2006年07月02日

対話と論議

 私は対話と表される事柄には、打算や詭弁や欺瞞が含まれる場合が多いと感じている。
 対話の目的や規範や前提として、「互いに理解し合うため」などと言われたりもするが、正直に申せば背中がむず痒くなってきたりもします。
 対話の本音・目的は、「互いに理解し合うため」ではなく、「自分や、自分の(正しいと信じる)思想・考え方を、対話相手に理解・受け入れてもらいたい」ということではないだろうか。
 その目的のためには相手の考え方を理解した”ふり”も必要だろうし、好感を持たれる言動も必要なのだと思うのですが、それが私には打算や詭弁や欺瞞に感じてしまうのです。

  
 大体からして「自分や、自分の(正しいと信じる)思想・考え方」など、多くの反証・反駁に耐えられるほどのものでもなく、それ以前に反証を受けられるほどの明確な思想・考え方でもない場合が多いのではないだろうか。
 しかしそうであっても「対話相手に理解・受け入れてもらいたい」から、受け入れてもらいやすいように色々と努力をしたりする。そしてそこからそれなりに互いを尊重し合うことができるコミュニティが生まれたりもするのでしょうが、自立支援や壊れかけの心を癒すための対話やコミュニティを除けば、私にはそのような対話やコミュニティは気持ちが悪いのです。

 それに対し、ある論題に意見を提出し合う論議は、それが誰の意見であっても反駁できなければ受け入れ、よりよい結論を導き出す手段であるように思います。

 多くのコミュニティを持つ私が対話を嫌い論議を好むのは、対話から生まれるコミュニティの打算や詭弁や欺瞞の中に身を置いて、他者に「自分や、自分の(正しいと信じる)思想・考え方を、対話相手に理解・受け入れてもらう」よりも、他者に批判的意見を求め論議し、今に安住しようとする心を疎い、居心地のよい状態に安閑としたくないからであり、それは私たちが常に危機的状況にあることを見失いたくないからでもあります。
posted by わめ at 13:15| Comment(67) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
そんなに夜の街は楽しいのかと興味を持ちかけたところだったのですが(笑)。
論議は苦手なので差しさわりのないところでまたお邪魔させてもらいますね(汗)。
Posted by 犬のメメ at 2006年07月02日 18:24
こんばんは。わめさん。お久しぶりです。

>対話の本音・目的は、「互いに理解し合うため」ではなく、「自分や、自分の(正しいと信じる)
>思想・考え方を、対話相手に理解・受け入れてもらいたい」ということではないだろうか。

Libraさんが、自分の考えを受け入れるためにネットに出ているのではないと言ったことを
思い出します。

私なんかもネットに出ているのは自分の思想・考え方を他人に受け入れさせるということは
全くなくて、今の自分の考えがあっているのか間違っているのか確かめたいとか、
自分の知らないことを知りたいとかのためです。

「自分や、自分の(正しいと信じる)思想・考え方を、対話相手に理解・受け入れてもらいたい」
というのは折伏的発想と思いますが、折伏指向でない世の中の人が折伏的発想をするのでしょうか。

わめさんが以前私に「何々して同意してくれたら嬉しい」という発言をなさって私が拒否
したのは、根拠を示されていなかったからです(根拠が示されたとして妥当性があるかが問題
となります)。

>その目的のためには相手の考え方を理解した”ふり”も必要だろうし、好感を持たれる言動も
>必要なのだと思うのですが、それが私には打算や詭弁や欺瞞に感じてしまうのです。

私なんかつくるところなくざっくばらんに行っていますが、どうなんでしょう仕事とか夜の
世界は「打算や詭弁や欺瞞」はないのでしょうか。たとえ他人が「打算や詭弁や欺瞞」でも
気にすることはないように思うのですが。

世間話から「論題に意見を提出し合う論議のネタ」を拾い出すのが達人(別に私は達人では
ないですが)ではないでしょうか。
最初から「議論の場」を仰るのは「論題」が出にくくなるという点で「打算や詭弁や欺瞞」
に思いますがどうでしょうか。

わめさん、どうか私にはお気遣いなど全く無用ですから仰りたいことがあったら仰ってください。
Posted by Leo at 2006年07月02日 22:21
メモ帳拝見したらわめさんの目指したいものが少しわかった気がします。
私は何もできんですが影ながら応援したいと思います。では、では。
Posted by Leo at 2006年07月02日 22:43
 しばらくネットに復帰できそうなのでお邪魔してみます。

 言葉の定義について争ってみてもしかたがありませんが、少なくとも、わた
しとわめさんとでは、「対話」という言葉についての理解が異なるようです。

 少なくともわたしにとっては、わめさんがいわれているようなものは「説得」
あるいは「説教」であって「対話」ではないと感じます。

 わたしは、わめさんとはちがって、「対話」というのは、「合理的な相互批
判」[*1]だとおもっています。

 ちなみに、創価学会では、「対話」について、以下のような説明がされてい
ます。

  ─────────────────────────────────
  本来、「対話」とは「格闘技」なのである。武器は「言葉」。リングは万
  人普遍の「理性」。権威をもちこむのは「反則」。なれあいは「八百長」。
  沈黙は「敗北」。論証もなく「私は、こう思うんだ」では、観客から笑わ
  れるだけだ。

  (『聖教新聞』の「羅針盤」、2000年11月12日の8面)
  ─────────────────────────────────

 「対話」とは上のようなものであるといい、自らを「対話主義者」であると
いいながら、実際には「説得」あるいは「説教」しかしていないという方がも
しおられるのだとすれば、それはまさに「無限に喜劇的である」[*2]としかい
いようがないわけですが、だからといって、「対話とは説得である」というこ
とにはならないでしょう。

 上記のように「無限に喜劇的」なケースで問題とされるべきなのは、言って
いることとやっていることが齟齬しているということでしょう。

 言っていることとやっていることが齟齬しているからといって、言っている
ことが正しくないということには必ずしもなりません。正しいことを言っては
いるが、それと矛盾する正しくないことをやっているということは十分にあり
えます。

 わたしは、「対話主義」は、理念としては正しいとおもいます。


  [*1] 対話主義と可謬主義(Libra)
     http://freett.com/Libra0000/z023.html

  [*2] 「理解」のソクラテス的な定義(キルケゴール)
     http://freett.com/Libra0000/095.html
Posted by Libra at 2006年07月03日 01:41
 ただいま〜です。^^

 メメさん、夜の街はホント楽しいっすよ!笑
 私はメメさんが論議好きな方と思っておりますがコメントを頂戴できただけでうれしっすよ。


 Leoさん

> メモ帳拝見したらわめさんの目指したいものが少しわかった気がします。
> 私は何もできんですが影ながら応援したいと思います。では、では。

 どのようにわかって頂けたか厳密にはわかりませんが、私からすれば十二分過ぎるほどのお言葉をLeoさんから頂戴できたと思いますし、それは感謝に絶えません。涙


 Libra師匠! コメントありがとうございます。

 師匠の『「対話」というのは、「合理的な相互批判」』とのご意見、頂戴いたしました。
 「対話」という言葉を、「無限に喜劇的」に使う方もおられまして、言葉の定義を自身の都合のよいようにここまで使えるものかと感心したりしております。
 このことに関連するのかは怪しいですが、昨日は師匠の【日蓮考察】スレ(72-73)のコメントをメメさんっちでリンクさせていただきました。
【こないだめっちゃ驚いたこと】(投稿 わめ | 2006/07/02 15:47 )
http://inunomeme.blog.ocn.ne.jp/kakarityou/2006/07/post_eaa4.html

> わたしは、「対話主義」は、理念としては正しいとおもいます。

 対話を「理性的批判」、「合理的な相互批判」と捉える師匠の見解は私も肯定的に捉えています。
 が、一般的(goo辞書)には『双方向かい合って話をすること。また、その話。』との解釈もあり曖昧で、また「無限に喜劇的」に使う方もおられ、対話という言葉のその意味するところが如何様にも解釈できそうで、私はどうもこの言葉を嫌っているようです。
Posted by わめ at 2006年07月03日 03:32
 Leoさん、こんにちは。^^

 世の中、「打算や詭弁や欺瞞」がゴロゴロ転がっているように思います。(^^;;

 ただ、私にはありがたいことに師匠やLeoさんなど、出会うことの稀な方たちがいてくれたおかげか、すべてが「打算や詭弁や欺瞞」に満ちているとまでは思っておりません。


 メモ帳のリンク先などみていただけたようですが、人は自由で何でもアリを私は認めてはいるのですが、今の世の中を少しでも憂う気持ちがあるのなら、自分の中にいつだって少しくらいは改めるべきところがあるんじゃないかと感じてもらいたいし、そう感じ合えないと実のある対話にならないと思っております。

 何だか最近私は、その「実のある対話にならない」場に出くわすケースが多いようで、それが今回のような「対話を喜劇的」に解釈した記事を書いてしまった原因なのかもしれません。涙

> 最初から「議論の場」を仰るのは「論題」が出にくくなるという点で「打算や詭弁や欺瞞」
> に思いますがどうでしょうか。

 これが「打算や詭弁や欺瞞」かどうかは今のところ私には分かりませんが、喜劇を避けたいからといって「○○お断り」的であってはよくないですね。
 記事の修正をします。
 ご指摘ありがとう。
Posted by わめ at 2006年07月03日 13:33
わめさん、こんばんは。

