2006年08月05日

釈尊が肯定する信仰

 釈尊の「信仰を捨てよ」について、Libra師匠Leoさんと以前に議論しましたが、Libra師匠の言われる「仏教的信仰」を信仰と規定されるものの概念内に収めるなら、釈尊の「信仰を捨てよ」に該当する信仰とは言えないとの見解を私は示しました。
 しかしながら私の表現能力不足か、はたまた信仰という言葉自体が広範な概念を持つ言葉であるが故か、どうもすっきりと腑に落ちていかなかったという感が私には残ってしまいました。
 そこで改めて私の主張を明確にし、ご批判を頂ければと思いこうして記事にすることにしました。^^

  
 釈尊の「信仰を捨てよ」の言葉は、信仰を持たない私にとりましては大変心地の良い言葉ですが、「仏教的信仰」は、この釈尊の「信仰を捨てよ」の信仰に該当するとは思えませんから当然除外されると私は思っておりますが、釈尊の「信仰を捨てよ」に該当する信仰というものと、「仏教的信仰」がどうにもこうにもギャップがあり過ぎるように私は感じます。

 そこで私は「仏教的信仰」を信仰の概念から切り離し、”釈尊在世当時は無かった言葉”ではありますが、『「批判的合理主義」を「命題に対してわれわれがとるべき態度」の前提として「合理的に保持できる命題に対する心理状態」(以下、合理的に保持できる命題に対する心理状態と略す)』と定義して信仰と切り離し、釈尊の「信仰を捨てよ」には該当しないと私は言いたいと思います。
 このような私の主張では、釈尊の「信仰を捨てよ」に該当しない信仰はすべてなくなり、仏教徒にとって「信仰は捨てるもの」とスッキリ言えて気持ちいいです。^^

 釈尊が肯定する信仰とは「合理的に保持できる命題に対する心理状態」以外にはなかったと、勝手な憶測ではありますが現在のところ私はそのように思っております。

追記 2006/08/05 17:15

 Libra師匠の言われる「仏教的信仰」のNo92の見解より以下引用

 そもそも、この「信仰を捨て去れ」という表現は、この文句が埋め込まれて
いる文脈から素直に解釈すれば、《シャカがそれまでにはなかった斬新な見解
に到達した》ということを、従来の見解との対比において描写したものである
と捉えるのが自然だろうとおもいます。この文句が埋め込まれている文脈から、
《信仰の対象を限定せずに、何かを信仰すること一般をすべて否定している》
という解釈を導き出すのはひどく困難だとおもいます。

 そういう意味では、この文句は、ブッダゴーサがいうように、「当時の諸宗
教に対する信仰を捨てよ」[*3]という意味に解釈するのが妥当だとおもいます。
中村先生もこのオーソドックスな解釈を紹介され、かつ、肯定されています。

 「当時の諸宗教に対する信仰を捨てよ」ということは、「仏教を信仰せよ」
ということとなんら矛盾しません。矛盾しないどころか、全く同じことをいっ
ていると主張することさえ可能だろうとおもいます。

 私はこの師匠の見解とは異なった見解を持っております。
 釈尊は、「当時の諸宗教に対する人々の信仰態度」を否定し、そのような信仰態度で仏教に臨むことをも否定されたと解釈するのが妥当なのではないでしょうか。

 私のこの解釈からすれば、「信仰を捨てよ」は、思想(宗教)の再選択(当時の諸宗教から仏教へ)を宣揚する言葉ではなく、思想(宗教)を受け入れる側の盲信的信仰態度を否定し、「合理的に保持できる命題に対する心理状態」で仏教に臨むことを宣揚されたのが「信仰を捨てよ」の言葉の真意であると、私は現在のところ思っております。
posted by わめ at 05:39| Comment(44) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わめさん、こんばんは。

面白いと思うのですが科学も一種の信仰であるという人もいます(たとえば顕正居士さんとか)。
一方で(Libraさんに伺えればよいですが...)Libraさんも合理性は否定しないのではないかと思います。
(表現の違いだけで結論が同じ可能性があるのではないかと...)

最近私は、自分は諸宗教に対する信仰は採用しませんが諸宗教の信仰者の諸宗教に対する信仰が心理的効果を持つということが合理的に保持可能ではないかと考えています。
また世界の諸宗教の信仰者の状況を考えるとジョン・レノンの歌「イマジン」のように宗教存在しない状態を想像することは難しいですが、世界の宗教が対立を克服して一種の文化や習慣の違いのようにお互い寛容になって共存するという世界を想像したりします。
そういう意味でも仏教の合理性や「信仰を捨てよ」は意味のあることだと考えております。
Posted by Leo at 2006年08月07日 01:21

1.「信仰を捨て去れ」という文句が埋め込まれている文脈(1)

 わめさん、おはこんばんちは。

 にっし〜さんのところで予定外にがんばってしまいましたので、
もうほとんど時間を使い果たしてしまいました。しかし、少しだけ
コメントしておきます。

> 釈尊は、「当時の諸宗教に対する人々の信仰態度」を否定し、そ
> のような信仰態度で仏教に臨むことをも否定されたと解釈するの
> が妥当なのではないでしょうか。

 「信仰を捨て去れ」という文句が埋め込まれている文脈を確認さ
れてください。この文句は『パーリ律蔵』「大品」にでてくるもの
としてとても有名です。『律蔵』「大品」の和訳はさがせば入手で
きるはずですから、どうか、文脈をご確認ください。

 佐倉さんが引用されているのはスッタニパータ第1146でしょう。
この句が埋め込まれている文脈を簡単に確認してみましょう。さい
わいなことに、全文がアップされています。

  第五 彼岸に至る道の章
  http://www006.upp.so-net.ne.jp/fransoie/zuian/kotoba05.htm
Posted by Libra at 2006年08月07日 14:45
2.「信仰を捨て去れ」という文句が埋め込まれている文脈(2)

 中村先生は、第1146をシャカの発言であるかのように訳されてい
ますが、これは誤訳でしょう。この句はあきらかにヴァッカリ自身
の言葉です。なぜなら、シャカはその場にいないからです。

 この場面は、ピンギヤがヴァッカリのところに戻ってきて、ヴァ
ッカリとやりとりしている場面です。「ピンギヤよ。」とあります
ので、ピンギヤの発言ではありえません。したがって、ヴァッカリ
の発言であることはまちがいありません。

 シャカがその場にいないことは、ピンギヤの以下の発言から明ら
かでしょう。

  「わたくしは、もう老いて、気力も衰えました。ですから、わ
   が身はかしこにおもむくことはできません。しかし想いを馳
   せて常におもむくのです。バラモンさま。わたくしの心は、
   かれと結びついているのです。」(第1144)

 ピンギヤのこの発言は、シャカの言葉でいえば、「法を見る者は、
われを見る」ということです。

  「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄) 
  http://page.freett.com/Libra0000/085.htm

 法華経のような大乗経典であれば、シャカはいくらでも時空を超
えてやってきてくれるわけですが、スッタニパータのシャカにそれ
をさせてしまうような解釈というのはやはり無理な解釈というべき
でしょう。

 中村先生は、第1146の表現が、よく知られているシャカの言葉と
同じであったため、はやとちりされたのでしょう。
Posted by Libra at 2006年08月07日 14:49
3.「信仰を捨て去れ」という文句が埋め込まれている文脈(3)

 ヴァッカリはピンギヤからシャカの教説を伝え聞いた結果、シャ
カが従来の宗教を否定したこと(第1080)の妥当性を認め、自らも
従来の考えを捨てて、弟子のピンギヤが従来の考えを捨てることを
承認したわけです。それが第1146の意味です。

 第1146には「バドラーヴダが信仰を捨て去ったように」というこ
ともいわれていますが、これは、おそらく、第1102が、「シャカの
教えに聞きにくる人は、シャカの言葉を聞いて、シャカの見解に納
得し、従来の考えを改めて帰っていく」ということを意味する句で
あることを示唆しています。

 ピンギヤは、第1146のヴァッカリの言葉をうけて、「わたくしは
聖者のおことばを聞いて、ますます心が澄む(=信ずる)ようにな
りました。」(第1147)といっていますが、ここでいわれている
「聖者」というのはヴァッカリのことでしょう。

 第1147の「心が澄む」の原語はサンスクリットでいうところの
「プラサーダ」ですが、この語は「信仰」と訳しても全く問題がな
いとおもいます。

 ピンギヤは、第1143において「信仰〔中略〕が、わたくしを、ゴ
ータマの教えから離れさせません。」といっていますが、ここで
「信仰」と訳されている原語もおそらく「プラサーダ」でしょう。

 第1147〜第1149のピンギヤの発言を見れば、ピンギヤがシャカを
「信じうやま」(goo辞書の第2義)っている、すなわち「信仰」
しているといっても全くおかしくはないとわたしはおもいます。

 そもそも第1146はシャカの言葉ですらないし、ましてや、わめさ
んのおっしゃるような意味で発せられたものではないということは
明らかだとわたしはおもいます。

 シャカ自身の「信仰を捨て去れ」という言葉については、『律蔵』
「大品」を読まれて判断されてください。
Posted by Libra at 2006年08月07日 14:51
4.仏教徒が「信」といっている態度の性質に関する議論

