2005年11月03日

TVドラマ 女王の教室

 先日このドラマ、『女王の教室』を観た方から、とってもよかったからと薦められ、一気に観てしまいました。

 いいドラマでした。^^
 機会がありましたら、是非皆さんにも観ていただきたいドラマです。っていつものフレーズだなw笑

 1〜2話目までは、担任が鬼女性教師のイメージで、反感と恐怖心を持っていた生徒達が云々の展開で予想通りって感じでしたが、まぁこの展開は新鮮でもあり、観る気を削がれる事もなく観ることできました。

 何がいいって・・・ 小学6年生と先生とのお話ですが、最終回の卒業の頃のこの生徒達はもう大人顔負け、と言うか、下手な大人は負けてるくらいに人間的に成長できてます。

 特に最終回ですが、宗教に囚われている方には耳が痛い話だろうけど、先生の最後の生徒に向けてのお話は超圧巻です。(最終回本編26分20秒頃より)

 詳しくは観てのお楽しみに取っておきますね。(⌒∇⌒)

 でも超圧巻の先生の最後のお話(名セリフ)は、番組製作スタッフの心意気というか、よくぞ公共の電波に、宗教批判とも取れる(そうとしか取れないw爆)セリフを流してくれたとの思いから、追加でそのセリフだけでも書くかもしれません。

 ***追記*** 名セリフを載せますね。^^

 いい加減目覚めなさい。人生に不安があるのは当たり前です。
 大事なのはそのせいで自信を失ったり、根も葉もないうわさに乗ったり、人を傷つけたりしないことです。


 たとえば、人間は死んだらどうなるかなんて、誰にも分からない。
 言うとおりにすれば天国にいけるとか、逆らえば地獄に堕ちるとか言う人がいますが、あんなものはデタラメです。
 誰もいったことがないのにどうして分かるんですか?
 分からないものを、分かったような顔をして、無理に納得する必要なんかないんです。


 それより、今をもっと見つめなさい。イメージできる?
 私達のまわりには、美しいものが一杯溢れてるの。
 夜空には無数の星が輝いているし、すぐそばには、小さな蝶が懸命に飛んでいるかもしれない。
 街に出れば、初めて耳にするような音楽が流れていたり、素敵な人に出会えるかもしれない。
 普段何気なく見ている景色の中にも、時の移り変わりで、はっと驚くようなことが一杯あるんです。
 そういう大切なものを、しっかり目を開いて見なさい。
 耳を済ませて聞きなさい。
 全身で、感じなさい。
 それが生きているということです。

 今はまだ、具体的な目標がないのなら、とにかく勉強しなさい。
 十二歳の今しかできないことを一生懸命やりなさい。
 そして、中学へ行きなさい。
 中学に行っても、高校に行っても、今しかできないことは一杯あるんです。
 それをちゃんとやらずに、将来のことばかり気にするのはやめなさい。
 そんなことばかりしていると、いつまでたっても、何にも、気づいたりしません。
posted by わめ at 00:02| Comment(20) | TrackBack(2) | 動画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わめさん、こんにちは。 (ぜん) 2005-11-03 10:55:17

昨日はどうもです。

小学校の高学年にもなると、ホントに大人顔負けの言葉も飛び出しますし、はっきりと自我を持って行動しているのが分かります。

体も大きいですしね。

こどもの学校の体育祭などに行くと同級生で身長が170センチオーバーも決して珍しくないのです。

私がこどもの頃は5〜6年生で160センチはおおきい方だったんですが。

最終回は見逃してしまったんですよね・・。
その台詞、聞きたかったな〜。

ひょっとして、自分の頭で考え自分の意思で動く・・・みたいな事?






ぜんさん (わめ) 2005-11-03 16:11:17

> 小学校の高学年にもなると、ホントに大人顔負けの言葉も飛び出しますし、はっきりと自我を持って行動しているのが分かります。

あんな先生が沢山いたら、この子達が大人になったらいい世の中になるかもしれません。^^

> 私がこどもの頃は5〜6年生で160センチはおおきい方だったんですが。

わめなんて、今でも160ちょいしかありません。汗 もう伸びないよね。涙

> 最終回は見逃してしまったんですよね・・。
> その台詞、聞きたかったな〜。

んじゃ、セリフを記事追加しますよ。 しばしお待ちを。☆^∇゜) ニパッ!!

> ひょっとして、自分の頭で考え自分の意思で動く・・・みたいな事?

そのようなことを言ってましたが、それはズバリ宗教批判に聞こえないでしょ?(^^;

お楽しみに♪






わからないこと (創価瓦解) 2005-11-03 17:24:54

こんにちは

ドラマの類は見ないのでドラマ自体については何も言えませんが、書かれたことについてコメントします。

「わからないことを”わからない”とする」ことの重要性というのがあると思います。
人には「納得したい」という気持ちがどこかにあり、わからないことでも「○○じゃないかな」と思って勝手に納得するというのがあると思います。

それはそれでいいのですが、問題なのは「個人的な納得を一般化すること」だと思います。
世間話や躾のうえで「そんなことをすると地獄の閻魔様に舌を抜かれるよ」というのはいいけれど、真剣に死後のことを語るのであれば「○○と思うが、本当にはわからないよね?」ということになると思います。
「わかったつもりでいること」「わからないのは恥かしいこと」という意識に囚われると、自己流の納得と一般的説得力の区別がつかなくなります。

