2006年07月31日

我の強さ

 仏教には無我と表現される無心の状態というか、あらゆる事物は現象として生成しているだけで、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないとする見解がありますが、これは大乗的には空を指しているのかな?

 ある人を指して「あの人は我が強い」とか言われたりしますが、我が強いということは無我の対極にある状態なのかもしれません。

 恋愛などで心が熱くなっている時ってのは、やっぱ我が強い心理状態なのかもね。(^^;
 
 
 前置きが長くなりましたが、自我意識が強い状態では目に入らないことや考えつかなかったことが、自我意識が弱まると見えてきたり今までと違う角度から考えることができたりという経験はありませんか?
 私の経験から例を引くと、夜寝る前に書いた詩が素晴らしく思えたのに、あるいは明日は思い切って好きだって告白しようと考えた台詞が、朝起きるとつまんない詩に思えたり、よくもこんな台詞を言おうと考えたものだと溜息がでたりしたものです。笑

 夢を追いかけるといったことや、幸せになりたいと強く願うことも、ある種の自我意識の強い状態と言えるのではないでしょうか。
 また意見の合わない方との話し合いや、逆に意見がよく合う方との話し合いで感情が昂ぶったりするのもそうかもしれません。

 私には無我の状態はよくは分かりませんが、自我意識の強い状態は可謬的思考の低下や、自己の見解の正当化にばかり思考が偏り、他者の意見を理解しにくい状態を招くことが多いように思いますし、そのような状態では得るものが少なくなるべく避けたいと思っております。

 というか最近では幸せになりたいとか、自分の置かれた環境を不満に思うことも少なく、他人事やこの人間社会のことを考えたりすることが増えてきたようにも思います。

 これって歳喰った証拠?w ( ̄ー ̄; ヒヤリ

 幸せになろうが不幸であろうが、願いが叶おうが叶うまいが、そこから生じるのは一時的な感情であり、それらがどうであろうと死は着実に迫ってきているわけで、死への恐怖はその時まで何かで紛らわしその時を忘れ去るか、自我意識をとことん弱めていつでもOK状態を作っておくかしないと大変かもしれません。

 ・・・こんな考えも歳喰った証拠?(>▽<;; アセアセ

 そういえば昨年メールでPoh師匠より、エリザベス・キューブラー・ロスやアルフォンス・デーケンなどが提唱する「悲嘆のプロセス」について教えてもらったことがあり、それは基本的には「死にゆく人たちがどんなプロセスを通して死を受け入れてゆくか」という研究から導き出された考察で、主にホスピスケアなどの現場で実際に活用されていて、その過程は多くの人が様々な「喪失感」を受け入れ、「認めたくないありのままの現実・真実・過去など」と向き合うに至る過程にも、大小・濃淡・深浅様々あれど、適用できる考え方だともいわれているとのこと。
 これらは、死にゆく人と、身近な人の死に直面していく人の両者に共通する過程でもあるようですが、本題から脱線気味なのでこのお話の続きはまたの機会に。

 と言いつつまた違う方面に脱線しますが(汗)、モテる男(女もかな?)のひとつの秘訣としても自意識を抑えるということは大事なことのように思います。
 自分のことをダラダラ話したり、まして自慢話など尚更マイナスです。
 また相手の話の腰を折って、自分はこう思うなどと話し出すのもマイナスです。
 相手の話を最後まで聞いて、理解を示せるまで自分の意見は述べないのがベターですね。
 また聞かれたことは言葉少なに答える。聞かれたこと以外は話さない。これは好印象を与えると思います。
 これでもっと知りたがらない異性は脈なしかもです。
 さっさとターゲットから外しましょう。(^^;

 ・・・脱線に脱線を重ねて色々と述べてしまいましたが(大汗w)、自我意識を抑え、常に客観的な思考を持つことはよいことのように思います。

 無理やりまとめてしまった感がありますが眠くなってきたので今夜はこれにて。
posted by わめ at 04:11| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ちょっと真剣な議論から離れて脱線してみます。
(いつも脱線してますけど...)
わめさんのお話から無我の恋愛とか合理的恋愛とか紳士的とかありそうで美しいですが、思い込みとか勘違いとか時には密教的だったりするのもよいのかもしれないとも思ってもみます。過去を振り返ると。
(ほんとかな?)
そういう世界は前頭葉必要なのか必要ないのか微妙す。
Posted by Leo at 2006年07月31日 22:29
(自己レス)
>わめさんのお話から無我の恋愛とか合理的恋愛とか紳士的とかありそうで美しいですが、思い込みとか勘違いとか時には密教的だったりするのもよいのかもしれないとも思ってもみます。過去を振り返ると。

