2006年10月02日

幸福観

 【創価学会を語ろう】のコメントで、Leoさんが長寿と死相、物質的幸福と唯心論的幸福について書いてくださいました。 そして『「空・無願・無相」って反射率100%の理想的な「鏡」じゃないかと』とも。

 このコメントへのお返事をしようと思って書き始めたのですが、考えがまとまらずお返事ができませんでした。
 それはある疑問からなのですが、「人は何を求め、何を避けようとしているのか。」、このことについて考えてみましたが、考えがまとまらなかったのです。

 人の求めるもの、Leoさんの言われる物質的幸福と唯心論的幸福とは、お金が沢山あり、いい車や豪邸に住み、毎日おいしいものを食べ、好きな時に好きなことができて、それでいて健康で、周囲からは尊敬や信頼され、満ち足りた毎日を送れること。嫌なことや苦痛や悲しいは避けたいとの気持ちもあるのでしょう。
 一般的にはこんなのがそうなのかなと思ったりします。

  

 でもみんながみんなそうなることもできないし、また、そのようなことをみんながみんな望んでいるとは限りませんが、多くの人の幸福観としてはこのようなものかもしれません。

 でもLeoさんの言う『「空・無願・無相」って反射率100%の理想的な「鏡」』とするならば、上記に述べたような幸福観とはまったく異質なもののようです。
 三門(空・無願・無相)とは、私達を含め存在するものはすべて現象に過ぎず、また、その現象も関係性により成り立っているものであるから、独立自存するものはなく実体もないといった考え方で、私にすれば三門は縁起の解釈そのものとなりますが、このような三門を鏡とすれば一般的な幸福観とは明らかに違うようです。

 でもですよ、事実として私達には個別性があり、苦痛や快感も感じたりするわけで、我が身を守ろうとする自己防衛本能的な意識もあり、三門(空・無願・無相)が反射率100%の理想的な「鏡」としても、その鏡に自分を照らし、一般的な幸福観から離れることが果たしてできるのでしょうか。

 また苦痛や快感が神経作用によるものなら、これは人間に本然的に備わるごく自然な感覚であり、苦痛を苦痛と感じなくなることや、快感を快感と感じなくなることは不自然にも思えますし、そんなのは人体に害を及ぼさない、また、依存症にもならない麻薬のような薬でも開発されれば、それで事足りることになるのかもしれません。

 私としては、やはり人間に本然的に備わるごく自然な感覚・感情は尊重されるべきものと捉えております。

 三門という鏡に自分を照らし出す場合、生物として本然的に備わる感情を否定するのではなく、むしろその感情と、本然的でも必要でもない感情や思考とを、明確に区別するために役立てていくべきだと思います。

 具体的に言えば、お金は無いよりあるほうがうれしいし安心感もあるし、また「あればあるほど」快感も増すものかもしれませんが、この「あればあるほど」は本然的な感情ではないように思います。
 多くの人が、お金は「あればあるほど」を強く欲せば、また、お金の価値を他の何よりも価値が高いと考えるならば、冷たいギクシャクした社会になっていくでしょう。
 というか、そのような社会に現在もなりつつあるようにも思いますが。涙

 本然的でも必要でもない感情や思考を引き剥がし捨て去る一例として、お金の不安を解消しょうとするならば、余剰なお金は所有せず公的機関に運用を任せ、公的機関は今現在お金に困っている人へ援助するような福祉を考えるべきだと思います。
 これならお金のトラブルや犯罪も無くなっていき、「人を見たら泥棒と思え」などの諺も死語となっていくかもしれませんし、多くのお金を公的機関に預託する人ほど尊敬を集められるかもしれませんし、この尊敬は本然的に必要なものではないかもしれませんが、余剰なお金に対する勤労意欲の代替となりえる可能性があります。
 また、企業等の経営者においては、企業利益を公的機関への預託か就労者への還元か等の社会福祉的選択はあっても、経営者個人への余剰な蓄えにといった選択はないことになり、不必要な感情や思考を引き剥がすことになるのではないでしょうか。
 このような考えは労働意欲を失くさせる方向に働くとの危惧もあるかもしれませんが、前述のように「公的機関への預託か就労者への還元」により、社会的にも人間的にも尊敬される人間となっていくことも意欲をもたらすものであり、意欲とは個人的所有欲ばかりとは限らないのではないでしょうか。
 よく考えてみれば、お金もただの紙切れですし、その紙切れでさえ金融機関等に預けてしまえばただの数字に過ぎないのですから。
 その数字に価値を感じるのは、国や国民が貨幣の価値を認めているからに他ならないワケで、それと公的機関への預託との違いの大半は、それを自由に引き出せるか出せないかとの違いであり、多くの場合その余剰となったお金は、引き出す機会さえないのかもしれません。

