2006年08月11日

輪廻説は仏教ではない

 この記事は当初2005/11/10に書いたものですが、この記事に新たに「佐倉さんの無我論への感想1〜5」のリンクと一部引用を加え、輪廻転生は仏教の教えではないことの援用とさせていただきました。

 軒ちゃんのブログの『過去世と来世は存在するか』の記事にコメントさせていただいた中で、Libra師匠の雑記の『輪廻説は仏教ではない』をリンクさせていただきましたが、その内容についてのコメントを以前掲示板で書いておりましたのでまずはコピペします。

 脳が壊れていくことで心が壊れていくというアルツハイマー病患者での事実は、心(性格やその方の人間性等)は脳の働きであると言えると思います。
 輪廻があるとした場合には、前世で脳が壊れるわけですから、心も壊れた状態もしくは心とは別の何かが輪廻するわけで、まったく別人格の自分になっているように思うのです。
 それなら、人が死んで焼かれ土に返り、またそれが植物などに吸収されそれを動物が食べ、人は意識・人格を無くしながらも、何らかの形で存在していくのと何ら変わりはなく、それは縁起そのものじゃないかと思うのです。
 そういった意味で一個の生物は、無数の命を取り込んで(ながら)生存活動を続けているわけで、またその一個の生命も死によって、他の多数の生物の中に取り込まれていく。これを輪廻と言ってもいいんじゃないかと思うし、そういったことを指すのが輪廻なら”ある”と思います。』
続きを読む(追記あり)
posted by わめ at 11:48| Comment(15) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月05日

釈尊が肯定する信仰

 釈尊の「信仰を捨てよ」について、Libra師匠Leoさんと以前に議論しましたが、Libra師匠の言われる「仏教的信仰」を信仰と規定されるものの概念内に収めるなら、釈尊の「信仰を捨てよ」に該当する信仰とは言えないとの見解を私は示しました。
 しかしながら私の表現能力不足か、はたまた信仰という言葉自体が広範な概念を持つ言葉であるが故か、どうもすっきりと腑に落ちていかなかったという感が私には残ってしまいました。
 そこで改めて私の主張を明確にし、ご批判を頂ければと思いこうして記事にすることにしました。^^

 続きを読む 追記 2006/08/05 17:15
posted by わめ at 05:39| Comment(44) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月15日

父の信仰

 父は創価学会員であり御本尊・題目には信仰心は弱いながらもあるようです。
 また自宅は個人会館として地域組織にも役立ててもらっているようですが、私はそれらに批判的な意見は言ったことはありません。
 父の学会批判めいた小言を聞いてあげることはありますがそれも話を合わせる程度です。父が強引な折伏や新聞啓蒙をしているのであれば、私も何かしら言うこともあるかもしれませんが、父にはそこまで学会や信仰に思い入れがあるわけでもなく、「公明党は好かん」と選挙だって面倒がって行きたがりませんが、姉(娘)に連れられ止む無くといった感じの父です。

 TVで好きな相撲・プロ野球観戦と信仰とどちらが大事なの?と疑問になる時もありますが、それでも信仰は父の限られた生きがいの一つなのかもしれません。

 私の父に対する願いは、毎日を楽しく健やかに過ごしてくれることだけです。他人に迷惑をかけない範囲であれば私は何でも許せそうに思いますし、私も出来る限り力を貸してあげたいです。

 今回の記事はみくさんの『それでも折伏 〜心の支え〜』の記事にトラックバックさせて頂くために書きました。
posted by わめ at 15:47| Comment(2) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月19日

