2006年08月22日

意識について

 自身の守るべきもの、守備範囲とでも申しましょうか、自分・家族といったものは我が身そのものの縄張範囲、友人・知人といった守備範囲、できることならのこうなって欲しいという希望範囲、細かくそういった範囲を立て分ければ以外とその範囲種別は多いのではないでしょうか。
 仏教では無我といって、自立自存するものなど何もない(無自性)と説きますが、それを自分の事として理解するためにも、自我意識及び自分と強く影響を及ぼし合う他者との相互関係について、明確に自覚を持つことは大切なことのように思います。
 縁起に依るひとつの現象に過ぎない自分であっても、そこにはちゃんと意識があり、自分という現象を守り続けたいと思うことは、この世に生を受けたものとして、正常なことのように思います。
 また、そこからでしかその先に進めないのかもしれません。

  

 物質と時間は別々のものではなく、時空という一体の存在(4次元世界)というのが昨今における有力な仮説ですが、一般的に一人ひとりの意識と言うのは、それほど広い世界を認識することはできませんが、冒頭で挙げたように狭い守備範囲でさえ、他者の意識と自分の意識は関わり合い混ざり合うもので、希望範囲ともなると多数の意識とが混ざり合う世界でもあります。
 さて、意識が混ざり合うとは具体的にはどういったものなのか、それを個の自我意識に置き換えても、自我意識外からの影響を多大に受けての自我意識であり、それは時空というこの無限に思えるようなこの世界でも同様で、在りのままにみれば意識の混ざり合わない世界などどこにも存在しないのかもしれませんし、そこからそれぞれの自分の純粋な元の自我意識だけを抜き出すことなどできるはずもありません。
 自我意識とは、あらゆる範囲の意識との関わりの中で他者と互いに影響を与え合いながら、曖昧で漠然とした捉えどころのないものを何となく自分の意識と考えているといったところではないでしょうか。
 そして意識の関わり合い混ざり合った結果とは、在りのままのこの世界そのものです。ただ前述のように人はそれほどマクロ的な広い視野を持っておりませんから、範囲を何種類かに絞ってミクロ的に観察する以外にこの世界を認識する方法がありません。
 しかしそうであっても、何種類かに絞ったそれぞれの範囲には、そこに大小の偏りがあるとしても、在りのままのこの世界そのものが凝縮されていることは間違いないことのように思います。

 あなたと私の意識は明らかに違います。
 そしてあなたと私の意識は、意識の混ざり合うこの世界から生まれ育まれたそれぞれの意識です。
 それぞれの意識とは、意識の混ざり合うこの世界から、実際に抜き出すことはできないのかもしれません。
 自他の意識の区別など、痛みを感じる縄張・守備範囲等での生存維持、種の保存、防衛機能、個人の識別には有効ではありますが、意識の混ざり合ったこの世界からすれば、自他の意識の区別などどこにも存在しないのかもしれません。
 それぞれの意識が関わり合い混ざり合ったこの世界を大河とするならば、大河の一滴である我々個々の意識は、大河から抜き出すことなどできず、大河そのものといえるのではないでしょうか。

 人間があと20〜30年も長寿になれば、あるいは先哲の残したテキストや意識が、今後の私たちのそれぞれの意識や、意識が関わり合い混ざり合ったこの世界を、やがて大きく変えていくことになるのかもしれません。

 私はこの記事で何が言いたかったんだろう・・・
 ・・・さっぱり解りません。涙

 〇意識に対するあるひとつの仮説
 「意識は意識という自分自身を意識する、という入れ子構造を持っている。」と、津田教授は(北海道大学教授 津田一郎 著 「カオス的脳観」サイエンス社 1990)で言われていますが、大脳の中にはカオスが存在(実際に観測されている)し、そのカオスそのものが、私たちの感じている意識そのものなのかもしれません。
posted by わめ at 17:26| Comment(15) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>私はこの記事で何が言いたかったんだろう・・・
 ・・・さっぱり解りません。涙

そんなわめさんが、私は好きよ。(*^0^*)
かわゆい。^m^
Posted by ほしのしずく☆ at 2006年08月22日 18:09
 しずくちゃん、こん。^^

 あまり慰めにもなってないコメントのようですが、そのお気持ちに感謝!(^。=)
Posted by わめ at 2006年08月22日 21:51
「わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)」
(『春と修羅』序詩、宮沢賢治)

電燈は失われても放たれた光は永久に残るのですね...


(Leoの素朴な希望)
出来るならLeoは八千年ぐらい生きて人類の進歩を見たいものだなあ。
木になって八千年修行して、岩になって八千万年修行して、
星になって八百億年修行したいなあ。
Posted by Leo at 2006年08月22日 21:55
 あは、Leoさん、こんばんは。^^

 Leoさんの素朴な希望、私にもありますよ。
 私なんてスタートレックのQ連続体みたいに、過去から未来から旅してみたいです♪
Posted by わめ at 2006年08月22日 22:11
 そういえば横山光輝の漫画で、時の行者ってのもありましたね。
 あんなのでもいいなぁ〜^^
Posted by わめ at 2006年08月22日 22:13
 Leoさん、ちょっと夢見がちの方向に脱線しちゃいました。ヾ(_ _。)ハンセイ…
 気を取り直して・・・

> 電燈は失われても放たれた光は永久に残るのですね...