これは単なる私の過去の正当化というか妄想すね(笑)。
Posted by Leo at 2006年07月31日 23:01
 Leoさん、こんばんは。^^

> >わめさんのお話から無我の恋愛とか合理的恋愛とか紳士的とかありそうで美しいですが、思い込みとか勘違いとか時には密教的だったりするのもよいのかもしれないとも思ってもみます。過去を振り返ると。

 う〜ん、紳士的はともかく無我の恋愛とか合理的恋愛とかは、私の想像力から限界を超えてしまっているようです。汗
 ほとんどの恋愛は「思い込みとか勘違いとか時には密教的だったりする」可能性は高いと思いますが、その良否は個々人のご判断に委ねるべきかと思ったりしています。

> これは単なる私の過去の正当化というか妄想すね(笑)。

 「よいかもしれない」は、Leoさんの「過去の正当化」かもしれませんが、また誤りであるとも言い難く、ある意味、恋愛の多くはそういったものかもしれないとしか私にはお返事できないかもです。

 それとも思い切って岡本太郎氏風に、「恋愛は妄想だ!」と言ってみるのも面白いかもw笑

 ・・・仏教的思考では恋愛は難しそうに思います。(´・ω・`)ショボーン
Posted by わめ at 2006年08月01日 03:08
瞬間、瞬間に、気づきを入れていると、恋愛対象に性欲が沸かなくなったときが、恋愛が終わりだとリアルに体感できますね。

仏教やと、恋愛より友情のほうを進めてます。
Posted by ナマズ at 2006年08月01日 07:25
 ナマズさん、こんちは。^^

> 瞬間、瞬間に、気づきを入れていると、恋愛対象に性欲が沸かなくなったときが、恋愛が終わりだとリアルに体感できますね。

 性欲が湧かなくなるのは悲しいっす。涙
 常に恋愛感情も持っていたいし・・・
 私のこういった思いが、仏教の教えを理解はできても受け入れられないひとつの要因なのかもです。(^^;

> 仏教やと、恋愛より友情のほうを進めてます。

 善き友ですな。(^^
Posted by わめ at 2006年08月01日 13:53
おっ今回は入りやすい話題ヽ(^o^;)ノ

恋愛感情って、そもそも何だろう?と思いますね。
私は恋愛よりも友情の方が勝つと思ってます。

友情は永遠になりえても、恋愛はいつか終わる…そう思ってしまいます。
性欲ということでいえば、性欲を越えたところに本当の恋愛?があるのかなと思えたり…
でもそれは偽善ならぬ偽恋かな?

心と体というところを考えると、なかなか答えはスッキリ出ないですね〜
う〜む(-_-;)
Posted by ナウシカ at 2006年08月01日 14:46
>私のこういった思いが、仏教の教えを理解はできても

恋愛を飽きるまでトコトンやりつくすとよいでヤンスよ。

「俺は女大好きでエッチも大好きだい」って認めるのも仏教ですねー。

ナウシカさんへ

男と女はどうしても長くいると、性欲が無意識ででてきますか、友情を保つのは難しいですね。

性欲という原子爆弾をちゃんと管理しながら、友情を保っていければ良いのですが。

僕の場合、女友達で性欲が湧かないのは、女としてみてない子だけやね。
Posted by ナマズ at 2006年08月01日 18:06
 ナウシカさん、こんにちは。^^

> おっ今回は入りやすい話題ヽ(^o^;)ノ

 うぅw 自我意識の記事なんだけどコメントは恋愛と友情話に傾いてきましたね。笑

> 恋愛感情って、そもそも何だろう?と思いますね。

 種の保存欲、本能から突き動かされる感情なんじゃないでしょうか。

> 私は恋愛よりも友情の方が勝つと思ってます。

 私は、どちらの次元が上か下かということではなく、恋愛と友情とは別次元の心理ではないかと思ったりしています。ですので恋愛と友情は勝負させたくないな。笑

> 友情は永遠になりえても、恋愛はいつか終わる…そう思ってしまいます。

 一般的にはそうかもしれませんね。
 でも友情だって壊れやすかったり、恋愛だって感情的に変化はあっても死ぬまで続く場合もあるかもしれません。

> 性欲ということでいえば、性欲を越えたところに本当の恋愛?があるのかなと思えたり…

 私もそう思います。
 昔(今もかw)は、ちょっと恋愛感情らしきものが芽生えたら取り合えずやっちゃってましたが(ぉぃw)、やりたい(性欲)のと好きな感情を混同しないためにもいい方法だったと思います。男の側の勝手な言い分かもしれませんが・・・
Posted by わめ at 2006年08月01日 18:22
 ナマズさん、こんちは。^^
 ナウシカさんにお返事書いているうちにナマズさんのコメントがきてました。笑

