2006年08月11日

輪廻説は仏教ではない

 この記事は当初2005/11/10に書いたものですが、この記事に新たに「佐倉さんの無我論への感想1〜5」のリンクと一部引用を加え、輪廻転生は仏教の教えではないことの援用とさせていただきました。

 軒ちゃんのブログの『過去世と来世は存在するか』の記事にコメントさせていただいた中で、Libra師匠の雑記の『輪廻説は仏教ではない』をリンクさせていただきましたが、その内容についてのコメントを以前掲示板で書いておりましたのでまずはコピペします。

 脳が壊れていくことで心が壊れていくというアルツハイマー病患者での事実は、心(性格やその方の人間性等)は脳の働きであると言えると思います。
 輪廻があるとした場合には、前世で脳が壊れるわけですから、心も壊れた状態もしくは心とは別の何かが輪廻するわけで、まったく別人格の自分になっているように思うのです。
 それなら、人が死んで焼かれ土に返り、またそれが植物などに吸収されそれを動物が食べ、人は意識・人格を無くしながらも、何らかの形で存在していくのと何ら変わりはなく、それは縁起そのものじゃないかと思うのです。
 そういった意味で一個の生物は、無数の命を取り込んで(ながら)生存活動を続けているわけで、またその一個の生命も死によって、他の多数の生物の中に取り込まれていく。これを輪廻と言ってもいいんじゃないかと思うし、そういったことを指すのが輪廻なら”ある”と思います。』
 このように考えると軒ちゃんの該当記事で言われている”一人の人間”としての過去世・来世が存在するかは、ノーと言わざるを得ないと思います。

 そして
 ブッダの時代、人々が妄想・妄信・我執等の心の呪縛から解放されることなど、どれほど難しいことかは、想像に難くないと思うのです。だから当時としてブッダの悟りは,センセーショナルなことだったのも頷けます。
 仏・成仏とは、妄想・妄信・我執等の心の呪縛から解放され、ありのままをありのままに見れる方だと思っています。言わば夢から覚めた人=仏陀(呼称)
 今も仏・成仏にまで妄想・妄信・執着(願望)する方が多いと思うのですが、そのような人たちを見たら、ブッダは嘆くだろうなぁなんて
』いう気持ちなったわけです。

佐倉さんの無我論への感想(1)
佐倉さんの無我論への感想(2)
佐倉さんの無我論への感想(3)
佐倉さんの無我論への感想(4)
佐倉さんの無我論への感想(5)』より以下一部抜粋

(1)生まれ変わりの思想

  教えの説かれた前提(転生輪廻)を否定するなら、本質的な部分の解釈も間違ったものになると思います・・・
前回ももうしあげましたが、輪廻思想はインドの民衆信仰であり、その真っただ中にブッダも仏教も生まれたのですから、仏典が輪廻に言及するのは当然です。ただ、仏教教団は、ブッダの思想に本来必要のない転生輪廻や来世信仰を、否定するよりはむしろ利用する方を選んだだけだと思います。中村氏の観察は、「修行者ではない」(?)からではなく、ドグマへの執着がないからだと思います。
初期の仏教教団では、教えの中心はニルヴァーナに達することであったが、在家の信者に対しては主として「生天」の教えが説かれた。道徳的に善い生活をしたら天に生まれるという教えである。施論・戒論・生天論の三つは在家信者に対する教えの三本柱であった。・・・この 天の思想は、仏教独自のものではなく、当時のインドの一般民衆の信仰であって、仏教はそれを教義の中に取り入れたのである。ただ、仏教では、この世界に対してどこかに空間的に存在する天を考えたのではなく、あくまで、絶対の境地を天ということばを借りて表したのであるが、一般民衆は俗信のとおり、死後の理想郷に行かれると信じていたのであろう。・・・後世の大乗仏教における浄土の信仰は、この天の思想の発達した形である。浄土もまた、絶対的な境地を表現したものであり、彼岸とは完成を意味することばであったが、天の場合と同じく、一般民衆には、死後の理想郷と受け取られたのである。
(中村元、再出)

インド仏教にも、たとえば、善いことをすると天に生まれるということをお釈迦さんが説いたという説も、古い文献の中にあるんです。ふつう、それはいわば、あまり教育のない人に善行をしなさいということをわかり易く説明するために「生天」ということを説いたとされています。

(三枝充悳、岸田秀、『仏教と精神分析』、小学館、84頁)