科学では、わからないことに仮説を立てることはしても、あくまでもそれは事実ではないのです。
ビッグバンだって、あくまで「有力な」仮説であって、事実ではないのです。

ところがやっかいなのが宗教です。
何千年もの歴史の中で様々に死生観が語られ、各宗派の中ではそれは正しいことなんだろうが、それが一般的な説得力を持つものではないということを認識してない信者がいることです。

科学では仮説を事実として話をするのをトンデモという区分をすることで、ちゃんと「わからないこと」が明らかになってます。
しかし宗教は「信じるか否か」の世界なので、わからない者が「信心が足りない者」「可哀想な人」などという区分をしてしまいがちです。

そもそも「わからないことに説明をつけるのが宗教」なのだが、それはあくまでも「解釈であって事実ではない」ということであり、そこの認識の欠落は非常にまずいのです。
おおいなる仮説であることを無視するから二元論・排他性を生み、そして「わからないことはいけないことだ」ということになるのでしょう。

わからないことをわからないこととして認めることが、寛容で自由な世界には必要だと思います。







わめさん、サンクス! (ぜん) 2005-11-03 20:47:13

&GJ!!

ジックリ名台詞を堪能させて戴きます。






・・・って、 (ぜん) 2005-11-03 20:50:51

まさにソレを指している様にしか聞こえないぢゃないっすか!!

う〜〜ん。冠スポンサーはドコだったのか?

これって宗教系のスポンサーならクレームもんですね〜〜。
Posted by コメントリンク at 2005年11月05日 02:14
Re: わからないこと (わめ) 2005-11-04 13:12:00

創価瓦解さん、コメントアリガト!(´▽`)

> 「わからないことを”わからない”とする」ことの重要性というのがあると思います。

 わめも重要だと思います。^^
 ブッダもある形而上学的な事柄について、無記を貫いたとされますが、それは単にわからないから答えなかったのではなく、「答えない」と言う重要な宣言をされたのだと思います。

 「答えない」と宣言(無記)することは、ある形而上学的な事柄について”ある”とする見解も、”ない”とする見解も、どちらをも痛烈に批判する見解で、創価瓦解さんの言われる「わからないことを”わからない”とする」ことの重要性を現されていると思います。

 宗教は好きになれないわめですが、ブッダの残された言葉の中には、学ぶべき点も多いと思うわめです。

> 科学では、わからないことに仮説を立てることはしても、あくまでもそれは事実ではないのです。
> ビッグバンだって、あくまで「有力な」仮説であって、事実ではないのです。

これは、事実かどうかはわからないから仮説なのですね。(^^;

あらまし、創価瓦解さんと意見を異にするところはありません。

> おおいなる仮説であることを無視するから二元論・排他性を生み、そして「わからないことはいけないことだ」ということになるのでしょう。

 二元(多元)論自体に排他性はないと思いますが、ここでは善と悪とに二元化し、宗教的尺度で悪を排する思考を批判して述べられているわけですね。(誤っていたらご指摘をお願いします)

 むしろ一神論や絶対者をたてる一元論が、その宗教の教えのみ正しい(一元)とする見解で、他を認めない排他性があると思います。

 って、創価瓦解さんとは以前あきあこさんのコメント欄でお話し、理解しあっていると思いますので、読み手の誤解を避けるために書かせていただきました。m(_ _"m)ペコリ

> わからないことをわからないこととして認めることが、寛容で自由な世界には必要だと思います。

 わからないことを知りたいという人間本来の欲求?や、わからないままでは不安・恐怖が、人間にはあるのかもしれませんね。

 しかし、創価瓦解さんの言われるように、わからないことをわからないと、勇気・覚悟を持って認めていくことが大切であると思います。






ぜんさん (わめ) 2005-11-04 13:14:47

> まさにソレを指している様にしか聞こえないぢゃないっすか!!

やっぱりぜんさんもそう思いました? o(*^▽^*)oあはっ♪

この先生の生徒に送る最後のお話を、生徒達が泣きながら真剣に聞き入る姿は素敵でした。






わからないこと (三九郎) 2005-11-04 13:22:58

こんにちわ〜

わからないことをわからないと認識できて、
考えることがはじまるんですよね〜。

わからないことをわからないまま、
わかったようになってることもわからない。あれっ

そんなんまわりにいっぱいいてるような…








三九郎さん (わめ) 2005-11-04 13:39:34

三九郎さんこんにちは^^

> わからないことをわからないと認識できて、
> 考えることがはじまるんですよね〜。

 考えることに代えて、宗教の教えを信じることで思考停止してしまう人が多いと思います。

 赤子は何も分からず乳を飲んで育ちますが、信仰者の方は、この生まれたばかりの赤子のままを続けたいようで、日蓮さんの言われる四信五品抄の初品のままで成長がないようです。涙

ああw また三九郎さんに難しく思われることを書いてしまったw汗

> わからないことをわからないまま、
> わかったようになってることもわからない。あれっ

ヽ(~〜~ )ノ ハテ? 盲信者のことかな・・・?