> >私のこういった思いが、仏教の教えを理解はできても
>
> 恋愛を飽きるまでトコトンやりつくすとよいでヤンスよ。

 私、恋愛に飽きる前に人生が終わっちゃうと思います。多分w(>▽<;; アセアセ

> 「俺は女大好きでエッチも大好きだい」って認めるのも仏教ですねー。

 ぉ、これなら仏教も受け入れられそう。爆
Posted by わめ at 2006年08月01日 18:26
 恋愛からはちょっと外れますが、興味深く感じた記事にリンクしちゃいます。^^
永井俊哉氏のコラム【フェロモン】
http://www.pressplan.jp/08seisho/index.html
以下一部引用
『そうした強い性的刺激は、日常的な倦怠を打ち破る非日常的なエロティシィズムでなければならない。そして、エロティシィズムの炎を燃え上がらせるのは、非日常的な死の恐怖である。第一次世界大戦および第二次世界大戦での調査によると、兵士たちに1日程度の休暇を与えて帰郷させると、排卵期ではない、つまり、本来妊娠可能でない状態の女性までが妊娠した。また、アメリカでは、パール・ハーバーから268日経った後、出産ラッシュがあった。このことは、パール・ハーバーのニュースがアメリカに流れた日、セックスした女性が非常に高い確率で妊娠した 。

有性生殖の本来の機能が生存を脅かすリスクの増大への対処であることを考えれば、なぜ死の危険が生殖機能を向上させるのかは容易に理解できる。すなわち、種の存続が危なくなると、その種は、様々な子供を作ることで、種全体の絶滅を阻止しようとする。』
Posted by わめ at 2006年08月01日 18:32
 Leoさんのコメントを読み直して再度お返事を。^^

> 無我の恋愛とか合理的恋愛とか紳士的とかありそうで美しいですが

 これは恋愛の入り口というか、恋愛関係をうまく構築しようとする試み(作戦)であって、自意識を弱めると恋愛がうまくいく可能性を私の経験から一部示唆しただけで、一見美しそうには見えてもそこには策謀があるわけで、決して美しいものではないと思います。
(_△_;〃 ドテッ!
Posted by わめ at 2006年08月01日 20:00
>私、恋愛に飽きる前に人生が終わっちゃうと思います。

最後は腹上死ですね。
Posted by ナマズ at 2006年08月01日 21:00
>男と女はどうしても長くいると、性欲が無意識ででてきますか、友情を保つのは難しいですね。

これは男と女では温度差がありそうですね。
ただ単なる性差の性欲なのか、それとも相手に興味を持ち、男だから女だからというものを越えて、相手を好きになり、自然と本能の赴くままに性欲も湧いてきたとか。

男性にも女性にも、男性ホルモン、女性ホルモンの両方がありますが、男性ホルモンが優位だと性欲の高ぶりが強くなったり、攻撃的になったり、本能の部分が大きくなるそうです。
逆に女性ホルモンは理性的に働くそうですよ。

女性でいうと、女性ホルモンが豊富に分泌されるピークは25歳、それ以後は減少傾向だそうです。
つまり20代の女性ほど、理性が働き、本能の部分の性欲は抑えられる。
30代になると、女性ホルモンが劣勢になり、男性ホルモンが優位になるので、性欲が高まり、理性の抑えも弱くなると言われてるそうです…本当か(・・;)?

また全然違う話ですが、凶悪な性犯罪を犯す人というのは、普段はとても厳しく自分を律してる人が多いんだそうですよ。
規律を重んじるというか…
そういう抑圧されたストレスの負荷が大きいほど、自分でコントロールできない欲望が犯罪という形で表に現れてしまうのだそうです。

逆にそれをどんどん出してというか、人に話したり、変に抑圧しないで適切に処理していけば、いざというときには上手く欲望をコントロールできるのだそうです。

仏法では、そういうところも抑圧しないで、解放を説いているんじゃないですかね?…勝手な解釈(;^_^A

Posted by ナウシカ at 2006年08月01日 22:22
ナウシカさんへ

>仏法では、そういうところも抑圧しないで、解放を説いているんじゃないですかね?…

まあ我慢するのはよくないですよ。

どっかで爆発しますから。

仏教では忍耐を推奨しておりやす。
Posted by ナマズ at 2006年08月02日 19:20
 ナウシカさん、ナマズさん、皆さんこんばんは。^^

> 最後は腹上死ですね。

 私は騎○位死がいいなぁ エェー、コホンッ!(;-o-)o"

