2005年12月03日

バランス

 人間の手が入らない世界の事象をつぶさにみてみると、バランスが保たれていることばかりが目に付きます。
 人間の体はバランスを崩すと病気になりがちですし、心もそうだと思います。
 範囲を広げて人と人、思想と思想、集団と集団、国と国などのバランスも大切なように思います。
 このバランスが急速に現状から大きく崩れるとそこに歪が生まれるように思います。
 逆にアンバランス状態が何かの力(政治権力等)で持続されている場合も、いずれはバランス状態に戻ろうとする力によってアンバランス状態は崩れるのではないかと思います。この場合は振り子のようにその反動で逆方向にいってしまいまたアンバランス状態が生まれることもあるかもしれません。

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posted by わめ at 17:10| Comment(42) | TrackBack(2) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月02日

理解し合うため

 ネタ切れ状態で何かよいネタはないかとブログの巡回をしてたら、gizmoさんのブログからいい感じの記事を発見しました。(⌒∇⌒)
 正直言ってgizmoさんのテキストは全般的に断定的で乱暴だと思うのですが(わめにだけは言われたくないって?w爆)、それは本人も認めるところでもあると思うし、ああでもないこうでもないと考え過ぎると、思っていることが書けなくなるってこともあるし、全面的に賛成はできませんが自身のブログですしそれでもいいようにも思ったりします。
 ただ、批判的コメントはブログでは控えるべしとの風潮もあるとは思うけど、コメントを許可している以上は批判も大いにやっていくべきじゃないかと思うのです。

 でもわめには今回のお題のように批判するにしてもそれは意見の違うもの同士が『理解し合うため』の批判であったり、議論であったり、互いを訂正し合うためであったりが目的であって欲しいとの願いがあります。
 それとこの記事のお題は、わめの以前からの思いでもあるし、ジョゼさんの最近のコメントアネゴもたまにはいいこと言ってるし(笑)、意外と多くの方の共通する思いでもあるのかと感じておりますし一度に書ききれるものじゃないとの思いからシリーズ化していきたいと思っちょりますばい。

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posted by わめ at 02:25| Comment(21) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月26日

慈悲の瞑想について

 何だか仏教めいたお題がついてしまいましたが、まさに初期(原始)仏教のお話です。^^
 その慈悲の瞑想の中に
私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように
 と言うのがあるのですが、って知ったのはくまりんさんの『人に噂されるのは有名ブロガーの特典さ、なんてね』の記事からなのですが、わめはこの『私の嫌いな人々』にこのように思いやることはできないという気持ちがあって、でも初期(原始)仏教の教えはわめも共感できるところも多くて、頭を捻って(90度まで捻りましたw)考えたのですが理解できずくまりんさんに以下のような疑問を投げかけてみました。

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posted by わめ at 17:09| Comment(12) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月24日

05年版犯罪白書

 調査は今年4月、少年院の教育部門で6年以上の経験がある教官546人を対象に実施した。「以前より大きくなっている少年の問題」を聞いたところ、「思いやりや人の痛みへの理解力・想像力に欠ける」(63%)▽「対人関係を円滑に結べない」(58%)▽「感情をコントロールできない」(55%)などを挙げる教官が目立った。また、83%の教官が「指導力に問題のある保護者が増えた」と答え、白書は「少年への処遇だけでなく、保護者に自覚を促す働きかけの強化も重要」と分析している。

 この調査結果から見ると再犯率が高くなっているのかなぁ

 83%の教官が「指導力に問題のある保護者が増えた」との調査結果ですが、その保護者が学校・教育現場に対して影響を与えているケースも多いように思うし、そうなれば教師達も当たらず触らずの教育姿勢になりやすいというか、当然生活がかかっているわけで、生徒のことも大切だけど自己保身も考えないといけないわけだし、事勿れ主義の公務員体質になりやすいと言うことかな・・・

 何だか悲しくなる調査結果だな。(ノ_・。)