 この例は、記事を書きながらの単なる思いつきに過ぎない一例ではありますが、「生物として本然的に備わる感情を肯定的に捉え、染み付いてしまった本然的でも必要でもない感情や思考を引き剥がし捨て去る」ような考え方は、一人の人間として考えた場合も、社会全体として考えた場合も、非常に有効ではないかと思います。

 話を戻しまして、人が求めようとすること、また避けようとすることには、生物として本然的に備わる感情と、染み付いてしまった本然的でも必要でもない感情や思考があるように思います。

 本然的でも必要でもない感情や思考も、人や社会に役立つこともあるのかもしれませんが、私はむしろその感情はその本人を蝕み、社会に弊害をもたらしていると考えます。

 本然的に備わる感覚・感情からの幸福観というものを、三門(空・無願・無相)という鏡に自分を映し、私は考えてみたいと思います。
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posted by わめ at 21:57| Comment(38) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わめさん、こんばんは。

心の動きを止めてありのままに見るとき
「空」(あらゆるものは固定的なものでない)
「無願」(下手に期待しない)
「無相」(形にとらわれない)
になるのではないかと思ってます。

>私としては、やはり人間に本然的に備わるごく自然な感覚・感情は尊重されるべきものと捉えております。

私は(も)凡人なので完全に「空・無願・無相」は無理ですが、「あらゆるものは固定的なものでない」
ということは妥当と思われるのと、なるべく「下手に期待しない」、「形にとらわれない」ということも
できるのではないかと考えています。

「下手に期待しない」は福祉分野では「見返りを求めない無償の善意」になるかもしれません。

>本然的でも必要でもない感情や思考を引き剥がし捨て去る一例として、お金の不安を解消しょうとするならば、余剰なお金は所有せず公的機関に運用を任せ、公的機関は今現在お金に困っている人へ援助するような福祉を考えるべきだと思います。

今の社会でも不完全ですがこれに近い部分はあるかもしれません(税金(余剰なお金でないですが)と社会福祉)。
ただ旧社会主義国のような失敗をしないためにはやはり「人間に本然的に備わるごく自然な感覚・感情は尊重されるべき」と思います。

>この例は、記事を書きながらの単なる思いつきに過ぎない一例ではありますが、「生物として本然的に備わる感情を肯定的に捉え、染み付いてしまった本然的でも必要でもない感情や思考を引き剥がし捨て去る」ような考え方は、一人の人間として考えた場合も、社会全体として考えた場合も、非常に有効ではないかと思います。

わめさんの仰っていること興味深いです。
人間の従来の生物的進化、物質的進化の次に来るのは精神的進化、社会的進化かもしれないですね。
(歴史にそういう傾向もありましたが、現代は足踏み(時には後戻り)している時代でしょうか)

Posted by Leo at 2006年10月03日 01:32
 Leoさん、コメントありがとうです。^^
 私は酔っちゃって思考が制御不能に陥ってますのでちょっとだけお返事させて頂きます。汗

> 心の動きを止めてありのままに見るとき
> 「空」(あらゆるものは固定的なものでない)
> 「無願」(下手に期待しない)
> 「無相」(形にとらわれない)
> になるのではないかと思ってます。

 心の動きを止めるのは不自然ではありますが、意図せず時にそのようなこともありますし、意図的であってもいいと思いますが、くまりんさんじゃないけれど、心の動きを止めているとみている、時間の先頭にある認識主体の自己も、その自己の実体としての存在の有無はともかくとして”ある”と思うのですよね。
 その認識主体がなければ心の動きを止めているとの認識もできないのですから。

 でも私はこのような観念的なことではなく、生身の人間としての言動として、僅かながらもこの社会へ影響を与えていきたいと考えています。
 もちろん、個々の観念的な思考も結局はこの社会へ影響を与えていくわけですが、実感の伴わない言論や客観性の乏しい見解よりも、この社会に生きている一人の人間としてよりストレートに、現代社会の問題提議と思索による見解を述べていければと思っています。