また、仏教が輪廻転生や因果応報を語るとき、バラモン教やウパニシャッドやtakpさんが語るようには語りませんでした。すなわち、仏教は、霊魂(アートマン)の存在を決して認めることなく、輪廻転生や因果応報を語りました。そのうえ、ブッダの思想の特徴は、究極の宗教目的(解脱・涅槃)がいま生きている現実のなかで達成される(た)ところにありますから、中村氏の初期仏教研究も、「仏教では、この世界に対してどこかに空間的に存在する天を考えたのではなく、あくまで、絶対の境地を天ということばを借りて表したのである」という結論になったのだと思います。同様に、三枝充悳氏の初期仏教研究も、

[釈尊は]どこまでも、この現世に生きている一個の人間として、苦を内に抱き、欲望(煩悩)に眼のくらむことはあっても、その苦をそのまま見つめて、その消滅を、そして欲望(煩悩)を自覚して、その超克を、この現実において実現しようとする。そして、理想の境地であるニルヴァーナ(涅槃、絶対のやすらぎ)を、またそれとほぼ同義である解脱、すなわち大いなる自由を天上のどこかに揚げるのではなく、この日常の現実において獲得しようとする。(三枝充悳、『バウッダ』、159頁)

という結論になっています。

ブッダの思想と実践は、輪廻転生や来世や霊魂などのドグマを実体化することなしに成立します。

人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。
(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473〜478頁)

考えてみれば、輪廻思想や生天思想を生んだのは、そもそも、死の恐怖などの苦しみからのがれたい古代人の願望です。しかるに、ブッダは現実において苦しみから逃れる道を示したと言われていますから、輪廻思想や生天思想を想定しなければならない動機そのものが、ブッダの思想の中では、解消してしまいます。そのため、死後の世界について、永遠の魂があるとかないとかを云々する必要性が、自然消滅してしまいます。この意味でも、ブッダの思想と実践が、輪廻転生や来世や霊魂などのドグマを必用としないことがわかります。
ブッダの思想の本質は、人間苦への深い洞察とそこからの解放の道を示したところにあると思います。それゆえに、そのメッセージは、あらゆるドグマを越えて、いかなる世界観を持っていようと、人類一般にアピールする普遍的意味を持ったメッセージとなっているのだと思います。』

 また来世についても、佐倉哲氏の『ある仏教徒の「死後の世界」観』と「死後の世界観から〜7」が非常に参考になると思いますのでリンクさせていただきます。

死後の世界観から
死後の世界観から(2)
死後の世界観から(3)
死後の世界観から(4)
死後の世界観から(5)
死後の世界観から(6)
死後の世界観から(7)』より一部抜粋

(3)関係性と存在

最初にあるのは存在であり、関係性ではありません。父母が最初に存在したからこそ、遺伝子情報という媒体を介して子供との間に関係性が生まれるのです。存在のないところに関係性は生じませんから。

もちろん存在のないところに関係性はありませんが、「最初にあるのは存在であり」そのあとに関係性が生じる、というのは誤解ではないでしょうか。むしろ、すべての存在(すくなくともわたしたちの知っているすべての存在)は始めから関係性の中にあるのではありませんか。
子供の最初の形態を形作ったのは精子と卵子の特殊な関係であり、その精子と卵子はそれぞれもともと父母の体の中にあって、その体の一部として、父母との(部分と全体という)関係を持っていたものです。また、父母の体の一部である精子や卵子を構成する分子のそれぞれは、父母の食べた物質から直接あるいは間接的に作り出されたものでしょう。

そして、ご存知のように、分子とは原子と原子の間の特殊な組み合わせ(関係)のことであって、分子がそれ自体で存在しているわけではありません。その原子も原子核と電子の間の特殊な組み合わせ(関係)のことであって、原子がそれ自体で存在しているわけではありません。また、原子核は素粒子の関係であり、素粒子はクオークの関係であり・・・・という具合で、すくなくともわたしたちの知っているすべての「存在」は、よくみると、すべて関係のことです。

父と母との関係、精子と卵子の関係、体とその構成要素との関係、食べる生物と食べられる物質との関係、物質と物質との関係、等々、一人の人間の存在は、このような複雑で無数の関係に依存して、始めて「生じる」ものです。「最初にあるのは存在であり」そのあとに関係性が生じる、というのは誤解だと思います。
posted by わめ at 11:48| Comment(15) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
存在は関係性があるから存在すると言うのでしょう。