自灯明法灯明

 『宗教はやっぱり好きになれない』のコメント欄でわめは「ブッダと言えば自灯明法灯明って言葉(教え?)が好きです。」と書きましたが、とゆーかさんからわめの法灯明の”法”の捉え方が誤っているとの指摘を受けましてドキッ(笑)としました。とは言いましてもわめが正しい解釈をしていると考えるほうがおかしいと我ながら思ってもいるわけですが(自爆w)、わめの捉え方をもう少し詳しく提示してどこが誤りであるかを指摘して頂ければと思ったのですが、それなら広くご意見を頂きたいことと、『宗教はやっぱり好きになれない』では宗教を”信仰する”ことの有害性・副作用が問題と主に指摘していますが、このまま続ければとゆーかさんを意識せずともその好例へと誘引してしまいそうに感じますし、とゆーかさんもわめを仏教徒と勘違いしていたこともそのコメントには影響を与えてしまっているかもしれないので、それではわめも不本意でもありますので新たな記事にしてみました。
 
続きを読む
posted by わめ at 03:49| Comment(37) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月18日

くまりんさんの仏教学のお話

 いや〜今回は頭の悪いわめでも、すんなりスッポリ受け入れることが出来ました。(*´∇`*)
 あ、話が見えないですね。(^^;; えっと、EnjoyLife掲示板でLeoさんがくまりんさんに向けてのコメントがありまして、それを受けてのくまりんさんのお応えについてのことです。チャット思考なわめなので、ついつい会話しているような記事になってしまい読みづらいとは思いますがご容赦ください。<(_ _)>
 またくまりんさんは御自身のブログでも『出家とアビダルマ』のお題でエントリーされておりまして、こちらのほうが更に詳しく説明されておりますのでわめの掲示板のコメントよりくまりんさんのエントリーを見ていただいたほうがより理解しやすいように思います。
 
続き+追記を読む
posted by わめ at 16:52| Comment(0) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月14日

宗教はやっぱり好きになれない

 今回は『輪廻転生について』でも触れましたくまりんさんの記事から「仏教は輪廻転生を説く教えか否か」についてEnjoyLife掲示板で、Libra師匠やくまりんさんが深い考察に基づき大変貴重な議論をされています。それはとてもありがたく思いますし、またわめなりにも意見もあるのですが場違いのようなわめのコメントで場を汚したくないのでこちらに書いてしまうことにします。^^

 お題が『宗教はやっぱり好きになれない』になってしまったのはわめの正直な気持ちで、この議論のずっと以前より思っていたことで、宗教の教えの中には沢山為になる教えはあるものの、それは現代の日本において宗教を信仰することで当時者やその周囲に対し有害性・副作用を顕著に感じるからです。もちろん宗教を”信仰する”ことにより苦悩から脱し、救われていく(と思っている)方も多くいるとは思いますが、だからといってその有害性・副作用を看過することはわめにはできないのです。
 またブッダは”信仰を棄てよ”とおっしゃっておりますが、その仏教においてもブッダ及びその教えを”信仰していく”のは如何な訳かもわけわかめ。(突っ込みどころを用意しました。^^)
 
続きを読む
posted by わめ at 12:16| Comment(87) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月25日

宗教のイメージ

 宗教と呼称されるもののイメージがすごく悪くなっているように思うのだけど、実はわめもよいイメージは持てないでいたのですが、これはオウム真理教やイスラム原理主義者の一部がテロを起こしたり、他にもカルト宗教の行き過ぎた勧誘等のニュースなどもありますけども、このような新興宗教や原理主義(教条主義)のことから宗教全般のイメージダウンに繋がっているのかなって思ったりしますが、キリスト教でもボランティアや奉仕活動など幅広くやっておりますし、わめも関心がある仏教にしてもこの社会において無意味なように排斥されるのは、わめ自身にも自戒の念もあり再考する必要性を感じます。宗教というものを一括りにして悪感情を抱くのでは、カルト宗教が他の宗教を邪宗・邪教と吹聴するのを何も考えずに鵜呑みにしてしまうその信者と大差がないのではないかと思うのです。

 続きを読む
posted by わめ at 16:31| Comment(0) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月23日

日蓮(大聖人)も真っ青

 日蓮(大聖人)は本尊は曼荼羅(御本尊)と言いましたか?
 御書全集の中にそのような御文はあったでしょうか?