 思索、そのためにはある思想(まとまった見解)に支持や傾注するのでなく、どの思想から抽出した思考であれよいものは取り入れ、その結果として既存の思想ではなく(できるだけ)科学的方法により、見解を述べていきたいと思っております。

 このような私の考え方は、ある意味Leoさんとも共通する考え方のようにも思いますが、ようやく私もそのカケラらしきことを掴んだかもしれないと妄想しております。

 私という実体はないかもしれませんが、現実に、一人の人間として、個別性ではユニークな存在として、私は今ここに生きています。

 何かに猪突猛進(盲信?w)していない人達一人ひとりが、ユニークな存在としてそれぞれ個々に模索し、意見を述べ合う中で、誰もが納得しうる見解を共有できるかもしれないと考えてもおります。

 そのような微かな期待(妄想?)に胸を膨らませながら、リアルでは「記憶の棘」って映画の結末にわくわくしながら見入っています。笑

PS
 Leoさん、最近映画やドラマ見てる?
 私は相変わらず、動画を楽しんでいます。^^
Posted by わめ at 2006年10月03日 02:35
 Leoさん、こんにちは。^^
 昨夜は酔ってたからか変なお返事をしてしまったようだわw汗

> 人間の従来の生物的進化、物質的進化の次に来るのは精神的進化、社会的進化かもしれないですね。

 精神的進化は人間個々において、社会的進化は政策などで行なっていかねばならないと思いますが、そのどちらの進化も、まずはいくつかある課題に対する優先順位の見直しをすべきじゃないかと思います。

 自らがため、あるいは滅びぬためには共存以外に道はないと思います。
 現代社会、政治に共存意識もあるとは思いますが、保身に必要な最低限度の共存意識程度に過ぎないように思います。
 つまりは一人の人間においても、この社会においても、自らがためを最優先課題とし、自らが滅びぬための保身的共存意識を持つに過ぎないのではないでしょうか。

 共存を最優先課題とするならば、それは自ずと自らがためとなり、精神的進化、社会的進化が進むのではないかと思います。

 一人ひとりが、余剰の財産や労働力や技術や情報や能力等を持ち寄って補い合う社会ってできないものでしょうかね。
Posted by わめ at 2006年10月03日 15:16
わめさん、こんばんは。

>PS
> Leoさん、最近映画やドラマ見てる?
> 私は相変わらず、動画を楽しんでいます。^^

以前パソコン内を整理していたらサイトがわからなくなってしまったです。もしよろしければメール頂きたいす。

> 精神的進化は人間個々において、社会的進化は政策などで行なっていかねばならないと思いますが、そのどちらの進化も、まずはいくつかある課題に対する優先順位の見直しをすべきじゃないかと思います。

> 自らがため、あるいは滅びぬためには共存以外に道はないと思います。
> 現代社会、政治に共存意識もあるとは思いますが、保身に必要な最低限度の共存意識程度に過ぎないように思います。
> つまりは一人の人間においても、この社会においても、自らがためを最優先課題とし、自らが滅びぬための保身的共存意識を持つに過ぎないのではないでしょうか。

> 共存を最優先課題とするならば、それは自ずと自らがためとなり、精神的進化、社会的進化が進むのではないかと思います。

あるひとつの考えや集まりが拡大していくというモデルはもはや時代遅れかつ破綻で、色々な考えを持った人や集まりがモザイク状に共存するのが誰にとっても良い世の中であるのかもしれません。

> 一人ひとりが、余剰の財産や労働力や技術や情報や能力等を持ち寄って補い合う社会ってできないものでしょうかね。

本来は大衆宗教団体がそういうこと目指していたように思いますが現実は思考停止と宗教貴族を作り出しただけでした。

話は飛びますがLinuxなどがほとんど無料か低価格でOSやシステムを提供してしまったり、インターネットの巨大
サイトは情報の流通が盛んですし、ネットが(も)重要な役割を果たすかもしれません。模索してみたいです。
Posted by Leo at 2006年10月03日 22:59
わめさん、Leoさんこんにちわ。

なかなか難しい議論にちゃちゃ入れにきました。
唯物、唯心って結論なんか出そうにないでしょ?
物質的幸福は本能的行動、唯心論的幸福は理性的思考。
(乱暴な解釈に深くつっこまんといてね)