 「思いやりや人の痛みへの理解力・想像力に欠ける」(63%)は、わめも幼い頃からそうだったかもしれないし、そうなってしまう原因は友達や家族との会話の欠如等にあるような気がします。

 また友達が悪いこともあるかもしれない。

 自分のこととして昔を振り返って考えてみると、自分という存在を周囲に認めて欲しくて、やたら自分の言動やしぐさを強調してみたり色々信号を出していたような気がします。

 その反面、自分の居場所がなかったからというか、一人の世界に閉じこもっていったようにも思います。

 こんな時に自分を認めてくれるような悪友や宗教団体や、共産党系の青年組織等からの勧誘を受けちゃうとコロっといっちゃって、抜き差しならなくなると言うこともあるし。

 やっぱ周囲が愛情を持って、その子の良い点を見つけ褒めてあげることや、認めてあげることが、自己啓発を促すことに役立って大切かなって思います。^^

以上 元記事 2005/11/09

 2005/11/24追記 続きを読む
posted by わめ at 01:08| Comment(4) | TrackBack(1) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月19日

酔った勢いで

 酔った勢いで書いちゃいます。笑

 人には色んな欲があると思う。
 そしてこの人間社会は人のいろんな欲の結実であるように思う。
 人の持つそのいろんな欲はいけないこと? わめにはよく分かりません。

 でも、思想とか主義とか宗教とか、またそれぞれ個々の欲・不満とかもあるとは思いますが、自らも生きている以上、互いの生存する権利を認め合う、助け合うことはできないかな?

 誰もが生存していける社会を作り出すことを、まずは最優先に考えることが一番大切なことだと思う。

 私たちの周囲には、生存していくことの危機にある人はおりませんか?

 わめみたいに痩せ我慢が得意(わめは今のところ生きていけないほど困っていませんがw)で、周囲に困っているのを隠そうとしている方もおりますよ。

 自らが生きていたいと願う(どのくらい?)なら、他の方もそのくらいの気持ちで生かしていこうと努力してもいいんじゃないでしょうか。

 また周囲に生存を脅かす危険な環境はないか考えてみましょうよ。

 そして見つけたら友人や知人や隣近所や行政機関やネットも活用して、より多くの人の力を借りて何とかしようと努力してみませんか?

 そのように皆さんが努力されれば、少しは今より嫌なニュースや新聞記事を見なくてすむかもしれません。
 またそれが先々の、自身や家族、身近な方々が不幸な目にあう芽を摘み取ることになるかもしれません。

 そのような日常の私たちである上で、思想・主義・宗教なども語り合い、わめは議論し合っていきたいと思っています。

 
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posted by わめ at 04:14| Comment(13) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月17日

教条主義はファシズム?

 こんな仰々しいお題をつけてみましたが、わめが書くことなのでわけわかめ(涙)ではあっても難しい話ではありません。
 宗教を信仰する多くの方が、ここでは絞り込んでわめがよく知っている強信な創価学会員の方の多くが、教条主義に傾注してしまっている状態のように思え、それがわめからは恐ろしいファシズムに見えてしまうということです。

 とはいえ、ファシズムって何よ?って言われるとgoo国語辞典の

ファシズム 2 [fascism]
第一次大戦後に現れた全体主義的・排外的政治理念、またその政治体制。自由主義を否定し一党独裁による専制主義・国粋主義をとり、指導者に対する絶対の服従と反対者に対する過酷な弾圧、対外的には反共を掲げ侵略政策をとることを特色とした。イタリアのファシスト党に始まる。ファッショ。

 この程度しかわめは知らないわけですので、この解釈でこの記事は書かせてもらっていますので、ファシズムに対する解釈の突っ込みはご勘弁願いたいです。

 現代の日本は民主主義国家ですが、まぁどこまで理想的な民主主義かはわかりませんが、”人間の自由や平等を尊重する立場”という意味での民主主義は、日本の民主主義の中にもちゃんとあるように思います。