> そんなんまわりにいっぱいいてるような…

本人達は、社会の重荷・癌になっているとは思ってないのでしょうね・・・泣






ああw (三九郎) 2005-11-04 14:03:29

わざと難しくしてへん?






いえいえ^^ (わめ) 2005-11-04 15:14:33

> わざと難しくしてへん?

決して三九郎さんだからと難しくしているわけじゃないです。σ(^_^;)アセアセ...

読み手を意識して、三九郎さんの鋭いコメントを生かそうかと思ってのことで。笑






ははっ (三九郎) 2005-11-04 15:40:48

でも、実際隣の女子部とかによく言うんですよ。

打合せのときに、なにを質問なり確認をしたらええか、
分かってないときが多々あるから。

わかってないことがわからんねんから、
なにも質問が出てきやへんのや。
まずわかってないということをわかって、
なにがわかってないかを考えて、 
わかってないことがなにかがわかったら…あれっ?


Posted by コメントリンク at 2005年11月05日 02:15
わめさん、三九郎さん。 (ぜん) 2005-11-04 18:12:37

宗教=赤ちゃんプレイ論ですか!・・・ってち、違った?

考えるな!ってよく宗教の人は言うけど、それって赤子の状態が都合が良い人の論理かと思ったら、自ら望んで「赤ちゃん」になる人も居るみたいで・・・。

う〜んん。相互依存というにはあまりに・・。






三九郎さん (わめ) 2005-11-04 22:45:09

まずは自己レス

> 本人達は、社会の重荷・癌になっているとは思ってないのでしょうね・・・泣

これは我ながら言い過ぎかなw汗 わめの重荷にはなってますがw

> わかってないことがわからんねんから、
> なにも質問が出てきやへんのや。
> まずわかってないということをわかって、
> なにがわかってないかを考えて、 
> わかってないことがなにかがわかったら…あれっ?

_(^^;)ツ アハハ 言いたいことはわかります。

でも本人が不都合を感じてないのなら、それはそれでいいのかもしれません。

わめがブログで書いている信仰に対しての警告のようなものも、信仰者に取っては大きなお世話なのかもしれませんね。

何だかさみしいけど・・・(´・ω・`)ショボーン






ぜんさん (わめ) 2005-11-04 23:03:19

> 宗教=赤ちゃんプレイ論ですか!・・・ってち、違った?

多かれ少なかれ宗教を信仰するということは、”信”を重視するわけで、疑問を持つことに罰が当たるという恐怖心が働いている場合が多いように思います。

> 考えるな!ってよく宗教の人は言うけど、それって赤子の状態が都合が良い人の論理かと思ったら、自ら望んで「赤ちゃん」になる人も居るみたいで・・・。

まぁ法華経を依経とする団体の、教義的にもその部分である”以信得入”が強調されるわけですが、「以信得入、以信代慧」は法華経比喩品第三のセットな偈文なのですが、信を以って智慧に代えていくという作業が、疎かになってしまっているように感じます。

法華経信仰では、信⇒智慧⇒悟りだと思うのですが、信⇒「悟り・成仏・絶対的幸福」へ、つまりは赤ちゃんのまま「悟り・成仏・絶対的幸福」を得ようとする短絡的な信仰姿勢ではないかと感じます。






初めてお邪魔します (ナウシカ) 2005-11-05 11:08:55

私も『女王の教室』最後まで観ましたが、確かにあの先生が吐くセリフには唸るものがありました。
(えっうちらのこと言ってる?)って感じに…

だけど最終回まで観た私の感想は、ちょっと違います。
やり過ぎともとれる先生の体罰?イジメ?それが最後には生徒に気づかせて、『先生愛してます』まで言わせるようになる。
これって本当に良い教育と言えるでしょうか?
途中までは、いいとも悪いとも思えなかった私ですが、最後まで観て、これはやはりちょっと問題じゃないかと思えました。

セリフは確かにいい、学ぶべきメッセージがたくさんありました。
それはそれでいいんですが、あくまで教師と児童って見た場合、あれでは中身は違えども、戦時中の教育と何ら変わらないのではないかと。

ここ最近の教育番組(歴史物のバラエティー)を見てると、軍国主義を密かに推し進めてる「歴史教科書を考える会」が絡んでいます(らしいです)
さも今までの教えは間違っていて、実はこうだったみたいな、その中に密かに愛国心を培うような、そんな内容が織り込まれていて、しかもそれがパッと見、わからない。
私は薄気味悪いものを感じてしまいます。

『女王の教室』も内容はまぁまぁ良かったのに、そういったことが少し感じられて、後味は悪かったです(あくまで私個人の感想です)

管理人さん、せっかくあの番組の良い評価をされていたのに、水を注すようなことを書いて、もしご気分を害されたらすいません







こんにちわ (三九郎) 2005-11-05 12:34:36

ナウシカさん、はじめまして。

たしかにやりすぎかな〜って感じもしましたが、
でもあれが今の日本人に絶対的に欠けてる部分じゃあないかなあ?
良い教育なんて誰にもわからないんじゃないですか?
牧口さんがそれを統計的に纏めようとしてたんじゃなかったっけ?