物質的幸福がある程度満たされないと、
唯心論的幸福を求めることなんてできへんのちゃうやろか?
釈迦が思想を進められたんも王子やったからや。
物質的な基盤があったから、考える余裕があったと思う。
わめさんもそうやと思うで。

物質的幸福が満たされない時には、物質的幸福を追求してたらええ。
余裕ができたら唯心論的幸福を考える。それを教えてくれるんが、
宗教の役割ちゃうやろかね?
Posted by 三九郎 at 2006年10月04日 10:34
 Leoさん、メールしたじょ〜^^

> あるひとつの考えや集まりが拡大していくというモデルはもはや時代遅れかつ破綻で、色々な考えを持った人や集まりがモザイク状に共存するのが誰にとっても良い世の中であるのかもしれません。

 これが理想的な世の中と言えるかは分かりませんが、現状から考えるとそうかもしれません。
 しかし、色々な考えを持った人や集まりであったとしても、共存には共通認識も必要ではないでしょうか。
 共通認識の一例として、死刑制度にしても、死刑が罪を償うことにはなりませんし、死刑は報復であり、見せしめでもあるように思います。またある意味犯罪抑制のための生贄ともいえそうです。
 何より、死刑を言い渡される罪人の多くは、人命軽視による犯罪が多いと思いますが、死刑を認めることはその罪人の犯した人命軽視の犯罪行為を、死刑という形で社会もまた人命軽視の犯罪行為を執行する愚があるように思います。
 
 共存の観点から考えるならば、死刑制度はなくすべきではないでしょうか。
 死刑制度の可否について、論議を呼びそうなら別に記事として取り上げたいと思います。

> 話は飛びますがLinuxなどがほとんど無料か低価格でOSやシステムを提供してしまったり、インターネットの巨大
> サイトは情報の流通が盛んですし、ネットが(も)重要な役割を果たすかもしれません。模索してみたいです。

 何かしら、形ある行動をとれるように私も模索しています。
Posted by わめ at 2006年10月04日 15:25
 三ちゃん、こっちではおひさです。^^

> 唯物、唯心って結論なんか出そうにないでしょ?
> 物質的幸福は本能的行動、唯心論的幸福は理性的思考。

 はい、唯物・唯心の結論?など出そうとは思ってませんので突っ込まないでおきます。笑

> 物質的幸福がある程度満たされないと、
> 唯心論的幸福を求めることなんてできへんのちゃうやろか?

 物質的に満たされてなくても心が満たされている方もおられるかもしれませんが、多くの人はそうかもしれません。

> 釈迦が思想を進められたんも王子やったからや。
> 物質的な基盤があったから、考える余裕があったと思う。
> わめさんもそうやと思うで。

 私の場合は、考える余裕は物質基盤があるというより、時間的に余裕があることが大きいです。
 時間に余裕があるということは物質的に悲しい現実(お金が稼げない!)があるのかもしれません。涙

> 物質的幸福が満たされない時には、物質的幸福を追求してたらええ。
> 余裕ができたら唯心論的幸福を考える。それを教えてくれるんが、
> 宗教の役割ちゃうやろかね?

 現実はそう簡単なものでないと思いますよ。
 物質的に考えても極端に恵まれた方もいれば、今日を生きるためにどうしのぐかに汲々としている方もいるでしょう。
 世界的に見れば(日本だけで見ても例外じゃないかも)、今この時にも飢餓で苦しみ飢えて死んでいく方達もいるのですから。
Posted by わめ at 2006年10月04日 16:33
わめさんは昔、社長、社長と呼ばれて、ベンツでブイブイいわしてたから。
今のゆったりと考えられるわめさんがおるんやないんかいな?と思うの。

>現実はそう簡単なものではないと思いますよ。

一言も簡単やなんて言うてえへんよ。
汲々してる人も、極端に恵まれた人もそれぞれの境涯や環境によって、
多様な幸福追求の方法を宗教が教えてくれてるんやないやろか?
多彩な宗派の教えは、その中のどれかが今の自分にあてはめられる。
そんなもんやないやろか?