物質が存在するのは、空間との関係があるから物質として認識されるのでしょう。
意識が存在するのは、肉体との関係から意識として認識されるのでしょう。
存在とは、他のものとの対比で認識されるものであり、その対比が関係ということなのだと思います。

ビッグバン理論によると宇宙の始まりはないそうだ。
無から有が生まれたのではないそうだ。
物理学のことはさっぱりわからないが、始まりがないというのはどういうことなのだろう?
始まりがなければ「その前はどうだったの?」と悩む必要がないのだが、それじゃあビッグバンってなんなのだろう?
存在と関係のことを考えていたら、ふとそんなことを思った。

すべては共同幻想か?
でもそれなら共同幻想を見る主体の存在は?
わめさんは難しいことを書くということだけはよくわかった^^;
Posted by 創価瓦解 at 2005年11月11日 00:46
創価瓦解さん、もうすぐおはようですが、こんばんはなわめです。(^^;;

> 存在は関係性があるから存在すると言うのでしょう。

 いえ、そうとばかり言えるかどうかは分かりませんが、私達が知りえる範囲のすべてに置いて、創価瓦解さんの言われるように「存在は関係性があるから存在する」と認知できると言うことでしょう。
 これは私達がその関係性の中に”いる”立場だからそのように認知する(できる)のであって、関係性の外の存在がもしもあったとしたら、その存在からはどのように見える(見えない)かは定かではありません。

うぅ、頭が痛くなるような話は苦手ですのでこれはこの辺でw爆

> 物質が存在するのは、空間との関係があるから物質として認識されるのでしょう。

 空間と言うのが無であるならそこに相対関係は見出せますね。
 でも真空でも無ではないように思いますので、人間の五感(目・耳・舌・鼻・皮膚を通して生じる五つの感覚)からの対比であるように思いますので、実質の相対性とは言い難いように思います。

> 意識が存在するのは、肉体との関係から意識として認識されるのでしょう。

 意識は実体ではなく現実存在でもないのではないでしょうか。
 わめは、肉体(主に脳)に意識というモノを芽生えさせる可能性があり、他者・他物との関係性により意識は”芽生える”ものと考えています。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/1
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1122859737/nt61-62
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1122859737/66

> 存在とは、他のものとの対比で認識されるものであり、その対比が関係ということなのだと思います。

多元(二元論含む)論でなければ人間には認識できるものはないとのご意見には手放しで賛同します。^^

> ビッグバン理論によると宇宙の始まりはないそうだ。
> 無から有が生まれたのではないそうだ。
> 物理学のことはさっぱりわからないが、始まりがないというのはどういうことなのだろう?
> 始まりがなければ「その前はどうだったの?」と悩む必要がないのだが、それじゃあビッグバンってなんなのだろう?
> 存在と関係のことを考えていたら、ふとそんなことを思った。

難しいですね。(^^;
『無からの創造』など参考になるかもしれません。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/L1_05.htm
このページのサイト、吉田伸夫(理学博士)さんの『科学と技術の諸相』は参考サイトリンクにありますので、ボリュームはかなりありますが読んで損はないと思いますよ。(゜▽゜*)ニパッ♪

> すべては共同幻想か?
> でもそれなら共同幻想を見る主体の存在は?

そんなことを考えるのが人間の個々の意識(心・思考・精神等)でありますが、その意識には実体がなく(無我)、あるのはその意識を芽生えさせた生体(肉体)で、その生体は常に変化(無常・有機物←→無機物)しながら存在し続ける関係性(縁起)の個々の彩り(個の存在に見えるもの)なんじゃないかと思ったりします。(書いているわめがよく分かっていませんがw涙)

> わめさんは難しいことを書くということだけはよくわかった^^;

はい、はっきり言えることは、わめはわけわかめw。(_△_;〃 ドテッ!
Posted by わめ at 2005年11月11日 05:28
創価瓦解さんも十分わけわかめかも・・・ヽ( ´∇`)ノ 〜  ヽ(´∇` )ノ オォ!トモヨ!!

> ビッグバン理論によると宇宙の始まりはないそうだ。
> 無から有が生まれたのではないそうだ。

そうですね。^^
寝る前だったのでウトウトしててこのリンクを貼るの忘れてましたw汗
ビッグバン理論
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/L1_04.htm

> 物理学のことはさっぱりわからないが、始まりがないというのはどういうことなのだろう?
> 始まりがなければ「その前はどうだったの?」と悩む必要がないのだが、それじゃあビッグバンってなんなのだろう?