 そうですね。^^
 どのように残っていくか、私はそれが気掛かりです。
Posted by わめ at 2006年08月22日 22:28
わめさん、こんばんは。

私なんかもLibraさんに逆折伏されなければいまだに訂正できない心の人だったかもしれないです。
私は過去学会を全肯定していましたが訂正できない心の中にも苦しみはあったと思います。

>Leoさん、ちょっと夢見がちの方向に脱線しちゃいました。ヾ(_ _。)ハンセイ…
>気を取り直して・・・

世の中夢っぽいことが本気だったり本気っぽいことが夢だったりすることがあったりしますね。

>そうですね。^^
>どのように残っていくか、私はそれが気掛かりです。

やや話がずれますが、
丁度(?)『大百蓮華』の8月号から「生死一大事血脈抄講義」が連載されてます。
(どのような文献でも批判的に読めば大丈夫(?)と思います)

伝統的な教学の中にあるようでありながら宗祖本仏論より釈尊や法華経を評価する点もみられます。
教学部がLibraさんの主張等を参考にしているか、でなければ仏様のお導きがあったのでしょう。
Posted by Leo at 2006年08月24日 23:34
KNCさんの資料を見て「タバコは心のお手洗い」から「宗教は心のお手洗い」と
思いました。仏教の功徳としては六根清浄があったりしますし。

KCNの哲学と宗教
7.x タバコは心のお手洗い
http://www.angel.ne.jp/%7Ekcn/?jsophism7

「宗教は心のお手洗い」とるすと、こんな感じ(やや宗教嫌いに傾きますが)。

僕は宗教が嫌いです。宗教をやる人も嫌いです。
もちろん、実際には宗教の信者の友人も居ますし、普通に話せば全然悪い奴とも思
いませんし、僕なんかより尊敬できる人間が、宗教の信者の中にも沢山居ると思いま
す。だけど、人前で宗教を正当化する姿は、やっぱり軽蔑の対象となります。

宗教は精神に悪いです。信じる人自身の精神にはもちろん、周りで宗教を信じさせられる
人の精神にも悪いです。自分の精神を害するのは、愚かな行為、他人の精神を害するの
は、迷惑行為と言えるでしょう。

 宗教信じることが愚かな行為である事は確実です。格好悪いと思います。が
しかし、一般に、愚かである事をもって悪とする事はできません。また、愚かな
人間を、それだけを理由に軽蔑するのも戴けないことだと思います。人間には愚
行権というものがあり、ある意味愚行は人間の本質でもあります。

(ホームで題目をあげたりしませんからやはり当たらずとも遠からずではないでしょうか)
Posted by Leo at 2006年08月24日 23:59
 Leoさん、こんばんは。^^

> 私なんかもLibraさんに逆折伏されなければいまだに訂正できない心の人だったかもしれないです。
> 私は過去学会を全肯定していましたが訂正できない心の中にも苦しみはあったと思います。

 逆折伏の話、先日Poh師匠よりお電話で伺いました。
 Poh師匠は、Leoさんが壊れないか心配されていたようです。(^^

> 丁度(?)『大百蓮華』の8月号から「生死一大事血脈抄講義」が連載されてます。
> (どのような文献でも批判的に読めば大丈夫(?)と思います)

 そうですね、そこから有意なことを拾い出せることも可能性もありますし、思い込みで無視して捨て去るのはもったいないことかもしれませんね。妙に納得。笑

> 伝統的な教学の中にあるようでありながら宗祖本仏論より釈尊や法華経を評価する点もみられます。
> 教学部がLibraさんの主張等を参考にしているか、でなければ仏様のお導きがあったのでしょう。

 釈尊や法華経の評価は、主にSGIを意識してのことではないでしょうか。
 SGIと創価学会の教義の整合性を図ろうとしているようにも思えます。
 宗祖本仏論は、海外(特に欧州やアメリカ)では受け入れ難く、仏教はブッダ(釈尊)のイメージが強そうですし、正宗と手が切れてからは特にその傾向が顕著になってきているように思います。
 それに多くの学会員も、最近は池田名誉会長の指導に重きをおいて、教義にはあまり関心を示さなくなってきていることも好都合なんじゃないでしょうか。
Posted by わめ at 2006年08月25日 00:01
 レス書いているうちにLeoさんから次きてた。笑

> KNCさんの資料を見て「タバコは心のお手洗い」から「宗教は心のお手洗い」と
> 思いました。仏教の功徳としては六根清浄があったりしますし。

 おお、読んでくださったのですね。^^

> 「宗教は心のお手洗い」とるすと、こんな感じ(やや宗教嫌いに傾きますが)。

 タバコを宗教と言う言葉に置き換えたのですね。面白いです。(^^;
 不謹慎かもしれませんが、妙に納得できちゃう自分が怖いw汗

> (ホームで題目をあげたりしませんからやはり当たらずとも遠からずではないでしょうか)

