2007年05月02日

批判対象には自らも含む

 よくも分かっていないのに批判的合理主義マンセーな私。汗

 でも表明していることとは裏腹に、心の隅っこでは批判を受けたくないなんて考えているのかもしれない。
 それは自らの可謬性を自信をもって認めているが故か、批判を受けるとその批判内容に関わらずよく検討・検証もしないで自らの誤謬を指摘されたとの思考が自動発動し、誤謬でないことまで誤謬ととりあえず認識してしまいがちで、誤謬ではなかったと再認識するまでに大変労力が必要なことと、再認識に至るまでの自らの言動がブレたり的外れである場合が多くなってしまうからなのかなって思ったりしています。

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2007年01月18日

自分の所有者

 日本に所有者の無い土地ってあるのだろうか?
 落し物はともかく所有者の無いお金はどうだろう?
 争議中で所有者が確定していないってのはあるかもしれない。
 一般的に価値があるものは誰もが所有したいものなのかもしれません。

 ところで自分の体の所有者は誰なのでしょうか?
 人によっては神様だとか言う方もおられそうですが、一般的には自分の体は自分の所有と考える方が多いのではないでしょうか。

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2007年01月07日

欲求を満たすための道具

 現在の私にとって、パソコンやインターネット(ネットワーク)は、生活していく上で必要不可欠に感じる道具といえそうです。
 パソコンやインターネットは誰しも必要不可欠とは言えませんが、衣食住は人間である私達には欠かすことは出来ないものでしょう。そしてそれらを手に入れるために必要なお金も重要に思います。
 パソコンやインターネットや衣食住やお金、それに道徳観や理論や思想なども必要に感じるもの(道具)かもしれません。

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2006年09月14日

自分だけは違う

 よく「人の振りみて我が振り直せ」などと言われたりしますが、以外とこれが難しい。
 他者に対しては客観的に見れたりもするわけですが、こと自分のこととなると以外と見えないものです。
 自分の内面的なことなどで悩んでいる時などはこの逆の場合もありますが、自分と他者を同じように見るということは難しいようです。
 こうした原因はどこにあるのか、突き詰めれば「自分だけは違う」からなのでしょう。
 確かに違いますよね。他者は普通に見れますが、自分は鏡に映すなりにしないと見えませんし、声だって自分の声は耳で聞いてないですし、自分に触れる場合も触れる側(指先)などの感覚が触れられる側の感覚を邪魔しますし、自分の匂いにも慣れてて感じにくいですし、痛みも神経が通うのは当然自分の体に対してだけで、他者の痛みは経験からくる精神的な痛みしか感じられません。

 こうして考えてみると、他者と自分とは明らかに違います。

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2006年09月11日

分からないこと

 分からないことをどう思うか、また信じるか否かは、最終的にはそれぞれ個人個人の主観に任せられることで、他者がいくら否定や肯定をしても、あるいは分からないことと言ったにしろどうにもならないことかもしれません。
 この分からないことって何なのでしょう。
 世の中、分からないことが沢山あります。
 現在のところ、自分がいつ死ぬか、死んだ後どうなるか、いつどんな病気になるか等々、誰がどう言おうが分かるわけはありません。また、分かったつもりのことでも、実は分かったつもりになっているだけなのかもしれません。
 分からないからか、色んな人が色んな見解を主張をしたりもできますし、色んな思想が生まれたりもし、その見解の主張や思想を支持したり信じたりする人もでてきて、うまくすればおいしい商売等、主張・思想側は諸々のメリットも生まれるのかもしれません。
 またその見解の主張や思想を支持したり信じたりする人も、その当人にとっては何かしら(精神面での安定、安らぎ等)の価値があるのかもしれません。
 ・・・まぁそれはそれでいいのでしょうけれど、でもホントにそれでいいの?と、私には気分的に何かすっきりしないわだかまりがあります。

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2006年08月29日

橋の下で拾われた?