 「信仰を捨て去れ」という文句の解釈の問題とは切り離して、仏
教徒が「信」といっている態度の性質をあきらかにし、それが、仏
教に無知な現代日本人が「信仰」という語に接した時に最初に抱く
イメージ(goo辞書の第1義)とは異質であるという議論をされた
いのであれば、されてもよいとおもいます。しかし、それは、日本
語の問題でしょう。シャカ自身の「信仰を捨て去れ」という文句と
は関係がありません。上記の異質性を強調するために、「信仰を捨
て去れ」という文句を持ち出すのはあきらかに誤りだとおもいます。

 「思想(宗教)を受け入れる側の盲信的信仰態度を否定」する仏
教の「信」の性質をあきらかにするためには、「信仰を捨て去れ」
という文句ではなく、以下の資料で引用されているシャカの言葉を
引用されるべきだろうとおもいます。

  ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
  http://page.freett.com/Libra0000/048.htm

 日蓮の言葉でいうなら、「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨
てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」(「曾谷殿御
返事」、全集、pp.1055 -1056)などが対応するのではないでしょ
うか。また、日蓮の場合には、理証と現証が信仰の条件となってい
ます。

5.前回の議論を再読されてください

 上記のことをふまえたうえで、前回の議論を読み直されることを
お勧めいたします。わたしがそこで何を語っていたかがご理解いた
だけるだろうとおもいます。それでも腑に落ちないようでしたら、
また次回ということで。


                          以上
Posted by Libra at 2006年08月07日 15:00
6.補足

 ひとつ言い忘れていました。以下は、「思想(宗教)の再選択
(当時の諸宗教から仏教へ)を宣揚する言葉」だとおもいます。

  「たとえば鳥が疎(まばら)な林を捨てて果実豊かな林に住
   みつくように、そのようにわたくしもまた見ることの少な
   い人々を捨てて、白鳥のように大海に到達しました。」
  (第1134)

                      本当に以上
Posted by Libra at 2006年08月07日 15:04
 Leoさん、Libra師匠、こんにちは。^^

 お返事は師匠が提示して下さったことや前回の議論を再読して改めてさせていただきたいと思いますが、師匠から更にコメントが頂けたらうれしく思いますので、佐倉氏の見解を私なりに解釈して以下に提示いたします。

> 佐倉さんが引用されているのはスッタニパータ第1146でしょう。

 について、これは下記が該当するのではないでしょうか。

http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism31.html
の【(3)信仰ではなく、「正しい理解」による 】
『「信仰を捨てよ」というのは特殊なケースではありません。この言葉は、ブッダの伝道宣言ともいわれている有名な「梵天勧請」にもありますが、そこでは、あきらかに、特定の人にあたえられた言葉ではなく、すべての人(「耳ある者」)にあたえられたブッダの言葉です。
耳ある者に甘露(不死)の門は開かれた。信仰を捨てよ。(サンユッタニカーヤ 6:1、中村元訳)
また、ダンマパダ97には、
何ものかを信じることなく、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り、生死のきずなを絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、--- かれこそ実に最上の人である。(中村元訳)
ともあります。
ブッダの教えには、神々に依存する教えはありません。また、ブッダは自分自身が信仰の対象となることを拒否しました。そして、いままで見てきたように、無知を克服し(無明を破る)、人間苦の原因や条件への洞察(正しい理解)を深め、それを取り除く努力(精進・修行)をすることがブッダの教えです。ブッダの思想には信仰の場所がありません。

平静なこころがまえとおもいの清らかさ、それは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるあるが、これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。
(スッタニパータ、1107)

智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それら(怒りと高慢)の危難に打ち勝て。(スッタニパータ、969)

ブッダは見解(ドグマ)への執着を捨てることを説いたのですから、ドグマへの信仰はブッダの思想に似合いません。人間苦の原因やそれからの解放に関する真実・真理を知ること、それこそがブッダの思想に似合うものと思われます。

比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。
(マッジマ・ニカーヤ 22)

歴史は、人間として生まれ、人間として死んでいった、このブッダという人物や、彼の教えを信仰の対象に昇華し、あるいは超人化していきましたが・・・。 』


 佐倉氏の上記発言では『ブッダの思想には信仰の場所がありません。』と言われており、師匠の言われるような「仏教的信仰」を除けば信仰は捨て去るべきもので、信仰ではなく「人間苦の原因やそれからの解放に関する真実・真理を知り、それを取り除く努力(精進・修行)をすること」が、ブッダの中心思想との見解を持たれておられるように思います。

 また佐倉氏はマッジマ・ニカーヤ 22を引用され、「教え(法)とは筏のようなもの」で、ブッダの教え(善き教え)でさえ捨て去るべきで、信仰の対象とすべきではないと言われているように思います。
Posted by わめ at 2006年08月07日 15:50
 わめさん、おはこんばんちは。

 『パーリ律蔵』「大品」を読まれて、ご自分の頭でじっくりとお
考えください。

 さきに提示した、スッタニパータ第1146についてのわたしの解釈
が正しいとすれば、佐倉さんは、スッタニパータ第1146を文脈を読
まずに(理解できずに)引用していることになります。

  ブッダと大川隆法
  http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul01.html

  仏教における「魂」と「神」
  http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul01.html

  「わたしの『法華経』概論」
  http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud120.html

 「梵天勧請」の「信仰を捨てよ」を佐倉さんのように解釈するの
も同様に誤りだと思います(『パーリ律蔵』「大品」参照)。

 他はいちいち確認しませんが、文脈を無視して引用している可能
性がないとはいえなさそうだという印象を持ちます。

 もっとも、「思想(宗教)を受け入れる側の盲信的信仰態度を否
定」する仏教の「信」の性質をあきらかにするために、「マッジマ・
ニカーヤ22」を引用するのは妥当でしょう。

 では、がんばってください。
Posted by Libra at 2006年08月07日 20:35
 Libra師匠、こんにちは。^^

> 4.仏教徒が「信」といっている態度の性質に関する議論

> シャカ自身の「信仰を捨て去れ」という文句とは関係がありません。

 私は、仏教徒が「信」といっている態度の性質に関する議論と「信仰を捨て去れ」とがまったく関係ないとは思っておりません。
 これは「Posted by わめ at 2006年08月07日 15:50」で、佐倉氏の【(3)信仰ではなく、「正しい理解」による 】を引用しました。その中で氏は、「信仰を捨てよ」の埋め込まれているブッダの文句を引用し、「無知を克服し(無明を破る)、人間苦の原因や条件への洞察(正しい理解)を深め、それを取り除く努力(精進・修行)をすることがブッダの教えです。ブッダの思想には信仰の場所がありません。」と言われておりますが、私もこの佐倉氏の見解を支持しております。
 もちろん師匠の言われる「仏教的信仰」を、私は信仰とは解釈しておりませんし、おそらく佐倉氏もそうであると推察します。
 師匠は文脈的に、佐倉氏の「信仰を捨てよ」の解釈に誤りがあるとご指摘しておられますが、ブッダ自身の言葉にブッダ自身の思想が含意されているとすれば、「信仰を捨てよ」の文句に「当時の諸宗教に対する人々の信仰」を捨てるように言いながら、「当時の諸宗教に対する人々の盲信的信仰態度」を容認し、そのような信仰態度のままで仏教に改宗することを勧めた言葉とは思えません。
 したがって私は、「信仰を捨てよ」の文言には、「当時の諸宗教に対する人々の信仰」と、その「当時の諸宗教に対する人々の盲信的信仰態度」の両方を捨てよとの意味が含まれていると思っております。
Posted by わめ at 2006年08月09日 17:48
 Leoさん、こんにちは。^^
 ってお返事が大変遅くなってしまいましたw汗

> 面白いと思うのですが科学も一種の信仰であるという人もいます(たとえば顕正居士さんとか)。
> 一方で(Libraさんに伺えればよいですが...)Libraさんも合理性は否定しないのではないかと思います。
> (表現の違いだけで結論が同じ可能性があるのではないかと...)