でも、少なくともこどもの自主性を尊重とかは失敗だったって、
みんな気付いてるんやろね。

すみません、はじめてでわけわからんコメントで、
わめさんとこ来たらようわけわからんなるんですわ〜


Posted by コメントリンク at 2005年11月05日 02:16
  (わめ) 2005-11-05 13:11:38

 ナウシカさん、初めましてなわめです。^^

 ナウシカさんの感想、わめにも頷けるものがあります。

 その意味でもこのドラマ、よくできていると思いましたよ。

 この先生を除けば、このドラマは社会・教育の現場を意外とリアルに伝えるものがあったと思います。

 そしてこの先生も再教育センターなるものに2年間も送られていて、ナウシカさんが思われたように、ドラマの中でもやり過ぎ・問題となり、また今回の件でも再教育センターに送られるということになり、わめはこれを教職員・クラスの生徒全員でそれを阻止するのかと思いきや、何の行動も起こさずこの先生は再教育センター送りになる。

 またこの教師の教育方針が受け入れられず、またこの教師自身も「自分が素晴らしい教師だなんて一度も思ったことがありません。どんな教師を素晴らしいと言うのかさえまだわかりません」と言っているように、本人自体が未だに模索しているわけです。

 ナウシカさんが思われたことは、愛国心を培うような内容が織り込まれていると感じることを除けば、このドラマの中で演じられています。(わめも愛国心云々は感じませんでした)

 結局のところ、社会・教育現場で、このような先生は受け入れられなかった。でも生徒を何より第一に考えるこの先生の教育姿勢の在り方は、他の先生たちに影響を与え、良い面はアレンジされ生かされていくとことになるのでしょう。

 ということで、このドラマは理想の教師像を描いたものでもなく、視聴者に後味の良い、また手放しの清々しさを与えるものでもなかったように思います。

> 管理人さん、せっかくあの番組の良い評価をされていたのに、水を注すようなことを書いて、もしご気分を害されたらすいません
>
 いえいえ、このように捉えるわめですから、ナウシカさんとまんざら違った評価でもないように思いますが、人それぞれ感じ方が違うのは当然です。

 わめは、同じ評価・価値を持とうとする考え方には異を唱える者ですから、ナウシカさんのご意見は貴重でありがたいです。^^



三九郎さん、サラッと含蓄のあるご意見をアリガト!(´▽`)

> すみません、はじめてでわけわからんコメントで、
> わめさんとこ来たらようわけわからんなるんですわ〜

でも、これは言い訳にしか聞こえんw笑






おおっ (孫悟海) 2005-11-05 19:36:19

わめさん、今晩は〜。

ブログ・デザイン替えたんですね。明るくなりました。笑

あきあこさんとこのブログはクリスマスバージョンに替わっていますよ。

あっ、それと御紹介頂いたお坊さんのサイトは拝見しました。
良サイトですね。

それでは。







ありゃっ (孫悟海) 2005-11-05 19:37:49

ブログ・デザインが元に戻ってる。

???

それでは。







孫悟海さん、タイミングがすごい! (わめ) 2005-11-05 19:43:34

> ブログ・デザイン替えたんですね。明るくなりました。笑

ほんのちょっとの時間だったのにウォッチされちゃいましたね。(6 ̄  ̄)ポリポリ

> あきあこさんとこのブログはクリスマスバージョンに替わっていますよ。

(*’ー’)(,,*)(*‘∇‘)(,,*)うんうん

> あっ、それと御紹介頂いたお坊さんのサイトは拝見しました。
> 良サイトですね。

☆^∇゜) ニパッ!!






わめさん (ナウシカ) 2005-11-06 23:05:43

温かいお返事ありがとうございます♪
いきなり、あんなコメントをつけて、実はどんなお返事が返ってくるか、ちょっとドキドキしてました

まぁ〜あの教師が吐くセリフには、私も共感を覚えることが多くて、それはそれでいいなとは思っていたんですよ。
だけど、あのドラマを観た人の中で、あんな教師がいて、子供たちもあんな風に育ってくれたらいいのにと言う人がいて、私は総体的には評価できないと思っていたので、ちょっと、その辺が気がかりやったんですよ。

子供はわがままで、なかなか大人の思うようには動かんもんやで〜と思っていたし、またそうでなかったら、子供らしさがないと思ったので…
抑圧されたり、もしくは統制された教育って、単純に怖いとも思ったので







みなさん、こんばんは。 (軒ちゃん) 2005-11-07 01:13:15

わめさん、TBありがとう。私もさせてもらいました。

このドラマ、私はかなり良いと思います。

多くの方のコメントを伺って感じましたが、、宗教の教義でわからないことについては、科学の世界で共有された方法論で検討する、というのが私の立場、いや半分、仕事です。

科学するというのは、外国や日本の有名な学者がどう言った、こう言ったというものではありません。そういうのはまさに「本部幹部会同時中継」や聖教新聞のスタイルと同じです。

物理法則の研究や細菌の研究と同じように、宗教の教義は研究されるべきです。中世ヨーロッパでは、キリスト教の教義が、自然や社会の多くの現象を説明していました。これに反する多くの地道な研究があったからこそ、近代科学は進歩を勝ち得たのです。勿論中には勘違いもあったにせよ、です。
ですから私は、宗教は信じるものであり、事実かどうか確かめるものではない、などという意見を言う人は、何らかの恐れがあって、科学の進歩を妨げようとしているのではないか、と感じることがあります。