例をあげると、ボランティアみたいなもんは利他的な行為やけど、
自分のゆとりのある部分を他人のためにわけてあげるのがほんまやね。
お金はないけど、時間の余ってる人だけが、現地で助太刀するべきやな。
お金はあるけど、時間がない人が募金したらええねん。
境涯や環境によって、方法は変化するべきや。(例になってえへんか?)

誰もが納得できる一般的な幸福論ってなものはそもそもないんやわ。
Posted by 三九郎 at 2006年10月04日 17:19
三九郎にぃにぃ♪

お金はないけど、時間の余ってる人だけが、
会館の警備や受付や選挙の手伝いするべきやな。

お金はあるけど、時間がない人が財務したらええねん。

・・・って話になってしまわないかしら。
・・・って単にさあやが短絡的なのかしら。
Posted by さあや at 2006年10月04日 18:46
・・・ってな話になってもそれで本人が
幸せ感じるならよしってことかな。

なんやら一人で混乱しております。

Posted by さあや at 2006年10月04日 18:51
 三ちゃん、こんばんは。^^

> わめさんは昔、社長、社長と呼ばれて、ベンツでブイブイいわしてたから。
> 今のゆったりと考えられるわめさんがおるんやないんかいな?と思うの。

 むむっ、当たってるかも。(^^;
 やりたいことをかなりやってきたし、欲しいものも結構手に入れたし。(今は何もないですが。涙)

> 汲々してる人も、極端に恵まれた人もそれぞれの境涯や環境によって、
> 多様な幸福追求の方法を宗教が教えてくれてるんやないやろか?

 そうかもしれません。
 今にも飢えて死にそうな人も、宗教を信仰することにより、あるいは哲学や他の何かにより、その苦しみが和らぐということもあるかしれません。
 でもそれはそれとして、現実社会にある問題を何とかしていこうとすることが大切に思いますし、今回の記事はそのことをテーマとしています。

> 自分のゆとりのある部分を他人のためにわけてあげるのがほんまやね。
> お金はないけど、時間の余ってる人だけが、現地で助太刀するべきやな。
> お金はあるけど、時間がない人が募金したらええねん。
> 境涯や環境によって、方法は変化するべきや。(例になってえへんか?)

 そうですね、人それぞれの状況に応じて、自分にできることはやっていきたいですね。
 私は、共存を我々人間としての最優先課題として、政策から、また社会の方向性としても進めていくべきじゃないかと思います。

> 誰もが納得できる一般的な幸福論ってなものはそもそもないんやわ。

 かもしれませんね。^^
Posted by わめ at 2006年10月04日 19:08
さあやさんのおっしゃるとおりです。

本人が幸せを感じられることが一番重要であって、
それによって幸せを感じられないときはさっさと
決別したらいいことやと思いますね。

基本は自分の判断で行動するってことかな。
Posted by 三九郎 at 2006年10月04日 21:40
>今にも飢えて死にそうな人も、宗教を信仰することにより〜

今、吉川英治の「親鸞」を読んでます。
念仏、他力っていうのは、まさにこのようなことやと思うな。

>政策から、また社会の方向性としても〜

学会員が政治に関心を持つのは大変いいことやと思うけど。
どうも、政治ゲームのほうに関心が移ってるような気がするな。
議席獲得とかよりも、実際になにをしてほしいのか。
学会員も個人的にはいろいろ文句言うてるの聞きますね。
「直接言うてこいや!こんなとこでうだうだ言うてないで」
っていつも言うてますけどね。

Posted by 三九郎 at 2006年10月04日 21:51
三九郎さん、ありがとう。
ずいぶんすっきりしました。
上の三行、名言だと思います。

今日ここにきてよかった♪
Posted by さあや at 2006年10月04日 21:56
 さあやさん、いらっしゃ〜い。^^

 三ちゃん
 この記事は読んでもらえばわかるように学会に関することではありません。汗
 学会問題は【創価学会を語ろう】などでお願いします。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2006年10月04日 22:06
わめさん、こんばんは。

>Leoさん、メールしたじょ〜^^

届いてないす(;_;)。もしyahooから送ったとしたらフィルタにひっかかったのかもしれないです。アドレス登録してみたので再送お願いしたいです。

>共存の観点から考えるならば、死刑制度はなくすべきではないでしょうか。
>死刑制度の可否について、論議を呼びそうなら別に記事として取り上げたいと思います。

私は(も)死が報復となるとは思わないです。

>何かしら、形ある行動をとれるように私も模索しています。

模索中ですが、呼びかけたり、専門家に尋ねたり、政治家に働きかけたりもあるのかなと思います。

三九郎さん、こんばんは。

>物質的幸福が満たされない時には、物質的幸福を追求してたらええ。
>余裕ができたら唯心論的幸福を考える。それを教えてくれるんが、
>宗教の役割ちゃうやろかね?

