2005年11月14日

功徳と罰

 今回は功徳と罰について書いてみたいと思います。

 功徳がでるとは

 ・良い事が起こる これは説明するまでもないでしょう。
 ・悪いことが起きる(転重軽受・試練を与えられる・過去世の宿業がでる/を消す等々
 必ずしも自身にとって都合のよいことばかりとは限らないように思います。

 罰がでるとは

 ・悪いことが起こる これは説明するまでもないでしょう。
 ・良い事が起こる(魔が出来する/つけいられる/たぶらかされる・福運を削る等々

 見比べてください。()内は解釈の仕方であり、起きたことそのものではありません。
 功徳・罰とは解釈の仕方で、事実起こったことに変わりはないとわめは思います。

 例えばある人が人の物を盗んで得をしたとしましょう。
 あなたはそれを知りその人にどのようなことを言うでしょう?
 まさか「良かったね、得したねぇ〜」って一緒に喜んであげるなんてことはしないと思います。

 ではある人が人を助けるためにお金を与えたとしましょう。
 あなたはそれを知り「バカなことして損したねぇ〜」と言わないと思います。

 何故でしょう?お金が入ることは得することだし、何も買わないのにお金が出ていくことは損なことではないでしょうか?

 こんな馬鹿げた質問をして申し訳ありません。でもこんな馬鹿げたことが分からない方が意外と多くいらっしゃるように思います。

 人の物を盗んで得をした人には、いずれ罰が当たる、魔につけいられた/たぶらかされたと思うのではないでしょうか。

 人を助けるためにお金を与えた人には、福運を積んだ、過去世の宿業を消す行為だと思うのではないでしょうか。

 功徳とは良い事が起こることでも得をすることでもないのです。
 罰とは悪いことが起こることでも損をすることでもないのです。

 良い行いと思うことをしていて起こることは、それが悪いことでも良いことでも功徳というのです。
 悪い行いと思うことをしていて起こることは、それが良いことでも悪いことでも罰というのです。

 すなわちその起こる事象に変わりはないのです。

 事象は功徳とか罰から起こるのではなく、原因と結果から起こるのです。
 その結果ではなく原因を考えて、その事象が功徳であるか罰であるかを判断するのです。

 先ほどの例を世法に当てはめれば、前者は犯罪行為をし、それがばれれば罰を与えられます。
 後者は表彰されたり善意の行為として新聞に載ったりするかもしれません。
 世法は原因より結果を重視します。

 更に言えば功徳・罰とは、宗教の教義や思想・主義、そして世法で捉え方が違うのです。
 そして功徳であるのか罰であるのか、最終的判断を下すのは個人の主観でしかないということです。

 
 『盲信

 『客観的事実と信仰 06

 『題目は呪文ではない

 『題目論メモ

 『信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)』
posted by わめ at 12:38| Comment(7) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「功徳と仏罰」ではなく「功徳と罰」としたのはなぜかと思えば、ふむふむ、そういうことか。
表彰や世法による刑罰も含めて語りたかったわけだ。

>更に言えば功徳・罰とは、宗教の教義や思想・主義、そして世法で捉え方が違うのです。

そうですねえ。
そこでトーナメント理論を適用するわけですね・・・これについては後日書くかもしれません。

>そして功徳であるのか罰であるのか、最終的判断を下すのは個人の主観でしかないということです。

個人の価値観・願望などですね。
結果をどう評価するかということであり、理屈はあっても理論はないものだと思います。
Posted by 創価瓦解 at 2005年11月14日 20:09
創価瓦解さん、こんばんは〜^^

> 「功徳と仏罰」ではなく「功徳と罰」としたのはなぜかと思えば、ふむふむ、そういうことか。
> 表彰や世法による刑罰も含めて語りたかったわけだ。

 あは、罰か仏罰かは悩みましたけど、功徳の語句の変更はいい言葉が見つからなくてあきらめました。
 まぁでも学会内でもわめの印象では、仏罰っていうより罰って言うほうが多いかもです。(^^;

> >更に言えば功徳・罰とは、宗教の教義や思想・主義、そして世法で捉え方が違うのです。
>
> そうですねえ。
> そこでトーナメント理論を適用するわけですね・・・これについては後日書くかもしれません。