 Leoさんの言われるように「表現の違いだけで結論が同じ可能性がある」と思います。
 逆に表現する言葉は同じであっても意味するところはまったく違うこともあるように思います。

> 最近私は、自分は諸宗教に対する信仰は採用しませんが諸宗教の信仰者の諸宗教に対する信仰が心理的効果を持つということが合理的に保持可能ではないかと考えています。

 「諸宗教の信仰者の諸宗教に対する信仰が心理的効果を持つ」と私も思いますが、それがその信仰者全般にとって”永続的”に「合理的に保持可能」かどうかについては私は懐疑的です。

> また世界の諸宗教の信仰者の状況を考えるとジョン・レノンの歌「イマジン」のように宗教存在しない状態を想像することは難しいですが、世界の宗教が対立を克服して一種の文化や習慣の違いのようにお互い寛容になって共存するという世界を想像したりします。

 世界の宗教が対立を克服できるとするならば、それは国と国の社会通念の隔たりの緩和と、その宗教の持つ宗教性が、その国として持つ社会通念、その国の文化や習慣のように迎合できるかどうかにかかっているのではないでしょうか。

> そういう意味でも仏教の合理性や「信仰を捨てよ」は意味のあることだと考えております。

 仏教の合理性が他の宗教にも強く影響を与えることができるなら有意であると思いますが、私は宗教から離れた合理性を重視すべきじゃないかと思っております。
 宗教から離れた合理性とは、仏教を含む各宗教にある合理性や、各分野にある合理性を無視するのではなく、それらから切り離し取り込んだ総合的な合理性であるべきだと思います。
Posted by わめ at 2006年08月09日 18:47
 私の「わめ at 2006年08月08日 16:36」のコメントを「わめ at 2006年08月09日 21:56」で訂正しましたが、またまた訂正が入ることになり、大変見ずらくなりそうなので上記2つと「わめ at 2006年08月08日 16:54」「わめ at 2006年08月08日 17:30」も削除し、改めて投稿しなおすことにしました。
Posted by わめ at 2006年08月10日 04:43
 Libra師匠、こんばんは。^^

> 2.「信仰を捨て去れ」という文句が埋め込まれている文脈(2)

1131、ピンギヤさんは(バーヴァリのもとに帰って、復命して)いった、

 この1131で、「ピンギヤがバーヴァリのところに戻ってきて、バーヴァリとやりとりしている場面」ですので、したがってシャカがその場にいないと私も思います。

1146、(師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ピンギヤよ。」

 「ヴァッカリや〜」「ピンギヤよ。」と言われているのですから、言ったのはヴァッカリやピンギヤではなく、バーヴァリが言ったのではないでしょうか。

 いずれにしましてもシャカはその場にいなかったと思いますが、中村先生の(師ブッダが現れていった)は、バーヴァリがブッダの言葉を回顧して述べたと解釈することも可能かと思います。
 また、1146の言葉は「よく知られているシャカの言葉と同じであった」のですから、この点からもバーヴァリがブッダの言葉を回顧して述べたと解釈することが可能なのではないでしょうか。
 但し、バーヴァリがブッダの言葉を回顧して述べた言葉であるにしても、1146の言葉がブッダが言われた言葉を正確に伝えているかは定かではありませんが。

> 3.「信仰を捨て去れ」という文句が埋め込まれている文脈(3)

>  ピンギヤは、第1146のヴァッカリの言葉をうけて、「わたくしは
> 聖者のおことばを聞いて、ますます心が澄む(=信ずる)ようにな
> りました。」(第1147)といっていますが、ここでいわれている
> 「聖者」というのはヴァッカリのことでしょう。

1127、かれらが質問を発したのに応じて、目ざめた人はあるがままに解答された。聖者は、諸々の質問に対して解答することによって、諸々のバラモンを満足させた。

 1147の「聖者」は上記1127の「聖者」と同じくヴァッカリやバーヴァリのことではなく、ブッダを指していると思われます。また1140でピンギヤはバーヴァリのことを「バラモンさま」と呼んでいることからも、聖者はブッダを指している可能性が高いように思われます。

>  第1147の「心が澄む」の原語はサンスクリットでいうところの
> 「プラサーダ」ですが、この語は「信仰」と訳しても全く問題がな
> いとおもいます。

 「ますます心が澄むようになりました。」との解釈は妥当のように思いますし、プラサーダを「信仰」と訳すよりも、「浄信、満足、清浄」と訳すほうが妥当なのではないでしょうか。

>  第1147〜第1149のピンギヤの発言を見れば、ピンギヤがシャカを
> 「信じうやま」(goo辞書の第2義)っている、すなわち「信仰」
> しているといっても全くおかしくはないとわたしはおもいます。

 ピンギヤがシャカを信じうやまっているということ、また、信じうやまうことを「信仰」 しているということはまったくおかしくないと私も思いますが、そのような「信仰」が、シャカが肯定する信仰かどうかは別問題だと今のところ私は思っておりますが、

>  シャカ自身の「信仰を捨て去れ」という言葉については、『律蔵』
> 「大品」を読まれて判断されてください。

 浅学で怠慢な私の主張が正しいなどと思ってもおりませんし、正誤の判断はいつのことやら分かりませんが、私の主張は、「シャカの思想を自分の都合のよいように解釈しようとする意図」があることは間違いないようです。涙

> 佐倉さんは、スッタニパータ第1146を文脈を読まずに(理解できずに)引用していることになります。
>  「梵天勧請」の「信仰を捨てよ」を佐倉さんのように解釈するのも同様に誤りだと思います(『パーリ律蔵』「大品」参照)。

 そうですか、私はパーリ律蔵も大品も読んでおりませんので正誤の判断は出来ないと思いますが、このような「思想(宗教)を受け入れる側の盲信的信仰態度を否定」する、佐倉氏のブッダの思想解釈は好きです。汗
 そしてこのような私の態度が、果たして「合理的に保持できる命題に対する心理状態」と言えるかどうかは怪しいです。涙

>  では、がんばってください。

 (≧∇≦)ノ ハイ
Posted by わめ at 2006年08月10日 05:16
わめさん、こんにちは。

話題に直接関係することでないですが、Libraさん(師匠)の仏教理解が興味深いこと(組織などで教えていない最新の仏教研究に即していると共に曽我逸郎さんやアンベードカルらに近い)、しかもLibraさんの仏教理解(誰の仏教理解も)もまた可謬性があること、各人が自分の頭で考え選び取る重要性(権威主義や神秘主義や全体主義になっちゃいかんということ)などがポイントではないでしょうか。

Libraさんの以前の指摘で佐倉哲さんの仏教理解に問題があるといったものがありましたが、(資料がすぐに出てこないので)資料が出てきたら紹介したいと思います。
Posted by Leo at 2006年08月13日 14:11
 Leoさん、こんにちは。^^

 Libra師匠の仏教理解は、私など到底太刀打ちできるものではありません。汗
 そんな師匠にさえ可謬性があるのですから、私など至極当然として、佐倉氏の仏教理解にも誤謬や可謬性はあるでしょう。
 また、「各人が自分の頭で考え選び取る」ことを私も強く望んでおります。

 こういった考え方を持つ師匠やLeoさん等、私は善き友としてこれからもお付き合いをお願いしたいです。
 でも師匠やLeoさんからすれば、私は善き友じゃないかも・・・w涙
Posted by わめ at 2006年08月13日 15:26
わめさん、こんばんは。

>Libra師匠の仏教理解は、私など到底太刀打ちできるものではありません。汗

Libraさんの仏教理解は将棋で言えば何十手も先を考えて練られているもののような感じに思います。

反論を用意しようとすると、究極的には反論は可能なんでしょうけど、反論にエネルギーを費やすのだったら、各自が各自なりに色々なことを学んだり選択したりすることにエネルギーを使った方がよいということがあったりします。

でも本当に何かの誤りがあったら(あるいは新説とか)資料を示しつつ言った方がよいです。Libraさん自体が誤りから学びたいといっておられたですね。

>また、「各人が自分の頭で考え選び取る」ことを私も強く望んでおります。

これは最近お邪魔したことのない方のブログにお邪魔して私自身かなり再確認したです。

>こういった考え方を持つ師匠やLeoさん等、私は善き友としてこれからもお付き合いをお願いしたいです。

いえいえ、こちらこそです。

>でも師匠やLeoさんからすれば、私は善き友じゃないかも・・・w涙

そんなことはないと思います。
(少なくとも私は。Libraさんには尋ねてみないと確認できないですが(^^;)

以前見解の相違というかボタンの掛け違いがあったかもしれないですが、わめさんは一例をあげるとくまりんさんのリンクをはじめ私の知らなかったリンクやブログを知っておられることだけでなく、(表現は難しいですが)人としての深みや幅のようなもの(私には少ないようなもの)があって学ぶことや考えさせられることがあります。

今後ともよろしくお願いしますです。
Posted by Leo at 2006年08月13日 22:22
 Leoさん、こんちは。^^

> 反論を用意しようとすると、究極的には反論は可能なんでしょうけど、反論にエネルギーを費やすのだったら、各自が各自なりに色々なことを学んだり選択したりすることにエネルギーを使った方がよいということがあったりします。

 そうですね。
 私も、各自が各自なりに色々なことを学んだり選択したりすることにエネルギーを使った方がよい場合も多いのでは思います。

> でも本当に何かの誤りがあったら(あるいは新説とか)資料を示しつつ言った方がよいです。Libraさん自体が誤りから学びたいといっておられたですね。

 私が師匠の誤謬を発見できるなどと考えてもおりませんので、師匠には申し訳ないですがお役に立てないかもしれません。
 ただ、他の師匠がこの記事やコメントを読んで下さり、お電話で長時間のアドバイスまで頂きましたので、それも踏まえ、自分なりに考え今思うことを、正直にLibra師匠へのお返事とさせていただきました。

> >また、「各人が自分の頭で考え選び取る」ことを私も強く望んでおります。
>
> これは最近お邪魔したことのない方のブログにお邪魔して私自身かなり再確認したです。

 これ、どこのことか多分私にも分かります。笑

> 今後ともよろしくお願いしますです。

 こちらこそです。\(o⌒∇⌒o)/
Posted by わめ at 2006年08月14日 13:04
わめさん、こんばんは。

>私が師匠の誤謬を発見できるなどと考えてもおりませんので、師匠には申し訳ないですがお役に立てないかもしれません。

謙遜されてると思いますです(^^;わめさんは私よりするどいと思うことが多々ありますです。

この話にこだわってしまうのですが、Libraさんへの反論はよくある組織教学のようなものでは太刀打ちできないですが、意味のある反論がある場合(何か新しい事実など)資料を用いて説明すれば理解していただける方と思います。

