2006年09月11日

分からないこと

 分からないことをどう思うか、また信じるか否かは、最終的にはそれぞれ個人個人の主観に任せられることで、他者がいくら否定や肯定をしても、あるいは分からないことと言ったにしろどうにもならないことかもしれません。
 この分からないことって何なのでしょう。
 世の中、分からないことが沢山あります。
 現在のところ、自分がいつ死ぬか、死んだ後どうなるか、いつどんな病気になるか等々、誰がどう言おうが分かるわけはありません。また、分かったつもりのことでも、実は分かったつもりになっているだけなのかもしれません。
 分からないからか、色んな人が色んな見解を主張をしたりもできますし、色んな思想が生まれたりもし、その見解の主張や思想を支持したり信じたりする人もでてきて、うまくすればおいしい商売等、主張・思想側は諸々のメリットも生まれるのかもしれません。
 またその見解の主張や思想を支持したり信じたりする人も、その当人にとっては何かしら(精神面での安定、安らぎ等)の価値があるのかもしれません。
 ・・・まぁそれはそれでいいのでしょうけれど、でもホントにそれでいいの?と、私には気分的に何かすっきりしないわだかまりがあります。

  
 分からないことは、不安であったり、分からないから面白いとか、人それぞれに色んな捉え方もあるでしょう。
 分からないことを分からないままで、色んな捉え方をするのは私にもありますし、人それぞれそれは自由であっていいじゃんって思うのですが、分からないことを分かったように言ったりすることには、おいおいwちょっと待ってよっと言いたくなります。汗

 そりゃ日本には言論の自由もあり、信教の自由もあるわけですが、客観的事実として認められないものはどう足掻いたって分からないことじゃないでしょうか。

 その分からないことについて分からないとの前提の下に、自分なりに思うことや、他の方の見解や思想に対していい捉え方だと思うとか、好きだとか、信じるなどはいいとしても、分からないことを分かった気になるのは如何なものでしょう。

 分からないことが分かったなら、サイエンス誌等に取り上げてもらいましょうよ。^^

 私はそういった意味では、分からないことに対するブッダの中道的な考え方が好きです。
 分からないことが、ある(常見)とか、ない(断見)とか、(権威ある誰かが言っているからなども含め)根拠もなく決め付けるより、分からないことは分からない(中道)とし、自分なりの捉え方はあっても、分からないのに分かったように、それが真実であるとか、真理であるとか、思ったり信じたり言ったりするのはなるべく避けた方がよいのではないかと思っております。
posted by わめ at 01:16| Comment(11) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わめさん、こんばんは。

# Leo的には学びの秋です...

>私はそういった意味では、分からないことに対するブッダの中道的な考え方が好きです。
>分からないことが、ある(常見)とか、ない(断見)とか、(権威ある誰かが言っているからなども含め)根拠もなく決め付けるより、分からないことは分からない(中道)とし、自分なりの捉え方はあっても、分からないのに分かったように、それが真実であるとか、真理であるとか、思ったり信じたり言ったりするのはなるべく避けた方がよいのではないかと思っております。

そうですね。
たとえば大衆宗教が真理とおもっていることは見直した方がよいし、真理であるならばサイエンス誌
にすでに掲載されているでしょう。

『スッタニパータ』に良いことが書いてあるようです。
「かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執着することなく、学識に関しても依拠すること
 をしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、
 いかなる見解をそのまま信じることがない」
(中村元訳『スッタニパータ』岩波文庫、第4章800、p.180)

但し、『スッタニパータ』の「ジャイナ教的相対主義」の立場は注意点のようです。
○ 『スッタニパータ』vs.『ダンマパダ』(袴谷憲昭)
http://page.freett.com/Libra0000/009.html
Posted by Leo at 2006年09月12日 00:56
 Leoさん、こんばんは。^^

 人は何かを得ようと学びますが、学び得た知識により、分からないということが理解できるのかもしれませんね。
 そして分からないということが理解できたなら、執着していたことも捨て去ることができるのかもしれません。
 が、短絡的に自分には分かることなど何もないんだなどと妄想するのは、単なるおバカなのかもしれません。w汗

> # Leo的には学びの秋です

 Leoさんはおバカじゃないわ・・・ 私は?・・・( ̄へ ̄|||) ウーム

> 但し、『スッタニパータ』の「ジャイナ教的相対主義」の立場は注意点のようです。

 「ジャイナ教的相対主義」、私にはよく分かりませんでした。
 もう少し自分なりに調べてみます。
Posted by わめ at 2006年09月12日 01:44
私はおバカなんですけどカール・ポパーの言葉に希望を持っています。

