の信念を訂正すること』を拒否している人の『信じ方』の問題であると言うことが理解できました。

 このような方は、『自分の信念を肯定する言明』以外には耳を傾けることができないのか、誤った言明と判断してしまうのか、あるいは批判的な言明も『自分の信念を肯定する言明』と”こじつけ”てしまっているのか、その辺はよく分かりませんが、そこにわめは理性の著しい低下または欠如と、心情(情動)の作用と言うものが大きく影響しているように思います。

 理性と心情(情動)は、共に人間にとって不可欠な要素と思いますし、そのどちらか一方に傾注・相反することで、様々な人間としての生活活動に支障をきたすのではないかと感じます。

 また理性と心情(情動)が相反する時、人は苦悩するのではないかと。

 このような時、人はどうするのだろう?

 わめは多くの場合、理性を重視し、心情(情動)を従えます。
 何故なら心情(情動)は裏切り者だからです。
 心情(情動)は満たしてあげても、それに満足することなくすぐに裏切り始めます。
 この心情(情動)をどのように舵取りするか、それが理性であるように思います。

 ここで突然ペット話

 わめは犬やネコが大好きなのですが、ペットとしての犬やネコって、何となく自らの心情(情動)と似てるように感じています。

 ペットが楽しそうに、うれしそうにしている姿(寝てる姿も^^)は、嫌なことがあって気分が塞いでいる時でも、思わず笑顔になったりするのですが、ペットにはいつもそうであって欲しいと思うように、自身の心情(情動)も、いつもそうであればどんなにいいだろうと思います。

 ペットをまったくの自由にしてあげれば、それこそ大喜びかもしれません。
 でも外に出れば危険が一杯です。(^^;;
 飼い主がしっかり見てあげねば、悲しいことが待っているかもしれません。
 でもペットにあれもダメ、これもダメと拘束したり、厳しくしつけたりして飼い主に従属させるのであれば、これは虐待に他ならないように思います。
 愛情をもって”エサや適切に褒める・お仕置きする”などで、うまいしつけを心掛けるべきだと思います。
 そのようにペットと飼い主は深い信頼関係で結ばれながら、飼い主はペットの安全を含め一生を見守ってあげることが大切だと思います。


 さて、わめの強引なこじつけになるかもしれませんが、
 このペット話を、一人の人間の心的要素の重要度順として

 飼い主=理性・合理性・客観的事実等
 ペット=心情(情動)
 しつけを含むペットとの接し方=信仰・信条・信念・主義・思想等

 このように置き換えることはできないでしょうか。
posted by わめ at 00:24| Comment(1) | TrackBack(0) | 客観的事実と信仰  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月26日

客観的事実と信仰 04

 客観的事実と信仰 03で、Libra師匠から貴重なコメントを頂き、またまた目からウロコが落ちました。^^
 それとブログのコメント欄で埋もれていくのも残念なので、Libra師匠から快諾を頂き、
『「客観的事実」とは?』のスレタイで、EnjoyLife掲示板に転載をさせていただきました。
 この後の議論にも期待しています。

 またそのことからより明確になってきたのが、この記事のタイトルにある客観的事実は、「批判に耐えているとして、暫定的に受け容れられている言明」を指す言葉として、わめは使用していると言うことです。

 直感的には、現実的に誰もが認識できる現象を、わめは客観的事実としているわけですが、それは真理ではないわけで、客観的事実であるからと無条件に正しいとは断定はできません。

 その上でも、客観的事実は暫定的に否定し得ないわけですから、客観的事実に基づく思考は重要であると思います。
posted by わめ at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 客観的事実と信仰  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月21日

客観的事実と信仰 03

 他宗教に攻撃的でない宗教の信者さんは、やっぱり攻撃的ではない方が多い。でもそんな宗教でも問題として感じるのは、その信者の家族の方や、結婚相手の方が困っているケースが多いことです。

 シャーマン・先祖供養系宗教では、父母(義理含む)が信者で、その家族は信仰を強要されると言ったもので、信仰を継いでもらえないと、死後自分達を含む先祖が救われないとの思いが信者には強いようだ。

 このようなシャーマン・先祖供養系宗教では霊友会・霊法会などが有名であるが、シャーマン(いたこ・巫女のようなもの)を通して、神仏・先祖の霊からお導きを頂くなどと言うことをやってるわけですが、父母(義理含む)が信者で老齢のため、家族としてはそのような場にも着いていったりするようで、その異様さに家族は仰天・失笑するケースも多いようです。