勝手な方向に論を進めてしまってすみません。
Posted by コメントリンク at 2005年11月07日 02:16
こちらのお引っ越しされたんですね。
お疲れ様ですm(__)m

私、三九郎さんもコメントをつけてくれていたのに…すいません、スルーした形になって(;.;)
ちゃんと読んでいたんですが…

確かに良い教育って、どんな教育かってわからないですよね。
日本は特に、この教育が疎かになりがちな国のような気がしてます。

子供を持つ親としては心配だし、そういう私も自分の子供に、どのように躾などしていくかは迷うことが度々あります。
親の背中を見せるべきだと言っても、これもなかなか難しい(-_-;)
子供云々言う前に、自分がしっかりせぇ〜って感じですが(;^_^A

Posted by ナウシカ at 2005年11月07日 08:14
(;´ρ`)イマオキタヨ

ナウシカさん、軒ちゃん、寝起きで頭がぼけてますw汗 あとでちゃんとお返事しますね。^^

ここはコメント編集できるのもいいところだにゃ。(⌒〜⌒)ニンマリ

軒ちゃん、せっかくTBもらったのにブログお引越ししてしまいました。(^^;;
Posted by わめ at 2005年11月07日 11:13
ナウシカさん

これからも、思ったことは遠慮なさらずにコメントくださいね。^^

現実的にあのような教師はいないでしょうし、いれば生徒・父兄・他の先生達の反感をかって何らかの処分を受け、教育方針を変えるか、教師を辞める以外に道はないのではないでしょうか・・・

ただ、あの教師に対する評価は人それぞれ様々でしょう。

わめも言動には問題があると思いますが、それでもあの教師の生徒を”本気で育てる”との思いは、実際の教育現場の先生方にもしっかり持っていただきたいと思いました。

わめがこのドラマを記事にした理由は、現状の社会の問題点を子供達に突きつけて、どのように今後生きていくのがいいかを説いている点です。

この点わめ自身が、どう生きていくのが理想かが、はっきりと分かっていないからかもしれません。

そしてわめもまたこの教師のようにそれを模索中でもあります。
Posted by わめ at 2005年11月07日 12:57
軒ちゃん

> わめさん、TBありがとう。私もさせてもらいました。

勝手に引っ越して言うのもなんですが・・・w
こちらにもTBホシィッ☆O(> <)o☆o(> <)O☆ホシィッ

宗教の教義が近代科学の進歩に影響を与えた。 うーん、確かにそうかもしれません。

> ですから私は、宗教は信じるものであり、事実かどうか確かめるものではない、などという意見を言う人は、何らかの恐れがあって、科学の進歩を妨げようとしているのではないか、と感じることがあります。

同感です。 信じることで納得すると言うのでは、科学の進歩も社会の発展もないように思います。
まして自らが信じるもの・価値観を、他者に押し付けことなどはあってはならないことだと思います。

> 勝手な方向に論を進めてしまってすみません。

いえいえ、軒ちゃんらしい切り口のご意見、わめも大いに考えさせられました。^^
Posted by わめ at 2005年11月07日 13:13
こっちにコメントすればよかったんだ。
「ブログ移転します」をよく読まずに、あっちに書いてしまった・・・間抜けでした^^;

同じ文章をここにも書いておきます。

軒ちゃん 、こんにちは。

>宗教は信じるものであり、事実かどうか確かめるものではない、などという意見を言う人は、何らかの恐れがあって、科学の進歩を妨げようとしているのではないか、と感じることがあります。

これがよくわかりません。
宗教的事実というのはありますが、それは解釈の問題だと思います。

さて、実のところ科学も根本の部分には「信じること」があります。
例えば数学で公理というものがありますが、これは「証明はされてないけど、これを認めないと数学が成立たない!」というもので、これはもう「信じることにする」ということになってます。(だから非ユークリッド幾何学のようにユークリッド幾何学の公理を否定してみたところから成立つ学問もあるのです)
しかし、公理から先は「信じること」ではなく事実の観察と検証です。

そもそも科学と宗教が区別されるようになったのはそんなに古いことではない。
科学という言葉がいつ生まれたのかは知らないが、不思議現象を解釈する中で事実に基き論理性と検証で不思議の仕組みを解明するものが科学として区別されるようになったのだと思う。

>中世ヨーロッパでは、キリスト教の教義が、自然や社会の多くの現象を説明していました。これに反する多くの地道な研究があったからこそ、近代科学は進歩を勝ち得たのです。勿論中には勘違いもあったにせよ、です。

まさにその通りで、そこから区別が生まれたんだと思います。
科学と宗教が区別されて以降について極端に言うと「科学は事実であり宗教は解釈である」ということだと思う。
事実を基にする科学は、そこで明らかにされ法則には適用範囲・成立条件があり、勝手な解釈というのは成立たない。
不明なことに仮説を立てることはかまわないが、それはあくまでも仮説であり、法則とはならない。
検証されて初めて法則となる。
そういう意味では解釈の自由度はない。

一方宗教はと言うと、事実を「どう解釈すると説明がつくか」ということを述べるものであろう。
だから、適用範囲も成立条件も自由に決めることができ、ある事実に対して様々な解釈ができるのである。
そういう意味では解釈の自由度は無限である。

