2007年02月20日

言動の自由と責任

 「南無妙法蓮華経」であろうが「あいうえお」であろうが、唱えて気持ちよいのであれば、あるいはその功徳を感じるのは個人の主観でありそれはそれでいいのではないでしょうか。

 それが仏教の創始者である釈尊が否定した仏舎利信仰や経典信仰(題目を唱えることも広い意味では含まれる)であろうと、釈尊や日蓮と言えど私達と同じ人間であり間違いも犯せば屁もこく。笑
 個人や偶像崇拝など馬鹿げていると思うのも個人の勝手だし、その言明に従うかどうかも個人の自由であり、また「それでは幸せになれない」とか、「地獄に堕ちる」と思うのも、これまた個人の自由であると思う。

  
 神様はいらっしゃると思うのも自由、神などいるわけないと思うのも自由。
 功徳があるとかないとか、守られているとかいないとかどう思おうとそれも自由。

 形而上学的なことはどうぞ各自おもいおもいに考え、それぞれ自分なりに答えを出してください。

 しかしながら、思うことと言明することとは明らかに違う。

 個人がどのようなことを思うとしても、思うことは誰にも分からないわけですし社会的にも何一つ制約はありませんが、言明することにはその言明の内容によっては社会的処罰の対象になることがある。

 個人の自由はあくまでもその個人の範囲で守られるのであって、他者に影響を与える言動には言論の自由という前提はあってもその言動の如何によっては処罰・制裁の対象と成り得る可能性があるということです。

 私がこんな当たり前なことを書いてしまうのは、自分の思うことを思うまま、まるで何でも自由であるかのように言動してしまう方をこのネット界隈で散見してしまうからです。

 私達の個人の自由や言論の自由はこの社会で認められていますが、この社会のモラル等を軽視するように何でも自由であるかのような言動は、自らの個人の自由や言論の自由を奪われても仕方ない恥ずべき行為なのではないでしょうか。

 それぞれが自分だけの中で思うことはまったくの自由ですが、言動の自由には責任が伴います。

 自分の言動は、たとえその信念や信条が変わろうとも、撤回する必要がないようにできるだけ心掛けたいものです。

 そのためには、自分のその時々の感情や信念や信条といった主観的な思いに依らず、そのようなことから離れた、あるいはそのようなことに左右されない客観的な見地での言動が必要になってくるのではないかと私は思います。

 幸不幸の判断基準や価値観などは、個々人により異なっているわけですし、自らの尺度で他者を測れるものではないのですから。
posted by わめ at 03:02| Comment(4) | TrackBack(0) | 日々雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わめさん こんにちワン^^  今日は短く。

それをやっちゃあ お終いよ、、、
と同じように それを言っちゃあ お終いよ も、あると思う。

あとが無い 続かない 建設しない ささくれた未来しか無い。。。

心に制限は設けられないけど 誰が何が、好きも嫌いも、、
人社会の制限付き自由を謳歌するならば 自らにも枷をつけないと。
云う口に自由はあるけども 見る者、読む者への快・不快も 心理・深層心理への影響も考えちゃあくれねえかい と思う。
(て、おりが云うなぁ かいな^^;)

Posted by あーあ at 2007年02月27日 10:09
自由と秩序ですな。

皆さんお越しやす。

http://bbs11.fc2.com/php/e.php/mirei/
Posted by みれい at 2007年03月11日 18:33
 あーあさん、みれいしゃん、こんばんは。^^
 お返事が大変遅くなり申し訳ありませんでした。ぺこ <(_ _)>

 あーあさん
 【マナーについて】でも書いたけど、「他者を気遣う」ことを忘れた言葉は、反感こそ買え心に響くことは無いのかもしれませんね。

 私の最近の大きな反省点は、他者に何かを要求をするような自分の言動です。
 決して悪気は無いつもりなのですが、押し付けがましい態度であったように思います。
 と、反省はしているものの今後も私は相変わらずかもしれません。汗

 相変わらずかもって、今後も許容してくれと要求しちゃってるねw(>▽<;; アセアセ


 みれいしゃん

 早くにご連絡頂いていた掲示板ですが、ROMばかりでコメントできなくて申し訳ないっす。<(_ _)>

 自分の考えが纏まっていないからか言葉としてうまく説明できませんが、端的に言えばどうも私は人を不安にさせるのを好んでいる節があります。
 私のそのような面がコメントとしてご紹介の掲示板で出ちゃうような気がして書き込みできないでおります。

 自分の考えは絶えず変化しているように思うのですが、とりあえずそうであってもその時々の思考を咀嚼しながらこのブログで書いていくことが今の私の精一杯です。

 みれいしゃん、どうか気長にお付き合いくださいね。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2007年04月11日 01:52
初めまして(・・!一回だけコメント
一言言うなら言動の自由なんて、あって無い様な物だと思いますね!
これだけは押し付けがましく言いたい理由が1つあります↓

>個人の自由はあくまでもその個人の範囲で守られるのであって、他者に影響を与える言動には言論の自由という前提はあってもその言動の如何によっては処罰・制裁の対象と成り得る可能性があるということです

これ…正直絶対とも言える正義だから!
国家の人々が使う言葉を統制し、使わない言葉は二度と使わない様にして行く位しか
責任を払う必要の無い社会にはならないと思う!最もそんな社会をどこまで望むか?見たいな話はありますけどね。

後、客観的な見地での言動も曖昧だなぁ…そう思う理由はねぇ…
正直、客観的な見地で言えば、神様なんてこの世にいないのは絶対だと言い切れると言いたいんだ!
この世その物が神なんだよって意見は受け入れますが、
少なくとも事実として主体としては存在してないし

もう一つ幽霊もいないのは確実でしょう!人が死んだら魂として生きる=永遠に生きる
そんな事が本当にあるなら、自分は人を殺しても無罪のはずです。
肉体を失う事は永遠の命を手にするのと同じですから!これは奉仕活動になるはずです!
死を恐れなくていいはずです。所がそうはなってない。これが絶対いないと言い切れる理由です。
もしいるというなら、いると言った人に死んでもらって、いると言う証拠見せて欲しいです。
それができなければ信じる気にはなりません!責任はいると言った側にあり、自分には無いと言いたいですね!
個人的には、本当に永遠の命が手に入るなら、本気で死んでやりますから!

けど実際神を信じる人も居れば、幽霊信じる人もいるからね!
これが客観的な見地での言動も曖昧だと思う理由です。
(言動の責任も曖昧になってくるな…いると考える人は考えるだけで、責任放棄してるから)
もう一つは、貴方の言った、「他者を気遣う」ことを忘れた言葉は、反感こそ買え心に響くことは無いのかもしれませんね
って言葉。人を殺してはいけないって考えも、気遣う事を忘れてたら、心に届かないって
言うなら、何の為の正しさなの?って言いたいし、客観的な見地がどこにある?って言いたいしな!
また、人それぞれとか、お前はどう思う?って話になっても客観的な見地は消える!

>私は人を不安にさせるのを好んでいる
多分、いや絶対その不安に自分は引っかかりましたね^^”(汗
引っ掛けた貴方の責任として、このコメント残します。
Posted by オーシャン at 2013年05月29日 11:54
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