 御書(全集)を読めば明瞭ですが、本尊抄、報恩抄、開目抄等には、本尊は(本門の)教主釈尊とすべしと断言されておりますし、一歩譲って本尊問答抄(真筆なし)においては「法華経の題目を以て本尊とすべし」との仰せもありますが、日蓮(大聖人)は法華経(本門)を釈尊の教えの結晶・真髄と思われていた(当時としてはやむなし)わけで、曼荼羅の中心にも法華経の題目(題号)たる妙法蓮華経と認めておられるわけです。
 したがって本尊は教主釈尊、一歩譲って釈尊の教えの結晶・真髄(と思われていた)の法華経の題目(題号)を本尊とすべきであると日蓮(大聖人)は明言されています。余談ですが御書には日蓮(大聖人)自ら上行菩薩の再誕と書かれておりますし、それは謙遜(笑)もなにも”本尊は教主釈尊”と明言されておられるわけですから、日蓮(大聖人)自身が仏であると思われていたわけがないと思います。(日寛さんごめんw)

 その曼荼羅が御本尊と呼ばれ、曼荼羅が現代においては印刷されて日蓮仏法を信仰している”つもり”の信者の各家庭に配られ御本尊として信仰対象になっているのを知ったら、また携帯御本尊なるものも作られ配られている現状を知ったら、日蓮(大聖人)はびっくりして真っ青になりさぞやお嘆きのことだろうと思います。

今回の記事で参考とさせてもらったBBSスレッド。
日蓮聖人の本尊観
posted by わめ at 04:50| Comment(13) | TrackBack(2) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月15日

自身と組織と信仰と

 つい最近より学会組織から離れているわめです。(^^;
 ってこの組織から離れる前は、以前掲示板に書いた状態だったのですが、更にそれ以前は『男子部時代のわめ』カテゴリーを参照してください。

 離れていると言うのもかなり語弊があるかもしれませんが、その辺の事情はまたいずれ書くこととして、今回はリアルでもよく知ることでもあるし、学会員さんのブログでもよく目にする学会活動においての精神的な負担や、学会組織批判・不満めいたことについての解決方法?のようなことを書いてみたいと思います

 まず組織について、組織といっても実際一般的な学会員さんが関わる比重として大きいのは地域の組織であって、創価学会そのものじゃないと思います。もちろん、組織の実情としてトップダウン的要素は強いわけですが、しかし、果たしてそうでなければいけないのでしょうか?

 わめは『男子部時代のわめ』や『男子部時代のわめのトラウマ』で書きましたが、当時の約10年間は信仰心がありましたし、男子部・学生部幹部と多少の衝突・不満はありましたが、組織に縛られた学会活動というのはほとんどやっておりませんでした。学会活動というより日蓮仏法(学会アレンジ)の信仰活動みたいなものだったかもしれませんが、それはとても活き活きとして自主的な活動で、わめ自身もまた仲間たちもすごく楽しかったです。

 わめのその当時と今と学会組織は変わってしまったのでしょうか? たしかに当時は聖教啓蒙や選挙活動の比重は今より低かったと思いますが、その体質自体が変わってしまったようには思えないのです。

 今も自身がその気になれば自由な信仰活動はできるのではないでしょうか。

 学会活動=信仰活動なのでしょうか?
 そう思われる方は組織に大きな不満も少なく思いますし、精神的な負担にもならないように思います。そのような方に、わめはここでは何も言うことがありません。

 そうは思えない方が、精神的な負担が大きく、学会組織批判・不満めいたこと言っているように思います。
 わめは信仰活動を優先的に選択し、上記に示したような活動をやってきました。

 そしてその自由な信仰活動が自身にとって、価値のある充実したものであるならば、その姿を見て地域組織も少しは変わっていくのではないでしょうか。

 信仰心があるなら受身でネガティブな自身から、ポジティブな自身に変わっていくべきではないでしょうか。もとより日蓮仏法(学会アレンジ)はポジティブな教義でありますから。