そうなるとどの教義(解釈)が正しいかということは、一に「どれを信じるか」にかかるのである。
そして「我らこそ唯一絶対正しい」と主張して賛同者を増やすために「正当性を主張する解釈を展開する」ことになるのだ。
だから熱心な信者にとっては「正しい」ことであり、興味のない者にとっては「おかしなこと」になる。
そういう中で「宗教で救われる人」も出てくれば「宗教で苦しむ人」も出てくる。

科学が発達した現代では、宗教は倫理観の点で果す役割が最も大きいのではないかと思う。
不思議現象の解釈をするのはいいが、解明は科学の手に委ねるのがいいだろう。
クローンなどの研究において、その応用が及ぼす影響というものを倫理面で検討する必要が求められており、そういう点で宗教は一定の(「万能の」ではない)役割を果すことができる。
もはや「唯一正しい生き方の指針」などというのは、個人レベルではかまわないが、社会レベルでは寝言なのである。

宗教は解釈であり、信じるかどうかが基本であり、事実確認が本分ではない。
そう捉えるのは、何らかの恐れがあって科学の進歩を妨げようとしているのではない。
区別の問題であって優劣の問題ではなく、役割が違うと言いたいのです。
科学は万能ではないし、宗教も万能ではない。
しかるに「この教えは万能です」と言って事実をすべて説明できてしまうと主張する人(軒ちゃんのことではない)がいるから、敢えてこのようなことを言うわけです。

他のブログでも書いたのですが、最近特に「すべてを説明できてしまうことの胡散臭さ」を意識しています。

お気に入りを変えなくっちゃ^^
Posted by 創価瓦解 at 2005年11月07日 17:23
創価瓦解さん、横レス失礼します。<(_ _)>

(あっちのコメントは消しておきました。^^)

> 宗教は解釈であり、信じるかどうかが基本であり、事実確認が本分ではない。

多分創価瓦解さんは、現代の宗教全般についておっしゃっているのだろうと思いますので、反論ではないのですが・・・

原始仏教は、信じることが基本じゃないように思います。(^^;;
当時として科学と言う言葉はなかったけれども、肉体から目に見えるすべてを剥ぎ取れば何もないなどの五蘊無我や、すべてが関係性の上に成り立つという縁起、変化していかないものなどないという無常など、事実としての教えであったように思います。

> そう捉えるのは、何らかの恐れがあって科学の進歩を妨げようとしているのではない。

でも現実の信仰者の多く?は、その宗教の教えを信じて行じて行けば、幸福になれるとの安心感を持ち、それが科学に限らず様々な形での社会への貢献を怠っているようにも思えたりします。

> 区別の問題であって優劣の問題ではなく、役割が違うと言いたいのです。
> 科学は万能ではないし、宗教も万能ではない。

この住み分けは大切だと思います。

> しかるに「この教えは万能です」と言って事実をすべて説明できてしまうと主張する人(軒ちゃんのことではない)がいるから、敢えてこのようなことを言うわけです。
> 他のブログでも書いたのですが、最近特に「すべてを説明できてしまうことの胡散臭さ」を意識しています。

わめが偏った宗教しか知らないからかもしれませんが、ほとんどの宗教は万能的な教えですし、それを信じる信仰者も当然その教えは万能だと思っているような気がします。(^^;
Posted by わめ at 2005年11月07日 19:07
>(あっちのコメントは消しておきました。^^)

ありがとうございます。(寒い駄洒落が消えたのは残念・・・ウソです^^;)

>多分創価瓦解さんは、現代の宗教全般についておっしゃっているのだろうと思いますので

その通りです。
原始アニミズムの時代から科学が区別される時代までは、わめさんが仰る

>事実としての教えであったように思います。

ということだったと思います。
教えから離れて観察と検証を行うことで事象の一部が解明されるようになり、そこから科学が区別され始めるのが現代宗教の始まりということだと思います。

>でも現実の信仰者の多く?は、その宗教の教えを信じて行じて行けば、幸福になれるとの安心感を持ち、それが科学に限らず様々な形での社会への貢献を怠っているようにも思えたりします。

つまり個人としての信仰は絶対的な教えに基く幸福への希求であろうがいいのですが、社会との関わりにも個人の態度を持込む人がいる・・・公私の区別をしないことが問題を起こしているのだと思います。

>ほとんどの宗教は万能的な教えですし、それを信じる信仰者も当然その教えは万能だと思っているような気がします。(^^;

そう思いますし、それでいいのです・・・「個人の範囲であれば」という条件を逸脱しなければ・・・これは信者個々人のありかたの問題であり、同時に宗教の持つ矛盾と限界に関することだと思います。
科学にも矛盾と限界があるように。

抽象的すぎるかなあ?
Posted by 創価瓦解 at 2005年11月08日 00:45
創価瓦解さん

> つまり個人としての信仰は絶対的な教えに基く幸福への希求であろうがいいのですが、社会との関わりにも個人の態度を持込む人がいる・・・公私の区別をしないことが問題を起こしているのだと思います。

このことは下記の、

> >ほとんどの宗教は万能的な教えですし、それを信じる信仰者も当然その教えは万能だと思っているような気がします。(^^;
>
> そう思いますし、それでいいのです・・・「個人の範囲であれば」という条件を逸脱しなければ・・・これは信者個々人のありかたの問題であり、同時に宗教の持つ矛盾と限界に関することだと思います。

にも密接に関わってくることだと思いますけど、「ほとんどの宗教は万能的な教え」なので、それを信じれば信じるほど公私の見境がつかなくなったり、個人の範囲を越えてしまったりするように思います。

主体者は自分と言う立場に立って、宗教の教えを生かすというのならいいと思うのですが(これが信者個々人のありかたの問題かな?)、それでは信じることを基本とする宗教足りえません。(これが宗教の持つ矛盾と限界なのかな?)