物質的幸福が満たされない時には頑張って働く(たとえば昔の日本や今の中国みたいに)、余裕ができたら精神的幸福を考える(たとえば大富豪のビル・ゲイツは慈善事業に勤しむ、あるいは普通の人が慈善団体に寄付)ということ、それが宗教の役割、同感です。

そうすると大衆宗教は物質的幸福が満たされない人に一足飛びで精神的幸福を与えようとするからおかしくなるのかもしれないですね。

さあやさん、こんばんは。

>お金はないけど、時間の余ってる人だけが、
>会館の警備や受付や選挙の手伝いするべきやな。
>
>お金はあるけど、時間がない人が財務したらええねん。

大衆宗教は人類や世界のためといって実質組織のためにしか活動してなかったりするので、募金をするのだったら収支を公開していてる慈善団体に(効果有効)、時間の余ってる人は現地で直接助太刀(効果有効)は言えてるかもしれないです。
Posted by Leo at 2006年10月04日 22:26
わめさん気づいてないかもしれんけど、
社会福祉的とかのとこ、すんごい学会っぽいで。
ってか学会員の意見としか思えへんねけど。
Posted by 三九郎 at 2006年10月04日 22:28
 Leoさん、メール再送しました。^^

 また改めてコメントへのお返事をさせて頂きますね。

 三ちゃん
 40年以上学会にどっぷり浸かってしまいましたが、社会福祉なんて言葉は学会ではほとんど聞いたことがないです。汗
 私は若い頃、社会福祉協議会等とも少し関わりを持ち、社会福祉も含めボランティア活動等やっておりました。
 もちろん学会は関係無しにです。
 ってことで、社会福祉=学会とのイメージを持たれるのは、社会福祉に関わる方達にとって大変迷惑なことかと思います。
Posted by わめ at 2006年10月04日 22:43
Leoさんこんばんわ。そうなんです。

>物質的幸福が満たされない人に一足飛びで精神的幸福を与えようとするからおかしくなるのかもしれないですね

ここんとこがいつもひっかかってるとこなんです。
大乗仏教ってのはある程度ゆとりのあるひとが思考し編み出したものなんかな?
法華経はその最たるもののように思います。
Posted by 三九郎 at 2006年10月04日 22:44
 追伸

 社会福祉協議会は、創価学会や公明党とは一切関係のない団体です。^^
http://www.shakyo.or.jp/
Posted by わめ at 2006年10月04日 22:46
わめさま、こんばんは。
勝手にあがりこんでしまいました。

三九郎さんのコメントされた一般論を
学会の活動に結びつけたのはさあやでした。

わめさん、三ちゃん、ごめんなさい。

Leoさん、こんばんは☆

Leoさんのご指摘されたことが多くの人の
共通認識になるとよいなと願っています。
それが各自の判断からだと素敵ですね。

なんだか混乱してるんだかさせてるんだか。
しばらく、ひとりで考えてみまっす。
Posted by さあや at 2006年10月04日 22:51
 さあやさん、こんばんは。^^

> 三九郎さんのコメントされた一般論を
> 学会の活動に結びつけたのはさあやでした。

 ああ、こんなの私の「一人ひとりが、余剰の財産や労働力や技術や情報や能力等を持ち寄って補い合う社会ってできないものでしょうかね。」と同じようなことを、学会員に当てはめただけですからまったく問題ないですよ。(^^;

 てか、脱線マンな私ですから、人のことをとやかく言うのも何なのですけどね。(>▽<;; アセアセ
Posted by わめ at 2006年10月04日 22:57
さあやさんは悪くないよ。
僕とわめさんが仲悪いだけやし。いつもこんなんなるんやで。

わめさん、公明党って福祉国家を目指してるんちゃうかったっけ?
Posted by 三九郎 at 2006年10月04日 22:57
> 僕とわめさんが仲悪いだけやし。いつもこんなんなるんやで。

 あちきは名コンビだと思っていたのだが。笑

> わめさん、公明党って福祉国家を目指してるんちゃうかったっけ?