>> 最初から「議論の場」を仰るのは「論題」が出にくくなるという点で「打算や詭弁や欺瞞」
>> に思いますがどうでしょうか。

この部分はちょっとアヤシイです。するどいす。

> これが「打算や詭弁や欺瞞」かどうかは今のところ私には分かりませんが、
>喜劇を避けたいからといって「○○お断り」的であってはよくないですね。

私はわめさんがどうされたのかと思い、ちょっとわからなかったです。
言葉というのはなかなか難しいものですね。

Libraさん、こんばんは。

学会の資料も時々まともなことをいっていることがあるというところが
面白いと思います。
Posted by Leo at 2006年07月04日 00:30
 Leoさん、こんにちは。^^

> 私はわめさんがどうされたのかと思い、ちょっとわからなかったです。
> 言葉というのはなかなか難しいものですね。

 「どうされたのか」、これは何を指しているのか分からないですw(^^;;
 でも「ちょっとわからなかったです。」と続くから理解してもらえたと思っていいのかしらん。
 ほんとに言葉というのは難しい。。。

 記事の修正は最後の『対話やコミュニティの場ではなく、論題に意見を提出し合う論議の場でありたい』部分をそっくり削除しちゃいました。
Posted by わめ at 2006年07月04日 13:11
 わめさん、こんばんは。

 みれいさんのブログや軒ちゃんさんのブログ拝見して気になることが出てきたの
ですがお話いただけないでしょうか。(掲示板に移ったほうがよいでしょうか)

 軒ちゃんさんのブログ行ってみたのですが、そこでは悩みのある人が来ているので
議論のようなことしてはまずかもしれないと思っています。学会への適応・不適応などの
ことで少し確認や(議論?)したいです。

 それと、みれいさんのブログでフランスでSGIがセクト認定されたことについて会員に
違法なことをやさせていることが原因との情報がありましたが、国内ではどうなんでしょうか。
会館を選挙の目的で使用するのは違法性があるかもしれないという点しか思いうかばないです。
(私はそれほど深入りしてないから知らないのかもしれません)

 国内では組織的に違法性のあることをやさせている事実はあるのでしょうか。
(教宣部や広宣部あたりでなにかあるのでしょうか)

 ネットで書きにくいことがあれば無理はなさらないで下さい。可能な範囲で
結構ですので、よろしくお願いします。
Posted by Leo at 2006年07月05日 00:13
わめさんの記事に出てくる「対話」が、いくつか混じって、この記事だけ見た人にはわかりにくい気がします。

@「ある特定の使われ方をしている、対話と称するのになんだかちがうもの」A「日常の会話のような対話」B「議論(論議)する対話」Leoさんのも入れればC「カウンセリングケア的な対話」

わめさんが批判されているのは別のカキコの流れからすると@の部分だろうと思います。

んで、同感。

五重相対に関して、Libraさんから頂き物もしたので、メメさんとこに載せるか、うちに載せるか考え中。
メメさんのところ、いろいろつっこみたくてむずむずするけど、ちょっと躊躇してます・・・
Posted by みれい at 2006年07月05日 02:17
 Leoさん、こんにちは。

 「学会への適応・不適応などのことで少し確認や(議論?)」の件了解です。
 とりあえずこのコメント欄に書いていただけますか。

>  国内では組織的に違法性のあることをやさせている事実はあるのでしょうか。

 選挙活動については違法性がある*1ように思いますが、それ以外は今浮かんできませんね。

>  ネットで書きにくいことがあれば無理はなさらないで下さい。可能な範囲で
> 結構ですので、よろしくお願いします。

 お気遣い感謝です。^^
 この後のみれいしゃんへのコメントに、最近思うことを書いてみましたのでよかったら読んでみて下さい。

*1
あきあこさんのブログの「勧誘するなら○○○食え!3」
http://blog.goo.ne.jp/akiako0322/e/9be1994e46ef4e135004134c376585a2
コメント欄の、選挙違反についてのコメントウォッチ
Posted by わめ at 2006年07月05日 16:09
 みれいしゃん、こんにちは。^^

> わめさんの記事に出てくる「対話」が、いくつか混じって、この記事だけ見た人にはわかりにくい気がします。

 ご指摘のように私もわかりにくいだろうなと思います。(^^;
 もしかしたらどうしようもないことかもしれないですが、最近はネットを通じての話し合いで、互いに変わっていくことの難しさに、こんなことでいいのかと苛立ちを感じたりしており、その苛立ちがこのようなわかりにくい記事になってしまう原因じゃないかと思ったりしています。

> わめさんが批判されているのは別のカキコの流れからすると@の部分だろうと思います。

 そうですね、@の部分が大きいように思います。
 でも記事にもありますように、対話が「自分や、自分の(正しいと信じる)思想・考え方を、対話相手に理解・受け入れてもらいたい」ことが本音や目的ならどれも同じだろうとも思います。

 このような態度は、Libra師匠の言われる説得・説教ともいえそうですし、それは「無限に喜劇的」なのかもしれませんし、みれいしゃんのところで師匠が「非常に異なったフレームワーク間の討論は、時として非常に困難であり、おそらくとても快適とは言えない…かもしれないが、はなはだ実り多いものになりうる」と書かれておられましたが、非常に困難であってもそれは私にはわくわくするくらいに楽しいことなのですが、そのような機会も最近は実りなく、結果的に私も喜劇の出演者になってしまっているのじゃないかと感じることが多いです。涙

 対話を、師匠の言われる「合理的な相互批判」とするならばこのようなことにはならないのでしょうが、一般的にも個々人においても対話の解釈や目的は曖昧・様々で、結果、喜劇的に終わる場合が多いのじゃないかと思います。

> 五重相対に関して、Libraさんから頂き物もしたので、メメさんとこに載せるか、うちに載せるか考え中。
> メメさんのところ、いろいろつっこみたくてむずむずするけど、ちょっと躊躇してます・・・

 メメさんっちに書かれておりましたね。^^
 【この界隈について思う】
http://inunomeme.blog.ocn.ne.jp/kakarityou/2006/07/post_ce48.html
Posted by わめ at 2006年07月05日 16:09
>非常に困難であってもそれは私にはわくわくするくらいに楽しいことなのですが

これが大事ですよね。
私もそうありたいし、見習って行こうと思います。

>結果的に私も喜劇の出演者になってしまっているのじゃないかと感じることが多いです。涙

やはりお互いの姿勢が整わないと難しいですねぇ。
関心が薄かったり、理論以外で闘争的な場合は、話し合いにもならない・・・

それにしても、教学に関する事は、学会員さんに全部スルーされてます。
メメさんのところも今のところ反応なし。
自分のところに載せようかな。
いずれLibraさんの所にも載るそうです。

最近「仏教の源流から」スレッドををまた見始めてます。
Posted by みれい at 2006年07月05日 22:54
 みなさん、おはこんばんちは。

 みれいさん、引用ありがとうございました。

 あちらでは、URLがはれなかったようなので、ここにも投稿しておこうと
おもいます。「わめさんのところバージョン」ということで、付録もつけてみ
ました。
Posted by Libra at 2006年07月06日 00:33
【「五重の相対」の問題について(1/5)】

(1) この問題でまず最初に確認しておかないといけないのは、「日蓮が依
拠したものの中には、日蓮の時代には通用したとしても、今ではもう通用しな
いものが少なからずあ」るという「ことを素直に認めることができない人がも
しいるとすれば、そのような方は『狂人』であるといわざるをえない」[*1]と
いう点です。

    本当なら、このようなことは、いちいち確認するまでもないことだと
おもうのですが、このことをあえて確認しなければならないという悲しい状況
に今はまだあるとおもいます。

(2) 「選択」と「相対」のちがい
    次に、確認すべきなのは、「選択」と「相対」とのちがいです。

    まず、「選択」のほうですが、「選択というのは、真実の仏教と真実
でない仏教を振り分ける」ことであり、「仏教に二種類あるとか、三種類ある
というのは選択ではな」く、「これが本物で、あとは偽物だと、そのことをは
っきり見極め」て、「長い歴史の中で同じ仏教という範疇に包括されていても、
これは仏教で、これは非仏教と言い切ることができる確信、たしかな原点を持
つ、それが選択ということ」[*2]だと思います。

    一方、「相対」というのは、「釈尊の最も中心的な思想は何であるか、
またその中心的な思想と相違する、はなはだしい場合には矛盾対立する思想は
何故に説かれなければならなかったのか、というような諸問題に答える思想的
な営み」[*3]と理解しておけばよいのではないでしょうか。

(3) 日蓮の「選択」と「相対」
    上の定義は、日蓮の「内外相対」には直接あてはめることができませ
んが、「相対」的というよりは、むしろ「選択」的だろうとおもいます。残り
の4つについては、基本的には「相対」といってよいとおもいます。もっとも、
「日蓮は広略を捨てて肝要を好む」といいますから[*4]、その中の「捨てて」
という点に重きをおいて解釈すれば、「選択」的な側面もあるといえます。
Posted by Libra at 2006年07月06日 00:35
【「五重の相対」の問題について(2/5)】

(4) 「選択」すべきか「相対」すべきか
    わたし自身は、対比の対象となりうる思想がいくつかあるというよう
な場面では、自らがとるべき態度として、「相対」ではなく、できるだけ「選
択」をしていきたいと考えています。それは、「そもそも『知性(intellect)』
とは、物ごとを区別してそれらの『間(inter)から選びとる(lego)』ことを
意味する」[*5]とおもうからです。もちろん、いったん、ある時点でどれかを
「選択」したとしても、後にその「選択」が誤りだったとわかれば、その時点
でまた「再選択」するということが前提です(わたしは「狂人」ではありませ
んので)。よって、自己の「選択」は、積極的に他者からの批判にさらしてい
くべきであり、そのためにも、自己の「選択」は明確に表明していきたいと考
えています。

    また、初期の仏弟子たちがとっていた態度は、「選択」だったという
こともできるとおもいます[*6]。一方、「相対」のほうは、その後の仏教史に
おける「歴史的事実」からの「当然のなりゆき」[*7]として形成されたもので
すから、もともと釈迦の弟子たちがそういう態度をとっていたということでは
ありません。
 