> 科学にも矛盾と限界があるように。

創価瓦解さんの見解は、主体者はあくまで自分であり、絶対なるものを認めないスタンスなのかな?

だとするとわめの考え方とも一致するようです。^^

> 抽象的すぎるかなあ?

上記のわめのコメントが的外れなら、抽象的過ぎますw(って違うか。笑)
Posted by わめ at 2005年11月08日 13:43
わめさん

>主体者は自分と言う立場に立って、宗教の教えを生かすというのならいいと思うのですが(これが信者個々人のありかたの問題かな?)、それでは信じることを基本とする宗教足りえません。(これが宗教の持つ矛盾と限界なのかな?)

そうです、そこに矛盾と限界があります。
しかし矛盾と限界があることはいけないことではなく、それをどれだけ自覚できるのかが問題になります。
例えば摂授という方法は、短期的に教えを広めようという発想ではありません。
「正しい」ということから「ひとりでも多くの人にわかってほしい」になるのは当然なのですが、そこから「なにがなんでもわからせる」「わからない者は愚かである」となるかどうかだと思います。

>創価瓦解さんの見解は、主体者はあくまで自分であり、絶対なるものを認めないスタンスなのかな?

限定的絶対というものはあるけれど普遍的絶対はないという主張です。(限定的じゃあ絶対とは言わないという見方は置いておいて)
普遍的絶対を信じることは、自己で解釈することを放棄しなきゃできないと思いますから。
別の機会に文章と音楽の違いを例に、無条件に信じてしまうことについて書こうと思いますので、そこでこの普遍的絶対に再度言及するつもりです。(「つもり」は「絶対」ではないということですが)

>だとするとわめの考え方とも一致するようです。^^

そのようですね。
喜んでいいですよね^^
Posted by 創価瓦解 at 2005年11月09日 00:07
創価瓦解さん

> しかし矛盾と限界があることはいけないことではなく、それをどれだけ自覚できるのかが問題になります。

自覚できればいいですね。 自覚と依存では大違いですから・・・

> 例えば摂授という方法は、短期的に教えを広めようという発想ではありません。
> 「正しい」ということから「ひとりでも多くの人にわかってほしい」になるのは当然なのですが、そこから「なにがなんでもわからせる」「わからない者は愚かである」となるかどうかだと思います。

摂受はその教えを信じる方にとって、自然な気持ちかもしれませんね。
でも盲信しドグマに陥ると、かなり危険になりますね。σ(^_^;)アセアセ...

> 別の機会に文章と音楽の違いを例に、無条件に信じてしまうことについて書こうと思いますので、そこでこの普遍的絶対に再度言及するつもりです。(「つもり」は「絶対」ではないということですが)

ぉ、楽しみにお待ちします。^^
わめは絶対は認知不能と考えております。
http://wame.seesaa.net/article/9017195.html

> >だとするとわめの考え方とも一致するようです。^^
>
> そのようですね。
> 喜んでいいですよね^^

(*’ー’)(,,*)(*‘∇‘)(,,*)うんうん 喜んでもらえるとわめもうれしっす。( ^-^ )
Posted by わめ at 2005年11月09日 01:48
わめさん、こんばんは。

創価瓦解さん、はじめまして。
とは言っても、今までいろいろなブログではご意見を読んでいました。
あれ?もしかして、私のブログにも訪問してくれたかも?だとしたら、ごめんなさい。

さて、私は、いろんな現象に突っ込みたくなる(研究したくなる、という意味です)人間です。
私の職業は大学教員で、心理学専攻ですが、私は世の中の現象で多くの「わからないもの」について、特に人間の心に関することは、実際に可能かどうかは別として、研究の対象に成りうると思っています。当然、宗教も例外ではありません。

だから私は、宗教団体が、なにか功徳があるとか言ったとした場合、それが本当かどうか、科学でいう「公共性」を満たしているか、等を考えつつ、研究すべきだと思ってます。その際、教義がどうであれ宗教論がどうであれ、です。
もちろん、研究すべき対象は(困難、あるいは無理なのもが多いですが)宗教に限らず、例えば司法判断などもあります。現にアメリカなどではその種の研究があります(大きな問題になりましたが)。
しかし日本では困難でしょう。例えば裁判官が判決を出したとき、それが本当に裁判官が主張するように、「法と正義に基づいて」行われたか、を調べるのは本当は極めて重要であって、むしろ必要だと思ってます。しかし、社会科学に於いては「最も重要なものは研究できないと相場が決まっている」と昔、ある本で読みましたが、本当にそうだと思います。