「わたくしは、たとえある人びとはほかの人びとよりもいっそうそうであるとしても、すべての人は哲学者であると信じている。」
「いずれにせよわたくしは、言い表わされもせず、吟味もされていないまま、ヴァイスマンの見事な論文の基礎とされている考え方、
つまり、知的で哲学的なエリートが存在するという考え方には真っ向から反対する者である☆2。」

○ あらゆる人々は哲学者である(カール・ポパー)
http://page.freett.com/Libra0000/113.html

「カントはこう書いている。「啓蒙とは、みずから課した保護の状態から人を解放することである……外からの案内なしには、
自分自身の知性を使うことができないという無能力の状態からの解放である。わたくしが『みずから課した』保護の状態と呼ぶのは、
それが知性の欠如によるのではなく、勇気ないしは決意が欠けているために、自分自身の知性を使わずに指導者に頼っている
状態のことである。あえて賢かれ〔Sapere aude!〕、自分自身の知性をあえて使え。これが啓蒙の標語である(6)。」」
「できるかぎり科学をよくするのは、あなたであり、わたくしである。そして、それに対して責任を負うのも、あなたであり、わたくしである。」

○ 自分たち自身の知性を使え(カール・ポパー)
http://page.freett.com/Libra0000/118.html

「科学をよくする」は「科学」だけでなく社会の色々なことたとえば「宗教」にも拡張できるのではないでしょうか。
「まぁそれはそれでいいのでしょうけれど、でもホントにそれでいいの?」という対象の側人々(といっても自・他共に)に「啓蒙」
(新聞でなく)を行うお手伝いができたらとも思ってます。

それから、原始仏教に見られる論争はやめましょう的な主張(「ジャイナ教的相対主義」)は修行者の平安に必要なことではあっても、
「何々をよくする」ことには反するのではないかと思います。
後世の中観思想の流れを汲む人々(日蓮(大)聖人も含めて)は論争を行いましたし、((「ための論争(論争のための論争)」ではなく)
「何々をよくする論争」は現代も必要ですし、(話が飛躍しますが)破壊力を使用した闘争(戦争など)やプロパガンダは
論争にとってかわられるべきだと思います(各国首脳や国民の朝まで徹底生討論のような...)。

(余談)

「語りえぬものについては,沈黙せねばならない」(論理哲学論考)と主張するウィトゲンシュタインをポパーは批判しました。

○ ポパーのウィトゲンシュタイン批判――火かき棒事件(小河原誠)
http://page.freett.com/leo020503/note018.html
Posted by Leo at 2006年09月12日 02:29
 Leoさん、こんにちは。^^

 できるかぎり科学をよくするのは、我々の努力と誤りの結果ですか。
 ポパーらしい素敵で、私達がつい見落としがちでしかも(最)重要な視点ですね。^^
 いくら正当化やその主張を重ねても科学はよくならない、我々が誤りを発見することにより科学はよくなるということですね。
 それは我々がより真理に近づいていくことでもあるのでしょうね。
 そしてこの科学の語は、宗教など色々な語に置き換えることが出来ると。
 私は「科学」の語を、「人間」に置き換えるのもいい感じだなと思います。(*^▽^*)

 カントのテキストの引用は一個下の記事のコメントとしても有用に思いました。(^^;

> それから、原始仏教に見られる論争はやめましょう的な主張(「ジャイナ教的相対主義」)は修行者の平安に必要なことではあっても、「何々をよくする」ことには反するのではないかと思います。

 ジャイナ教的相対主義とは、「真理は多様に言い表せると説き、一方的判断を避けて相対的に考察する」といった考え方のことでしょうか。
 このような考え方が、スッタニパータの所説(第4章832)に存在するということですね。

 このジャイナ教的相対主義と、ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては,沈黙せねばならない」との主張は、論争を避けるといった意味合いでは同様であるように思いますが、ブッダの中道思想もこのような意味合いでは同様なのかと疑問を感じ思索をめぐらしたのですが、まだ分かりません。汗

 ですが、私の思うブッダの中道思想は、種々の見解の論争の中に、新たに中道という見解を表明して、論争に参加するとの捉え方です。
 中道という見解で論争に参加し、論争が終結するといった傾向が多いとは思いますが、これは中道が論争を避けるための見解なのではなく、中道の見解の表明により、他の見解には確かな根拠がないということが明らかになったということだと思います。
Posted by わめ at 2006年09月12日 10:54
わめさん、こんばんは。

