2007年04月30日

Re: 相対尺度

 アロエさんのブログの記事『ニセ宗教』にコメントをし、アロエさんと意見交換をさせて頂きましたが、アロエさんはそのことからの記事を『相対尺度』として書いてくださいました。

 そこで随分日が経ってしまいましたが(汗)、アロエさんの『相対尺度』の記事を受けて私も記事として意見を書いてみたいと思います。

  
わたし達人間は絶対尺度を持っていません。物理学においては、物事を計測するためのいろいろな尺度が定義されます。しかし、わたし達の身近な世界のものは全て相対尺度です。例えば、わたし達が使う摂氏温度は、身近な「水」の沸点と融点を使った「分かりやすい相対尺度」にしか過ぎません。

 これはおそらくその通りなのでしょう。

最も気を付けないといけないのは、それがあくまでも相対世界だけに通用する基準点であるということです。

 この相対世界とはアロエさんの言う【わたし達の身近な世界】のことだろうと推察しますが、これは私たちの認識・概念で捉える相対世界であって、その私たちの認識・概念で捉える相対世界と現実に存在する世界とはギャップがあるのかもしれません。
 というかそもそもギャップがあるのか無いのかさえも私たちには分からないと言えそうです。

絶対基準が分からなくとも、せめて複数の相対尺度(わめさん的に言えば多元的?)をもって物事を測れば、客観性も増して、絶対基準に近い立場で判断ができるようになると思います。だから様々な尺度で問い続けることが必要なのでしょう。

 アロエさんの言う絶対尺度・相対尺度と、私の言う一元(絶対)的・二元(相対)的とに大きな違いは感じませんが、多元的となると話は少し違うようです。
 左右、上下、明暗などの相対を複数合わせても、それはあくまでも一つひとつの相対の重ね合わせであり、私の言う多元的とは単純に言えば、物事を左右、上下、明暗などの二元的な捉え方以外にも捉え方もあるということです。
 物事の両極を捉え相対化なり色分け的な相対化とは違い、多元的とは人間の都合で物事の認識を纏め上げない捉え方とでも言いましょうか、それはそれ、これはこれ、人間一人ひとりを男と女、大人と子供と判別するのは相対的捉え方ですが、人間一人ひとりを千差万別の個性を持つ一人ひとりとして捉えれば多元的な捉え方と言えるのではないかと思います。

問いがそのまま答えになるほど執拗に問う人もあり、問う能力がないから答えを持っている人もあるのだ。解決を欲しがる精神が、奴隷根性の一変種であるのが大体普通なのである。(小林秀雄全作品5)

 この小林秀雄氏の言を借りれば、解決を欲しがる精神が強いほど一元(絶対)的、または二元(相対)的思考が強いのではと推測しております。

の意味は、完全な「絶対」を獲得することはないことを理解しつつ、それでもなお「絶対」に近付けるための努力を人間はすべきだ、簡単に「絶対」が得られると思い、相対基準を絶対とすることは、その狭い世界に閉じ込められること(奴隷)だ、とわたしは解釈します。奴隷になって視野が狭くなれば、将来うまくいくはずもないですね。

 心理的作用からいえば、視野が狭くなること自体に将来うまくいくはずがないとの結論を私は導き出すことはできませんし、一概に不幸なこととも思えません。
 問題は自らが自らを知った時にあると思います。
 ある思想(狭い世界)に閉じ込められその奴隷となっていたことを知った時の精神的負荷は大きいものと思います。
 「井の中の蛙、大海を知らず」ではないですが、井の中に長い期間いればいるほど大海を知った時の衝撃は大きいものかもしれません。
 むしろ井の中に一生いればそれはそれで安定した一生を送れるのじゃないかと。

しかし、わたしたちは油断すると、相対尺度における基準が絶対基準であると錯覚してしまいがちです。特に学会員はその傾向が強いと思います。つまり、彼等は創価というものすごく狭い世界でしか通用しない「創価基準」が絶対だと思い込み、その基準でしか考えられない、話ができなくなります。ですから、簡単に「絶対正義!」なんて恥ずかしい言葉を使ってしまいます。

 わたしたちは油断すると「相対尺度における基準が絶対基準であると錯覚してしまいがちです。特に学会員はその傾向が強い」と相対尺度を使いがちになります。
 たしかにある思想に傾注する人達にはそのような傾向が見られ、そういった意味では学会員さんの中にもそういった方がおられるように思いますし、学会員以外に「学会は絶対正義の団体」と言えるような方はおそらくそのような方なんでしょう。(^^;
 注意すべきは「学会員はこうなんだ」との思い込みにもあるように思います。
 「学会員はこうなんだ」と自らと相対化し、その見解が正当であると思い込んでしまったならそれもまた絶対尺度となってしまいそうです。涙

