2006年10月07日

思考停止のキッカケ

 すべての見解はある一面からの見方に過ぎない。

 冒頭から思い切ったことを書いてしまいましたが、例外はあるのかも知れませんが、そのように思っておいたほうが無難でしょう。
 というのも、自分が知らなかったことを知ることにより、それが下手すりゃ思考停止のキッカケとなりかねないからです。
 何事も突き詰めていけば、その結論は分からないに至る場合がほとんどなのですが、人間は分からないことは不安ですし、分からないことを知りたいとの願望もあるように思います。
 人は、分からないことを、ある見解を見聞きすることにより分かったと思ってしまったなら、そこで思考停止してしまったり、その見解の基づく思想に傾注してしまいやすくなります。

  
 人間は生きていく中で、学び、経験し、この世の中のことを理解していきます。
 しかし、その理解は突き詰めての理解などではなく、便宜上の理解にしか過ぎません。
 人間は、現代に至っても宇宙とは何か、物質とは何か、精神とは何か、時間とは何か等々、何一つ分かってはいないのです。
 ただ、分からないなりにも、その傾向性や大まかな予測をし、生きていく上で支障が起こらない程度に、便宜的レベルで分かったつもりになっているだけにしか過ぎません。
 もちろん便宜的な理解が悪いなどとはまったく思っていませんが、理解したつもりになっていることは、その程度のことなのだということを忘れてはいけないと思うのです。

 それを忘れてしまった方達、何かの思想に取り込まれてしまった方達、世の中にはそのような方達が沢山いるように思います。
 残念なことに古今東西、そのような方達から金品や奉仕を受け、生活をしている輩や、団体が数多くあるのも事実です。

 私が脱力感をついつい覚えてしまうのは、何かの思想に取り込まれてしまった方達の言動に触れてしまった時、そのような方達を作り出す仕組み、そのような方達から如何に金品を搾り取ろうか策を練る方達をみてしまった時です。

 誰しも生きるためには、最低限、衣食住を満たすための欲求はあるとは思いますし、その欲求が悪であるとは思ってはいませんが、私腹を肥やすためであったり、名誉・権威・社会的地位向上のために、他の方を利用し搾取する行為は、前回の【幸福観】で書いた記事のように、「本然的でも必要でもない感情や思考」からの行いであり、人々が共存する社会に反する行為に思います。

 騙す側の論理として、騙される方が悪いなどとの詭弁もありますが、敢えて言わせて頂くと、騙される人間がいるから騙す人間も後を絶たないといえるのかも知れません。

 サイエンス誌に取り上げられた記事でさえ仮説に過ぎないのですから、どうか、世の中のことがすべて分かったような見解や思想に陥らず、それらの見解や思想を次のステップのために生かすことはあっても、思考停止に陥ることなく、一人ひとり、それぞれの人生を切り開いていっていただければうれしく思います。
posted by わめ at 04:59| Comment(6) | TrackBack(0) | 人生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わめさん、こんばんは。

>人は、分からないことを、ある見解を見聞きすることにより分かったと思ってしまったなら、そこで思考停止してしまったり、その見解の基づく思想に傾注してしまいやすくなります。

同感です。

マンガ『こちら亀有公園前派出所』に最高のラーメン屋というのが登場したことがあった。
のラーメン屋は完全無欠だったのがいつのまにかダメになった。その原因というのが使っていた高級醤油に合成の成分がいつのまにか使われるようになったからだというものだった(ラーメン全体に比べたらごくわずかのものであるのに)。マンガでありラーメン屋の話であるが思考停止の恐ろしさというものを語っている。

ところでマンガ『こちら亀有公園前派出所』の「両さん」が大衆宗教団体のトップになったとしたらどうであろうか。現実にそのような大衆宗教団体があるのかもしれない。「真実は小説(あるいはマンガ)より奇なり」なのだ。

>騙す側の論理として、騙される方が悪いなどとの詭弁もありますが、敢えて言わせて頂くと、騙される人間がいるから騙す人間も後を絶たないといえるのかも知れません。

「いじめはいじめられる方が悪い」「いじめられないように強くなれ」というのは私の父の(逆説的ともいえる)教育だったですが(いちがいに詭弁ではないと思いますが)、わめさんや軒ちゃんさんのご意見を拝見して、「騙される方」を(意識的にでなく結果的にですが)切り捨てるような考え方はよくないと思いました(私の父のいじめ理論には「おまえが強くなったら弱い者を守れ」というのがあったのも思い出しましたが、それに通じるものがあると思いました)。
Posted by Leo at 2006年10月07日 19:32
のラーメン屋は完全無欠 → そのラーメン屋は完全無欠