    少なくとも「思想評価の方法」という点だけからみれば、今のわたし
としては、日蓮よりも法然や親鸞のほうをむしろ評価すべきなのかもしれませ
ん。「選択」を徹底したという点においてです。もっとも、セレクトされた思
想の内容面についていえば、わたしははっきりと法然よりも日蓮のほうを支持
します(親鸞の思想についてはあまりにも無知なので、現時点では評価する力
をもちません)。

    そもそも、日蓮は、上で述べたような《「歴史的事実」からの「当然
のなりゆき」》の真っ只中に生きていたわけですから、両者が埋め込まれてい
る時代状況を考慮すれば、思想構築のやりかたとしては、むしろ日蓮のほうに
合理性があるようにもおもいます。もし、わたしが日蓮と同時代に生きていた
とすれば、「思想評価の方法」をも含めて、日蓮の主張ほうに説得力を感じた
のではないかと推測します。
Posted by Libra at 2006年07月06日 00:37
わめさん、こんばんは。

> 「学会への適応・不適応などのことで少し確認や(議論?)」の件了解です。
> とりあえずこのコメント欄に書いていただけますか。

 軒ちゃんさんのブログ拝見して思ったのですが真面目な人ほど不適応になるように思います。
(学会の主張が世間の一般的(常識的)人から相手されないのが明らかなので)

 一方で適応している人を観察していると以下のような感じに思います。

 a) それほど活動していない。会合に出るぐらい。
 b) 真面目でないがうまくやっている。

 b)の人は常識的人には相手されないのはわかっているから、親戚や知人近所などのつてを
たどって、問題起こしている人や、悩みのある人、家出同然の人などを(半強制的)に
連れて来て入会させたり活動させる。本流をやるときは見込みの分世帯分(独立していない
兄弟姉妹)を申請して点をかせぐ。新聞啓蒙は部数が足りないときは自腹で複数部とるなど。

 学会への不適応の場合は随伴性が伴わないことになりますが、学会への適応の場合は随伴性が
発生しているのではないでしょうか。
(随伴性が大切といっても学会への適応・不適応として個人の問題になってしまう)

>選挙活動については違法性がある*1ように思いますが、それ以外は今浮かんできませんね。

 リンク紹介ありがとうございます。車内から正宗寺院を監視するというのは違法性はないと
思いますし、フェイクのような怪文書や街宣車が仮に学会に関連性あったとしても
(街宣車は騒音の規制はありますが)ただちに違法とはいえないのではないでしょうか。

 そういう意味で学会を情報を鵜呑みにしてはいけないようにアンチ情報に踊らされる
ということも気をつけねばならないことだと思います。
Posted by Leo at 2006年07月06日 00:38
【「五重の相対」の問題について(3/5)】

(5) 日蓮の「相対」とはどのようなものだったか
    この点につきましては、日蓮宗のご僧侶であられる川蝉さんの以下の
ご発言が理解に資するとおもいます。あわせて、参考になりそうな遺文も引用
してみます。

    ───────────────────────────────
    法華経の教判は、全仏経典を、法華経を頂点・中心とした一大体系と
    見て、法華経を根本・中心にして行く事だと思います。
     たしかに、「一偈をも受けざれ」とも「正直捨方便」ともあるので、
    「完全否定」とも思われ勝ちな点もありますね。

    しかし、「嘱累品」に「信受せざらん者には、当に如来の余の深法の
    中に於いて示教利喜すべし」ともあるし、御書の引証は長くなるので
    挙げませんが、宗祖の立場を達意的に云うと、仏種は法華経・妙法五
    字に限る(下種結縁は法華経に限る)が、余経は養分に成る。法華経
    と云う塔を建てたり修理するときには足場に譬えられる諸経は必要で
    ある。人を善導する世間流布の善論は法華経の支流に譬えられる。法
    華経には成仏という大綱を説き、細目は諸経に説いてある。等と云う
    お考えがあるので、「完全否定」形だと解釈しては行き過ぎの点があ
    りましょう。

    (川蝉さんのご発言、00/07/30 Sun 14:12:23、
      http://freett.com/Libra0000/Beat_Me_301_400.html
    ───────────────────────────────

    ───────────────────────────────
    総じて如来の聖教は何れも妄語の御坐すとは承り候はねども再び仏教
    を勘えたるに如来の金言の中にも大小権実顕密なんど申す事経文より
    事起りて候、〔中略〕詮を取つて申さば釈尊の五十余年の諸教の中に
    先四十余年の説教は猶うたがはしく候ぞかし、仏自ら無量義経に「四
    十余年未だ真実を顕さず」と申す経文まのあたり説かせ給へる故なり、
    法華経に於ては仏自ら一句の文字を「正直に方便を捨てて但だ無上道
    を説く」と定めさせ給いぬ

    (「月水御書」、全集、p. 2000)
    ───────────────────────────────

    ───────────────────────────────
    法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得ること莫きな
    り

    (「一代聖教大意」、全集、p. 397)
    ───────────────────────────────
Posted by Libra at 2006年07月06日 00:39
かち合ってしまったようです。すみません。
Libraさんの投稿が終わるまで待機します。
Posted by Leo at 2006年07月06日 00:40
【「五重の相対」の問題について(4/5)】

(6) 日蓮の「中心主義」に対するわたしの現時点での評価
    わたしは、以前、日蓮の上のような思想的態度を「中心主義」と説明
し[*8]、肯定的にのみ評価していたようにおもいます。しかし、現在のわたし
は、場面によっては、たしかにこのような「中心主義」を肯定的に評価しうる
場合があるとしても、明確に矛盾するような思想に出会った場合には、両者の
相違を曖昧にしてうやむやにしてしまうのではなく、できるかぎり、はっきり
と「選択」するべきだと考えています。もっとも、「選択」するためには、そ
の前提として、対象を理解する必要がありますし、それはいつでも簡単にでき
るというものではありません。実際、わたしは、親鸞の思想については全く理
解していません。このような場合には、勉強などをして理解したと思えるまで
は、「選択」は保留するしかありませんし、それまでの間は自らの「無知」を
深く自覚することしかできません。

(7) 日蓮の思想を批判的に継承するのがわれわれ弟子の最大の課題
    日蓮が生きたのとはまったく正反対の歴史的状況[*9]の中にあるわれ
われとしては、思想構築のやりかたとして、「選択主義」のほうが合理的だと
おもいます。また、上述しましたように、仏弟子たちがもともととっていたの
も「選択主義」ですから、そのほうが仏教徒として自然な態度だろうとおもい
ます。

    このような「選択主義」の立場から、現代においてもきちんと通用す
ることに依拠つつ、「今一度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想と
して重要な視点を再選択する作業」[*10]が、日蓮の弟子として現代に生きる
われわれに与えられている最も大きな課題であろうとわたしは考えます[*11]。
Posted by Libra at 2006年07月06日 00:40
【「五重の相対」の問題について(5/5)】

 註

  [* 1]  「日蓮考察」、No. 84
      http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_004.html

  [* 2]  「選択」とは(小川一乗)
      http://freett.com/Libra0000/090.htm

  [* 3]  中国における教判の形成の必然性(菅野博史)
      http://freett.com/Libra0000/021.htm

  [* 4]  日蓮は広略を捨てて肝要を好む(Libra)
      http://freett.com/Libra0000/z002.html

  [* 5]  「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭)
      http://freett.com/Libra0000/003.html

  [* 6]  〈典拠への参照〉(『大パリニッバーナ経』)
      http://freett.com/Libra0000/004.html

  [* 7]  [* 3]と同じ。

  [* 8]  [* 4]と同じ。

  [* 9]  [* 3]の引用者註1を参照。
      
  [*10]  日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相(松戸行雄)
      http://page.freett.com/Libra0000/119.html

  [*11]  [* 1]と同じ。
Posted by Libra at 2006年07月06日 00:42
【「五重の相対」の問題について(付録)】

 5つの「相対」についてわたしがどのように考えているのかを示す拙文を、
以下に厳選してあげておきたいとおもいます。

1.内外相対
 一つだけあげろといわれれば、以下をあげたいとおもいます。もっとも、こ
の拙文は、いってみれば「仏教内部での内外相対」、すなわち、「本来の仏教
とは何か?」というテーマについての仏教徒どうしでの論争に関するものです
が。

  「無我」と「非我」は違うか? 
  http://freett.com/Libra0000/z011.htm


2.大小相対
 日蓮の時代において、「小乗仏教」というと、要するに「有部」のことだ
ったでしょうから(三枝充悳『ブッダとサンガ─〈初期仏教〉の原像─』、
法蔵館、1999年、p. 116、http://freett.com/Libra0000/029.htm)、以下の
2つをあげておきます。

(1) ■ 自性・無自性について
    http://page.freett.com/leo020503/bloglog3_001.html
    「2005年12月25日 01:32」、
    「1.龍樹はアビダルマ論師たちのいう「自性」の意味を正確に理解していた」

(2) 『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』における大乗仏教批判の貧困
    http://page.freett.com/leo020503/note017.html


3.権実相対・本迹相対・種脱相対(教観相対)
 一つあげるとすれば以下をあげます。

  法華経について
  http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_002.html
Posted by Libra at 2006年07月06日 00:44
 わお。知らないうちにL&Lコンビのコンボが発動してた(笑)。

 では、Leo さん、続きをどうぞ。
Posted by Libra at 2006年07月06日 00:47
Libraさん、こんばんは。どうも。

>わお。知らないうちにL&Lコンビのコンボが発動してた(笑)。

懐かしいです(^^;