だから本当の問題はむしろ、何が研究を妨げているかだと思っています。もちろん、司法の領域では、あるいは法律学の専門家は、「司法というものは原因・結果の研究対象ではない」と言うかも知れません。

しかしどのような形であれ、結果的に科学のメスが入れない聖域を設定することは、私としては危険だと感じています。
Posted by 軒ちゃん at 2005年11月09日 19:41
軒ちゃん、こんばんは。

今回はじめて軒ちゃんのブログを見ました。
なかなか面白いですね。

>しかしどのような形であれ、結果的に科学のメスが入れない聖域を設定することは、私としては危険だと感じています。

私は役割の違いで区別すべきとは思いますが、宗教の言う現象などを科学的に検討することにはまったく異議をはさむつもりはありません。(私自身は興味ないけど)
例えば三世や功徳・仏罰について、どのような方法があるのかは知りませんが、現在のところ科学では「確認できない=事実認定するわけにはいかない」ことでしょう。
だから仮設を立てて主張するのは自由だと思います。
しかし、それを正しいとして価値観を認めるというのは、これは科学とは違う(善し悪しということではない)ことです。

そもそも科学は価値観に影響を与えることはあっても、科学そのものは価値観とは無関係なものだと思います。
科学が明らかにしたことに価値を見出すのは思想・哲学・工学・倫理などによるものだと思います。
ダイナマイトも原爆も科学の産物ではなく、科学が明らかにしたものを応用して生まれた工学の産物・・・そういう意味で「価値観とは無関係」ということです。

もちろん科学万能主義を言いたいのでも、宗教との優劣を言いたいのでもありません。
Posted by 創価瓦解 at 2005年11月09日 20:20
創価瓦解さん、早速のレス、ありがとうございます。

>科学そのものは価値観とは無関係なものだと思います。

これは全くその通りですね。価値観とは無関係だからこそ、価値観を持つ対象(宗教や司法判断など)も研究の対象に出来るのだと思っています。

私としましては、「証明の必要性は事柄の神秘性に比例する」、と言う意味のことを述べられた心理学界の大先輩、宮城音弥先生のような立場を支持します。

>例えば三世や功徳・仏罰について、どのような方法があるのかは知りませんが、現在のところ科学では「確認できない=事実認定するわけにはいかない」ことでしょう。

創価学会はそれらがある、と主張しているんですから、本来は「ある」ということの証明責任は、学会の方にあると思っています。
あるいは科学のような方法では証明できないというならば、公共性のある方法、つまり基本的にその方法を採れば誰でも検証できる、ということを学会が明示すべきだと思います。
Posted by 軒ちゃん at 2005年11月09日 20:50
軒ちゃん、TBアリガト!(´▽`)

> 私としましては、「証明の必要性は事柄の神秘性に比例する」、と言う意味のことを述べられた心理学界の大先輩、宮城音弥先生のような立場を支持します。

この方ですね。^^
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8B%7B%8F%E9%89%B9%96%ED/list.html

http://www.athome.co.jp/academy/psychology/psy04.html
(↑これはアットホームと言う企業サイトの対談ですがページですがw)
Posted by わめ at 2005年11月10日 14:42
軒ちゃん

>創価学会はそれらがある、と主張しているんですから、本来は「ある」ということの証明責任は、学会の方にあると思っています。

これは分けて考えたいです。
学会の言う「ある」というのは、本来は仏法解釈から導かれたものであり、そういう意味では証明の必要はなく、学会の「説明」をすればいいと思います。
しかし解釈を超えて事実化して「ある」と言うのであれば、それは宗教の範疇を逸脱しているのだから、科学的な証明責任が問われると思います。

説明の場合は相手の理解を得られないことがあるのは当然であり、それはお互いの価値観の違いから来るものです。
証明の場合は科学的に検証して判定することが必要であり、これは相手が個人・団体レベルではないでしょうし、解釈の入り込む余地はありません。

現実には「説明」はひとりよがりで、相手が認めないのは「相手が間違っている」ということで詭弁を展開し、科学的証明はまったくやる気がなく、それでいて解釈を事実化して平然としているどころか、解釈と事実化の押しつけをするから問題なのだと思います。
一元論(わめさん、ここでは「一元論」を使います^^)の自己矛盾がアウトプットとして「迷惑」という形で現れているということだと思います。


Posted by 創価瓦解 at 2005年11月10日 15:51
訂正と追記をさせていただきます。

2005-11-04 23:03:19 のわめの投稿の、

> 信を以って智慧に代えていくという作業が、疎かになってしまっているように感じます。

ですが、信を以って智慧に代えていくは、わめの解釈では信を智慧に”変”えて(転換)いくとの解釈で、本来の語句の解釈としては信は「智慧の代替になる」と解釈するのが正しく、わめの解釈は誤っていることがわかりましたので訂正します。

また正しい解釈からすればその後の、
信⇒「悟り・成仏・絶対的幸福」も成り立ってしまうわけですが、これは理にかなわず「信⇒智慧⇒悟り」と思うことには変わりはありません。

 また、くまりんさんのブログより、非常に感銘を受けた記事をリンクさせていただきます。
『仏教とは対極にある教え「以信代慧」 - 日蓮正宗の信徒さん』
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=873
Posted by わめ at 2005年11月15日 04:43
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