>サイエンス誌に取り上げられた記事でさえ仮説に過ぎないのですから、どうか、世の中のことがすべて分かったような見解や思想に陥らず、それらの見解や思想を次のステップのために生かすことはあっても、思考停止に陥ることなく、一人ひとり、それぞれの人生を切り開いていっていただければうれしく思います。

(大げさな話かもしれませんが)生物や人類の進化というものも「ものごとが変化する」「ものごとを固定的に考えない(考えなかった)」からではないでしょうか。それは難しいことでもなく実はごく自然なことかもしれず未来というのはそのように切り開かれるのかもしれないですね(ものごとを固定的に考える方が苦労したり無理が生じたりします)。
Posted by Leo at 2006年10月07日 20:32
わめさん
Leoさん  こんばんは

難しい系記事は通り過ぎる私ですが、今回は読ませていただきました。

メメさんところの帰り道です。
少し苛立っていたのですが、お二人の記事に気持ちが落ち着きました。
「豆腐に頭を〜!」と叫ばなくて良かった(笑)
本当に良い記事を書いてくださいました。

>理解したつもりになっていることは、その程度のことなのだということを忘れてはいけないと思うのです。
>世の中のことがすべて分かったような見解や思想に陥らず、それらの見解や思想を次のステップのために生かすことはあっても、思考停止に陥ることなく

仰るとおりだと思います。
二人とも好い男だネェ! 惚れ惚れする!

Posted by おばさん、です at 2006年10月07日 20:53
 Leoさん、おばさん、こんにちは。^^

> 「いじめはいじめられる方が悪い」「いじめられないように強くなれ」というのは私の父の(逆説的ともいえる)教育だったですが(いちがいに詭弁ではないと思いますが)、わめさんや軒ちゃんさんのご意見を拝見して、「騙される方」を(意識的にでなく結果的にですが)切り捨てるような考え方はよくないと思いました(私の父のいじめ理論には「おまえが強くなったら弱い者を守れ」というのがあったのも思い出しましたが、それに通じるものがあると思いました)。

 いじめる側といじめられる側、騙す側と騙される側、片方のみの存在はあり得ませんから、一方を失くせばもう一方も無くなっていくのでしょう。
 当事者の置かれた立場によって、その解消方法も違ってくるように思います。
 現代において、(宗教的)道徳観念での解消は難しくなってきているようで、合理・科学的に道理を説くことの重要性を感じます。

> (大げさな話かもしれませんが)生物や人類の進化というものも「ものごとが変化する」「ものごとを固定的に考えない(考えなかった)」からではないでしょうか。それは難しいことでもなく実はごく自然なことかもしれず未来というのはそのように切り開かれるのかもしれないですね(ものごとを固定的に考える方が苦労したり無理が生じたりします)。

 人類という長期スパンでみるなら、固定的に物事を考える方達が自然(社会的にも)淘汰されていく可能性は高いかもしれませんね。


 おばさん、上記Leoさんへのお返事に書きましたが、固定的に物事を考える方達は自然(社会的にも)淘汰されていく可能性は高いと思います。

 私達も、今を直視し、今を知り、今できることをやり、今に留まることなく進んでいかないと淘汰されることになるかもしれません。

 他人事じゃないところが怖いですね。(^^;;
Posted by わめ at 2006年10月08日 17:09
 わめさん、みなさん、はじめまして。
 
 某ブログにも書きましたが、それまで悶々としていた創価学会に対する思いが、ある時期に至って覚醒できたのは、こちらのブログのお陰です。
 と言いながら、こちらのブログは敷居(レベル)が高すぎて、なかなかお礼を言うチャンスがありませんでした。
 改めまして、わめさん、みなさん、ありがとうございました。
 これからは、ロムするだけではなくて、たまには投稿させてくださいね。

 
Posted by モカ at 2006年12月15日 18:38
 モカさん、初めまして。^^
 お返事が遅くなり申し訳ありませんでした。<(_ _)>

 私のブログが少しでもお役に立てたとしたのならこれほどうれしいことはありません。
 
> それまで悶々としていた創価学会に対する思いが、ある時期に至って覚醒できた

 覚醒すべきことは他にも沢山あるのかもしれません。
 何かをわからないまま、あるいはわかった気になって信じ込んでしまうことは大変危険なことだと思います。
 また、突き詰めればわからないことばかりのこの世の中ではありますが、どうせわからないと思考停止してしまうのも如何なものかと思います。

 お互いこの社会の一員として、何を為していくかも今後の課題かもしれません。

 私は、自分と環境、個人と社会、どちらも大切に、今後も模索し言動していきたいと思っております。
Posted by わめ at 2006年12月31日 16:36
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