わめさん、みれいさん。

Libraさんご発言:
>(1) この問題でまず最初に確認しておかないといけないのは、「日蓮が依
>拠したものの中には、日蓮の時代には通用したとしても、今ではもう通用しな
>いものが少なからずあ」るという「ことを素直に認めることができない人がも
>しいるとすれば、そのような方は『狂人』であるといわざるをえない」[*1]と
>いう点です。

私はちょっとこの部分が気になっていたので解釈してみます。

日蓮聖人の指導は完全無欠でそのまま現代に通用すると思っている人は気の狂った人ということですね。

そういう意味では私は現役時代は気の狂った人だったように思います(冷静で客観的な判断ができていなかった)。

学会を信奉する人が気の狂った人と指摘されてスルーするのはひとつの手かもしれませんが敗北であるに違いありません。

「沈黙は「敗北」」(『聖教新聞』の「羅針盤」、2000年11月12日の8面)

わめさんご発言:
>でも記事にもありますように、対話が「自分や、自分の(正しいと信じる)思想・考え方を、
>対話相手に理解・受け入れてもらいたい」ことが本音や目的ならどれも同じだろうとも思います。

創価学会をみんなで考えよう BBSの記録 「学会員の対話能力 」スレッド
http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_002.html
「GOLGODA さんがおっしゃっておられる意味での「学会員の対話能力」の欠落の根本原
 因は、《自らの可謬性に絶望的に無自覚である》ということに尽きるとわたしは思ってい
 ます[注1]。《わたしは真理を所有している》と思い込んでいるひとに対話などは不可能
 でしょう。」

やはり可謬性に自覚しているかいないかが問題になると思います。
(真理を所有していると思い込んでいるひとに対話は不可能)
Posted by Leo at 2006年07月06日 01:11
続き

>学会を信奉する人が気の狂った人と指摘されてスルーするのはひとつの手かもしれませんが敗北であるに違いありません。

 敗北だからすべて終わりというのでなく、現代に通用する仏教を学ぶとか、青年部が皆骨髄バンクにドナー登録して
行動で示すとか考えればおしまいにならない方法はいくらでもあると思います。

否、終わりはすべての始まりなのです。

 自分達が正しいと思い込むのは気力を高揚させる効力はあると思いますが結局幻想に過ぎません。

私が子供のときこのようなやりとりのあるTV番組を観ました。

アナウンサー「日本が戦争に負けたことは認めますか」
ご老人 「いや、神国日本が戦争に負けるはずがない」
アナウンサー「戦後GHQがジープで日本に進駐して来たのを見たことがありませんか」
ご老人 「それはアメリカの謀略だ、そういう宣伝をしているのだ」
アナウンサー「・・・」

 ご老人が夢をあきらめないというのは仕方ないのかもしれませんが若者が似たような状態(事実のねじ曲げ・曲解)になってはいかんと思います。
Posted by Leo at 2006年07月06日 01:44
 以下、Leo さんへのレスです。

> 日蓮聖人の指導は完全無欠でそのまま現代に通用すると思っている人は気の
> 狂った人ということですね。

 まず、大前提として、わたしは、「狂人でない人」すなわち「健全な人」と
いうのは、「自分の信条を訂正する準備ができて」おり、「出来事の圧力のも
とで、ほかの人が支持する意見の圧力のもとで、批判的討論の圧力のもとで自
分の見解を訂正する準備ができている」[*1]人をいうと理解しています。

 で、そうでないような人は「狂人」だと理解しています。

 《日蓮が依拠したものの中には、日蓮の時代には通用したとしても、今では
もう通用しないものが少なからずある》ということを素直に認めることができ
ない方がもしおられるとすれば、そういう方は、上の考えにあてはめれば「狂
人」ということになるのではないでしょうか。

> 「沈黙は「敗北」」

 「論争における勝利にはなんの価値もな」いという観点[*2]からいえば、べ
つに「敗北」したって全然かまわないわけですが、自らを「対話主義者」とい
っている人が「沈黙」するということは、それは「敗北」というよりもむしろ
「逃亡」ということになるのではないでしょうか[*3]。

 「格闘技」の例でいいますと、正々堂々と戦い、自ら磨き上げた技を出し尽
くして、それでも「敗北」した者を観客が笑ったりするでしょうか。おそらく
はしないでしょう。それなのに、「逃亡」する人というのは、なぜ逃亡するの
でしょう。自ら技を磨きもせずにリングにあがってしまったことがバレるのが
恥ずかしいからなのでしょうか。そもそも、そういう人は、いったい何のため
にリングにあがるのでしょう。


  [*1] 精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
     http://page.freett.com/Libra0000/112.html
  
  [*2] 論争における勝利にはなんの価値もない(カール・ポパー)
     http://freett.com/Libra0000/110.html

  [*3] 議論の世界からの離脱は、たんなる逃亡にすぎない(小河原誠) 
     http://freett.com/Libra0000/017.html
Posted by Libra at 2006年07月06日 02:01
>Leoさん Libraさん わめさん

そんな意味では私もかなりの狂人だったわけですが、
私達は狂人である事はそれほど珍しい事ではなくて、はじめから無謬性を持って生まれて、誰でも容易に狂人になりうるのではとも思います。
個人の性質もあるにせよ、無謬性を生む要因・体質・環境があれば、人は何の疑問もなく生まれつき無謬に落ち着く性質を持っていると。

北朝鮮の国民や宗教原理主義の信者も可謬性が無いかもしくは低い状態といえるのかもしれませんし、破壊的カルトでもしばしば無謬性が問題になります。

逆に、可謬性という新たな枠組みを得ることができれば、狂人から抜け出ることが可能です。
時期は縁する所によりまったく個人差があり、抜けずに終わる場合もあるわけですが可能性は万人に与えられています。
なので狂人というのも、固定されたものではなくて、変わりうる一つの状態であるということになりますね。
(まぁもともと可謬性の元で話してるのでそうなのですが)

となると、「狂人」という表現は「無明である(道理に暗い状態である)」という表現でも当てはまるのだろうと考えます。
狂人という言葉のほうが刺激的で目覚めがいいのかもしれませんけども。
健全というのは無明から脱している状態としても違和感がないです。

ちなみに無明に関する日蓮の御遺文や無明から脱する御遺文などありましたら教えてください。
Posted by みれい at 2006年07月06日 17:45
 上でいうような意味での「狂人」というのは、そうそう実在するものではな
いと思います。

 Leo さんは、「私は現役時代は気の狂った人だったように思います」とおっ
しゃられていますが、わたしはそうはおもいません。

  ─────────────────────────────────
   繰り返しになりますが、わたしは、「合理性とは、自分の信念を批判的
  に論じ、ほかの人との批判的討論に照らして自分の信念を訂正する準備が
  できていること」だと考えています。ですから、わたしがいうところの
  「合理性の放棄」とは、《批判的討論に照らして自分の信念を訂正するこ
  との拒否》という程の意味です。

   おそらく、わめさんがいわれている「盲信」というのは、わたしがいう
  ところの「合理性の放棄」とほとんど同じことをさしているのではないで
  しょうか。ちがってたらご指摘ください。

   〔中略〕

   わたしの友人である Leo さんも、かつては学会教学を信じておられま
  した。では、学会教学を信じておられた時には、Leo さんは盲信者だった
  のかというとそうではありません。学会教学を信じておられたその時に、
  「批判的討論に照らして自分の信念を訂正」されたわけですから、Leo さ
  んは一貫して盲信者ではなかったということです。

  (■ 客観的事実と信仰03、2005-09-25 23:40:29、
     http://page.freett.com/leo020503/bloglog3_002.html
  ─────────────────────────────────

 みれいさんが「かなりの狂人だった」というのも、わたしにはとても信じら
れないことです。
Posted by Libra at 2006年07月06日 22:44
Libraさん、わめさん、みれいさん、こんばんは。

 確かに活動中も色々疑問を持ったり、最後には信念を訂正したのだから、完全な「狂人」
でなかったのかもしれません。

 ただ学会教学や指導を見渡すと「『聖教新聞』の「羅針盤」、2000年11月12日の8面」
のような妥当性のあるものがあるのに対し、寸鉄にその例を見ることができるような「狂人」
養成のためのものも存在していると思います( http://www.geocities.jp/unofic/06bsunt.htm )。

 学会自体も長い目で見ると「日蓮正宗(のみ)は正しい」という信念を訂正して
「学会(のみ)は正しい」という信念(この信念が妥当かは別として)に変更したり
「国立戒壇の建立」を放棄したりしたのだから「変わりうる一つの状態」であるし、
完全な「狂人」集団ではないということでほんのわずかに希望が見出せるかもしれません。

Libraさんのご発言:
>それなのに、「逃亡」する人というのは、なぜ逃亡するの
>でしょう。自ら技を磨きもせずにリングにあがってしまったことがバレるのが
>恥ずかしいからなのでしょうか。そもそも、そういう人は、いったい何のため
>にリングにあがるのでしょう。

 それは「逃げるが勝ち」というやつでしょうか。

(しかし「(仏法は)勝負」と普段口にしていざというところで逃げるのは無限に喜劇的と
 思われます)

みれいさんのご発言:
>ちなみに無明に関する日蓮の御遺文や無明から脱する御遺文などありましたら教えてください。

よく引用される御書のこのような部分がありました。

「之に依つて浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明せり、
 又衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし
 只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る
 時をば仏と名けたり、」

「譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念【無明】の迷心は磨かざる鏡なり是を
 磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか
 磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。」
(「一生成仏抄」)

 無明から脱するひとつの方法は唱題ということになりますが現代人としては次のことに注意する
必要があると思われます。

○題目は呪文ではない
http://page.freett.com/Libra0000/z024.html
「智慧による自己解放」
Posted by Leo at 2006年07月07日 01:10
>Libraさん、Leoさん、わめさん

わめさんは夜の蝶と語り合っているのでしょうかw

>みれいさんが「かなりの狂人だった」というのも、わたしにはとても信じら
れないことです。

ええ、自分でも信じられないくらいですが、
一度死んで生まれ変わった気分です。

当時を知る人も、「あの時は狂ってたな〜」
といわれます(違う意味も含めw)

御書の引用ありがとうございました。
そう多くはなさそうですね。

最近学会でも「縁起」と言う言葉が使われはじめ、梅原猛さんの本が公式HPでも紹介され始めました。
縁起の思想がはいると、輪廻と宿業論がちょこっとずつ変化してくる可能性があるのではと思っていますが、皆さんはいかが思いますか?