 でもKCNさん、タバコが嫌いなのにタバコを吸う方のこともよく考えてらっしゃるように思います。

『 公共の場には、公共の喫煙所が用意されるべきなのです。そして、公共の場に
おける喫煙所以外での喫煙は禁止されるべきなのです。公衆トイレが無ければ、
如何に生活しにくいか、公共の場で排尿・排便をすれば、如何に迷惑で恥ずかし
い行為であるか、想像すれば、すぐに分かります。実際に取り締まるかどうかは
別として、立小便は軽犯罪法違反となりますが、歩きタバコやポイ捨ても、実際
に取り締まるかどうかは別として、当然軽犯罪法違反とすべきです。
そういう意味では、今の喫煙所にも多くの問題があるでしょう。タバコを吸う
人でも、他人のタバコの煙を吸うのは嫌だと聞きます。喫煙所には、もっとプラ
イベート性が必要です。汚くて居心地の悪い喫煙所も良くないでしょう。
特に悪いのが、駅のホームの喫煙所(喫煙コーナー)ではないでしょうか。そこ
には喫煙所の目印と吸殻入れが置いてあるだけ・・・駅のトイレが、ホームに穴
が空いてるだけだったら、その穴の周りでみんなが用を足していたとしたら、ど
ういうことになるか・・・まさにそういう状況が駅のホームで生じているのです。

「タバコは心のお手洗い」。まさに、お手洗いと同等の取り扱いが、タバコに
対する態度として、我々の社会に求められている、と思います。 』

 ・・・宗教も場合により、軽犯罪法違反が適用されるべきなんて言っちゃったらダメかな。汗
Posted by わめ at 2006年08月25日 00:14
わめさん、こんばんは。

>タバコを宗教と言う言葉に置き換えたのですね。面白いです。(^^;
>不謹慎かもしれませんが、妙に納得できちゃう自分が怖いw汗

公共の手洗いは別として、自宅の手洗いは意外と綺麗な場所だったり
しますね。(公共でも綺麗な場合はありますが)
時と場合によってはくつろいだり読書や思考の場所だったりして。

また、公共の手洗いが汚いから綺麗にしようという主張をすると、
手洗いは汚いのがよいのだと主張するマニアックな人が出てきたり(^^;

汚いっぽいと考えがちな場所を綺麗にするのもひとつの文化かなと思います。
私の願望は手洗いは綺麗で(お洒落で)あって欲しいし可能な限りそのような
状態になるようにほんの少し努力します。
Posted by Leo at 2006年08月25日 21:46
(続き)

>宗祖本仏論は、海外(特に欧州やアメリカ)では受け入れ難く、仏教はブッダ(釈尊)のイメージが強そうですし、正宗と手が切れてからは特にその傾向が顕著になってきているように思います。

今では邪宗は正宗と顕正会ぐらいだといっておられた方がいましたが、どちらも宗祖本仏論の傾向の強い団体ですね。

>それに多くの学会員も、最近は池田名誉会長の指導に重きをおいて、教義にはあまり関心を示さなくなってきていることも好都合なんじゃないでしょうか。

終戦の玉音放送のようなものですね(ちょっと違うでしょうか)。
正宗に比べて学会が圧倒的に人気があったのもそれなりによいことだったのかもしれないです。
Posted by Leo at 2006年08月25日 22:17
(続き)

>逆折伏の話、先日Poh師匠よりお電話で伺いました。
>Poh師匠は、Leoさんが壊れないか心配されていたようです。(^^

そうだったのですか。こっちの話忘れてました。

Leoは壊れなかった:
学会で得た根性と希望の哲学で壊れなかった。

秘密の悪の組織(学会が悪の組織ではマズいですがこの部分ではアンチ的視点ということで)に改造されて
不死身になって悪の組織に利用されようとしたが正義に目覚めて戦う不死身の戦士
(別に戦士でないですが)のようなものでしょうか(たとえが変すぎですが...)。

Leoは壊れた:
訂正できない心が訂正できる心になった。

学会という枠を自己に戻しかつ社会に広げ(?)物事の壁がなくなった(低くなった)。

壊れなかったけれど壊れたです。ヤバかったと思います。仏教や哲学の勉強が支えになっていた
時期もありました。一歩間違えば精神科のお世話になっていたと思います
(今でも行ったほうがよいって?)。
Posted by Leo at 2006年08月25日 23:13
(続き)

>学会で得た根性と希望の哲学で壊れなかった。

もうひとつ忘れてました(刑事コロンボじやないんだけど)。

そして釈迦の教えに癒されました。
Posted by Leo at 2006年08月25日 23:17
 Leoさん、こんにちは。^^

 Leoさんの今回のコメント、面白いのでこのまま放置♪〜( ̄。 ̄)
Posted by わめ at 2006年08月26日 13:37
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