 子供(幼児)の頃、悪いことをしたり言うことを聞かないと、母親から「橋の下で拾った子供だから、また置いてくるよ」なんて言われたことってありませんか?
 それとか縁側に出されて鍵閉められるとか、私はこんな懐かしい経験があります。^^
 最近じゃこんなことはないのかな?
 でも「悪いことをしたり、言うことを聞かない」と、好きなTVを見せてもらえなかったり、おやつが貰えなかったりといったペナルティを受けたりした経験は皆さんあるんじゃないでしょうか。
 「・・・でしょ?」、「・・・しょうね!」、「わかった? ちゃんと聞いてる? 返事は? はいでしょ!」等々、最近私がよく遭遇する母親の子供に対する躾・説教・説得です。
 日本じゃこんなの今でも当たり前なのかもしれませんが、これってすごく悪い子供の躾・教育であるように私は思います。

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2006年08月23日

人と人との間

 あることをふっと思い出し、柄にもなく寂しさが込み上げてきた。
 それは約10年間、一緒に暮らした人とのことです。
 まだ離れて3年半も経ってないし、今でもたまに電話やメールもきたりして、お互い過ぎ去った過去のことと思ってないのかもしれない・・・
 とはいえ、現在お互いそれぞれ一人で暮らしているわけでもなく、やっぱり過去は過去です。
 これは【自立 03】の記事で、私がある種の自立のキッカケとなった人のことです。

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2006年08月22日

意識について

 自身の守るべきもの、守備範囲とでも申しましょうか、自分・家族といったものは我が身そのものの縄張範囲、友人・知人といった守備範囲、できることならのこうなって欲しいという希望範囲、細かくそういった範囲を立て分ければ以外とその範囲種別は多いのではないでしょうか。
 仏教では無我といって、自立自存するものなど何もない(無自性)と説きますが、それを自分の事として理解するためにも、自我意識及び自分と強く影響を及ぼし合う他者との相互関係について、明確に自覚を持つことは大切なことのように思います。
 縁起に依るひとつの現象に過ぎない自分であっても、そこにはちゃんと意識があり、自分という現象を守り続けたいと思うことは、この世に生を受けたものとして、正常なことのように思います。
 また、そこからでしかその先に進めないのかもしれません。

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2006年08月20日

暫定真理と専門書

 熱力学の第二法則、一般相対性理論、万有引力の法則などは、暫定真理(反証可能性があり、反証・反駁に耐えている仮説)と私は呼ぶのですが、ブッダの縁起説も、その説のすべてではないかもしれませんが、暫定真理と呼べると思います。

 これら暫定真理は、直接的には一般相対性理論はともかく、知っていたほうが時と場合により役立つことがあると思います。
 間接的にはほとんどの暫定真理は、ある条件内であれば結果が予測でき、あらゆる分野で生かされ、私たちの生活に役立ってくれているといえるでしょう。

 これらそれぞれの暫定真理とは何かを知る方法として、専門書などを読むことや、現在ではネットで検索エンジンを使うことでもある程度は知ることができるでしょう。

 ブッダの縁起説も、仏教においては苦からの解放や、解脱・涅槃(寂静)などの心理状態に導く教えに活かされているようです。

 このことで注意すべきは、仏教からブッダの縁起説を切り離すことはできませんが、ブッダの縁起説は暫定真理として、仏教と切り離すことができるということです。

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2006年07月02日

対話と論議

 私は対話と表される事柄には、打算や詭弁や欺瞞が含まれる場合が多いと感じている。
 対話の目的や規範や前提として、「互いに理解し合うため」などと言われたりもするが、正直に申せば背中がむず痒くなってきたりもします。
 対話の本音・目的は、「互いに理解し合うため」ではなく、「自分や、自分の(正しいと信じる)思想・考え方を、対話相手に理解・受け入れてもらいたい」ということではないだろうか。
 その目的のためには相手の考え方を理解した”ふり”も必要だろうし、好感を持たれる言動も必要なのだと思うのですが、それが私には打算や詭弁や欺瞞に感じてしまうのです。

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2006年04月17日

Re: 地獄への道は人びとの善意によって舗装されている

 今回はLeoさんのブログ記事、『地獄への道は人びとの善意によって舗装されている』にコメント代わりにトラックバックしようと書いてます。^^

 「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」...は逆説的な表現だ。
「善を為そうとして悪を為してしまう現実」...平和を目指すはずだった昔の学生運動の内ゲバやある種の宗教など該当する例は枚挙にいとまがないのかもしれない
 分かりやすい例ですが、Leoさんのこの記事のリンク先にもアメリカのイラク攻撃や、公立学校の敷地内完全禁煙などの例も引かれています。
 善や平和や正義という心地よい言葉で飾られた行いにより殺されたり苦しむ人達がいる。
 どうも善や平和や正義という心地よい言葉は、人々を扇動するために誠に都合のよい言葉のようです。
 