Posted by みれい at 2006年07月08日 00:14
 みれいさん、おはこんばんちは。

 創価学会でも「縁起」という言葉は使われていますが、その内容は「宇宙生
命論」の場合が多く、本来の「縁起」とは異なるとおもいます[*1]。しかし、
友岡さんの本[*2]を読まれている方などは正確に理解されているとおもいます。

 梅原猛さんのお考えは「宇宙生命論」に近いとおもいます。

  ─────────────────────────────────
  私が強調したいことは、根源≠フ思想〔中略〕「如来蔵思想」というも
  のが洋の東西をとわず古代社会の最古(?)の段階に共通に認められると
  いうことだ。それは、何故か。万物は一から生じ一へ帰る≠ニ考えるほ
  ど、古代人にとって単純で分りやすい思想はなかったからだ。この様に考
  えると、誤解を招くことを承知の上で、次の様に言うべきかと思う。つま
  り、如来蔵思想〔中略〕とは、土着思想≠フ哲学化であり、民俗宗教
  の思想化であったと。ミレトス派の一元論哲学は、生命をもつ始源が万物
  に展開するという点で、アニミズム(物活論)と呼ばれるそうだが、如来
  蔵思想とアニミズムの関係にも注意しなければならない。「山川草木悉皆
  成仏」を人は仏教の極致というが、これがアニミズムでない保証がどこに
  あろう。ところで、現代ほどアニミズムが讃美されている時代はない。た
  とえば、ある学会で、「日本人の宗教意識の基層はアニミズムであり祖
  先崇拝≠ナある」といえば、この言葉は殆んど無限定な真理というひびき
  をもつだろう。これに、「仏教は、日本人の古来からの不変の宗教的心性
  に何らの影響を及ぼしていない」という主張を付加すれば、私はこれを
  民俗仏教論≠ニ呼ぶ。この民俗仏教論と如来蔵思想は、決して無縁では
  ない。両者は土着思想の思想化であって、私はこの両者の典型的結合を、
  梅原猛氏の日本学≠フ中に認める。氏の日本学ほど、如来蔵思想と民俗
  仏教論(または民俗宗教論)を見事に結合したものは、他に類がない。氏
  は仏教を説いているのではなく、如来蔵思想を説いている。そして氏が、
  如来蔵思想と日本民俗宗教を同時に唱導することに、何らの矛盾もない。
  むしろ論理的一貫性があるのだ。如来蔵思想とは、土着思想の哲学化であ
  るし、それ自身、全く融和的世界観だからだ。梅原氏が、「山川草木悉皆
  成仏」と「和を以って貴しと為す」とに如来蔵思想の典型を見出している
  ことに、全然誤りはない。仏教が日本に入ったとき、実際に混乱が生じた
  が、如来蔵思想ならば、その心配もないという訳だ。なお最後に一言して
  おきたいが、私が土着思想≠フ語を用いたのを教理学者≠フ差別意識
  や無知を示すものと考えないで頂きたい。辞書を引いてもらえば分るが、
  土着=inative)という語自身に、何ら差別的意味はない。

  (松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、79-81、
    http://freett.com/Libra0000/071.htm
  ─────────────────────────────────

  [*1] 宇宙生命論は仏教ではない(Libra)
     http://freett.com/Libra0000/z001.html

  [*2] ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
     http://freett.com/Libra0000/080.htm
Posted by Libra at 2006年07月08日 09:09
アニミズム自体は一概に悪い思想ともいえないし、アニミズムを擁護することも十分可能とは思います。

が、仏教を信奉したり広めようとしたり人々が、仏教を信奉しているようで実は単にアニミズムを肯定しているだけだったとしたら悲劇である、否、喜劇...「無限に喜劇的である」としかいいようがないのですね。
Posted by Leo at 2006年07月08日 23:20
皆さん こんにちは 初めまして。わめさん お邪魔します。
よくROMしてますが、中々に敷居高志でコメントを躊躇してました。
アニミズムでピクピクっときてしまい少しばかり横道です。

哲学者 スピノザの主張する「一元的汎神論」(はんしんろん)
アニミズムより派生したかは私自身不勉強で定かではないのですが、少なからず影響は受けたと思います。
存在(唯心・唯物)する全てがこの世界を構築する要素であり、神を例えるならばこの存在そのものである。

私の思う理を模索してましたら、もう既に哲学思想として存在してました(汗。
階層は存在すれど上下で支配関係にあるのではなく絡み合い捩れ、そこには理も非も無く互いを必要不可欠な間柄として存在し得る。その変化は変化を望む総意として現れる。

対話・論議で自らが一極(偏向のみに)にならぬよう可・誤謬の可能性を手に持ち主張したいものです。
が、現実は記事にもありますように迎合を拒否する思いが、天邪鬼な氣が、強すぎ極を言ってしまいます。
ああっ時間がなく、変な文に読めましたらご容赦下さい。お叱りがなければまた。
Posted by あーあ at 2006年07月09日 11:17
>あーあさん、こんにちは〜

よくおみかけしてコメント読ませていただいてます(^^)

>Libraさん

>梅原猛さんのお考えは「宇宙生命論」に近いとおもいます

そうなんですか。
もっかい本読んでみます。

縁起は2種類、むむむですね。
やはり友岡さんの本は各会館に置いて皆さんが読まれるといいですね。
Posted by みれい at 2006年07月09日 16:53
わめさんのブログにもみれいさんのブログにもLibraさんの「五重の相対」批判の記事が投稿されましたが、
学会員さんの反応がないのはなぜなんだろう。「五重の相対」は根本教義ですね。
『小説 人間革命』でも語られるように教学は単に確信を持たせるためのものであって、内容の妥当性はどうでもよいか、
強く信じればそれが真理にでもなるかのように学会員さんは誤解されているのではないかとやや心配です。

Libraさんの「五重の相対」批判というのはわかりやすくアニメでたとえると『北斗の拳』でケンシロウが相手の秘孔を突いたも同然のことなのではないかと思います。
Posted by Leo at 2006年07月10日 00:33
メメさんのところに最初に貼らせていただいたのですが、参考リンクが載せられないので不便です。
http://inunomeme.blog.ocn.ne.jp/kakarityou/2006/07/post_ce48.html

こちらに誘導したほうがいいのかなとも思いますが、いかがですか わめさん?

分かれるよりは一本にまとめたほうがいいかもとも思うのでうちもこちらに誘導しようかな。
Posted by みれい at 2006年07月10日 21:53
>Libraさんの「五重の相対」批判というのはわかりやすくアニメでたとえると
>『北斗の拳』でケンシロウが相手の秘孔を突いたも同然のことなのではないかと思います。

↑こんなこと書くと物騒だったですけど...

(実は)キモは、

・正当化の否定
・権威の否定
・可謬性の自覚

などですね。
Posted by Leo at 2006年07月10日 23:21
 Leo さん、おはこんばんちは。

 拙文【「五重の相対」の問題について】は、「批判」というよりは、むしろ、
「再構築」だとおもいます。現代でも通用する根拠にもとづいて「五重の相対」
の結論を擁護したといっても過言ではないでしょう。

 そういう観点からすれば、むしろ、学会員さんから肯定的な反応があっても
よさそうにおもいますが、実際には「学会員さんの反応がない」わけですね。
その理由は、おそらく、たくさんあるのでしょう。わたしが思い付く限りで、
以下にあげてみることにします。

1.文章に魅力がない

 ひとつは、単純に、「文章に魅力がない」のではないでしょうか。文献の引
用が多いというのもおそらくその原因のひとつなのでしょう。

 反応するためには、まず拙文を読む必要があるわけですが、学会員さんにか
ぎらず、魅力のない拙文をあえて読もうと努力する人は、そうはおられないの
ではないでしょうか。

2.伝統的な大石寺教学のままで問題がないと思っている学会員さんが多い

 もうひとつは、「伝統的な大石寺教学の齟齬が至るところで露見」している
という認識をもたれている学会員さんが、実際はそう多くないということがあ
るのではないでしょうか。

 たとえば、魯の人さんのように、「新しい日蓮教学の確立が強く模索されて
いる」とか、「より説得力のある、普遍的な教義体系を確立していく必要があ
る」とか、そういった問題意識をもっておられる学会員さんは、まだそれほど
多くはないという現実があるのではないでしょうか。

  ─────────────────────────────────
   ところで現在、伝統的な大石寺教学の齟齬が至るところで露見していま
  す。もちろん、それで私たちの信仰がいささかたりとも揺らぐことはあり
  ませんでした。むしろ信心の面から言うならば、ますます意気軒昂ではあ
  ります。なぜならば、日蓮大聖人直結、御本尊直結、御書直結の姿勢があ
  る限り、何ら恐れることが無いからです。

   しかし、広宣流布という運動をさらに広く、深く進めていくためには、
  新しい日蓮教学の確立が強く模索されていることは事実でしょう。より開
  かれた、より説得力のある、普遍的な教義体系を確立していく必要がある
  と思います。それはとてつもない大事業であるとも思います。

  (魯の人「「法華経の智慧」を学ぼう」、2001 年2月、
    http://www.ginpa.com/column/20010227.html
  ─────────────────────────────────

3.「Libraは放置プレイでOK」という共通認識が存在!?