前者はよくある組織教学を用いる人への批判に活用できると思っています。友岡さんの書籍でミッシェル・フーコーの言葉として「人々に自分が考えているよりもはるかに自由なのだと教えること、人々が自明で真理だと信じていることが、歴史の特定の時点で作りだされたものであり、このみかけ上の自明性(簡単にいえば「常識」)が、批判し破壊することができるものだと示すこと」とありますが同じで精神と思います。

そしてキモの部分としては(ご存知のように)ポパーの正当化の否定と、(竜樹など)中観派の帰謬法による反論者の論破と同じものがあると思います。

(私の理解ですが)世の中で宗教など悪用する人が出てくるので真理だと信じていることを批判し破壊するのは人間の平等性を示すと共に社会の健全な発展を促すことになると思います。(心理的などマイナス面が出る場合もあるので注意が必要な場合はあると思いますが)

現代は絶対権力を持つ皇帝も絶対権威を持つ宗教も存在しないので正当化の否定は自明ですが局所的に自明でない世界が存在するのかもしれません。

>ただ、他の師匠がこの記事やコメントを読んで下さり、お電話で長時間のアドバイスまで頂きましたので、それも踏まえ、
>自分なりに考え今思うことを、正直にLibra師匠へのお返事とさせていただきました。

おおお。そういう背景があったのですか。Leoは心配し過ぎ人間でした。
Posted by Leo at 2006年08月14日 22:26
 Leoさん、こんちは。^^

> 謙遜されてると思いますです(^^;わめさんは私よりするどいと思うことが多々ありますです。

 いえ、Libra師匠のような方は、私の意見などに関係なくどんどん先に進んでいける方だと思っているということです。つまり謙遜ではなく、私は面倒くさがりだと言うことかもw汗
 (こっ、これでは師匠にとって私は善き友じゃないってことかw涙)

> >ただ、他の師匠がこの記事やコメントを読んで下さり、お電話で長時間のアドバイスまで頂きましたので、それも踏まえ、
> >自分なりに考え今思うことを、正直にLibra師匠へのお返事とさせていただきました。
>
> おおお。そういう背景があったのですか。Leoは心配し過ぎ人間でした。

 Leoさんの心配し過ぎたこととは何かを、私はすっごく知りたいです。^^
 また、Leoさんからは、歯に衣を着せぬコメントを私は期待しています。(*゜▽゜*)
Posted by わめ at 2006年08月15日 16:02
わめさん、こんばんは。

>これ、どこのことか多分私にも分かります。笑

これはみれいさんに紹介していただいたリンクの方のことですね。優秀な方が妙な感じで(勉学や資格取得以外)勿体無いというか社会の損失です。

>Leoさんの心配し過ぎたこととは何かを、私はすっごく知りたいです。^^

すんません。わめさんが何か勘違いしていると心配していたら私が勘違いしていただけでした。チャン・チャン。(色々脱線した話をしてしまいましたが....)
Posted by Leo at 2006年08月15日 23:31
わめさん、こんにちは。

Libraさんの資料が見つかったので要点を紹介します(^_^)

・「正しいものを正しいものと理解する」ことを「信仰」と呼んでもよいのではないか
・「何が正しいか」ということは、永遠にわからないというのが、批判的合理主義の結論であり、ポパーの可謬主義
・佐倉さんに感じるのは、危機意識の欠如
 「縁起説は聞けば誰でもが正確に理解できる」という発言とはうらはらに、縁起説の重要な側面を理解していない
 のではないか
・シャカ自身は、縁起説を「甚深、微妙、精細にして、かつ、世のつねの流れに逆行するものであるが故に、
 激情や無智のとりことなっている人々には、容易に理解されがたい」とおもっていた
 「それが懸念せられるがゆえに、ブッダもしばし説法を躊躇した」
・佐倉さんはドグマとは無縁と思われているかもしれない
・大事なのは、ドグマを持たないようにすることなどではなく(そんなことはそもそも不可能)、
 自らのドグマに対して批判的態度をとること
Posted by Leo at 2006年08月16日 07:57
 Leoさん、おはよう。^^

> Libraさんの資料が見つかったので要点を紹介します(^_^)

 ありがとうございます。
 私は佐倉氏ではありませんが、佐倉氏に代わって意見を述べさしていただきます。
 それを受けてよかったらLeoさんにはLeoさんなりの、あるいはLibra師匠に代わっての意見が聞けたらうれしいです。
 一度にまとめては大変そうなのでまず1つ目だけに対して意見を述べさせていただきます。

> ・「正しいものを正しいものと理解する」ことを「信仰」と呼んでもよいのではないか

 「批判的合理主義の結論」からは一見矛盾しそうですがそれは置いといて、「正しいものを正しいものと理解する」は、「間違っているものを間違っていると理解する」ということと何ら変わらないと思うのですが、この「正しいもの・・・」を「信仰」と呼ぶなら、「正しくないもの・・・」はどのように呼べばよいのでしょうか。
 「信仰」とは、心の中やあるいは言動での実践が含まれる言葉と私は解釈していますが、「理解する」は文字通り解ったということであり、それは例えば「タバコが有害であると理解する」ことで、理解したからといってタバコを以後吸わないかは理解した本人次第ということになろうかと思います。この理解したことには、心の中やあるいは言動での実践が含まれませんから、「理解する」ことを「信仰」と呼ぶことに私は違和感があります。

 この場合、現代的には「信仰」というよりも「正しいものを正しいものと理解し選択する」が妥当で誤解を受けにくい表現ではないでしょうか。

 私が大きな勘違いをしている可能性がありその一つの可能性として、「正しいものを正しいものと理解する」という行為自体を「信仰」と呼ぶとするなら、現代一般的に「正しいものを正しいものと理解する」ことはごく常識的なことですから、宗教的イメージのある「信仰」と呼ぶことは相応しくないと思います。

 他にも私が大きな勘違いをしている可能性がありそうですが、その場合ご指摘いただければ幸いです。
Posted by わめ at 2006年08月16日 11:40
> ・「何が正しいか」ということは、永遠にわからないというのが、批判的合理主義の結論であり、ポパーの可謬主義

 私なりのイメージの批判的合理主義や可謬主義を簡単(ごちゃ混ぜw)に説明します。
 自分が正しいと思っていることでも、それがホントに正しいかは永遠にわからない。でも正しいと思うことを自他からの批判的検討を繰り返すことにより、正しいと思っていたことが誤りであることに気付けるかもしれないから、誤りが見つかるまで批判的検討を継続し、誤りが見つかるまで暫定的にその言明を保持していく態度。
Posted by わめ at 2006年08月16日 11:57
> ・佐倉さんに感じるのは、危機意識の欠如
>  「縁起説は聞けば誰でもが正確に理解できる」という発言とはうらはらに、縁起説の重要な側面を理解していないのではないか
> ・シャカ自身は、縁起説を「甚深、微妙、精細にして、かつ、世のつねの流れに逆行するものであるが故に、激情や無智のとりことなっている人々には、容易に理解されがたい」とおもっていた
>  「それが懸念せられるがゆえに、ブッダもしばし説法を躊躇した」

 「縁起説は聞けば誰でもが正確に理解できる」との語が埋め込まれたテキストを読んでいないので、それなりに妥当な意見が述べられるか不安ではありますが、ブッダの懸念について、佐倉氏はブッダの「信仰を捨てよ」や「筏の喩え」などを引用し、ドグマや盲信、思い込み等を捨てることで縁起説は誰にでも理解できると言っているのではないでしょうか。
 これはブッダ自身も同様に考えていたものと私は解釈しています。

> ・佐倉さんはドグマとは無縁と思われているかもしれない

 これは佐倉氏に直接聞いてみないと私にもわかりません。

> ・大事なのは、ドグマを持たないようにすることなどではなく(そんなことはそもそも不可能)、
>  自らのドグマに対して批判的態度をとること

 ドグマについて、ここが一番のポイントになるかもしれません。
 正しいと(暫定的に)理解したことを、佐倉氏はドグマと解釈していないと思います。
 誰の言明(教え)であれ、正しいと理解できないことは信じない。例えばブッダの言明(教え)の多くを正しいと理解しても、ブッダの言明(教え)のすべてを信じることはできない。
 佐倉氏は理解すれば信じる必要はないと思っておられる。また、信じるという行為は、理解していないからだと思っておられる。

 ここからは私の見解ですが、Libra師匠は、理解と信を信仰という言葉で一括りにされておられるようですが、それは仏教として間違った解釈ではないと思いますけれど、ブッダの懸念も考慮し、現代では理解と信とを使い分けたほうがよいのではないかと思います。

 あと、Libra師匠と佐倉氏の立つ位置の違いを感じたりもするのですが、師匠は仏教の修行(実践)者で、佐倉氏は仏教の修行(実践)者ではないことが、仏教理解についての見解の相違に、微妙に関係しているようにも思います。
 私は、何か願望があり、それを達成するために仏教がもっとも有効であれば仏教の修行(実践)者になる可能性も無きにしも非ずですが、その場合でもおそらく仏教の修行(実践)者ではなく、仏教やその他で理解したことや過去の経験で得たことを活かして願望の達成を目指すと思います。