 そう簡単に思える・できるなら苦労はしないとの声も聞こえてきそうですが、強盛な信仰心があれば乗り越えていけることではないでしょうか。

 それが自身や家族・友人・知人、また同志を守っていくことにも繋がっていくようにわめには思えます。

 自身の人生は他の誰のものでもないのですから、納得のいく生き方を選び取っていただきたいと思います。

 *****追記*****

 わめの信仰心について、上記で”当時の約10年間は信仰心がありましたし”と書きましたが、信仰心は昨年までありましたので、誤解がないように追記します。(参考記事『信じることをやめた時』)

*****追記の追記*****
posted by わめ at 02:20| Comment(8) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月14日

功徳と罰

 今回は功徳と罰について書いてみたいと思います。

 功徳がでるとは

 ・良い事が起こる これは説明するまでもないでしょう。
 ・悪いことが起きる(転重軽受・試練を与えられる・過去世の宿業がでる/を消す等々
 必ずしも自身にとって都合のよいことばかりとは限らないように思います。

 罰がでるとは

 ・悪いことが起こる これは説明するまでもないでしょう。
 ・良い事が起こる(魔が出来する/つけいられる/たぶらかされる・福運を削る等々

 見比べてください。()内は解釈の仕方であり、起きたことそのものではありません。
 功徳・罰とは解釈の仕方で、事実起こったことに変わりはないとわめは思います。

 例えばある人が人の物を盗んで得をしたとしましょう。
 あなたはそれを知りその人にどのようなことを言うでしょう?
 まさか「良かったね、得したねぇ〜」って一緒に喜んであげるなんてことはしないと思います。

 ではある人が人を助けるためにお金を与えたとしましょう。
 あなたはそれを知り「バカなことして損したねぇ〜」と言わないと思います。

 何故でしょう?お金が入ることは得することだし、何も買わないのにお金が出ていくことは損なことではないでしょうか?

 こんな馬鹿げた質問をして申し訳ありません。でもこんな馬鹿げたことが分からない方が意外と多くいらっしゃるように思います。

 人の物を盗んで得をした人には、いずれ罰が当たる、魔につけいられた/たぶらかされたと思うのではないでしょうか。

 人を助けるためにお金を与えた人には、福運を積んだ、過去世の宿業を消す行為だと思うのではないでしょうか。

 功徳とは良い事が起こることでも得をすることでもないのです。
 罰とは悪いことが起こることでも損をすることでもないのです。

 良い行いと思うことをしていて起こることは、それが悪いことでも良いことでも功徳というのです。
 悪い行いと思うことをしていて起こることは、それが良いことでも悪いことでも罰というのです。

 すなわちその起こる事象に変わりはないのです。

 事象は功徳とか罰から起こるのではなく、原因と結果から起こるのです。
 その結果ではなく原因を考えて、その事象が功徳であるか罰であるかを判断するのです。

 先ほどの例を世法に当てはめれば、前者は犯罪行為をし、それがばれれば罰を与えられます。
 後者は表彰されたり善意の行為として新聞に載ったりするかもしれません。
 世法は原因より結果を重視します。

 更に言えば功徳・罰とは、宗教の教義や思想・主義、そして世法で捉え方が違うのです。
 そして功徳であるのか罰であるのか、最終的判断を下すのは個人の主観でしかないということです。

参考記事リンク
posted by わめ at 12:38| Comment(7) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月29日

思わず唸ってしまったご意見

 いや、マジ唸ったよ。
 わめも学会指導・組織・地域の個々の会員を知る者として、まったく異論なしです。

 あ、何に唸ってるのかって?