 「あの Libra がどこで何を書こうとも、そんなものは観念の遊戯にすぎない
わけだし、そんなことで創価学会はまったくビクともしないのだから、あんな
のを真面目に相手にするのは馬鹿らしいし時間の無駄である」という、ある意
味、常識的ともいえる共通認識が形成されているということも、もしかしたら
あるのかもしれません。しかし、これは過大評価でしょう。そこまで意識され
ているとすれば、それはそれで大したものだとおもいますので。
Posted by Libra at 2006年07月11日 00:38
Libraさん、こんばんは。

> 拙文【「五重の相対」の問題について】は、「批判」というよりは、むしろ、
>「再構築」だとおもいます。現代でも通用する根拠にもとづいて「五重の相対」
>の結論を擁護したといっても過言ではないでしょう。

そうだったのですか。
そうすると学会員さんはたとえば現代でも通用する根拠にもとづいて擁護されたその「五重の相対」を活用できるのですね。

>1.文章に魅力がない

そうなのかなぁ。

>2.伝統的な大石寺教学のままで問題がないと思っている学会員さんが多い

大石寺教学は大石寺の戒壇之大御本尊を根本とする教義と思いますがその根本から離れたのに教学はそのままというのは
不思議な気がします。また、大石寺教学は大石寺や学会以外から最近また批判が出ていますね。

○ 所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について(犀角独歩さん)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

○ 二箇相承 (Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E7%AE%87%E7%9B%B8%E6%89%BF

 批判に対して魯の人という方のブログのコメントは(腹のすわった?一部の)学会員さんを代弁しているように思います。

○ 「魯の人曰く」(魯の人)
http://karagura.blog01.linkclub.jp/index.php?blogid=1445

23 May「御書の真偽論について」
「いまネットでは、名誉会長の御書引用のあり方をめぐって、揶揄するものが溢れている。
 しかし、名誉会長は信仰の立場から学会員に対して、信仰指導されているわけだから、
 外部の人がそれを揶揄するのはおかど違いであろう。」
「また、学会員であるならば、信仰指導に対しては、信仰次元でそれを受け取るべきであって、
 外部の批判者と一緒になって批判しているのは、自らの信仰が破綻した姿だと言われて
 もやむを得ないだろう。 」
→「おかど違い」や「信仰次元」というのはいかがなものでしょうか。

24 May「二箇相承について …正統論議を越えて」
→ 偽書の精神的効用について力説している。

 Libraさんが引用されている魯の人さんと同一人物であればすいぶん変に思います。
「より開かれた、より説得力のある、普遍的な教義体系を確立していく」ことを目指されている方が「おかど違い」や「信仰指導」、「信仰次元」と仰り偽書の効用を力説するのは腑に落ちないです。

>3.「Libraは放置プレイでOK」という共通認識が存在!?

信念や信仰が万能、正義を叫べば正しいと思うことの方が逆に「観念の遊戯にすぎない」と私は思います。

それに多分「知らぬが仏」ということもあるのでしょう。
(私はこのような物語をブログで書いてみました)

○ 私説エデンの園
http://blogs.yahoo.co.jp/leo020503/7021261.html?p=2&t=2

○ 平和の闘士たち(創作寓話)
http://blogs.yahoo.co.jp/leo020503/7264921.html?p=1&t=2
Posted by Leo at 2006年07月11日 01:24
 皆さん、こんにちは。^^

みれいしゃん

> やはりお互いの姿勢が整わないと難しいですねぇ。
> 関心が薄かったり、理論以外で闘争的な場合は、話し合いにもならない・・・
>
> それにしても、教学に関する事は、学会員さんに全部スルーされてます。

 学会員ということでは、Libra師匠やLeoさん、それに私やナウシカさんもですので「教学に関する事は、学会員さんに全部スルー」って言われるとちょっと困っちゃいますが(笑)、学会風味仏法?を信奉する学会員さんの中にはどの程度かは分かりませんがそのような方はおられるように思います。

 メメさんっちでにっしーさんって方と少し話し*1ましたが、姿勢というか考え方というかに、まず大前提として「南無妙法蓮華経は最高!」があるようで、このことと関係すると思いますが「信心につながらなければ、教学ではなくて狂学」と言われておりましたが、私の印象としてそれは「南無妙法蓮華経→信心→絶対的幸福境涯の実現」といった思考があるのではないかと感じております。

 幸福境涯の実現といった目標を持っての思考は、その目標の達成こそが重要であり、その視点からしか物事を見れなくなってしまっているようにも感じます。
 いうなれば企業の営業・戦略会議の場では利益追求の議論こそ重要で、何が正しいかは重要ではなく、否、利益が上がることが正しいことと言ってもおかしくないかもしれませんし、利益=善、損失=悪といった思考があるように思いますが、そのような思考を持つ者と持たない者との対話は非常に難しく思います。
 またそれが一企業や個人の利益等を求めるものならまだしも、人類・命あるものすべて・この世界のすべての「絶対的幸福境涯の実現」などといった壮大な目標を掲げる思想に、人はハマりやすいものかもしれません。

 でも結局これらは、自らの欲を最大限に満たそうとする思考であるように思いますし、自らの欲の制御・抑制をうまくできるなら、このような思考に振り回されることもないようにも思います。
 またそういった人の欲を、煽り掻き立てるような思想には警戒すべきだと思います。

 でも、これらの思考・思想を経て、そこから更によりよい生き方を模索することができるのであれば、それもまたひとつの選択肢であるといえるかもしれませんし、少なくとも私はそうだったといえそうです。

*1
【この界隈について思う】
http://inunomeme.blog.ocn.ne.jp/kakarityou/2006/07/post_ce48.html
Posted by わめ at 2006年07月11日 11:43
>学会員ということでは、Libra師匠やLeoさん、それに私やナウシカさんもですので
>学会風味仏法?を信奉する学会員さん

そうですね。後者の方の皆さんですね。
そうでない方々はいつもお世話になっております。
>スルーされる
と書いたあとにコメントいただきました。
ありがとうございます。

1.文章に魅力がない
3.「Libraは放置プレイでOK」という共通認識が存在!?
>「あの Libra がどこで何を書こうとも、そんなものは観念の遊戯

しいていうなら
4・よくわからない。

というのもあると思います。
私はLibraさんの文章を把握するのと読むのにかなりの時間を要しました。
一般仏教の基礎をみておかないと、違いがなんなのか、友岡さんの本の何が説得力があるのかはよくわからないし、
「ポパー」「反証」「無自性」「可謬性」「如来蔵」などなど、出てくる用語、仏教用語一つ一つを把握しないと文章が前にすすまないという、内容以前の問題が出てきます。最初の頃はそれで断念してました。

あと、わめさんのを読むと
「それがどう布教活動や組織拡大に結びつくのか」が大事になってくるのでしょうね。
Posted by みれい at 2006年07月11日 14:01
 Leo さん、おはこんばんちは。

1.板曼荼羅の作者なんてどうでもよいのでは?
 「板曼荼羅は誰が作ったのか?」というようなことに、わたしは全く感心が
ありません。というのも、そもそも、《曼荼羅に優劣がある》というような考
えじたいをナンセンスだとわたしはおもうからです[*1]。

2.二箇相承の作者なんてどうでもよいのでは?
 「二箇相承は誰が作ったのか?」というようなことにも、わたしは全く興味
がありません。そもそも、《何らかの権威によって自己の立場や主張を正当化
することができる》というような考えじたいをナンセンスだとおもうからです。

3.自己批判的な態度は「信仰次元」においてこそ必要なのでは?
 自己批判的な態度というのは、「学問次元」だけではなく、むしろ「信仰次
元」においてこそ必要だとわたしはおもいます[*2]。
  
  [*1]  スレッド「ご本尊って紙でしょ?」より
      http://freett.com/Libra0000/kangaeyou_03.html
      
  [*2]  「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭)
      http://freett.com/Libra0000/003.html
Posted by Libra at 2006年07月12日 00:37
 みれいさん、おはこんばんちは。

 みれいさんが指摘された「4・よくわからない。」というのがまさにピタリ
賞なのかもしれませんね。

 わたしの発言に対して「わけわかめ」というリアクションをとる人というの
は、少なくとも、わたしの発言を理解しようと努力した人だということでしょ
う。理解しようと努力したにもかかわらず、理解できなかったということは、
わたしの説明に足りないところがあったということだとおもいます。
Posted by Libra at 2006年07月12日 01:11
>Libraさん

説明の足りなさよりも、こちらが内容の濃さに対して不慣れだと思います。

Libraさんサイトに行った時には探したい言葉で検索できる”ワード検索機能”みたいなのがあったらいいなぁといつも思います。
Libraさんのサイトに行く時は図書館で本を探す感覚に似ています。

二箇相承の話がでたついでに開目抄の話も出来ればと思います。別の場所で話が出ていたので。

以前「仏教の源流」スレッドでもさかなこさんが教学試験を受けられる際にPhoさんとLibraさんに質問されていたかと思います。
学会員さんはここを拠点に習い始めるのではないでしょうか。

開目抄冒頭は〈主徳〉と〈師徳〉と〈親徳〉から。始まります
三徳は昔「池田先生のみが三徳をそなえていらっしゃる」といわれていたようです。
今はおそらく違う表現をしているのではと思いますが、現在の(現場での教学の)正確なものは私はわかりません。
けれども、そこが違うと中身の解釈が全部変わってくるだろうと思います。