始まりがないと断定はできませんけど、ビッグバン以前から宇宙の素地はあったと言うことですね。
じゃ宇宙の素地はどうしてできたの?って考えていくとやっぱりわけわかめですがw笑
Posted by わめ at 2005年11月11日 16:00
>じゃ宇宙の素地はどうしてできたの?って考えていくとやっぱりわけわかめですがw笑

baby universe というものがあるみたいです。
宇宙の赤ちゃんがいて、我々の宇宙はその赤ちゃんのひとりなんだそうです。
他の赤ちゃんを見ることはできないんだって。
ますますわけわかめです^^;

ねえ、わけわかめってどこで採れるの?
スーパーで売ってないんだけど。
だけどここにはあるんだよな。
Posted by 創価瓦解 at 2005年11月12日 00:00
創価瓦解さん

> baby universe というものがあるみたいです。
> 宇宙の赤ちゃんがいて、我々の宇宙はその赤ちゃんのひとりなんだそうです。
> 他の赤ちゃんを見ることはできないんだって。
> ますますわけわかめです^^;

偶然にも今『無からの創造』の「エネルギーの起源」の箇所、母宇宙・子宇宙・孫宇宙などのお話のところを読んでました。笑
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/L1_05.htm
『 インフレーション理論の応用として興味深いのが、宇宙の多重発生という考えである(下図)。佐藤勝彦によれば、インフレーションの過程は、「母宇宙」から「子宇宙」が出芽するようなものであり、このプロセスで子−孫−曾孫と多数の宇宙が生成される可能性もあるという。こうして数多く生成された宇宙のほとんどすべては、出来たと思う間もなく一瞬のうちに潰れてしまう(スモールバンとスモールクランチ)か、あるいは、あまりに膨張が急激すぎて、相転移で生まれた物質が引力で合体することなくバラバラに飛び散って天体も形成できない宇宙になってしまうと予想される。われわれが生きている「この」宇宙は、無数に存在する短命な宇宙や不毛な宇宙の集まりの中で、きわめて例外的に多くの天体と生命を宿す豊穣な世界なのかもしれない。こうした考えは、哲学的にある種のインパクトをもたらすかもしれないが、いまだ、科学者の支持を集めているとは言い難い。 』

> ねえ、わけわかめってどこで採れるの?
> スーパーで売ってないんだけど。
> だけどここにはあるんだよな。

わけわかめは、ワカメの種類じゃないもんw

わめみたいな人のことを”わ”けわか”め”と呼ぶのです。(*゜▽゜*)

んで、こんなわめにお付き合いしてくれる創価瓦解さんも、きっと”わ・・・め”のお仲間だろうとw爆
Posted by わめ at 2005年11月12日 00:17
こんにちは。わめさんは、よほど輪廻がお嫌いなのでしょうね。小生も嫌いです。だから解脱したいのです。

仏教は、輪廻からの脱出法を説いた教えです。だから、輪廻がないならそもそも仏教は成り立たない。死んで全てがENDになるなら、欲を捨てる努力なんて不要なんです。

よろしければ、参考になさってください。
http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/essay.idx.html
Posted by 須磨の空 at 2006年08月15日 14:16
 須磨の空さん、初めまして。^^
 私の表現力不足からか、須磨の空さんには誤解を与えてしまったようです。涙
 この記事で言うところの輪廻説とは、仏教以前のバラモン・ウパニシャッド哲学でいうところの輪廻、現代人も一般的に持つ概念の、死んでもまた別の体を持って自分(我)は生まれ変わるというイメージの輪廻です。
 そしてこの記事は、そのような輪廻をブッダは説かなかったとの見解の引用や、私の見解を示しました。

 従いまして、須磨の空さんの思われる輪廻は、仏教解釈としての輪廻であるように思いますが、意識(我)の捉え方は現代では一般的でないかもしれませんが、遺伝(DNA)=輪廻との捉え方ならば輪廻は”ある”と言えそうに思います。
 私も、意識(我)は除外して、物質面での輪廻は”ある”と記事でも書いています。

 この点も踏まえ、「バラモン・ウパニシャッド哲学でいうところの輪廻説」=「現代人が一般的にイメージする輪廻」は「仏教の教えではない」と結論付けました。

 ただこの須磨の空さんの”遺伝(DNA)=輪廻”の見解や、私の”物質面での輪廻”の見解が、仏教的に認める(教える)輪廻かどうかは、今のところ私には分かりませんし、私は興味も涌きません。汗