 余談ですが、私の場合は願望が起こってもそれを達成しようとするかも怪しいのですが。

 ここまで書いて、言葉足らずであるなと自分でもおもっきり感じるのですが、この後のLeoさんとの論議で補っていければと思います。<(_ _)>
Posted by わめ at 2006年08月16日 12:54
 みなさん、おはこんばんちは。

 ゆっくりと議論する時間はありません。詳細については、以前の
議論を参照していただければさいわいです(以下に書くことは、以
前の議論の焼き直しにすぎません)。

 わめさんがこだわっておられる問題のうち、多くの部分は言葉の
問題でしょう。すなわち、仏教に無知な現代日本人が「信仰」とい
う語に接した時に最初に抱くイメージと仏教徒がいうところの「信」
とは異質であるということでしょう。これはシャカの思想の問題で
はなく、言葉(現代日本語)の問題だとおもいます。

 仏教徒が仏教に無知な現代日本人にあわせて「信仰」という用語
を使うのをやめたりする必要はないとおもいます(仏教徒がいうと
ころの「信」の性質について説明すれば足りるとおもいます)。そ
んなことをすれば、経典の文句やこれまでの仏教徒の発言が正しく
理解されなくなるおそれがあるとおもいます。

 シャカの思想の問題についてはすでに議論はつくされたとおもい
ますが、以下に補足しておきます。

1.第1143の「信仰」(中村訳)の原語は「サッダー」

 パーリの原文で確認しましたところ、第1143の「信仰」(中村訳)
の原語は「サッダー」でした。
Posted by Libra at 2006年08月16日 15:59
2.第1146の発言者は誰か?

 第1146には「アーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように」
とあります。「アーラヴィ」とは地名です[*01]。シャカが自らの
名前に地名を冠して上のように言ったというのは考えにくいとおも
います。

  [*01] 中村元訳『ブッダのことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、
      1984年、p. 293。

3.「信仰を捨て去れ」(「大品」など)

 「信仰を捨て去れ」という有名な文句を佐倉さんのように解釈で
きると考えている学者はまずいないでしょう。この句が埋め込まれ
ている文脈はかなりはっきりしています。

 中村先生も「ヴェーダ以来の祭祀・教学に対する信仰を捨てよ、
というのである」[*02]とか「恐らくヴェーダの宗教や民間の諸宗
教の教条(ドグマ)に対する信仰を捨てよ、という意味なのであろ
う」[*03]と解釈され、実際、「(おのが)信仰を捨てよ」と訳され
ています[*04]。

 佐倉さんがよく引用されている増谷文雄先生の訳でも「ふるき信
を去れ」[*05]となっています。

 シャカは「縁起説は誰にでも理解できる」などとは考えていませ
んでした。これは説法躊躇と梵天勧請の話を読めば明らかです。

 最初にシャカの考えを理解したのはコーンダンニャだといわれて
いますが、コーンダンニャがシャカの考えを理解したときのシャカ
の喜びよう[*06]を見ても、シャカが「縁起説は誰にでも理解でき
る」とは考えていなかったことが読み取れます。

  [*02] 前掲中村訳註、p. 294。

  [*03] 同上、p. 431。

  [*04] http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha262.html

  [*05] 同上。

  [*06] ブッダの不動の確信は最初の説法に成功した時に成った(増谷文雄)
     http://page.freett.com/Libra0000/103.html
Posted by Libra at 2006年08月16日 16:02
4.「サッダー」とは?

 「サッダー」とは「教えに対する信頼を意味する」[*07]言葉で
す。

 中村先生は「最初期の仏教は〈信仰〉〔中略〕なるものを説かな
かった」[*08]といわれます。最初期の仏教は「教えに対する信頼」
を説かなかったというご主張です。その根拠として、仏教には「信
ずべき教義もなかった」[*09]といわれています。

 しかし、「仏教には特定の教義が無い」[*10]という中村説は松
本先生の批判に耐えていないとおもいます。

 そもそも、スッタニパータ第1147〜第1149を読んで「教えに対す
る信頼」が説かれていないなどとどうして言えるのか、わたしには
さっぱり理解できません。

  [*07] 前掲中村訳註、p. 294。

  [*08] 同上、p. 431。

  [*09] 同上。

  [*10] 仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
     http://freett.com/Libra0000/082.htm

5.批判的態度の前にドグマが先行する

 「無立場の立場」という中村説[*11]に汚染されないように注意
すべきだとおもいます。

 ポパーの「牢獄を批判的に検討し、いっそう広い牢獄へと脱出す
る自由」[*12]という発言を思い出してほしいところです、

  ────────────────────────────
  ポパーにとっては、ドグマこそ世界を探求し、新しい創造をお
  こなうための不可欠の手がかり、出発点である。そして、ドグ
  マからの意図的な、あるいは意図せざる逸脱が新しい秩序をも
  たらすのである。
   〔中略〕われわれは足場としてのドグマ──ニュートン理論
  でさえ、まさにポパーがアインシュタイン革命をつうじて根底
  から自覚させられたようにドグマにすぎなかった──なしには
  なにひとつ始めることさえできない。とはいえ、われわれは自
  らのドグマに対して批判的態度をとることができるのであり、
  ドグマによって強いられた失敗をつうじて、また果敢な新しい
  試みをつうじてドグマ(理論)を改善していくことができる。
  いずれにしても批判的態度の前にドグマが先行する。

  (小河原誠『ポパー─批判的合理主義』、講談社、1997年、
    pp. 37-38。)
  ────────────────────────────

  [*11] 仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
     http://freett.com/Libra0000/082.htm

  [*12] フレームワークの神話(カール・ポパー)
     http://freett.com/Libra0000/111.html
Posted by Libra at 2006年08月16日 16:05
6.「宗教的時間」(松本先生)とは?

 わたしは、松本先生がおっしゃるように、「縁起説は革命的なも
の」であり、「仏教≠ェ主張する無我≠ルど常識に反した奇妙
な考え方もない」とおもっています[*13]。

 「法は確固不変なるものではなく、反対に実に不安定な中ぶらり
んな危機的存在なのだ。我々の生に存在論的な根拠などどこにもな
い。我々はこの不安定な危機的な諸法の時間的因果系列としてのみ
存在しているのだ」(松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、
大蔵出版、1989年、p. 27)という説(無我説)は革命的だとおもい
ます。

 縁起説を表面的に理解するだけでよいのなら、常識に反しないの
かもしれません。しかし、それを「自分の事として腹に落ちて納得」
(曽我さん)するというのは、その人の人生観が根本からひっくり
返るような大事件だとおもいます。「無常=無我=縁起を自分の事と
して腹に落ちて納得」できる時間を、松本先生は「宗教的時間」[*14]
と表現されていますが、そこまでいってはじめて「無明を破る」こ
とになるのだとおもいます。

  ────────────────────────────
  しかし、勿論、ただ合理的理性を突き詰めるだけで理解できる
  ものでもない。それはちょうど、万人の死が一般的事実として
  いかに明白でも、今自分が現に死につつあること〔中略〕をく
  っきりと実感することが難しいのと同じである。合理的理解に
  加えて、無常=無我=縁起を自分の事として腹に落ちて納得する。
  そこまでの深みのある理解によってはじめて、無明は破られ、
  執着の反応は停止し、苦の生産は止まり、涅槃に生きることが
  可能になる。

  (曽我逸郎「…現時点の私の仏教理解の総括…」、
    http://www.dia.janis.or.jp/~soga/summary.html
  ────────────────────────────

 縁起説によって人生観を根本からひっくり返されて見事に無明を
破った人が、自らが抱く「縁起説(シャカの教義)に対する信頼」
を「信仰(サッダー)」と表現したとしてもわたしには全く違和感
はありません。そういう意味においては、シャカ自身が縁起説を信
仰していたとおもいます(スッタニパータ第184などを参照)。

  [*13] 仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗) 
     http://freett.com/Libra0000/082.htm
     
  [*14] 学問と礼節、無我と慈悲、宗教的時間と日常的時間(松本史朗)
     http://freett.com/Libra0000/068.htm
  
7.『法華経』における縁起と空

 『法華経』で言われる「信」というのも「無我説に対する信頼」
だとおもいます。

  『法華経』における縁起と空
  http://freett.com/Libra0000/129.html

                        以上
Posted by Libra at 2006年08月16日 16:09
 Libra師匠、こんにちは。^^

 私は、仏教的信仰を理解等と表現したほうが、一般的現代日本人に誤解を生む可能性が少なくなっていいかなって思いますが、それが「経典の文句やこれまでの仏教徒の発言が正しく理解されなくなるおそれがある」のならそうもいかないとのこと了解です。
 但し、私は仏教徒ではありませんので、一般的現代日本人の誤解を避けるため、今後も仏教的信仰は理解等の言葉に代えて使っていこうと思っております。

> 1.第1143の「信仰」(中村訳)の原語は「サッダー」
> 4.「サッダー」とは?

 インドにおいて仏教以前から使われていたサッダーの語は、「信頼、信奉、教義・祭礼信仰、宗教的信仰」等と訳されるようですが、ブッダはこのような信仰を否定されていると私は思います。
 仏教を指して使う場合のサッダー(シュラッダー)は、「冷静・客観的・合理的・自分で研究して調べて、発見して理解して、納得して信じる。確信すること。」などと訳されると思いますが、こちらの意味でならブッダの肯定する信仰だと思います。
  1143のピンギヤの言葉の信仰は、どちらの意味で使われていたのか私には分かりません。汗

> 2.第1146の発言者は誰か?