どんどん脱線してすみません。
Posted by みれい at 2006年07月12日 07:55
皆さん、おはようございます。
お邪魔しますm(__)m
何かとお世話になっております。

えっと何から話そう…

>説明の足りなさよりも、こちらが内容の濃さに対して不慣れだと思います。

それも確かにあると思いますが、文章そのもの、表現そのものに不慣れというのがあると思います。
私はまさにそれで、Libraさんのサイトも随分前に読ませて頂いたこともあるし、わめさん、みれいさんとこもコメント寄せるまでに、ROMしてる時間がかなり長いです。
内容を理解する前に、言葉の理解と文章の運び方?というのか、そういうのに慣れるのに時間がかかりました。
つまり読解力というところでしょうか?
内容理解以前の問題です。

いろんな本や、いろんな説を唱える人の文章を読んだりしますが、書き手の癖みたいなものがあって、それがすんなりストンと自分の中に落ちる場合と、かなり吟味しないと作者が何を言いたいのかさえわからないというのもあります。

それと、そういうサイトに集まって書き込んでおられる方は、往々にして文章とか話の運び方が似てますね(似てくるのかな?)
それは、みれいさんのサイトでもリンクを貼って紹介されてましたね。

人は、自分が普段使ってる言葉なり文章なり、理解しやすいものに飛びつきやすい傾向があるのではないでしょうか?
長年慣れ親しんだ言葉や文章は、ス〜と難なく受け入れやすいです。

学会員で言えば、池田先生のスピーチとか聖教新聞の論調とか。
内部にいて、ずっとああいった文章を読んでいると、刷り込みと言うよりは、文語体系?というのが自分の頭の中で作られてしまって、それに沿った理解の仕方をするのではないかと。

だから全く同じ内容、同じ意味のことが書かれている文章でも、書き方や論調が違えば、頭が”それは違う”と認識してしまうのではないかと。
そういう傾向が、学会員の場合、強いような気がします。
MCとはまた違った意味で。

教学に関しても、私なんかは全然浅いんですけど、どういう意味でどういう目的で学ぶかで違ってくると思います。
信を深めるために読む人、疑問を解消するために読む人、間違いを探すために読む人、矛盾を突くために読む人、応用発展させるために読む人、何かヒラメキを得るために読む人など、その人それぞれの目的があり学んでいるのではないかと。

バリバリ学会員は、その中では信を深めるために読むという人が多いと思います。
また実践的に、自分がコレは使えるというものをチョイスして学んでいると思います。
人を励まし癒すために読む人、人を良く言えば叱咤激励するため、悪く言えば罵倒するために読む人もいるでしょう。

今、『日蓮自伝考〜人、そしてこころざし』山中講一郎著を読みかけているんですが、その中に罰論のことに触れている箇所があり、日蓮大聖人は誰に向けて、そのようなことを説いたか?ということが書かれてあり、必ずしも、信者個人や、悩んでいる人、病気で苦しんでいる人に向けられた言葉ではなく、時の権力者、為政者、庶民を苦しめる宗教家に向けられた言葉であると。

それを、今の学会員の中には、個人に向け発している人がいると思われます。
そういう人が、誤った?用い方、目的を履き違えた形で自己流に使っていると感じます。
言葉そのものは御書に載っているんだから間違いではないかもしれない。
だけどだけど…です。

そういうところで、学会員同士でも解釈や目的が違って、争っているケースがあるのではないかと思います。
こういう場合、不毛ですね、かなり…

とにかく学会節というのか、内容如何より、そういう論調を好んで読み聞き学び、使っている人が多いですね。
何とも勿体ない話だと思います。
その世界でしか通用しません。
それに価値観の多様な社会で、そういった傾向は相容れません。

自分たちだけが理解できる言葉を用い、理解できない人にその言葉を向け、救わなければいけない可哀想な人と見下げて話をする。
こんなナンセンスなことはないですね、全く┓(´_`)┏

あっ書いてるうちに長くなっちゃった!
自分のblogにも書こうかなぁ〜
独り言もみたいになっちゃいました。
すいませんm(__)m
またお邪魔しますね(^^)/
Posted by ナウシカ at 2006年07月12日 11:11
 みれいさん、おはこんばんちは。

1.検索機能について
 以前は、検索機能もあったのですが、今のサーバーでは無理だとおもいます。
おそらく、cgi を置くことができないからです。本格的にネットに復帰する際
には別サーバにて導入できるよう努力したいとおもいます。

2.三徳について
 日蓮は自らを三徳者だといいます。これは、要するに、《日蓮は「法華経を
心得る者」である》という確信をえたということです。日蓮は「法華経を心得
る者」であるから、三徳者である釈尊と斉等であるというわけです。

  ─────────────────────────────────
  経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申
  す文なり、譬えば父母和合して子をうむ子の身は全体父母の身なり誰か是
  を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師
  子王となるいまだ人王天王等とならず、今法華経の行者は其中衆生悉是吾
  子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事難かる
  べからず

  (「日妙聖人御書」、全集、p. 1216)
  ─────────────────────────────────

 日蓮の主張に従えば、「法華経を心得る者」はみんな三徳をそなえるという
ことになります。
Posted by Libra at 2006年07月12日 22:27
 ナウシカさん、おはこんばんちは。

 「Release Heart」を拝見いたしました。

 シャカは「善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてである」[*]
といっています。ナウシカさんのような方は、この言葉の意味を深く理解され
ているのだろうなと感じました。

 またいろいろと教えてください。これからもよろしくお願いします。


  [*]  「われを善き友として」(増谷文雄) 
     http://freett.com/Libra0000/012.html
Posted by Libra at 2006年07月12日 22:50
わーいナウシカさん♪
わめさんとこではお初です。

>何かとお世話になっております。

こちらこそですm(__)m
基本的にナウシカさんの意見は同意です。

>そういうサイトに集まって書き込んでおられる方は、往々にして文章とか話の運び方が似てますね(似てくるのかな?)
それは、みれいさんのサイトでもリンクを貼って紹介されてましたね。

ええ。
アンチという集団、シンパという集団そのものについて考えてみてもいいのではと思ったもので。
どうしても考え方の似た集まり、同じ経験の集まり、など、居心地のよさは知らず知らずに求めて、違う意見は吟味することなく排除してゆくことも多いのでしょうね。

MCというと不慣れだったり違和感があるかもしれませんが、別の言い方で表せば認知不協和理論なのだろうと思います。
んで、他人事でなくて自分にも当てはめて考えるのがポイント。
えてして人は他人は見えるけど自分は見えない。
自分の背中は他人が一番よく知っていることもしばしば。

ひとつ思った事。
宗教の特徴で大きくちがうのは、
その信仰が他の宗教に対して寛容であるか不寛容であるか。また多元的(違うものは違うものとして存在することを容認する事)であるかの違いがあると思います。

そこが違うと同じ御書や聖書でも解釈や信仰の仕方、本人の活用の仕方もまったく変わってくるのだろうと思います。
イスラム教もすべてがテロを起こすような解釈で信仰をしているわけではないです。
同じく日蓮御書も、釈迦の存在をどう扱っているかで御書の引用の仕方も変わってきます。
個々の寛容さ不寛容さもあると思いますが、
寛容性に関して説いているかどうかも御書(聖書)指導にあたっては重要ではと思います。

そして、寛容というのは「ことなかれ主義」とは違うものであるだろうと思います。
Posted by みれい at 2006年07月12日 22:56
1.検索機能について
>本格的にネットに復帰する際
には別サーバにて導入できるよう努力したいとおもいます。

ああ、ご検討いただきましてありがとうございます。個人的にはとても勉強になります。

2.
>日蓮の主張に従えば、「法華経を心得る者」はみんな三徳をそなえるということになります。

三徳をそなえる=仏でいいとおもうのですが、
さもすると自分=心得るものに自分で勝手になってしまう可能性がありますね。

一神教的な仏教では一元的に(空であれば問題ないと思いますが、一神教的な考え方で)自分を神と同意義の”仏”としてしまう問題点などもあるのだろうと思いました。

そしてそれがしばしば無謬性を生んでしまう原因ではとも思います。
Posted by みれい at 2006年07月12日 23:09
>シャカは「善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてである」[*]
といっています。ナウシカさんのような方は、この言葉の意味を深く理解され
ているのだろうなと感じました。

Libraさん、ありがとうございますm(__)m
そうですね。
善き仲間も、一見悪き?仲間も、自分を育ててくれる善き仲間なのかもしれません。
1人でただただ題目を唱えていたり、居心地のいい環境ばかりに身をおいていても、何も生みはしないのでしょうね。

そういうのが最近少しだけわかってきました。


みれいさん、そうですね。
寛容なことって大切だと思います。
教義の厳格さと寛容さ、その頃合いは難しいと思うんですけどね。
Posted by ナウシカ at 2006年07月13日 14:40
Libraさん、皆さん、こんばんは。

>1.板曼荼羅の作者なんてどうでもよいのでは?
>2.二箇相承の作者なんてどうでもよいのでは?

これらは同感です。(今でもこだわっている人がおられるのは不思議に思います)

>3.自己批判的な態度は「信仰次元」においてこそ必要なのでは?