 ってことで改めてお返事させていただきます。^^

> こんにちは。わめさんは、よほど輪廻がお嫌いなのでしょうね。小生も嫌いです。だから解脱したいのです。

 いえいえ、意識(我・記憶)が残る輪廻があるとするならば、私は嫌いどころか望むところです。死んで終わりというのは怖いですし、悲しく思いますから。
 もちろん、意識(我・記憶)が残る輪廻があるなら、解脱など何が何でもしたくはありません。笑

> 仏教は、輪廻からの脱出法を説いた教えです。だから、輪廻がないならそもそも仏教は成り立たない。死んで全てがENDになるなら、欲を捨てる努力なんて不要なんです。

 このような考え方をされる方もおられますし、記事中の佐倉氏のリンク先のお相手のお二方も似た考え方かもしれません。
 (記事中リンクの『死後の世界観から』の笠原 祥さんに、須磨の空さんはより近い見解をお持ちのように感じました。)

 私は佐倉氏の見解や、記事中引用の(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473〜478頁)のように、死後も存在しようがしまいが仏教は成り立つと思っております。

 私は「輪廻がないならそもそも仏教は成り立たな」くても一向に構わないですが、「バラモン・ウパニシャッド哲学でいうところの輪廻説」=「現代人が一般的にイメージする輪廻」は、根拠も事実もなく、そのような輪廻が”ある(常見)”とか”ない(断見)”とかを信じてしまうことは、愚かなことだと思っていますし、このことをこの記事で、私がもっとも言いたかったことでもあります。

 コメントありがとうございました。
Posted by わめ at 2006年08月15日 15:37
わめさん、早速のレスありがとうございます。

>意識(我・記憶)が残る輪廻があるなら、解脱など何が何でもしたくはありません。

まぁ、それが俗世間の人々の偽らざる心情でしょうね。しかし、生きることに飽きてしまった小生には、輪廻は「苦」でしかありません。修行を始めた動機はまさにそれです。

しかしながら、輪廻の有無は確かめようもないことですし、そんなことで悩んだり、不毛な議論をするのはバカのすることです。真偽は「棚上げ」にして、「今なすべきことをなす」というのが正しい生き方でしょう。

要は、万一輪廻があったとしても困らない生き方(心を清らかにする努力をする)さえしておけば、今世でも来世でも幸福になれるということです。

ありがとうございました。
Posted by 須磨の空 at 2006年08月15日 16:19
 須磨の空さんこそレスが速い! こんにちは。^^

> 生きることに飽きてしまった小生には、輪廻は「苦」でしかありません。修行を始めた動機はまさにそれです。

 そうなんですか。(´・ω・`)ショボーン
 でも生きてていいことだってたくさんあると思いますよ。
 って自分の思い方次第ってことですけど。汗

> 真偽は「棚上げ」にして、「今なすべきことをなす」というのが正しい生き方でしょう。

 真偽の問えない(反証不可能な)ことは「棚上げ」にして、「今なすべきことをなす」、いいですね。^^
 私もそれが正しい生き方だと思います。(⌒∇⌒)

> 要は、万一輪廻があったとしても困らない生き方(心を清らかにする努力をする)さえしておけば、今世でも来世でも幸福になれるということです。

 私はもう幸福など求めてもおりませんが、心を清らかにする努力は大切に思います。

 ひねくれた考え方かもしれませんが、来世があって、来世に生まれたとしても、今世を憶えていないわけですから、来世での幸不幸の原因を今世での行いにあると考えるのも一つの思い込みに過ぎないと私は考えたりするのですが、このような考え方は、「じゃ今世で何やっても構わない」との短絡的な考え方を助長する恐れもありますので小声で言っておきます。笑

 ただ、現代では、宗教的倫理・道徳観で人の行いを正していくというのはかなり無理があるように思います。
 宗教的倫理・道徳観に代わるものとして、私は科学的方法論の重要性を考えております。

 須磨の空さん、今後ともよろしくお願いいたします。ぺこ <(_ _)>
Posted by わめ at 2006年08月15日 16:45
>わめさん、ご無沙汰しております。輪廻転生についてのお話のようですね。ところで、わめさんは、この輪廻転生について、何か悩んでおられるのでしょうか?
Posted by マターリ at 2006年08月19日 10:43
 マターリさん、こんにちは。^^

> ところで、わめさんは、この輪廻転生について、何か悩んでおられるのでしょうか?