 シナプスさんっちの会議室掲示板での、チョンガーさんのご意見にです。(^^;;
posted by わめ at 12:38| Comment(1) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月06日

仏教話のご紹介

 最近仕事が落ち着いた(ヒマになったw汗)こともあり、ここ3日ばかり海外ドラマ「スターゲイト・アトランティス(STARGATE ATLANTIS)」にハマってるわめですw笑
 進行中のドラマで今日・明日くらいには、海外放送分すべてを見終わりそうですが、それまでブログ更新が難しそうです。<(_ _)>

 よかったらわめの掲示板で、フルナさんと大変よい(と思う)仏教話をしてるスレがありますので、読んでいただけたらうれしいです。^^
 もちろん、どなた様もご参加自由です。(⌒∇⌒)

○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について

○仏教における仏、成仏とは
posted by わめ at 16:07| Comment(1) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月02日

わんぱくでもいいたくましく育って欲しい

なんてのが昔の某ハムのCMであったようだけど、軒ちゃんさんのブログの記事、あなたの宗教は自立させてくれるか?は、まさに宗教を親に例え、心理学の専門家の見解として「よき宗教とはどのようなものか」を見事に語っておられる。是非一読されたし。
posted by わめ at 16:19| Comment(1) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月24日

仏教の死生観について

最近シナプスさんっちの掲示板「仏教の死生観について」スレで、久しぶりにちょっぴりではありますが議論ができて、ちょっとうれしいわめです^^
議論し合って、自らの誤謬を見つけられたり、互いを高めあっていくことは、大切なことのように思います。
ここを見てくれている皆さんも、よかったら是非ご参加くださいね。^^

投稿する場合の注意点
シナプスさんサイトでは、まずRULEを読んでルールに従った投稿をお願いします。またSESSION(会議室)掲示板ではまず「自己紹介スレッド」に、自己紹介をお願いいたします。
posted by わめ at 00:28| Comment(1) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月21日

毒矢の喩より

 皆さんよくご存知のブッダの毒矢の喩(たとえ)ですが、これが以外と現実に生きていく上では活かされていないように感じます。
 この喩は簡単に言うと、毒矢が体に刺さってしまった人が、ああでもないこうでもないと言ってるうちに、毒矢の毒が体中に回って死んじゃいます。肝心なことは、速やかなに毒矢を抜くことだとの喩え話です。

 人が悩んだり苦しんだりすること(以下苦痛)には原因(毒矢みたいな)があるわけで、それを慰めてあげたり同苦してあげて、少しでもその苦しみを和らげてあげようとすることは、その原因(毒矢刺さった)から生じる結果(死)から救うことにはなりません。
 何故ならその苦痛の現れは、肉体的苦痛と同じく、危機(毒矢が刺さったこと)を知らせる人間の円滑な生存維持のための危険信号で、その危険を知らせる苦痛に対し、あれこれ対処(苦痛を和らげる麻酔的なこと)してみても根本的解決にはならないことは明らかです。
 答えは簡単ですね。苦痛の原因(毒矢)を取り除いてしまうことです。^^

 毒矢の刺さった方には、刺さった毒矢の危険性、それを速やかなに抜くことの重要性、そのための苦痛に絶える覚悟を与えることが重要です。
 その上で、抜いた後に残る苦痛を和らげてあげることも大切ですけれど。

・・・ただ一番問題なのは、自分に毒矢が刺さっていることにさえ気付いてない、否、気付きたくもないという方々が多くいるということです。(^^;;
これはもしや毒気深入し、正気を失うという「良医の喩」ですかなw
posted by わめ at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月20日

Libra師匠との語らい

 わめの目を覚まさせるきっかけとなった人がLibra師匠です。
 それはWeb上に残されたLibra師匠のテキストからでした。言わば過去のLibra師匠のテキストとの出会いからだったわけです。
 それが最近さかなこさんとのご縁で、更にさかなこさんのブログのコメント欄(しかも記事からは大きく脱線w)で、Libra師匠と語らうことが出来たことは、わめにとって至上の喜びでした。

 そのコメントの一々にリンクができないため、他の方のコメントも載ったままリンクさせていただくこと、さかなこさん、コメントされた方、ご容赦ください。m(_ _"m)ペコリ