 トーナメント理論の適用ですか、学会にはトーナメントリスクもあり、トーナメントワクチンもないから衰退していっているように思います。後日に期待。♪

> >そして功徳であるのか罰であるのか、最終的判断を下すのは個人の主観でしかないということです。
>
> 個人の価値観・願望などですね。
> 結果をどう評価するかということであり、理屈はあっても理論はないものだと思います。

 組織に対して揺れ動いている方は、結果に対して自分にとって功徳か罰か判断に悩むといったことがあるように思います。
 それで自身の信仰姿勢を、学会アレンジ日蓮仏法からどうなのかを考えてみるのだけど、やっぱり判断し切れないといった方が多いじゃないかな。
 ですから信仰者の方はその価値観を個人としてなかなか持てなくて、このような物差しを使ってしまっているように感じます。ですので理屈や理論と言うより、ついつい教条的な判断基準になってしまいがちだろうと・・・・
Posted by わめ at 2005年11月15日 01:05
わめさん、新しいブログでも改めてよろしくお願いしますm(_ _)m

以前掲示板でうかがった「功徳と罰」のことですね。

功徳も罰も、起こる事象は同じ、とらえ方の問題。
あなたはこうとらえるのね、私はこうとらえるよ。
そのとらえ方いいね、私もマネしよう。
そのとらえ方もいいけど、こんなとらえ方はどうかな。

そんな風に話し合えたらいいのに。
届いて欲しい人には、届かないものですね。
Posted by snow at 2005年11月16日 15:17
snowさん、こちらでは初めましてなわめです。笑

> 以前掲示板でうかがった「功徳と罰」のことですね。

 はいはい、このようなお話もしてましたね。(*゜▽゜*)

> 功徳も罰も、起こる事象は同じ、とらえ方の問題。
> あなたはこうとらえるのね、私はこうとらえるよ。
> そのとらえ方いいね、私もマネしよう。
> そのとらえ方もいいけど、こんなとらえ方はどうかな。
>
> そんな風に話し合えたらいいのに。

 いいですねぇ〜ε- (´ー`*) フッ

> 届いて欲しい人には、届かないものですね。

 ( ̄― ̄)(―_―)( ̄― ̄)(―_―)ウンウン お気持ちお察しします。涙
 痛いことを言わせてもらうなら、届く人を届いて欲しい人と意識転換できると一層いいと思うわめです。
 でもそれが簡単にできるなら苦しまなくていいかもだけど、同時に何だか味気なくなってしまうような気もしたりもします。
 まぁ色々思い悩むことも楽しみと捉えていければよしとしましょうか?^^
Posted by わめ at 2005年11月16日 15:37
わめさん

>痛いことを言わせてもらうなら、届く人を届いて欲しい人と意識転換できると一層いいと思うわめです。

既に届いているや、届く人だけを「届いて欲しい人」と意識転換する、ということでしたら、
楽ですし心も痛まないけど、違う考えは基本的に「届かない」し「届けられない」、
つまり今の状態からは誰も何も変わらないってことになりますよね。
それじゃぁ進歩がないから、私はイヤだなぁ。
まぁ、違う考えの人に敢えて接するなら、この痛みも避けられないって事はわかってきましたが。

思い悩むこと…というより、考えることは、楽しいとは言いませんが、自分の成長につながるので、「良いこと」だと思ってます。
でも、メチャクチャつらくなったら、何にも考えずに自分を休めますよ。
あ、楽しいことや、気持ちいいことを増やすことは常に考えてます♪(笑)
Posted by snow at 2005年11月16日 18:34
snowさん、こんです。(*´∇`*)

なぁんだsnowさん、ご自分の判断で”自分の成長=良いと思うこと”としてちゃんと選び取ってますね。^^
それなら痛いことは痛いことでもなく書くまでもなかったな。(● ̄▽ ̄●;)ゞぽりぽり

> でも、メチャクチャつらくなったら、何にも考えずに自分を休めますよ。

(*’ー’)(,,*)(*‘∇‘)(,,*)うんうん

> あ、楽しいことや、気持ちいいことを増やすことは常に考えてます♪(笑)

(⌒〜⌒)ニンマリ
Posted by わめ at 2005年11月16日 19:39
あっ、snowさん発見!

なんかコメントしょうと思うたけど、
なんも出てこん、ごめんなさい!
Posted by 三九郎 at 2005年11月16日 23:20
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