 教条主義もgoo国語辞典で調べてみました。

教条主義
きょうじょう-しゅぎ けうでう― 5 【教条主義】
事実を無視して、原理・原則を杓子(しやくし)定規に適用する態度。ドグマティズム。

 創価学会は日蓮(大聖人)仏法を基調とし、日蓮(大聖人)の残された遺文(御書)を教義の中心思想としています。この遺文(御書)を集めたものが御書全集と言われるものですが、その御書全集に収められている日蓮(大聖人)の遺文(御書)には、日蓮(大聖人)がほんとに書かれたとされるものは半数をやや越える程度で、真偽未決や後世で加筆されたであろうと予測されるものや偽書の疑いの濃いものが半数近くを占めています。

 強信な学会員は、この日蓮(大聖人)の御書に書かれていることを純粋に信じ、その教えに従った信仰活動及び、その教えを現代にマッチさせた信仰活動とする学会活動をしているわけですが、その教えに従った信仰活動とその教えを現代にマッチさせた信仰活動とする学会活動とが、必ずしも相反しないとはいえないかもしれません。

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posted by わめ at 10:32| Comment(11) | TrackBack(2) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月27日

やったぜロッテ日本一!

 ロッテ、日本一★:゜*☆※>('-'*)♪オメデトウ♪(*'-')<※★:゜*☆

 わめはロッテファンではないのですが、ってプロ野球さえ興味がないw汗

 めでたいのは楽しむ野球で日本一になったことです。

 バレンタイン監督の、楽しむ野球というのが功を奏したわけで、生きることは楽しむこととのわめの信条と相通じると思うし、アメリカの強さもここにあると思うし(何でだw笑)、とにかく楽しむことで良い結果が出る証明をしてくれたことがうれしいのです。^^

 もちろん他チームの情報収集や、その情報の客観的分析などもその大きな勝因であるわけですが、野球を楽しめることが選手の能力を最大限に引き出せたのではないかと思います。

 何だか強引に”楽しむ”ことを強調した記事になっておりますが(笑)、充実した人生とはズバリ楽しい人生じゃないかと思うわめで、このEnjoyLifeブログと掲示板の主題ってことで大目に見てくださいね。^^
posted by わめ at 20:11| Comment(1) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月15日

母の想い出

 わめの母は、日本人の平均寿命よりはかなり短命でありました。

 母に対する複雑な思いは、わめの母に対する複雑な思いや、健ちゃんのブログの記事、姉の思い出のコメント欄に書いておりますが、何かしらふっと母のことを思い出すことがあります。

 今日はTVを観ながら涙する母が浮かんできました。

 母はTVなどほとんど観ない人でしたがわめが幼い頃、「愛染かつら」と言うドラマを観て、泣いている姿を何度か見たことがあります。

 学会活動に忙しい母だったので、母が家でじっと座ってTVを観てるだけでもうれしかったのか、泣いている母をじっとニヤニヤ見ていた記憶があります。

 当時はティッシュペーパーなるものはなくて、母はガーゼのハンカチ?で涙をぬぐってましたが、わめがそんな母を面白そうに見てるのに気付き、何を話し掛けてくれたのかは覚えておりませんが、涙に濡れた顔に笑みを浮かべ、切ないドラマだと言っていたのかな・・・

 わめの幼い頃と言えば、わめのトラウマその一で書いていますが、体温計を逆さに振って(後に逆向きに叩く)体温計の温度を上げ、高熱があるように見せてよく小学校をサボったわけですが、おかげで母の自転車の後ろに乗せられ、あっちの病院こっちの病院と行き、その母の背中も記憶に残っております。

 わめも頑固だったのか、総合病院に入院し、扁桃腺からくる熱だと診断され、扁桃腺切除の手術を受けることになっても、今更本当のことを言えなくなっていたのか、扁桃腺切除手術を受けたりもしました。