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2005年12月25日

強信者の心理と態度

 『自性・無自性について』の記事のコメント欄で、くまりんさんやLibra師匠やLeoさんとおまけのわめで有意義な議論が続いておりまして、わめもその議論に参加したくて新しい記事を書くのはしばらく控えようかと思ったのですが、その議論の中で「唯一絶対思想への強信者の態度」についてのお話も出てきておりますが、これは以前の『宗教はやっぱり好きになれない』の続編的な議論でありますので『自性・無自性について』から切り離して話し合えればと思いこの記事を書くことにしました。それとそのコメント欄では強信者の態度と書いてしまいましたが、その態度は唯一絶対思想への強信者の心理からくるものですので、この記事では態度も含みますがその心理についても考えてみたいと思います。
 『自性・無自性について』の記事のコメント欄でわめが書いたことと重複(一部加筆修正)しますが、わめの思う強信者の心理とは、創価学会(広い意味で日蓮仏法含む)の強信な信者、広くは他の宗教やあらゆる思想などを絶対的に信じる強信者の態度(心理)を以前より知る者にとっては、わめに限らずともそのような印象を持つ方も多いのではないかと思います。
 またそのような人(強信な信者)と接する機会があれば今までに関わりがなくとも何とはなしに感じることができる方もそう少なくはないと思います。
 言わば唯一絶対思想への強信者の心理には、共通性がみられると感じております。
 
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2005年12月23日

ワンコとニャンコの思考

 へんてこりんなお題になりました。汗
 うちには以前ワンコ1匹とニャンコが2匹おりましたが、ワンコとニャンコの各1匹をある事情で遠くに手放さなくてはならなくなり今はニャンコ1匹になっちゃいました。
 その手放したニャンコの2で『どよ〜んx2』で書いたように車に轢かれて亡くなったって知って、誰もが死んじゃうわけだからそれは仕方ないとして最後の時まで楽しく生きてくれたのかなぁって考えちゃったりして、デジカメで撮ったそのニャンコとワンコの写真が何百枚とあるものだからその写真を見ながらその当時の情景を思い出したりしてさっきまでニヤニヤしてました。^^

 亡くなったニャンコはワンコの兄貴のような感じで、どちらもペットショップから生後2〜3ヶ月で譲り受けてきたのですが、ワンコより1年ほど早く我が家に来て家族のようにわめ達と暮らしてまして、そこに柴犬オスのワンコが新たな家族の一員として迎え入れられたのです。

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2005年12月20日

自性・無自性について

 また懲りもせず仏教”にも”関わる話題なのですが(^^;;、無自性についてLeoさんから掲示板でコメントを頂いてますのでご参考にしていただければと思います。また自性については佐倉哲氏のWebサイトの『空の思想--- ナーガールジュナの思想 ---第一章 自性論』で自性についてナーガールジュナの思想を語られておられますし、Libra師匠の『一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)』などで、わめはこれらのテキストからの自性・無自性の理解であったわけですが、くまりんさんの『出家とアビダルマ』を読んで、自性についての認識に誤りがあったのではないかと思い始め、これは「仏教は輪廻転生を説く教えか否か」について掲示板で、Libra師匠やくまりんさんやLeoさんが深い考察に基づき大変貴重な議論をされていることとも関わってくることでもあり、現在のわめの自性についての捉え方を改めて提示し誤謬の発見に努めたいと思っております。
 
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2005年12月17日

わめの恋愛感

 軒ちゃんからリクエストがありましたが、それに応えるような内容の記事にはならないように思うのですが、わめの感じてきた恋愛の心模様などを、最近はそのような熱い思いからトンとご無沙汰でしずくちゃんがうらやましいwじゃない(どこへいくw)、どこまで書けるか分かりませんがブログは公開日記みたいなものでありますし、過去を振り返りながら気楽に書いてみたいと思います。そうそう、過去を振り返ると言えば三ちゃんブログの『AKG』の記事から、わめもPA屋もどきをやっていた頃を思い出し、2の『PA屋』として記事にしてみましたのでよかったら読んでいただきたいです。
 