さかなこさんっちでLibra師匠との語らいリンク
posted by わめ at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月17日

信仰とその周辺スレから「筏の喩え」について

何だか読んでて面白かったので下記リンクより抜粋^^

信仰とその周辺No13〜22
仏典の「筏(いかだ)の喩えの法門を知る人は,法さえも捨てなければならない.法でないものはなおさらである.」
『たとえば街道を歩いてゆく人があって,大水流を見たとしよう.そしてこちらの岸は危険で恐ろしく,彼方の岸は安泰で恐ろしくないとしよう.しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡船もなく,また橋もないとしよう.そのときその人は,草,木,枝,葉を集めて,筏を組み,その筏によって手足で努めて安全なかなたの岸に渡ったとしよう.

宗教の教えというものは,悩める人間を導く手段であり方便である.目的を達し,その役目を果たしたならば,その筏は捨てられなくてはならない.そしてさらに先へ進む・・・といったようなこの教えは,宗教というものを固定化してはいけないことを説いていますが,「宗教」を「価値観」と読み替えてもいいかもしれませんね.

仏教を見回すと『摩訶止観』には「破法遍」とありますし、臨済禅師等はショック療法的に「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。」「...始めて解脱を得ん。」(〜とはこうであるとか〜とはこうでなければならないという固定観念にとらわれるなということ)といっていますね。
時には筏を陸で担いで訓練と称することがあるのかもしれませんが、激流を渡ること(悩める人間が導かれる)が目的とすると、筏を陸で担ぐことをやったとしてもそれはあくまでも訓練に過ぎないと思いました...

−−−−−ここから
「筏を捨てない人には、いかなる困難にも負けない強さがある。 しかし、筏を失えば、人生は闇だ。」
「筏を担いで、前へ、また前へと進んでください。後ろを振り向かないで。 すべては「筏担ぎ」です。いつも「筏担ぎ」なのです。」
「立場等ではない。”筏担ぎに生きる”人が、”本物の筏担ぎ”なのである。 また、一流の筏担ぎは一流の筏担ぎを見抜くものだ。」
「人生は、「筏担ぎは無理だ」とあきらめる自分「筏担ぎはこれくらいでいいだろう」 と妥協しそうになる自分との戦いである。「断じて筏を下ろさない」「断じて筏を担ぐ」と 筏担ぎに勝ちゆくことだ。」
「筏は、逃げれば逃げるほど追いかけてくる。犬のようなものだ。 だから、筏を担ぐしかない。」
...筏先生の指導より。
−−−−−ここまでは、何やらLeoさんの○○学会に対する皮肉ですな?笑
わめ的には、「筏は己心にある、だから逃れようがない!」とまで引っ張って欲しかった....ボソ

cocoしゃんの
「宗教の教えというものは,悩める人間を導く手段であり方便である.目的を達し,その役目を果たしたならば,その筏は捨てられなくてはならない.そしてさらに先へ進む・・・といったようなこの教えは,宗教というものを固定化してはいけないことを説いていますが,「宗教」を「価値観」と読み替えてもいいかもしれませんね. 」
と、宗教を捉えられるとしたら、わめの宗教嫌いも治るかもしれません^^ でも人間ってそう簡単に深く信じたものを捨てられない....。 いえ、cocoしゃんのこのようにおっしゃることが、宗教の捉え方の常識となるならそんな心配も要らないのかもしれませんね。 でも常識となってない現状では、今んとこわめは、信じることは「思考停止」、「一元論は認知不能と、当分は言い続けていかないとだめみたいだなw
posted by わめ at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月14日

選挙活動は、活動の根本の根本?

お題通りなんですが、衆院選挙のため予定されていた8月度の座談会が中止になりました。
「座談会は創価学会の活動の根本です。」と創価公式Webサイトには載っているが、活動の根本である座談会を中止してまで行なう選挙活動は、根本の根本なのでしょうか?
posted by わめ at 10:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。