 ただ、先祖供養は水戸黄門の印籠のような効果があるようで、日本人は先祖を粗末にすることは罰当たり的な感覚を持っている方が多く、また、生活の上で支障がない限り、先祖を大切にすることは是との感覚が強いようです。

 この先祖供養を売り物として、シャーマンと仏教が融合したのが、前述の霊友会・霊法会などの教団です。
 先祖供養と仏教がどうして結びつくのかなんてお話を始めたら、どの宗教だってこじ付けがあるわけだしここでは控えます。笑

 またこのシャーマンと、一部の占い師の言うことが非常に酷似していると感じています。
 ”高価(原価は安い!)な物”を買わせる手口もよく似ています。
 不動産屋や建設関係業者との結びつきの濃さも、類似する特徴かもしれません。
 霊法会に至っては教祖親族(教祖が社長の時代もあった)が、”高価な物”の販売会社(マルチに近い)や、建設会社を経営していますがw

 わめは、霊法会(昭和20年頃発足、会員数はよく分かっていないがおそらく数十万人規模)について5年ほど前より調べており、信者、元信者等の方からのお話も伺っております。この宗教でお困りの方がおられましたら、少しは力になれるかもしれませんのでコメントをください。

 また仕事で占い関係のシステムを開発した経験がありますので、そちらも興味がありましたらコメントをどうぞ^^
posted by わめ at 16:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 客観的事実と信仰  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月16日

客観的事実と信仰 02

 こんなに早く02が書けるとは思ってもおりませんでしたが、少しだけ分かってきたことを忘れないでおこうとの思いから書きます。

 まず『信じること』のNo1のスレの説明で、『智慧を得るための信ならば、良いことだと思いますが、信じることによって智慧が奪われていくならば本末転倒だと思います。』を、どんな思いで書いたのかを、半年以上も経った今、思い浮かべてみました。

 日蓮御書の四信五品抄に『信は慧の因』とあります。これは読んで字の如く信じるということは、智慧の原因であるわけで、”智慧を得るような信じ方”こそが大事と言うことで、”智慧が得られないような信じ方”では本末転倒ではないかと言いたかったようです。(自分で書いたくせに考えないと分からんのかw汗)

 わめは、01で信じることに怖さを感じると書きましたが、これは”智慧が得られないような信じ方”を指していたようです。

 これはどんな信じ方なのか? なんのことはない盲信ではないか! わめは盲信を怖がっていたのです。
 盲信なら、自分から思考停止状態を望んでいるようなものだし、智慧など生まれようもないではないか。
 またむしろこれは、体験とか体得しないと分からないと、自らの智慧を捨て去ったことの宣言みたいなものではないか。

 では、”智慧を得るような信じ方”とはなにか? 多くの事を学び行くことから得られる信、あらゆる批判に耐えうる確かなものを信じる(確信)ことこそが、”智慧を得るような信じ方”であるように思う。

 う〜ん、わめの怖さは盲信にあったんだ・・・ レ( ̄ー ̄)ナットク!!( ̄^ ̄/)

※追記・訂正
 「信は理を信ず」(法華文句記)天台智[]�
 『円信というは理によって信を起こす』(日女御前御返事)←偽書の疑いアリ
 三証(文・理・現)より信を建てる。
 不疑曰信(盲信・非仏教)と無疑曰信(円信・仏教)
posted by わめ at 00:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 客観的事実と信仰  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月15日

客観的事実と信仰 01

 ここ最近より、みれいしゃん(しゃんはわめの尊敬称)と、わめの掲示板の『信じること』スレで、沢山意見交換をさせていただきました。

 みれいしゃんには見透かされてしまいましたが、わめは信じるということに、ある種の怖さを感じているようです。
 だからか他者の、信じるということにも過敏な反応を示しているようです。
 これは学会に長い間、どっぷり浸かってしまったことの反動かもしれないと思う。
 創価学会という宗教団体の教義のおかしさに、なんでもっと早く気付けなかったんだろうと言う悔しさが、わめ自身の心の奥底で燻っているのかもしれない。過去のことは取り返しが付かないことだとは分かっているし、過去の自分があるから今の自分があるわけだし、後悔なんて無意味と割り切っていたはずなのに・・・

 信じることの怖さ、これはマインドコントロールされることの怖さなのかな。
 
 このような経験を無駄にしないためにも、『客観的事実と信仰』をテーマとして、今後も書いていこうと思います。
posted by わめ at 02:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 客観的事実と信仰  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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