 今振り返れば、母を信心に、また学会活動に駆り立てたのは、わめのせいだったのかもしれません。
 母はこの信心でしかわめの病気は治せないと思って、だから必死で題目や学会活動にと励んでいったのでしょう。

 わめの望んだことは、わめの悪巧みで、余計に達せられなかったようです。

 どうでもいい話を書いてしまった。汗

 でも思い出すってことは、わめの中で今も母が生きている証拠(”しょうこ”で変換したら祥子が出たw笑)で、わめの中で母が生きててくれることは、とってもうれしいことです。

 snowさんも、一日も早く元気になってね。^^
posted by わめ at 03:52| Comment(1) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月14日

逆転現象

 ブッダ・日蓮在世において、当時の人々は理に暗く迷信を信じ囚われ、多くの不幸を招いていたように思う。ブッダ・日蓮はそこに理に適った教え、つまりは仏教を説いて、人々をその迷妄の呪縛から解放しようとされた。

 しかし近年、ネットで創価学会についての議論をみていると、信仰を持たない、或いは信仰に囚われない一般の方々が理に明るく、信仰を持つ多くの学会員が教条・迷信的な殻に身を包み、理に暗く、それが故か議論を放棄し、感情に走る傾向にあるようだ。

 これはどういうわけだろう?

 ブッダは、「在りのままを在りのままにつぶさに観」て、この世の真理らしきことを悟られたように思うのだが、現代は信仰を持たない方が、「在りのままを在りのままにつぶさに観」ることができて、信仰を持つ方がその教義や自らの信仰体験に囚われて、それができなくなっていると言うことなのだろうか。

 日蓮仏法を信仰する方は、短絡的に感情や情動に走るのではなく、日蓮のお言葉である「仏法は道理」、「法門をもて邪正をたゞすべし」を、改めて考えていただきたいものです。
posted by わめ at 15:30| Comment(1) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月03日

あぁじれったい

 ここ数日キーを叩くのも苦痛を伴うほど体調不調なこともありますが、それでも仕事を休むことは考えられないので、寝転びながらでもやれるように枕元周辺を近代化しています。^^ 結果として仕事もネットも問題なくこなしてます。笑

 こんな身体的に不快な状況であることも原因とは思いますが、たまには感情をむき出しにしてのコメントもいいかなんて思ったり・・・

 リアルでもネットでも少なからず、病的なまでに苦悩している人をお見かけします。

 また、病的なまでに苦悩している人達を、他人事ではなく今すぐにでも助けてあげたいと必死にもがく人たちがいます。
 また、病的なまでに苦悩している人達が、いることを知っていても涼しい顔して我関知せずみたいな方もいます。
 また、病的なまでに苦悩している人達を、自分の判断基準に当てはめて、自業自得と冷笑する方だっているかもしれません。
 また、病的なまでに苦悩している人達を、横目で見ながらマイペースな方もいるでしょう。
 また、病的なまでに苦悩している人達を、知りながらただ黙っている方もいるでしょう。

 人それぞれ考え方、思い方、感じ方はバラバラがいいと言うのが、わめ的な信条なわけですが、どうにもこうにもやるせなくなる感情を、押し殺すことが苦痛で仕方ない時があります。

 どなた様も、病的なまでに苦悩してみてくださいよ。
 って意図的にはできないでしょうから、自分が病的なまでに苦悩状態であると考えてみてくださいよ。

 その上で、どうぞ他人事ではないと必死にもがいてくださいよ。
 その上で、どうぞ好きなだけ涼しい顔してくださいよ。
 その上で、どうぞ自分自身を自業自得と冷笑してくださいよ。
 その上で、どうぞマイペースでいてくださいよ。
 その上で、どうぞただ黙っててくださいよ。

 その上でどうぞ、人それぞれ考え方、思い方、感じ方はバラバラであってください。

 わめの周囲の方達は、皆さんこのようであると信じたい。

 これが縁起を知るものの、仮の姿であって欲しいと願います。
posted by わめ at 02:39| Comment(1) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月13日