 んなことまったく知らないよ。
 てか、公明党のことは共産党のことより知らないですし。汗
Posted by わめ at 2006年10月04日 23:00
ぼやき漫才やな。
Posted by 三九郎 at 2006年10月04日 23:06
> ぼやき漫才やな。

 笑
 せっかくいい記事(と本人は思っているんだがw笑)を書いてるのに、学会や公明党の話が出てきてぶち壊しになっちゃいそうで過敏に反応しちゃったかもです。(^^;

 Leoさんも「あるひとつの考えや集まりが拡大していくというモデルはもはや時代遅れかつ破綻」と書いてるけど、これは学会や公明党を(も)指していると思うのよね。
 そんな時代遅れかつ破綻している学会や公明党の話は、ここでは無視しちゃってください。ぺこ <(_ _)>
Posted by わめ at 2006年10月04日 23:19
ごめんごめん、わめさんいまだに創価臭プンプンやから、
こっちも過剰に反応してもた。
Posted by 三九郎 at 2006年10月04日 23:25
> ごめんごめん、わめさんいまだに創価臭プンプンやから、
> こっちも過剰に反応してもた。

 にっ匂いますかw汗
 でも三ちゃんも、社会福祉=創価・公明みたいな、ちょっと偏見の眼で見てる節もあるかもよ。
 まぁ、私が一番嫌いな匂いですので、匂ってきたら今後とも指摘してください。^^
Posted by わめ at 2006年10月04日 23:29
三九郎さん。

>公明党って福祉国家を目指してるんちゃうかったっけ?

「目指す」のと「実際に実現した」のはえらい違いで、公明が与党に入ってから福祉が後退(何々が何割負担とか)したですね。

公明は創価の外護と与党の安定化(数合わせのコマ)なんでしょうか。

わめさん。

>てか、公明党のことは共産党のことより知らないですし。汗

選挙番組見ると、公明は当選しそうなところだけピンポイントで候補を出しているのに対して、共産は全部のところで候補出してますね。あれこそ宗教的(非現実的)だと思ったです。

一応公明は大臣(デエジン)1人出して与党でちょっとは苦労しているからほんのちょっとのちょっとは評価したいなあと(ダメ?)。(といっても公明も共産もどちらも支持しないけど(^^;)
Posted by Leo at 2006年10月04日 23:34
>Leoさんも「あるひとつの考えや集まりが拡大していくというモデルはもはや時代遅れかつ破綻」と書いてるけど、これは学会や公明党を(も)指していると思うのよね。
>そんな時代遅れかつ破綻している学会や公明党の話は、ここでは無視しちゃってください。ぺこ <(_ _)>

創価・公明だけでなく(他の大衆宗教も)、石油文明や大国やイデオロギーなど色んなことが含まれるです。
私も創価・公明(だけ)に注目するのはよしますね。
Posted by Leo at 2006年10月04日 23:41
Leoさんこんばんわ。
これからLeoさんの時間ですか?僕はそろそろおやすみなさい。
22:44の僕のコメントがずっとひっかかってるとこなんです。
また、ご意見いただければ、うれしいな。それでは。
Posted by 三九郎 at 2006年10月04日 23:56
三九郎さん、おやすみなさい。

>これからLeoさんの時間ですか?僕はそろそろおやすみなさい。
>22:44の僕のコメントがずっとひっかかってるとこなんです。
>また、ご意見いただければ、うれしいな。それでは。

わめさんの話題の他、三九郎さんの話題も考えてみたいと思います。よろしいでしょうか。> わめさん。

>>物質的幸福が満たされない人に一足飛びで精神的幸福を与えようとするからおかしくなるのかもしれないですね
>
>ここんとこがいつもひっかかってるとこなんです。
>大乗仏教ってのはある程度ゆとりのあるひとが思考し編み出したものなんかな?
>法華経はその最たるもののように思います。

古代ギリシャでは哲学をある程度ゆとりのあるひとが思考し編み出しましたし、法華経は当時のインドの仏教観を背景として僧侶が唱えていたものを別の僧侶が編集したもののようです。(僧侶は庶民に比べて生活の面としてはゆとりがあったと思います)