問い続けることで客観性を増した基準は、万人の理解も得やすく、その結果、「共存」ということも可能になってくるはずです。

 これは私の観点とは違いますが、興味深い見解ですので私なりに今後考察してみたいと思います。^^
 私の観点から言えば、私も含め今そこにあるものはある。
 そのあるものの中には自分にとって嫌なこともありますが、あるものはあるものとして認めていこうとすることです。
 それは自分にとって不都合や嫌なことでも、その不都合や嫌なことは他のことと密接に関係している可能性が高く、その不都合や嫌なことを排除してしまうことにより他への影響は計り知れないと思うからです。
 利便性や利得の追求等により自然環境破壊が進み、地球温暖化などの問題も叫ばれる昨今、「共存」は自らをも守る手段としても重要なのだろうと私は考えてます。

創価学会のように、内部の問題をいつまでも隠蔽し続け、外部からの客観的な検証を避け続ける組織が「絶対」な訳がありません。そのような組織が、「平和」などと綺麗事を言ったところで、他の社会と共存できないことは明白でしょう。

 共存できないとしたら淘汰されていくでしょうし、そうならないために組織は改善されていくのかもしれません。
 それと同じように、私も淘汰されていくかもしれないし、そうならないためにも自らの考えを改めていかなければならないのかもしれません。

 考えを改めていくためには、批判を受けることが大変有効かと思います。

 多くの批判を頂ける様、自らの見解をより鮮明に表明していかなければならないと改めて感じております。
【関連する記事】
posted by わめ at 19:14| Comment(4) | TrackBack(0) | 多元論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わめさん、こんにちは。
ネット内ヒッキー・出不精のわたしですが、ゴールデンウィークということもあるし、少し散歩しに来ました。(^^ 最後に外に出たのはいつかなあ。。。

TBありがとうございます。いろいろ参考になります。ありがとうございます。
あの文章は、わめさん宛というより、自分の頭を整理することが目的でしたので、気分を害されたようでしたら申し訳ありません。

多元的ということについて、わめさんのおっしゃりたいこととが理解できたように思います。いや、正確に言えば、わめさんとわたしで言葉の概念がなんとなく違うのかなあと思いました。

わめさんの言葉をお借りすれば、わたしは、男、女、大人、子供なども全部人間の個性のうちの一つとして見ていました。大人と子供は連続的ですから区別する定義はないですし、男女といっても雌雄同体の生物もいて、その気になれば人間でも性転換することができます。ですから、キャラ(個性)の一つと捉えていました。

ところで、ネットでの様々な議論が熱くなるパターンというのは、実はそれぞれの言葉の概念の違いが原因になっていることが多いのではないか、とよく思います。これはある程度、仕方のないことではあるのですけれど。。。言葉の定義があいまいなまま、正義だ悪だの言うのは論外ですが。

それから、学会員に対する印象そのものが相対尺度を絶対的に見ているのでは?という指摘は、ある意味そうかもしれません。しかし、わたしは、それを「思い込み」とは表現せずに、「平均的特徴」と表現したいと思います。

わたし達は完璧な観測ができないですし、絶対的な尺度も持っていません。しかも世の中、本質的に白黒を「完全に」ハッキリさせることができる事象はほとんどありません。ノイズだらけです。でも、わたし達は、多くの判断を下さないといけません。そのような時、わたし達は、確率の高そうな、尤もらしいものを選びます。確率が高い場合、ほとんどの場合それが正しく、うまくいくことを経験的に知っています。余程追い詰められた場合にしか、「1%の確率に賭ける」ことをしません。

統計的検定では、ある命題を棄却するのに5%、時には10%という確率を使います。つまり、ある命題が真となる確率が5%あるいは10%を切れば、その命題は棄却され、偽と判断します。それでもなお、その低い確率を主張する場合、その確率計算を覆す事実なりを提示しなくてはなりません。いえ、わめさんに、提示しろと言っているのではありません。(^^ こうした検定が「絶対」とは思いませんが、客観的で常識的な基準だと思います。

わたしは、本部職員から地元組織の学会員、創大出身者など、いろいろ見てきました。それらの中から多くの例外サンプルも選んだとしても、「創価でなくても良い」と考える学会員の割合は10%もないです。活動家に限れば確実に数%でしょう。ちなみに、全学会員を調べなくても、ある程度の数のサンプルが揃えば、母集団の特徴をかなり正確に表しています。テレビの視聴率調査がそうですね。