 アーラヴィ・ゴータマが、ブッダ(シャカ)を指しているのだとすれば、ヴァッカリが言ったとする師匠の見解に対し、バーヴァリが言ったとの私の見解は変わりませんが、バーヴァリが「ブッダの言葉を回顧して述べた」との私の解釈は間違っています。

> 3.「信仰を捨て去れ」(「大品」など)

 前述しましたが「信頼、信奉、教義・祭礼信仰、宗教的信仰」等と訳されるような信仰を捨てよと私も思っておりますが、文脈的にはともかく、ブッダの思想から言えば仏教に対してもこのような信仰態度をも捨てよと解釈できるのではないでしょうか。
 それとも仏教に対しては、このような信仰態度も認めるということなのでしょうか?

> 5.批判的態度の前にドグマが先行する

 批判的態度で正しいと(暫定的に)理解したこと、また批判に耐えている理論・仮説をもドグマとするならば、そのようなドグマを持たない人間は数少ないと思いますし、佐倉氏も同様にそのようなドグマは持っておられるでしょうし、そのようなドグマならば持つべきものでしょうし、私も持っていると思います。
 ですが、佐倉氏の意味するところのドグマ否定は「信頼、信奉、教義・祭礼信仰、宗教的信仰」に対するものであると思いますから、ブッダの思想解釈としては間違っていないのではないでしょうか。

 6.「宗教的時間」(松本先生)とは?と7.『法華経』における縁起と空」は、もう少しじっくり考えてお返事したいと思います。

 師匠、コメントありがとうございました。(*゜▽゜*)
Posted by わめ at 2006年08月16日 17:43
> 6.「宗教的時間」(松本先生)とは?

 師匠、ここで使われている信仰はどのような意味で使われているのでしょう?w汗

・ 縁起説によって人生観を根本からひっくり返されて見事に無明を破った人が、自らが抱く「縁起説(シャカの教義)に対する信頼」を「信仰(サッダー)」

・シャカ自身が縁起説を信仰
Posted by わめ at 2006年08月16日 17:59
> 6.「宗教的時間」(松本先生)とは?

 私は、縁起説を体得できず、それを理論的とか表面的理解と呼ぼうと結構ですが、これ以上個人の体験・体感に立ち入った話はご遠慮願いたいと思います。

 例えば麻薬、これを発明した人が自分で試し体験します。この体験は、体験したことのない人には分かりませんし、体験したとしても人によりその感じ方も違うようです。

 私の体験的には、「無常=無我=縁起を自分の事として腹に落ちて納得」は、そこに「自分の事として」の意識が入っているようですので、私の体験とはかなり異質なもののようですが、そのような感覚も分からなくはないです。
 私も20代の頃、唱題を数時間続け、悩み事とか、思考がまったくストップした状態というのか、自分の存在感すらないような不思議でとても気持ちのよい状態になったことがありますが、それを当時私は御本尊と境智冥合した状態と思っておりました。
 また、掲示板に書いたようなわけわかめな体験もあります。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1120718188/21

 霊法会では、発言修行を経て、発言者が、神仏や先祖の霊的存在を自身に憑依させ指導するというのもあります。

 初期仏教には瞑想行というのもありますね。

 このような個人の体験・体感と、「無常=無我=縁起を自分の事として腹に落ちて納得」や宗教的時間を同様に看做すのは大変失礼かと思いますが、それらはその本人個人の体験や体感であり、それら体験や体感も個人の捉え方一つでどうとでも思えるものであるようで客観的とは言い難いと思います。

 これらは何かの目的(解脱とか涅槃とか成仏etc)があって、そのような崇高な志や願望や欲を持つ方がやっていけばいいことだと思いますが、どちらかと言えば私のブログや掲示板は、そのようなことからの執着や妄想や欲等から離れ、何者にも縛られない自由な生き方を自分自身で模索していくことを目的としておりますので、この点はご了承願いたいと思います。

 このような私の「6.「宗教的時間」(松本先生)とは?」のコメントを読んでの感じ方は、師匠のコメントを誤解してである可能性が高いと思うのですが、読み手にそう感じさせてしまう面もあろうかと思いますし、何よりそう思わせてしまうならば、縁起の思想からは逆説的にもなってしまうように思います。
Posted by わめ at 2006年08月16日 20:11
 Libra師匠、こんばんは。^^

>  「サッダー」とは「教えに対する信頼を意味する」[*07]言葉で
> す。

『853、快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。』

 ここでは「信じることなく」と、サッダーを否定(Na saddho)しています。

『ブッダゴーサによると、もっと徹底した合理主義の立場をとっている。自分の確かめたことだけを信ずるのである。いかなる権威者をも信ぜず、神々さえも信じない(Na saddho ti sAmaM sayam abhiNNAtaM attapacchakkhaM dhammaM na kassaci saddhati aNNassa vA brAhmaNassa vA devassa vA mArassa vA narassa vA brahmuno vA. MahN. P235)(391〜392頁)』。
 また後世に至るほど、逆に信仰を強調するようになったとのこと。

 このブッダゴーサの解釈からすると、「信頼、信奉、教義・祭礼信仰、宗教的信仰」等と訳されるようなサッダーを、やはりブッダは否定されていたようです。
Posted by わめ at 2006年08月16日 21:36
 みなさん、おはこんばんちは。

 曽我さんがいわれている「無常=無我=縁起を自分の事として腹に
落ちて納得」というのは、いわゆる「変性意識体験」とは正反対の
現象でしょう。これは、曽我さんのサイトで「変性意識体験」で検
索をかけてみればお分かりになるでしょう。松本先生がいわれてい
る「宗教的時間」も同様です(松本先生のご説明から明らかでしょ
う)。

 今回わめさんが引用されたブッダゴーサの解釈は、わたし自身が
以前の議論で引用しました。もっとも、ブッダゴーサがシャカの教
義を信頼(信仰)していることは明らかだとおもいますが。

  ────────────────────────────
   仏教的信仰とは、ブッダゴーサの言葉を借りれば、「自分の
  確かめたことだけを信ずる」[*9]ということなのだろうとわた
  しはおもいます。すなわち、シャカの教えを自分で確かめてみ
  て(反駁を試みて)、それが「反駁し得ないものとして説」[*10]
  かれているとしか思えない時に生じるのが、仏教的信仰なのだ
  ろうとわたしはおもいます。だからこそ、仏教においては、
  《教えは「反駁し得ないものとして説」かれなければならない》
  などということが強調されているのではないでしょうか。

   もし仏教的信仰が上のようなものであるとすれば、それは、
  牧口常三郎の考え[*11]にもつながるし、三証[*12]を強調する
  日蓮の立場ともつながるとおもいます。

  (93 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 02:01:15、
    http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_004.html
  ───────────────────────────

 もし本当に「縁起説は誰にでも理解できる」のであれば、インド
における仏教の敗北というのは一体何だったのかということになり
ませんか?

 あとは同じところをぐるぐる回りそうなので、このへんでおしま
いにします。
Posted by Libra at 2006年08月16日 22:55
わめさん、Libraさん、こんばんは。

ううむ。議論が出尽くした感じですね。

わめさんは「正しいものを正しいものと理解し選択する」ことに「信仰」という
言葉を使うのは抵抗感があるのですね。(また、いわゆる宗教にも抵抗感があるのですね)

話が脱線しますが、日本は宗教先進国(脱宗教国)なのかもしれません。

戦国時代宗教が勢力を持って社会を混乱させた面があったので、
徳川幕府はキリスト教を禁止し当時最大の宗教団体の浄土真宗を東西に分断させました。
各宗の寺院は民衆の統制のために用いられました(宗門改め)。
江戸時代は国学が発達して儒教と仏教を批判しました。
(この流れは神道を復興し戦前までの流れをつくることになります)
日本ではたとえ寺に墓があってもいわゆる無宗教な人が多いのはこのような歴史からですね。
(一方で東南アジアや中東では宗教を持たない人間は考えられないと思われています)

それと、また別の心配があります。
軒ちゃんさんのブログの過去の発言ではみれいさんは三世の生命を信じておられるよう
でしたが、最近の発言では輪廻を否定されているようでした。
(あとでみれいさんにお話伺えればと思います)
世間一般(宗教団体でも)では「霊」の存在は一般的に信じられていているような気がします。
(映画や文学やアニメなどで出てくる場合もあります)
もちろん信じない方が合理的なのですが。

にっし〜さんは靖国に霊は存在しないという発言をしておられました。
が、最新の『勤行要典』の最後に「先祖代々ならびに会員・友人の諸精霊追善供養のために。」と
はっきりと「精霊」の「追善供養」と「霊」の存在と葬式仏教の精神があるようです。
(それはそれで一般習慣的におかしくないことなのかもしれませんが)
Posted by Leo at 2006年08月17日 00:01
 Libra師匠、速いお返事キター━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━>