現代は技術が発達して機械が色んなことをやってくれるので奴隷のような身分はなく誰でもある程度努力すればある程度のゆとりは持てる時代になって来たのではないでしょうか。(パソコン使用したりインターネット利用したり)

話は少しずれますが、今私たちが民主主義や自由や平等や人権や科学といったものの恩恵を受けているのは昔の時代の(観念的ともいえる)思想家のおかげではないかと思います。

○ 啓蒙思想 (Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%93%E8%92%99%E6%80%9D%E6%83%B3

一方で少し昔の庶民は日本では仏教や儒教、西洋ではキリスト教などが道徳のよりどころとなっていたようです。儒教では「衣食足りて礼節を知る」の言葉があります。

大衆宗教が広まったのは戦後の混乱や安保闘争などの混乱の時代で余裕もないし道徳も考えてられなかったと思います。今の時代はそのままではいけないと思います。
Posted by Leo at 2006年10月05日 01:20
 Leoさん、こんばんは。^^

> わめさんの話題の他、三九郎さんの話題も考えてみたいと思います。よろしいでしょうか。> わめさん。

 全然いいですよ。
 法華経といえば元ネタは悲華経って説がありますね。
 なるほど、悲華経には授記品や陀羅尼品などがあり、空(虚空)の文字が117箇所、空・無常・無我2箇所あります。

 今日は珍しく夕方から仕事が入ってまだやってましてちゃんとコメントできませんが、Leoさんの紹介くださった啓蒙思想も興味深いです。

 また日を改めてお返事させてくださいね。(^-^)

 今夜はそれでは。(^_^)/~~
Posted by わめ at 2006年10月05日 02:10
少し考え中ですが...
わめさん(また私も)が求めているのは「啓蒙思想」の現代版かなとも思っているのですがどうでしょうか。

「啓蒙思想とは、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。」
「自然の光を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味。」
「啓蒙思想はあらゆる人間が共通の理性をもっていると措定し、世界に何らかの根本法則があり、それは理性によって認知可能であるとする考え方である。」

現代においては「普遍性と不変性」は少し考えないといけないのかもしれません。
Posted by Leo at 2006年10月05日 02:21
あら、カキコしたら、わめさんのレスがすでに来てました。
Posted by Leo at 2006年10月05日 02:22
Leoさん、おはようございます。

>「衣食足りて礼節を知る」

ですね。でも今の時代にはフィットしてないんかな?

>戦後の混乱や安保闘争などの混乱の時代

やったから、宗教が意味を持ってたのか?なるほど。

今はみんなある程度ゆとりができて、いろいろな考え方が発信でき、
またそれに同意するなかまを集めやすくなったから、
より複雑になって収拾つかないようなカオス状態に落ち入ってるのかもね。
ならよけい、普遍的真理とか一般的定義が難しくなるな。
Posted by 三九郎 at 2006年10月05日 11:11
>「衣食足りて礼節を知る」

これは史記に出てくる「倉リン満ちて礼節を知り 衣食足りて栄辱を知る」が元ですね。(「倉リン」の「リン」は漢字変換されないのでカタカナにしました)

礼節と共に恥をも忘れてしまうのか、恥を知らないから平気で礼節を欠くことができるのか・・・多分後者だろうな。

Posted by 創価瓦解 at 2006年10月06日 13:33
 Leoさん、こんばんは。^^

> わめさん(また私も)が求めているのは「啓蒙思想」の現代版かなとも思っているのですがどうでしょうか。

 むむっ、鋭い指摘w汗

> 「啓蒙思想とは、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。」
> 「自然の光を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味。」
> 「啓蒙思想はあらゆる人間が共通の理性をもっていると措定し、世界に何らかの根本法則があり、それは理性によって認知可能であるとする考え方である。」

 私は以前、感情(情動)と理性を別物と考えておりました。
 【客観的事実と信仰 05】 http://wame.seesaa.net/article/9038447.html

 今でも理性は大切と考えておりますが、人間の持つ理性に過信し過ぎるのはそれはそれで危険ではないかとも思います。

 私のこの記事・コメントでも匂わせているとは思いますが、人間はやはり自分を一番大切に思っていると思いますし、それぞれがそれぞれ大切なら、やはり共存を第一義に考えるべきじゃないかというのが、今の私の率直な思いです。
Posted by わめ at 2006年10月07日 01:32
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