2005年11月25日

宗教のイメージ

 宗教と呼称されるもののイメージがすごく悪くなっているように思うのだけど、実はわめもよいイメージは持てないでいたのですが、これはオウム真理教やイスラム原理主義者の一部がテロを起こしたり、他にもカルト宗教の行き過ぎた勧誘等のニュースなどもありますけども、このような新興宗教や原理主義(教条主義)のことから宗教全般のイメージダウンに繋がっているのかなって思ったりしますが、キリスト教でもボランティアや奉仕活動など幅広くやっておりますし、わめも関心がある仏教にしてもこの社会において無意味なように排斥されるのは、わめ自身にも自戒の念もあり再考する必要性を感じます。宗教というものを一括りにして悪感情を抱くのでは、カルト宗教が他の宗教を邪宗・邪教と吹聴するのを何も考えずに鵜呑みにしてしまうその信者と大差がないのではないかと思うのです。

  
 また宗教を批判する場合もくまりんさんの『単なる自我拡大の限界内の無宗教』の記事から引用させていただきますが、『たとえ学者ではないにせよ、インターネットで他者を批判しようとするなら市民と雖も発言内容の周辺知識くらいは時間の変遷とともに知っておかなければならないのは発言者として当然の教養程度には思うのではあるが、こと宗教に関しては教育の欠如、もしくは正当に教育カリキュラムに取り入れられるような宗教の側の啓蒙の不足にも注意は払われるべきであろう。勿論発言する市民の側もなんでもネットに資料があるがごときの妄想と錯覚は直ちに捨て去るべきで、理解できないこと、知らないことがあれば書店や図書館に走るべきは言うまでもないが、より専門的な事柄であればいくつかの大学付属図書館に問い合わせるくらいのことはしていただきたいと思う。』はもっともだと思いますし、日本の学校教育にしても道徳・宗教的なことを学ぶことは大切なことのように思いますし、わめの小学校時代も道徳の時間クラスで熱く議論したことが自己の人間形成には大いに役立っているように思います。

 同記事で『宗教教育の重要さに話を戻せば他者のことばに耳を傾けることへの大切さはたとえ将来の専門的選択が理科系であろうと法学であろうと経営・経済学であろうとその能力を開発するには極めて重要な要素を含んでいるに違いない。かつてカール・ポパーは真の科学的態度として反証実験の重要さを説いたがそれを立花希一は「ポパーの批判的方法は、真理所有の正当化の道具ではなく、真理探究の道具であり、偽を発見し、それを排除することによって真理に接近しようとするものである。(立花希一「ポパーの批判的方法について」)」と解説している。そうした反証のテクストほど自己の論理より他者のことばにより多く見いだされるものだが、そうした態度を要請する初等教育が重要なのであってそれは宗教と言うよりもいささか道徳的ことがらから始まるのかもしない。とは言えたかだか自分一人で10数年間程度、あるいは30年でもいっこうに差し支えないが、自己流の思考を積み重ねたところで、しかもそれが少しばかりの自我に固執することで自我の正当化を試みる思考の積み重ねなど単なる自我拡大による自己の心の拡大に過ぎない。失礼ながら「宗教と歴史について長年考えた末の私の価値観」がその程度のものであることは欧州での論争をなぞってみれば明らかなことであって、だとすればそれは単に日本国憲法で保障された自分勝手に過ぎないわけで、とてもじゃないが他者に対して投げかけるようなことばではないのである。こんなところにも憲法で保障される権利ばかりを声たかだかに取り上げた戦後民主主義教育の教養のなさの所産が見え隠れするわけであるが、最低の教養とそれに取り組む態度はとりあえず道徳としてでも初等教育から行われ無ければならないことを痛感する。
 むろん道徳は上から下へ、高きから低きへドッロプダウンするものゆえ自我意識の成長・拡大とともにそのオトシマエをつけていくのが「自分とは誰か」という宗教的思考なのであるが、少なくとも民主主義の発祥と進歩を教育する過程に於いて近代的自我の形成に伴う宗教に対する人々の態度の変化は、初等教育においての道徳的教育に引き続いて中等教育においては少しばかりその内容にまで立ち入って教育されなければならないであろう。我々が外国である西洋という他者から学ぶことが出来るのが過去を過去に押しとどめることなく時間とともに歩み自然科学と近代的自我形成の調和を試み育んできた汎批判的合理主義なのである。言うまでもないが人権と民主主義の発展は人々の近代的自我の形成なしにはあり得ず、それは宗教を学識的、あるいは科学的に検討して受容していくことで発展したのである。日本の民主主義教育は人権ばかり強調されてその内なる渇望と葛藤についての他者である先人達の時間をなぞる作業が致命的に欠如しているように思われる。人類が2500年かけて形成してきた近代自我を赤ん坊は生まれてから僅か20年で追いつこうとするのである。せめてそれくらいが宗教に対する態度の基本として知れ渡っていれば「宗教というのは、超自然的な概念を用いた世界認識の方法」などという時代錯誤な、あるいは時代錯誤なというその時間的意識すら持ち得ないことによる「自我拡大の限界内の無宗教」に陥いることもないし、むしろカルト教団などの接近にも自己としての取るべき態度を保つことが出来るのではないかと思う。「単なる自我の拡大内の無宗教」の人ほどまたすっぽりカルトに取り込まれてしまったケースを僕は枚挙に暇がないほどに沢山見てしまっているから。そして他者を想像できない傲慢さこそ我々が絶えず振り返り自己批判して行かなければならない宗教的課題であるからである。』と語っておられますが、カルト宗教を信じ込んでしまうのも宗教にまったく無智であることがその原因として考えられるとのことで、この指摘も的を射ているように思います。

 宗教を”信仰する”こととは切り離し、宗教というもののその有意性と、カルト宗教のような危険性をより明確に知るためにも宗教というものを少しは学んでみることをお薦めします。


 って今回はわめも耳が痛いテキストを取り上げてみました。(>▽<;; アセアセ
posted by わめ at 16:31| Comment(0) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Weblog: プールサイドの人魚姫
Tracked: 2005-11-25 20:51
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