わたし以外のいろいろな人が、それぞれの経験で同じような検定をかけたとき、わたしと同じ結果になれば、おそらくそれは真実の「平均値」を表しています。「様々な相対尺度」から得られるからです。そして、多くの人がわたしと同じ結果になると想像しています。ですから、絶対基準とはいいませんが、学会員のこの平均的特徴を思い込んでもよいと思っています。(^^;
Posted by アロエ at 2007年05月02日 22:30
 アロエさん、こちらでは2005/08/12以来のコメントありがとうございます。^^

> あの文章は、わめさん宛というより、自分の頭を整理することが目的でしたので、気分を害されたようでしたら申し訳ありません。

 とんでもありません、ご自分の頭を整理するにしろ何かしら私のコメントがそのキッカケの一部となっているらしく感じ大変うれしく、こうして記事を書いたのは遅くなりましたがEnjoyLife掲示板のメモ帳には、3/27にアロエさんの当該ブログ記事にリンクさせて頂きました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1127653318/36


> 多元的ということについて、わめさんのおっしゃりたいこととが理解できたように思います。いや、正確に言えば、わめさんとわたしで言葉の概念がなんとなく違うのかなあと思いました。

 言葉の概念の違いについてですが、これは一人ひとり大なり小なり違いがあると感じます。
 結局のところ、表明されている部分についてだけでしか一致不一致の判断はできないのかもしれません。
 その表明されている部分から、アロエさんと私とでは言葉の概念の違いはあれど、お互いに多元的な考え方を持ち、また、多元的な考え方をその度合いはともかく支持していると理解しましたが、この理解は早計でしょうか?

> ところで、ネットでの様々な議論が熱くなるパターンというのは、実はそれぞれの言葉の概念の違いが原因になっていることが多いのではないか、とよく思います。これはある程度、仕方のないことではあるのですけれど。。。言葉の定義があいまいなまま、正義だ悪だの言うのは論外ですが。

 「ネットでの様々な議論が熱くなるパターン」について、熱くなる方の思考に相対的な捉え方が強く影響しているのではないかと私は推測しています。
 「自分の意見」と「相反する他者の意見」、「善」と「悪」、有識と無知、権威側と非権威側、アロエさんの言われるような「正義」と「悪」等々。このような相対の各前者が自分乃至自分の言動、各後者が他者の言動と考えがちになり、そこでまた「味方」か「敵」かの相対的な判断も生じ、心理・感情的に「敵」に対する防衛・攻撃言動が表れてしまう。
 「敵」に対する防衛言動だけなら一方的でヒートアップもしないのかもしれせんが、「敵」に対する攻撃言動まで表明されてくると、攻撃言動を受けた側もその相手を「敵」と看做し防衛・攻撃言動に出るといったことが「ネットでの様々な議論が熱くなる」要因ではないかと思うのです。

 このように考える私ですので、一概にはいえないとは思いますが、言動と人格を結び付けず、相対的よりも多元的思考である場合が争いごとを生じにくくさせるのじゃないかと考えております。


> それから、学会員に対する印象そのものが相対尺度を絶対的に見ているのでは?という指摘は、ある意味そうかもしれません。

 私の表現が悪くって、アロエさんが「学会員に対する印象そのものが相対尺度を絶対的に見ている」との印象を与えてしまいましたこと、それは誤解であることの表明と共にお詫びさせて頂きます。
 ぺこ <(_ _)>

 誤解を与えてしまったと感じるのは二点なのですが、その一点は「絶対的に見ている」との指摘ではなく、「わたしたちは油断すると相対尺度を使いがちになる」ということで、それは「わたしたちは油断すると相対尺度を使いがちになる」ことが、前述の「(ネットでの)様々な議論が熱くなる」要因となっていると私は考えているからです。
 もう一点は、この指摘は「わたしたち」にであり、わたしたちの中心は私です。(^^;;
 このように私自身に警鐘を与えているわけですが、「わたしたち」の「たち」にはアロエさんやこの記事やわたしたちのコメントを読んでくださっている方々も含まれていますので、アロエさんやこの記事やわたしたちのコメントを読んでくださっている方々にも是非気を付けて頂きたいとの思いがあるのも事実です。 続く
Posted by わめ at 2007年05月05日 15:50
続き