 私が悩んでるということはないです。汗
 ただ、いまだに輪廻思想が本来の仏教の教えである(三世の生命とか)と勘違いされている方も結構おられるようで、それは勘違いであることを、引用とリンクを追加し改めて記事にしたということです。
Posted by わめ at 2006年08月19日 12:05
>わめさん、レスありがとうございます。私は輪廻とという事を、ほとんど考えたことがありません。考えると心理的に暗くなるからだと思います。

しかし超常現象としての「転生」については関心があります。生まれ変わりですね。

原始仏経典である、スッタニパータを見ると、確かに輪廻という考え方は無かったと思います。釈尊は、リアリストであり、霊・宇宙など目に見えない世界の事は言わなかったと思います。
Posted by マターリ at 2006年08月19日 21:07
 マターリさん、おはよう。^^

> 私は輪廻とという事を、ほとんど考えたことがありません。考えると心理的に暗くなるからだと思います。

 そうですか。
 以前の私は考えるというより、来世はあるものと信じ切っていました。汗
 そういや法華経には現世安穏、後生善処なんて書かれてありましたもんね。(^▽^;)

> しかし超常現象としての「転生」については関心があります。生まれ変わりですね。

 転生と言えば私はチベット仏教のイメージが強いですが、お金持ちの氏族に施主となってもらうこと、また、施主を離れさせないために転生活仏制度が考えだされたとのこと。
 超常現象に関わる人たちとお金の関係はよく分かりませんが、疑似科学なども金目当てに考え出されたりするのかもしれませんね。
 私は超常現象や疑似科学にはあまり興味が湧かないですが、SFドラマは大好きです。
 最近だとスターゲイト ATLANTISやSG-1、LOSTや4400未知からの生還者など観てます。^^
Posted by わめ at 2006年08月20日 09:23
死後の世界とか、宇宙の果てとか、人の心とか、
世の中にはわからんものがたくさんあって、
わからない、ということは、人は結構嫌なことや不安なことなのかもしれない。

わかる、ということが、人間は楽しかったり、快感なのかもしれない。

だから、そこに何か意味を見出そうとするのが、
人間のクセなのかもしれない、と、意味づけてみる。

意味があるかもしれないし、ないかもしれない。

ただ、こういうことを考える時ってのは、おなかがすいている時はできないですね。
もう、何食べよう?で頭も心も埋め尽くされています。

ネット少し離れてたら、すでに浦島太郎です。
ふぁふぁふぁふぁ。
Posted by みれい at 2006年08月27日 19:02
 みれいしゃん、こんばんは。^^

> わかる、ということが、人間は楽しかったり、快感なのかもしれない。

 そうでしょうね。
 でも分かれば分かるほど、わかんないことが増えていくのが現実のこの世界でしょうね。
 いずれ分かるかもしれないと知識を増やしていくのも楽しいことかもです。(^-^)

> だから、そこに何か意味を見出そうとするのが、
> 人間のクセなのかもしれない、と、意味づけてみる。

 何か意味を見出そうとするのが、佐倉氏の言われる「人間側の勝手な実存的要請」なのかもしれませんね。
 人間社会の仕組みはともかく、人間側の実存的要請などに関わりなくこの世の中はあるわけで、それでも何か分かった気になりたい、自分の存在は意味のあることであって欲しいと、多くの人は願うものともいえそうです。

> 意味があるかもしれないし、ないかもしれない。

 行き着くところはこの辺りだと私は思いますが、このように思うことにイライラを感じる方もいるかもですね。汗

> ただ、こういうことを考える時ってのは、おなかがすいている時はできないですね。
> もう、何食べよう?で頭も心も埋め尽くされています。

 人間誰しも生理的欲求には弱いですね。(^^;
 この辺を考慮(理解)すると禅的思考?で笑みもこぼれそうな感じかも。(*´∇`*)

> ネット少し離れてたら、すでに浦島太郎です。
> ふぁふぁふぁふぁ。

 浦島みれいではおばあちゃんになってしまいますよ。笑
Posted by わめ at 2006年08月28日 20:33
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輪廻からの解脱こそ仏教の目的
Excerpt: 正直なところ、ブログなんて面倒だと思っていました。でも、昨今の「釈尊は輪廻を否定した」的な論調が優勢になってきているのを看過できなくなり、及ばずながら俗世間に対して少々発言させていただくことにしました..
Weblog: 「いま、ここ」を生きる
Tracked: 2006-09-09 11:45
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