捨てることのススメ

 わけわかめなお題になってしまいましたが(笑)、わめらしいお題です。^^
 誤解しないで頂きたいのは、仏教で言う喜捨ではありません。わめはそこまで精神修養されてませんし、生活に余裕がありませんから、金品を誰か(団体含む)に喜んで差し上げることはできませんw涙
 余裕のある方は喜捨は良いことだと思いますし、それは執着心を薄める働きがありそうなのでやって損はないと思いますが。

 余談が長くなりましたが、わめが言いたい『捨てることのススメ』とは心の有り様です。身に着けた知識とか経験とか、歳を重ねるごとに増えていくように思います。
 それらは、世渡り上手や他者に対する影響力の増大となり、生きていくことにも非常に役立つとは思いますが、我欲と相まって得体の知れない自分というものを作ってしまうようにも思います。
 この得体の知れない自分は、他者からの心地よい評価を伴い(わめの場合ですが)、やがて得体の知れない自分が、本来の自分に取って変わる存在となっていきます。

 わめは以前、このような得体の知れない自分であったように思いますし、得体の知れない方達を多く見てきました。

 そして今思うのは、捨てることの大切さです。
 身に着けた知識とか経験とかは、文字通り身に着けるモノであって身そのものではありません。でもそれらを身に着けてしまうと、鏡に映る自分の姿にさえそれらが映ります。
 それらを”自分じゃない”と捨てることで、ホントの自分が見えてくると思います。(透明人間になるかも?謎w)

 捨てるのが惜しいなら、必要を感じる時だけ、なるべく薄着を心掛けて身に着けてください。

 何だかお部屋の整理・収納テクみたいですが、これがわめの『捨てることのススメ』です。^^
posted by わめ at 16:56| Comment(1) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月31日

何だか・・・w汗

 このブログも創価学会色が強くなってきたなw ってどっちかって言えばアンチ色のほうなんだろうけど、それでも別にいいんだけど、宗教的なジャンルで言えば、こことリンクしたくないから分かりようがないんだろうけど、学会以外の宗教団体系のwebサイトや掲示板etcをやっていて、わめ的には創価学会=NOではなくて、宗教=NOなのです^^
 宗教がビジネス化してしまっていることがNOと言えばいいのか、だからボランティア的に無報酬で、収入は働いて得ている方々中心の宗教団体とか、出家みたく完璧に世欲から離れた方(宗教団体)などには、抵抗感はありません。
 ともかく、世の中を良くしていくべき政治家や宗教家が政治や宗教を利用して、懐を肥やしていくことには断固NOと言いたい。

 って言ってるうちに8月も終わりか・・・
posted by わめ at 10:18| Comment(1) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月10日

記録は破るためにある

例え記録保持者であっても、自己ベストを塗り替えようと努力するものである。

自己主張や信念も然り、自己主張や信念は破られるためにある。
もちろん自らも、自らの主張や信念を破ろうとすべきである。
破られない自己主張や信念などは化石に過ぎない。

追加
Libra師匠の資料集から直リン(師匠ご勘弁<(_ _)>)
『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
友岡雅弥氏に惚れちゃいそうだわw☆チュ(^・^*)

更に追加 上記リンク先から一部抜粋

〇「宗教」が、自らの欲望を全面的に肯定し、その達成を目指す「祭祀」「祭り」「イベント」「行事」「スペクタクル」に堕落し、自らを磨き上げて行く「精神の労作業」になってゆかないこの国の未来を、世界はけっして羨(うらや)まないでしょう。[p.86]

〇ブッダは、「何か」と言う言葉で表される実体的、固定的なもの“を”知ったのではなく、その固定的なもの“から”離れたのです。「何か」という固定的、実体的なものは「悟るべき対象」ではなく、そこから「離れるべき呪縛(じゅばく)」「目覚めるべき夢」なのです。[p.165]