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2005年12月12日

自分を演じること

 人は対人・社会・集団において多かれ少なかれその環境に合わせ自分を演じていると思いますが、名演を心掛ける人、演じてるとほとんど意識してない人、嫌々ながら波風が立たない程度に演じている人、もしかしたら演じていない人もいるかもしれませんね。^^
 また中にはこの演じることに嫌悪感を持っておられる方もいると思いますが、演じることの好き嫌いは別にして対人・社会・集団に対し自分をまったく演じることなく円滑な人間関係を築けている人など稀でしょう。わめも昔はその稀の一人であるなんて思っていた時がありましたが、その過去を振り返ってみて分かったのは、自分を演じてないという自分を演じていたことに気が付いたりしました。

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2005年12月10日

自分をどれだけ見つめても

 2005年12月04日の記事のコメント欄からずっと関連しているような記事ばかりが続きますが実は今回もです。(^^;;
 
 EnjoyLife掲示板のわめのコメントから抜粋。
 人は笑ったり泣いたり感動したり苦しんだりできる特典を持ってますけど、それも他者や環境と切り離しては味わうことができません。

 笑ったり泣いたり感動したり苦しんだりできる特典を、自分の中からどれだけ探してみたって見つかりっこないような気がします。
 このことも『少なくとも我々の世界は”ものは依存関係のなかで存在している”』という事実・暫定真理が、心が持つ感情にも当てはまると思うのですが、もう一歩分け入って考えてみると、人が笑ったり泣いたり感動したり苦しんだりする心の様は、自分と他者や自分と自分を取巻く環境との関係性の中から生まれてきているということがわかります。

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2005年12月09日

他者との関係優先の思想

 くまりんさんはわめの掲示板での書き込みを読んでくださって、そのことを御自身のブログにエントリーしてくださいました。わめの書き込み内容が内容なだけに恥ずかしいやらうれしいやら複雑な気持ちなのですが(うれしいのですけどね。(〃∇〃) てれっ☆)
 その中でくまりんさんは『理想は確かに「始めに大悲ありき」の他者との関係優先の思想でしょう。』とコメントされ、これはわめの関係性重視の考え方を認めてくださっているように読み取れ、このことはもっともっとうれしいのですが、この後に続くコメントでは『しかし悲しいかな人間はそんなに良くは出来ていません。だからこそ自分を戒め自己反省の時間の先頭に立って未来を選択し峻別することで他者に応えていくしかないんです。』と書かれてあり、この理想は人間にとって不可能とおっしゃられておられるようです。

 人の心の奥底までわめには見透かすことはできませんが、でも自身の心やわめの周囲の方達を出来る限り観察してみると、必ずしもそうではないように思えてくるのです。

 続きを読む 追記訂正 2005/12/09 10:53
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2005年12月07日

テーラワーダ仏教で言う障害者

 今回は『今、創価学会に思うこと 01』のコメント欄でLeoさんがリンクと引用くださったテーラワーダ仏教の『【48】 慈悲の冥想(続き)/業と障害者』について、わめの意見を書いてみたいと思います。

 その前にお断りしておきたいのが、この記事を書くに当たって「障害者」と言う言葉を何度も使わないといけないことで、これは一般的に便宜上使われている言葉で差別用語ではありませんし、わめもそのように理解して使っておりますしここでも使わせていただきます。

 ですがどうもテーラワーダ仏教の『【48】 慈悲の冥想(続き)/業と障害者』では差別用語としてこの言葉が使われ
完全な悟りを開いた人のみを『健常者』と認定することが出来る
と書かれ、決め付けているように思えるのです。
 
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2005年12月06日

ネットは良き時代の人情復古

 仕事も趣味もネット環境が欠かせないわめだから余計に思うことかもしれませんが、チャットや電子メールやブログや掲示板などのインターネットを活用してのコミュニティは、今やリアルを凌ぐほどの心の通い合う世界のように思います。わめの性格にも合うのか、好きな時間に思ったことを書き込みができることや、相手に返事を要求しないといった互いに束縛のない自由なやり取りができるなどのリアル世界ではなかなか難しいコミュニケーションをとることができます。また意気投合したりしてオフ(会)で会うなども可能で、その後リアルでもお付き合いするケースも少なくありません。わめもネットで知り合い、リアルでもお付き合いしだした方達は相当の人数に及びます。

 それにテーマ別にHNを変えてのそれぞれ違った方達とのネット世界でのコミュニティも可能ですし、わめも自鯖チャット3つとブログだけでも5つ、ML(メーリングリスト)主催を6つ、掲示板はいくつあったか忘れるくらい、HNも数種ありますしそれぞれ違った方達とお付き合いしています。

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posted by わめ at 00:54| Comment(35) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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