> しかし、わたしは、それを「思い込み」とは表現せずに、「平均的特徴」と表現したいと思います。

 こちらも私の「思い込み」の表現が悪かったようです。m(_ _"m)ペコリ
 アロエさんが思い込みをしているなどと、私はカケラも思っておりません。

 私の「学会員はこうなんだとの思い込み」の表現は、アロエさんの【「創価基準」が絶対だと思い込み】とのコメントに対してですが、それと同様に私達も「学会員はこうなんだ」とそのような思い込みをしないように注意すべきじゃないかと「わたしたち」に言いたかったのです。
 それはそれとして、「例外を含む平均的特徴」を捉えての表現は「思い込み」ではないと私も思います。

 余談になりますが自らの立場でいえば、(学会側から見れば)師子身中の虫のような私でも「学会員」です。
 とすると「学会員はこうなんだ」の中に私も含まれてしまうわけですが、私は「学会員はこうなんだ」の中に含まれていないと思いたいし、含まれていないと他者にも思って欲しいと願っています。涙
 そんな私の願いからは「学会員はこうなんだ」との表現よりも「例外を含む学会員の平均的特徴」との表現がより正確性が高く、そのほうが学会員である私もうれしく思います。

> わたしは、本部職員から地元組織の学会員、創大出身者など、いろいろ見てきました。それらの中から多くの例外サンプルも選んだとしても、「創価でなくても良い」と考える学会員の割合は10%もないです。

 私も男子部から壮年部、正役職者として活動し地域で長く創価学会を見てきました。^^
 そんな私からは「創価でなくても良い」と考える学会員の割合はとても10%未満とは思えませんが、これはアロエさんと私の住む地域の格差や各々の捉え方・主観にもよると思いますので食い違ってもいいですよね。

> わたし以外のいろいろな人が、それぞれの経験で同じような検定をかけたとき、わたしと同じ結果になれば、おそらくそれは真実の「平均値」を表しています。「様々な相対尺度」から得られるからです。そして、多くの人がわたしと同じ結果になると想像しています。ですから、絶対基準とはいいませんが、学会員のこの平均的特徴を思い込んでもよいと思っています。(^^;

 ここまでそれほどアロエさん私とに大きな意見の相違は感じられませんでした。
 私は「平均的特徴を思い込んでもよい」とは思っていませんが、思い込むことは個人個人の自由であると思いますのでこのことにも異論があるわけでもありません。

 しかしながら『平均的特徴を”思い込んでの言動”』には例外があり、例外を知る方や自身が対象者でありながらも例外であると思っている方からは受け入れ難く反感を買いやすく思います。
 また『「相対尺度」や「様々な相対尺度」での”思い込みの言動”』に反感を持つ方も少なくないと思います。

 批判は、対象(特定の思想・見解等)を明確に定めるべきで、対象を不確定なまま行なうことや、『特定の思想・見解等』を支持・持つその人自身(人格含む)にまで批判対象を広げるべきではないように私は思いますが、アロエさんのご意見はいかがでしょうか。

 私の批判的言明は対象者を特定するものではなく、あくまでも表明された見解に対するものであることをご理解頂ければ有り難いです。
Posted by わめ at 2007年05月05日 15:50
わめさん

暑さに弱いアロエです。お久しぶりです。
大変遅くなりましたことをお詫び申し上げます。

わたしは、時々学会批判をしておりますが、自分の仕事、やるべきことを優先しておりまして、一段落ついたときなどにひょっこり顔を出すことをルールとしています。
そんなルールを設けるのも、学会に興味が失せてきたせいかもしれませんが。。。(^^;
申し訳ありませんが、その点ご了解ください。m(--)m

わたしの読解力が悪く、わめさんにいらぬ心配をかけてしまいました。またまた申し訳ありません。

わたしは、前からわめさんは不思議な人だなあと思っています。
これだけ話が通じるのに、なぜ学会員のままでいるのかなという疑問も湧きます。
わたしも籍の上では学会員なのかもしれませんが、自分が学会員であるなどと人には決して言えません。

結局のところ、表現の違いこそあれ、お互い同じようなことを言おうとしているのかなという気持ちが強くなりました。
「思想・行動」を批判すべきで「その人自身」を批判すべきではない、という意見には賛成します。勢い余ってやってしまうことがありますが、気を付けないといけませんね。

ふとコメント入力欄の横を見ると、物理学系のリンクがちらほら。。。わめさんの一面ですね。

ネットでも現実世界でも学会批判を続けますが、どうぞよろしくお願い致します。
Posted by アロエ at 2007年09月02日 11:21
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