〇ブッダはその自分の考えすらも常に越えよう、突破しようとしたのです。「永遠の越境者」「永遠の突破者」が「目覚めた者」です。「今の自分に固執して生きること」という儚(はかな)き夢から「常に目覚める者」がブッダなのです。[pp.166-167]

〇何度も言うことですが、ブッダの思想の特徴は、「立場」を永遠に突破することにあります。一つの立場に固執することから、常に飛躍するところにあります。[p.174]

〇永遠の脱出者ブッダは、心地よき悟りから脱出しようとするのです。「心地よさ」はくせ者です。「心地よさ」は立場を構築(こうちく)してしまったことの表れです。安らかな繭(まゆ)の中で、快適な惰眠(だみん)を貪るのです。[p.175]

〇固定化、実体化した「悟(さと)り」こそ、ブッダが批判し、否定したものです。[p.179]
posted by わめ at 15:26| Comment(0) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

謙虚な人

日本人の多くは自己主張が苦手なように思う。
それは自らの可謬性を認めているからかもしれない。
それは一見謙虚な人のように映るし、可謬性を認める態度にも好感は持てる。
メディアやネットの情報や日常の会話などから、自己主張などせずとも自らの誤謬を発見し、自己反省もできるのかもしれない。

しかし、少し自分を見つめ考えてもらいたい。
あなたは、社会や周囲の方が認める以上に、自分を高く評価していないか?
自分を貶めて評価してみることもできるかもしれない。
でもそれもそれができる人間だと、心のどこかで自分自身を高く評価している表れではないでしょうか。
本当に自分と向き合える人は、自分で自分の評価などできないことに気が付くと思う。
そして自他の評価など、どうでもいいことにやがて行き着くようにも思う。
もっとも大切なのは、真実・真理に一歩でも近づこうとする姿勢ではないだろうか。

そのためには、自己主張は欠かせない手段となり、その反響は何よりも自らの宝となりえる。
その反響を真摯に受け止めることができる人を、謙虚な人と言えるのではないでしょうか。
posted by わめ at 12:02| Comment(1) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月09日

一元論は認知不能

なんてことを掲示板で書いたけど、性善説も性悪説もやっぱ片方だけじゃ認知不能なのよね....
 さかなこさんは争いは絶対なくならないと言ってますが、絶対って言葉を使っちゃうとこれまた一元論になっちゃうw汗
 まぁわめの隣近所じゃ大きな争いごとはないから、こんな調子で世の中が回っていけばいいんだろうけど、世界のどこかじゃ隣近所は敵同士ってこともありそうだし、今犯罪を犯してでも金を手に入れなきゃ死んじゃいそうな方だっているだろうし、世の中ままならんw
 人間だって動植物を殺し摂取し生きているわけだし、摂取される側になることを、覚悟して生きていくしかないかもしれない。
 その覚悟の上で、人と人同士〜国と国同士、共存共栄のための努力は大切だね。
 身を守るためにも、加害者になり得る人をも守っていかなきゃね。^^
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2005年08月08日

悪は徒党を組む、善人は孤立無援である。

牧口常三郎氏の論から以下引用----−
 善人があつて世の不義横暴の悪人に反対して立つて之れと戦ふ。この場合善人は概(おほむ)ね孤立無援であるに反して悪人は必ず強大なる仲間の応援を有(も)つて居るのを普通とする。蓋(けだし)し善人は個人として生存するには何等の欠陥を持つて居ないが故に、非常なる直接の強圧を感じない限りは。他人と同盟して窮窟(ママ)(屈)を忍ぶ気にはならないから、目前に他の善人が迫害されるのを見ても知らぬ顔して居るのに反し、犯罪者は何処に在つても常に戦々競々(ママ)(兢々)として発覚を怖れるが故共同の敵に当る為には容易く結束をなしてそれに伴ふ窮窟(ママ)(屈)や圧迫を忍ぶ。
引用終わり−−−−−

名言ですな^^
posted by わめ at 22:42| Comment(1) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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