 「無常=無我=縁起を自分の事として腹に落ちて納得」や「宗教的時間」は、変性意識体験とは正反対のものとのご意見ですが、変性意識体験でぐぐってみると、「変性意識体験=悟り」なんて書いてる方もいらっしゃいます。爆
 曽我さんサイトで検索して読ませていただきましたが、縁起の思想を深く理解しようと殊更入れ込んでしまうことは返って危ないことだとも思いました。汗

 私的には、私や師匠やLeoさんなど、どう足掻いたって近い将来に逝ってしまうことが約束されているわけで(笑)、また年齢を重ねた人ほど仏教など知らなくても世間を知り、病気や死への恐怖感などは和らいで安らかに逝ける人も多いのではないかと思います。
 私にとっての大きな不安感は、私のいなくなった後のこの世界はどうなっていくのだろうということです。
 またそれに比べればそれ以外の自分自身に対する不安や苦などはどうってこともなく、将来的に大きな不安や苦などが襲ってきた時は、その時に考えればいいやなんて覚悟(開き直り?w)もあります。笑
 おっと、余談に逝っちゃってました。(>▽<;; アセアセ

> ブッダゴーサがシャカの教義を信頼(信仰)していることは明らかだとおもいますが。

 私の場合、師匠やLeoさんなどは信頼しています。(^-^)
 でも師匠やLeoさんの言われることと、他の方の言われることとを殊更区別して考えてはいませんから「信頼=信仰」とはならないようです。涙

>  もし本当に「縁起説は誰にでも理解できる」のであれば、インド
> における仏教の敗北というのは一体何だったのかということになり
> ませんか?

 ならないと思いますよ。^^
 今も昔も多くの人間は、欲を欲し(欲のループかw)、幸福になりたい、願望を叶えたいと思っているようですし、と同時に苦から逃れたいとも思っているわけですから、これでは、本来の仏教は敗北しても致し方ないのではないでしょうか。涙
 ブッダが懸念していたように、このような人々には「縁起説は理解し難い」と言えるのかもしれませんが、このような欲ボケ盲信などが人々になければ「縁起説は誰にでも理解できる」ことだとも思います。
 否、このような欲ボケ盲信的な人だって「縁起説は理解できる」のかもしれませんが、理解できても拒否したいのではないでしょうか。悲涙

 師匠、忙しい中お相手してくださり、ありがとうございました。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2006年08月17日 00:33
 Leoさん、こんばんは。^^

> わめさんは「正しいものを正しいものと理解し選択する」ことに「信仰」という
> 言葉を使うのは抵抗感があるのですね。(また、いわゆる宗教にも抵抗感があるのですね)

 いえ、「正しいものを正しいものと理解し選択する」ことが、信仰とどう結びつくのかさえ理解できないのです。涙
 ですからこのことで「宗教にも抵抗感」があると言われるのもちょっとつらいです。汗
 今のところ「正しいものを正しいものと理解し選択する」ことは、論理的とか合理的と言う方が、信仰というより私にはフィットします。
 ですので「正しいものを正しいものと理解し選択する」ことを信仰と呼ぶのが、論理的とか合理的というより妥当であるという、見解をお示しくださればもう少しちゃんとしたお返事ができるのではないかと思っております。

> 軒ちゃんさんのブログの過去の発言ではみれいさんは三世の生命を信じておられるよう
> でしたが、最近の発言では輪廻を否定されているようでした。

 過去は分かりませんが、みれいしゃんは現在、輪廻があるなしの断定を避けているのではないでしょうか・・・

 にっし〜さんのことは、私にはよく分かりません。汗
Posted by わめ at 2006年08月17日 00:49
 Libra師匠、あとひとつだけ言わせてください。<(_ _)>

> もっとも、ブッダゴーサがシャカの教義を信頼(信仰)していることは明らかだとおもいますが。

 そうかもしれませんが、そのような信頼(サッダー)をブッダは否定されているとブッダゴーサは言っています。

> あとは同じところをぐるぐる回りそうなので、このへんでおしまいにします。

 私の見解などに関係なく、「ブッダゴーサがシャカの教義を信頼(サッダー)していることは明らかだと」との師匠の見解と、ブッダゴーサの「信頼(サッダー)をブッダは否定されている」との見解の間でぐるぐる回って抜け出せそうにありません。涙
 師匠の見解が正しいとすると、ブッダゴーサは、ブッダが否定されたと自ら解釈したことを、自らが犯してしまっていると言えるのかもしれませんね。汗
Posted by わめ at 2006年08月17日 04:55
 わめさん、おはこんばんちは。

 ブッダゴーサは「ブッダはいかなる意味においても信頼を否定し
ている」などとはいっていないでしょう。「自分の確かめたことだ
けを信ずる」というわけですから。この「信ずる」は「信頼する」
ということでしょう?

 たしかに、第853はある種の「信頼」の態様を否定しているわけ
です。そこで否定されているのは「権威者への服従」という形態で
の「信頼」であるというのがブッダゴーサの解釈でしょう。

  ────────────────────────────
  肯定すべき「信」について述べているところでも、否定すべき
  「信」について述べているところでも、初期経典では同じ「サ
  ッダー」という言葉がつかわれているということをわたしは示
  しました。

  (102 名前: Libra 投稿日: 2006/01/31(火) 05:25:04、
    http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_004.html
  ────────────────────────────

  ────────────────────────────
   初期経典において、ちがう意味の信仰を、同じ「サッダー」
  という言葉で表現しているのは、「サッダー」と言う言葉が、
  意味の違うそれぞれの信仰を含みうるより広い意味の言葉だか
  らでしょう。

   初期経典は、シャカの言葉をすべてもれなく記録したもので
  はありません。実際に話されたさいには、どちらの意味で「サ
  ッダー」と言う言葉を使っているのかが文脈から明らかでない
  場合には、とうぜん説明されたでしょうし、文脈から明らかな
  場合には説明はなかったでしょう。

  (117 名前: Libra 投稿日: 2006/02/01(水) 04:02:51、
    http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_004.html
  ────────────────────────────

 シャカが「思想(宗教)を受け入れる側の盲信的信仰態度を否定」
しているというのは正しいでしょう。

 しかし、《シャカは「教えに対する信頼」をあらゆる意味におい
て否定している》というのは正しくありません。むしろ、シャカは、
盲信的でない信仰態度を肯定しています。

 中村先生は『ダンマパダ』第333に付された註において、以下の
ようにいわれています。

  ────────────────────────────
   信仰――saddhA. 漢訳『法句経』に「信レ正」とあるように、
  正しいことを信ずるのである。これが仏教における「信」の特
  質である。

  (中村元訳『ブッダの 真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、
     岩波書店、1978年、p.133)
  ────────────────────────────

 このような仏教における「信」の性質をあきらかにするためには、
「信仰を捨て去れ」という文句などではなく、以下の資料で引用さ
れているシャカの言葉を引用すべきだとおもいます。

  ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
  http://page.freett.com/Libra0000/048.htm

 文脈を無視した切り文を用いて、《シャカは「教えに対する信頼
(信仰)」をあらゆる意味において否定している》などと宣伝され
るのはシャカにとっても迷惑な話でしょう。

 仏教徒でないわめさんはご存知ないのでしょうが、仏教徒は、
「盲信的でない信仰態度」を「サッダー(信頼、信仰)」といって
きたし、いまもいっているのです。

 もっとも、過去のわめさんは、「盲信的信仰態度」を仏教の「信」
と勘違いしておられたようですが、それはもともと仏教の「信」な
どではなかったのです。わめさんは、過去も仏教徒ではなかったし、
現在もそうではないのです。

 わめさんはこれからもぐるぐると同じところを回られるのかもし
れませんが、少なくともわたしはもうおつきあいしかねます(汗)。
わたしはもう十分おつきあいしたとおもいます。

 わめさんとごいっしょにぐるぐると同じところを回られたい方ば
かりではないとおもいますので、そのような方のために、以下のU
RLを提示しておきたいとおもいます。

  日蓮考察(No.91〜)
  http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_004.html
Posted by Libra at 2006年08月17日 15:43
 Libra師匠、こんにちは。^^

 何だか言葉遊びのようになってきているように思います。汗

 「サッダー」が、意味の違うそれぞれの信仰を含みうることは私も述べましたが、ブッダが否定(no saddha)するサッダーの意味に含まれる「信頼」は、ブッダが肯定するサッダーの意味には含まれません。

 でも敢えて師匠のように「信」や「信仰」をすべて「信頼」という言葉に置き換えてしまえば、師匠の言われるような仏教的信仰も盲信的信仰もすべて「信頼」となり、そこにはブッダが肯定する「信頼」と、ブッダが否定(no saddha)するサッダーの意味に含まれる「信頼」があることになります。

 ですが「自分の確かめたことだけを信ずる」はそれだけで十分説明になっていることを、それは「信頼」ともいえると、ブッダが否定(no saddha)するサッダーの意味に含まれる「信頼」と同じ言葉にして混ぜこぜにする必要がどこにあるのでしょう?