 仏教も初期仏教、大乗教、宗派等により、釈尊の教えの捉え方も大きく違っているようで、その目的でさえも微妙(大きく?)に違っているように思います。
 また同じ宗派・宗教団体の信者であっても、個々人の教えの捉え方も違っているように思いますが、その違いを尊重しあうべきなのか、論議し、すり合わせすべきなのか、この辺の判断も難しく思います。
 ただ、幸福などの精神的、個人の主観的な価値観に委ねられることを、論議してもそこから得られるものは少なく思いますので、論議する場合もこの点は避けて通りたいです。(^^;

 私としては、釈尊の教えにも可謬性があり、その教えを絶対と信じることはできないので、仏教の反証可能性を持たない言説を捨て、反証可能性があり現在も批判に耐えている言説のみを選択し、自らの思考に取り入れていきたいと思っております。
Posted by わめ at 2006年08月02日 20:22
人間、理性を失う瞬間があったとしても、あらゆる知識は可謬的で推測的なものにとどまる、正当化など存在しない、反駁によって、誤りの除去によって、フィードバックによって学ぶという感じでしょうか。

昔、私の悪友(善友?)から若いうちに遊んどけ(若いときしかできないことがあるから、一応良い意味の遊びですけど、ちょっと悪いのもあったかな)とアドバイスされて実行したんですが(アドバイスされなきゃ遊ばんのかいLeo)、今から考えると正解でした。今ではそんなように出来ないす。
Posted by Leo at 2006年08月02日 22:51
そうそう。
昔はインターネットないですから「電車男」のようなわけにいかなくて、悪友(善友?)の的確なアドバイス(時々フカシというか誇張が入っていてまともに信じるととんでもないめにあう)と雑誌(笑)などの活字メディアがたよりでした。
Posted by Leo at 2006年08月02日 22:58
(自己レス)
>悪友(善友?)の的確なアドバイス

悪友(善友?)のアドバイス曰く「女性を酒で酔わせて口説くというのは最低だ。ムードで酔わせろ。」(←ちょっと臭い?!)というのがありました。

こういうアドバイスをしてくれる悪友(善友?)がいれば芸能界の山本みたいにならなくて済みますね。やっぱ持つべきは友なのであった(このアドバイスは臭いだけでフカシはなしだったかな?)。ムードで失敗するとギャグになっちゃいますけど。

こういう話(だけか?)しているととめどもなくなってしまいますので、これくらいにしておきます。
Posted by Leo at 2006年08月02日 23:19
 Leoさん、こんばんは。^^

> あらゆる知識は可謬的で推測的なものにとどまる、正当化など存在しない、反駁によって、誤りの除去によって、フィードバックによって学ぶという感じでしょうか。

 そうですね、人間は未だ真理のひとつも手に入れてはいないのかもしれません。
 でも「反駁によって、誤りの除去によって、フィードバックによって」、ついでに観測・測定結果などの検証を重ね、誤りが認められなければ仮説はより強固なものになり、暫定的ながらも真理と同等として扱うことが可能なのかもしれませんね。

 お暇な時がありましたら記事ウォッチングにも載せましたが、下記KCNさんの考察をお読みいただければと思います。
 私はかなり納得できる部分がありました。
 特にエントロピーに関する項は面白かったです。^^
【KCNの哲学と宗教】
http://www.angel.ne.jp/%7Ekcn/?jsophism


 私は酒で酔わして口説くのも、ムードで酔わすのも苦手ですが、その気の女性にこちらが嫌でないなら、何かしらのキッカケを与えてあげないのは酷なことに思いますし、そのキッカケはどちらかあるいは両者が、酒に酔ったフリでもムードに酔ったフリでも構わないと思っています。

> こういう話(だけか?)しているととめどもなくなってしまいますので、これくらいにしておきます。

 (゜д゜)(。_。)(゜д゜)(。_。) ウンウン
Posted by わめ at 2006年08月02日 23:51
> こういう話(だけか?)しているととめどもなくなってしまいますので、これくらいにしておきます。

 私もこれくらいにしておこうと思いますが、最後に私の恋愛における(至る)スタイルをズバっと表現すると「武士は喰わねど高楊枝」です。
 あるいは「欲しがりません勝つまでは」かな?w笑
Posted by わめ at 2006年08月02日 23:58
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