>そしてこの科学の語は、宗教など色々な語に置き換えることが出来ると。
>私は「科学」の語を、「人間」に置き換えるのもいい感じだなと思います。(*^▽^*)

世の中これはこうなってるからまあいいか的理解で「ホントにそれでいいの?」という場合
なにもしないのでは足りなくて、努力し誤りから学び進むという感じでしょうか。

>ですが、私の思うブッダの中道思想は、種々の見解の論争の中に、新たに中道という見解を表明して、論争に参加するとの捉え方です。
>中道という見解で論争に参加し、論争が終結するといった傾向が多いとは思いますが、
>これは中道が論争を避けるための見解なのではなく、中道の見解の表明により、
>他の見解には確かな根拠がないということが明らかになったということだと思います。

そういうこともあるかもしれないですね。

ブッダは無駄な論争は避けていたようですが意外と(慈悲が沢山の)折伏(論争?)をしていたようです。
「真のバラモンとは...」の説法とか、当時の他教団の人がブッダの教団に入ったり
(シャーリープトラもその一人)。説法の時も獅子口(獅子がほえるよう)というように大声だったようです。

私もちょっと色々調べてみます。
Posted by Leo at 2006年09月13日 01:01
(続き)

>このジャイナ教的相対主義と、ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては,沈黙せねばならない」との主張は、論争を避けるといった意味合いでは同様であるように思いますが

これらの主張はなにかをよくするという方向に向かわなくなにもしないで終わってしまう危険性がありそうです。
Posted by Leo at 2006年09月13日 01:05
 Leoさん、こんばんは。^^

> ブッダは無駄な論争は避けていたようですが意外と(慈悲が沢山の)折伏(論争?)をしていたようです。

 私的には、主観的であまり好きな表現ではありませんが自他彼此の心とでも申しましょうか、縁起する世界に生きていることを理解し、他者と切っても切れない関わりの中で生きながら、自分だけの解脱や悟りや涅槃寂静が得られるわけもないというのが、ブッダの慈悲であり維摩詰の思いなのではないかと考えます。
 なんて言うと仏教に思い入れがあるように思われるかもしれませんが、仏教に関係なくとも、この社会に現実に生きる者同士として、悲しいニュースに憤りを感じ、他者のほんの些細な喜びに触れ笑みし、自分の人生にも喜怒哀楽を感じながら生きていくというのも、この世に生を受けた者として至極当然なことなのではないかと思います。
 だからこそ、出来る限り無駄な論争は避けたいですし、また、無駄であるかもしれないと思いながらも、黙って見過ごすこともできないのではないでしょうか。

> >このジャイナ教的相対主義と、ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては,沈黙せねばならない」との主張は、論争を避けるといった意味合いでは同様であるように思いますが
>
> これらの主張はなにかをよくするという方向に向かわなくなにもしないで終わってしまう危険性がありそうです。

 自己中心的に考えればそれはそれでいいのではないでしょうか。
 また、自我の確立段階過程においては、必要なステップでもあるように思いますし。
 何かをよくすると無理に思う必要はないのですから。
 ホントにそれでいいのでしたらですけど。
Posted by わめ at 2006年09月13日 03:33
(余談です)

以前Wikipediaのポパーの項目見たら「問題点」と「著書」だけだったので
(´・ω・`)ショボーンとしてたのですが、今日見たら
「問題点」の項目が「ポパーの科学哲学」にアップデートされてました。

○ カール・ポパー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%91%E3%83%BC
Posted by Leo at 2006年09月18日 23:29
 Leoさん、こんにちは。^^

> 「問題点」の項目が「ポパーの科学哲学」にアップデートされてました。

 あれ?、以前いつだったか見た時は既にアップデートされてました。
 いつだったか忘れましたけどw汗
Posted by わめ at 2006年09月21日 13:57
そうすると、編集合戦があって、一時期「問題点」ショボーン(´・ω・`)バージョンになっていたのかもしれないですね。
Posted by Leo at 2006年09月22日 00:40
どっかの大企業の社員が、その会社の汚点的な事実情報を削除(複数回)したとかで、それがばれてその会社から処分されたようです。

ネットで匿名性があると過信して、不正なことをやっていると痛い目をみたりもしますね。

こっちの話題じゃないけど、ネットでの自分の言動も自分を映す鏡かもです。^^
Posted by わめ at 2006年09月27日 15:39
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