 師匠の今回のコメントでようやく分かりましたが、「ブッダゴーサがシャカの教義を信頼(信仰)していることは明らかだとおもいますが。」の「信頼」は、「自分の確かめたことだけを信ずる」を指す「信頼」ということのようですが、同じ言葉であっても意味(ブッダが肯定および否定)がまったく違うわけですから、ましてブッダが否定するサッダーの意味に含まれる「信頼」についての論議で使う場合には、その「信頼」の意味するところの説明がまったくないのでは論議がややこしくなるばかりです。(事実私は誤解してしまいましたw汗)

 ましてこれまでの議論で、ブッダが否定(no saddha)するサッダーの意味に含まれる「信頼」の言葉として使ってきたわけですが、

> 今回わめさんが引用されたブッダゴーサの解釈は、わたし自身が
> 以前の議論で引用しました。もっとも、ブッダゴーサがシャカの教
> 義を信頼(信仰)していることは明らかだとおもいますが。

 と、このように表現されましたら、「ブッダゴーサがシャカの教義を信頼(信仰)」は、ブッダが否定(no saddha)するサッダーの意味に含まれる「信頼」と受け取るのが自然なのではないでしょうか。

 自分の読解能力の足りなさを棚に上げて言いたいことを書いてしまいましたが(汗)、こんな私にもここまでの議論で師匠の言いたいことが何とか分かったようです。^^

>  文脈を無視した切り文を用いて、《シャカは「教えに対する信頼
> (信仰)」をあらゆる意味において否定している》などと宣伝され
> るのはシャカにとっても迷惑な話でしょう。

 私は師匠の言われる仏教的信仰(ブッダが肯定する信仰)を、一度も否定した記憶がありませんしそれはこの記事でもわかると思いますが。これは師匠の誤解ではないでしょうか。

> 仏教徒は、「盲信的でない信仰態度」を「サッダー(信頼、信仰)」といってきたし、いまもいっているのです。

 このサッダーは「冷静・客観的・合理的・自分で研究して調べて、発見して理解して、納得して信じる。確信すること。」との訳が妥当だと思いますし、仏教以前から使われブッダが否定するサッダー「信頼、信奉、教義・祭礼信仰、宗教的信仰」とも明確に区別が付いていいように思います。

 師匠は私の主張を誤解されたままのようでちょっと悲しいですが、今まで師匠と論議してきたことの中では、私の見解も師匠の見解と大筋で一致しているように思っております。

 「ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)」は、再度熟読させて頂きます。

 お忙しい中、ありがとうございました。ぺこ <(_ _)>
Posted by わめ at 2006年08月17日 19:55
わめさん、Libraさん、こんばんは。

>私にとっての大きな不安感は、私のいなくなった後のこの世界はどうなっていくのだろうということです。

私のいなくなった後のこの世界は私がいる前の世界のように私がいないだけで存在している...(それだけじゃちょっと寂しい?)先入観なく世の中を眺めるのと私のいなくなった後のこの世界はほとんど同じかもしれません。(先入観がなくなった時点で私がいなくなるから)

みれいさんのブログに幽霊とは地に足のついていない人間の心の姿だという指摘がありましたが、(それは存在している人の心の表現ですが)霊というのはすでに存在しない人の記憶を存在している人が持つということではないかと思います。

人間の寿命は限界があるので存在しなくなったときに存在している人に記憶をとどめて貰うしかないとか思ったりします(有名人はそれが達成されています)。なので身内やまわりの人に良くするか(逆に憎まれたりという手もあったり)、各人に出来るかどうかわかりませんが、発明とか芸術とか残すとか(私には無理そう)、結局できることを精一杯やるしかなさそうです。で、最後に平穏な気持ちが持てればよいと思います。

>ですので「正しいものを正しいものと理解し選択する」ことを信仰と呼ぶのが、論理的とか合理的というより妥当であるという、見解をお示しくださればもう少しちゃんとしたお返事ができるのではないかと思っております。

「正しいものを正しいものと理解し選択する」ことを信仰と呼ぶのが、論理的とか合理的というより
妥当というわけではないですが、信仰と呼ぶ例(科学が信仰の対象)があるというのちょっと示してみます。

○ 信仰(Goo Wikipedia記事検索)
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/6846/%BF%AE%B6%C4/detail.html
「人間が神や特定の個人、集団、何かの主張や思想(宗教の信条など)などを信じ、 敬ったり、崇めたりする態度や気持ちなどを指す。また、そのような意味での信仰の根拠となる考え方があれば、それを信仰と言うこともある。物や自然を敬い崇めることも信仰と呼ばれる」
信仰の対象となる物
 .....
科学

○ 科学(Goo Wikipedia記事検索)
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%B2%CA%B3%D8/detail.html?LINK=1&kind=epedia
「ラテン語のスキエンティア(scientia、知識)に由来する概念で、体系的で実証的な学問の総称である。」
「科学の本質は観察と分類にあり、可能であれば実験や冒険により現実に示し再現してみせることを尊重する。」

科学は正しいものを正しいものと理解し選択するすることである。
科学が信仰の対象とされる場合がある。
ゆえに正しいものを正しいものと理解し選択するすることを信仰と呼んでもさしつかえない。
(仏教的観点から信仰を見直さないと苦しい三段論法ですが...)

Posted by Leo at 2006年08月18日 01:18
 Leoさん、こんばんは。^^

> 私のいなくなった後のこの世界は私がいる前の世界のように私がいないだけで存在している

 生きている時が世界の傍観者であればそうなのだろうと思います。
 生きている間に、何かしらの影響をこの世界に与え続けているとしたら、死後のこの世界は私がいないだけとは言えないんじゃないでしょうか。
 私は傍観者にはなりたくないし、なってもいないつもりなので、やっぱり死後のこの世界のことは気になります。
 佐倉氏の「ある仏教徒の「死後の世界」観」を読んで、私は感銘を受けました。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/masutani.html


 「科学が信仰の対象とされる場合がある。」を「科学が○○の対象とされる場合がある。」とすれば、この○○に入るものすべてが該当してしまいそうですね。汗

> 仏教的観点から信仰を見直さないと苦しい三段論法ですが...)

 はい、やっぱり苦しいと思いますですw(>▽<;; アセアセ
Posted by わめ at 2006年08月18日 01:45
わめさん、こんにちは。

>私は傍観者にはなりたくないし、なってもいないつもりなので、やっぱり死後のこの世界のことは気になります。

>>結局できることを精一杯やるしかなさそうです。

ということで黄金の釘のひとつでも打つですね(銀の釘、銅の釘、鉄の釘、木の釘でもよいですが)。

>はい、やっぱり苦しいと思いますですw(>▽<;; アセアセ

ということは一般の信仰と仏教の信仰が違うということですね。
また、一般の信仰を持って仏教の信仰を同じとしてしまうのも問題ということですね。
Posted by Leo at 2006年08月18日 07:51
 Leoさん、こんにちは。^^

> ということで黄金の釘のひとつでも打つですね(銀の釘、銅の釘、鉄の釘、木の釘でもよいですが)。

 実はよくわからないのです。笑
 自分の死を考えた時に、この世に残る人達、この世界のことが気がかりになるだろうなということで、なるべくこの気がかりを期待に変えていけたらいいかなと。

> ということは一般の信仰と仏教の信仰が違うということですね。

 私の「やっぱり苦しい」に、「一般の信仰と仏教の信仰が違うということ」とのお返事の繋がりが分かりませんw(でも無理やりくっつけてみる♪)

 一般の信仰と仏教の信仰というより、一般の信仰と釈尊が肯定する信仰は明らかに違うというということです。
 またそれを同じ信仰と言う言葉で表現することは、現代の一般的日本人に誤解を与えやすいということです。
 釈尊が肯定する信仰は仏教に限らず、どの分野にしても臨む側の態度として正しいと私は思います。
 そして私は、釈尊が肯定する信仰を記事中で『「批判的合理主義」を「命題に対してわれわれがとるべき態度」の前提として「合理的に保持できる命題に対する心理状態」』=略して「合理的に保持できる命題に対する心理状態」と表現しました。

> また、一般の信仰を持って仏教の信仰を同じとしてしまうのも問題ということですね。

 (話を戻して)「正しいものを正しいものと理解し選択する」ことを信仰と呼ぶことは、信仰の意味に一般の信仰(盲信的信仰)が含まれますし、仏教だけに限った態度とは言えないと思いますので、信仰と呼ぶのは論理的や合理的より妥当だとは思えないということです。(科学的はいいかもしれませんね。)
Posted by わめ at 2006年08月18日 12:49
肉体をまとった人間が宇宙のすべて、全大宇宙を理解することは不可能です。
しかし、信仰、人の思い、念も重要ですが
それよりも厳然と存在する真実があります。
Posted by 未熟な存在 at 2007年08月19日 19:20
ご参考まで。

○スピリチュアリティ (Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3

「スピリチュアリティ(Spirituality、霊性)とは、霊魂などの超自然的存在との見えないつながりを信じるまたは感じることに基づく、思想や実践の総称である。」

私等には理解できない分野ですが m(_ _)m 癒しの効果はあるようですね...
スピリチュアリティで癒されることができる人はこれはもう幸せではないですか。

そうでない私は一歩一歩歩んで行くのみでございます。
Posted by Leo@隠居 at 2007年08月20日 23:51
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『スッタニパータ』の「信仰を捨て去れ」
Excerpt: はじめに   去年(2006年)の8月、わたしは、わめさんのブログの「釈迦が肯定する信仰」という記事にコメントを書かせて頂き、そのテーマに関して、わめさんと少しだけ議論させて頂きました(..
Weblog: 仏教と批判的合理主義
Tracked: 2007-02-11 02:07
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