これはあまり気がつきませんでした。

御利益信仰など信仰の副次的なことは別として本来「信仰次元」は自己批判的な態度が要請されるのかもしれないですね。
(グル信仰は自己否定という意味では簡易な自己批判的な態度かもしれないですが本当の自己批判的な態度ではないですね)

Libraさんのご主張から学んだ結果、私はこのように考えています。

1) 日蓮聖人は釈迦の仏教(本来の仏教)を復興しようとして鎌倉時代の当時最高の仏教理解のひとつとされていた天台宗の見解を出発点として法華経を広めようとされた。

2) 法華経は釈迦の説法を記録したものでないものの本来の仏教の精神をよく伝えている。(羅什訳法華経は特に中観派の影響が強い)

3) 現代は学問が進んで初期仏教等のことがわかり天台宗の見解(特に五時八教)は妥当とみなされない。

4) 日蓮聖人が釈迦の仏教(本来の仏教)を復興しようとしたことを現代にあてはめると、現代で可能な限り釈迦の仏教(本来の仏教)を学ぶ必要がある。

5) 日蓮聖人を完全な絶対者のようにみなすのは日蓮聖人を最高に尊敬するように見せかけて実は日蓮聖人の精神をないがしろにしている。(従来の学会や正宗)
Posted by Leo at 2006年07月14日 00:14
 みれいさん、おはこんばんちは。

 「仏教とは縁起説である」というテーゼが正しいとすれば、仏教が「絶対者」
という意味での「神」の存在を認めるということはないはずです。「神」は縁
起的存在ではないでしょうから。

 しかし、実際には、みれいさんがおっしゃるような「一神教的な仏教」なる
ものが発生してしまいました。たとえば、「タントラ仏教」[*]などです。創
価学会の「宇宙生命論」も構造的には同じだとおもいます。

  [*] タントラ仏教はブラフマニズム的宗教(吉水千鶴子) 
    http://freett.com/Libra0000/022.htm
Posted by Libra at 2006年07月14日 01:09
 Leo さん、おはこんばんちは。

> 1) 日蓮聖人は〔中略〕天台宗の見解を出発点として法華経を広めようとされた。

 日蓮の出発点は、まずは「仏説」だとおもいます。

  ─────────────────────────────────
  本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからずいづれも仏説に
  証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし論師訳者人師等にはよるべからず専
  ら経文を詮とせん、又法門によりては設い王のせめなりともはばかるべか
  らず何に況や其の已下の人をや、父母師兄等の教訓なりとも用ゆべからず、
  人の信不信はしらずありのままに申すべしと誓状を立てしゆへに

  (「破良観等御書」、全集、p. 1293)
  ─────────────────────────────────

 そして、「仏説」を検討した結果、チギの評価を概ね妥当であると判断した
のだとおもいます。「天台宗」というと、チギの思想と矛盾するチギ以降のい
ろいろな思想まで含まれることがありますので注意が必要だとおもいます。

> 2) 法華経は〔中略〕本来の仏教の精神をよく伝えている。

 わたしはそのようにおもいますが、くまりんさんのように、わたしとは正反
対の評価をされる方ももちろんおられます。

> 3) 現代は〔中略〕天台宗の見解(特に五時八教)は妥当とみなされない。

 思想の中身の評価としては、チギの評価はおおむね妥当なのではないでしょ
うか。

> 4) 〔中略〕現代で可能な限り釈迦の仏教(本来の仏教)を学ぶ必要がある。

 現代においては、まず、《出発点とすべき「仏説」をどのように選択するか》
という問題[*1]からはじめる必要があるとおもいます。ちなみに、あの「寸鉄」
も、「釈尊に還れ」[*2]と書いています。

> 5) 日蓮聖人を完全な絶対者のようにみなすのは〔中略〕日蓮聖人の精神を
> ないがしろにしている。

 「人間・日蓮」を忘れたら、「仏教の堕落であり、権威化」ではないでしょう
か。この点では、池田名誉会長の以下のお考えは全く正しいとおもいます。
 
  ─────────────────────────────────
  名誉会長 「人間・釈尊」を忘れた時、仏教は「人間の生き方」から離れ
   てしまった。「師弟の道」がなくなった。その結果は、仏教の堕落であ
   り、権威化です。

  (池田大作他『法華経の智慧』第四巻、聖教新聞社、1998年、p. 49)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  斉藤 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれました。大日如来を崇め
   る真言宗に対しても、「大日如来は、どのような人を父母として、どの
   ような国に出現して大日経をお説きになったのか」(御書一三五五n、
   趣意)と破折されています。

  (同上、pp. 68-69)
  ─────────────────────────────────


 註

  [*1]  仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
      http://freett.com/Libra0000/082.htm

  [*2]  大聖人「釈尊に還れ」(『聖教新聞』寸鉄) 
      http://freett.com/Libra0000/067.htm
      
Posted by Libra at 2006年07月14日 02:09
Libraさん、こんばんは。

> そして、「仏説」を検討した結果、チギの評価を概ね妥当であると判断した
>のだとおもいます。「天台宗」というと、チギの思想と矛盾するチギ以降のい
>ろいろな思想まで含まれることがありますので注意が必要だとおもいます。

>思想の中身の評価としては、チギの評価はおおむね妥当なのではないでしょ
>うか。

五時八教は「古典」であって「真理」ではないと思いますが、一念三千説をはじめと
してチギの仏教理解は(中観派的なところがあって)評価すべき(現代でも妥当)ところは
多いのですね(Libraさんの資料にもあるように)。

○ 一念三千説は発生論を拒否するものである(安藤俊雄) 
http://page.freett.com/Libra0000/121.html
○ 一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章) 
http://page.freett.com/Libra0000/122.html

> わたしはそのようにおもいますが、くまりんさんのように、わたしとは正反
>対の評価をされる方ももちろんおられます。

くまりんさんは法華経を「哲学的凡庸」といわれました。一方で部派の創作だともいわれ
ました。(仮に)部派の創作ならば本来の仏教の精神をよく伝えていてもおかしくないと
思うのです。

> 現代においては、まず、《出発点とすべき「仏説」をどのように選択するか》
>という問題[*1]からはじめる必要があるとおもいます。ちなみに、あの「寸鉄」
>も、「釈尊に還れ」[*2]と書いています。

寸鉄は単なるスローガンだけでなく時々冴えを見せることがあるようですね。

> 「人間・日蓮」を忘れたら、「仏教の堕落であり、権威化」ではないでしょう
>か。この点では、池田名誉会長の以下のお考えは全く正しいとおもいます。

同様に「人間・池田名誉会長」を忘れた時、学会は「人間の生き方」から離れ
「師弟の道」がなくなってしまい、その結果は、学会の堕落であり、権威化であると。

引用の部分はかなり冴え(自己批判)を見せているようです。
Posted by Leo at 2006年07月14日 22:30
自己レスです。

>(グル信仰は自己否定という意味では簡易な自己批判的な態度かもしれないですが本当の自己批判的な態度ではないですね)

チベット仏教等では法師(グル、ラマ)には厳しい規範があると共に、法師信仰は一定の役割が
あるようです。

「法師に対して高い尊敬の念を与えるのは、彼個人より彼が担っている精神的役割と
 イメージがとても重要だからである。」

「法師に欠点を見出すことなく、完璧な存在として見るよう指示しているが、これは
 客観的事実とはほど遠く、本来、弟子の主観的自我を清めることを意図したものである。」

○ カルマ・ゲレク・ユトク師の仏教基礎講座シリーズ Part1
(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)
http://www.tibethouse.jp/culture/karma1.html

弟子が主観的自我を清められないのであるならば、師に対する高い尊敬の念や欠点を見出すことなく、
完璧な存在として見ること(たとえば名誉会長に対して)は意味がないばかりか悪影響があると思います。

たぐいまれな精神的師が身近にいない場合(手取り足取り直接指導を受けられない場合なども)は
批判精神がこれにかわる、あるいは重要ではないかと思います。
Posted by Leo at 2006年07月14日 23:01
最近余所のブログを拝見して思い出だしたこと。

「師弟不二」は「啓蒙主義」に反すると共に、また「師弟不二」は
「自分自身の知性を使わずに指導者に頼っている状態」を招くのですね。
(学会もLibraさんも)「啓蒙主義」に目をつけていたことはするどいと思います。

「カントがいう「啓蒙」とは《自分自身の知性を使わずに指導者に頼っている状態から人
を解放する》ということですが[注2]、この理念は創価学会の初代会長である牧口常三郎
に継承されています[注3]。この意味での啓蒙主義こそが、おそらくは創価学会の創立理
念だったのだと思います。」

「しかし、残念ながら現時点においては、創価学会はその根本理念を見失ってしまってい
るといわざるをえません。たとえば、「師弟不二」というような言葉を使って、「自分自
身の知性を使わずに指導者に頼っている状態」を奨励してさえいます。「指導者の考えに
コミットしている状態」(権威主義)を自ら作り出しています[注5]。」

http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_003.html
(創価学会をみんなで考えよう BBSの記録、「創価学会(SGI)は世界宗教をめざす」スレッド、
Libraさんご発言 )

次は「宿命転換」理論の疑問(次の御書が引用されたりします)。

「我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食田畠等を奪いとりせしことかずしらず、
 当世日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし、又法華経の行者の頚を刎こと其の数を
 しらず此等の重罪はたせるもありいまだはたさざるもあるらん」
(開目抄下)

過去世に謗法だった人間ほど今世で宿命転換するならば、過去世に謗法でない人は今世で宿命転換
する必要はないし、指導者である人間ほど過去世に謗法だったことになります。
(たとえば過去世に無限に謗法だった人間は永遠の指導者となるなどして永遠に宿命転換する必要が
あるのですね)
また現代においては過去世の存在の妥当性は否定的であるし、百歩譲って仮に過去世が存在すると
仮定しても過去世より今世の影響が大と見て間違いないのではないでしょうか(物事の因果関係の説明
は今世だけで片がついてしまうのではないでしょうか)。
現代的に過去世を捉えると過去世とは自分の存在しない過去の時代といえますね。
自分の存在しない過去の時代の出来事が今の自分に影響を与えることはなくはないですね。
Posted by Leo at 2006年07月16日 01:52
>過去世に謗法だった人間ほど今世で宿命転換するならば、過去世に謗法でない人は今世で宿命転換
>する必要はないし、指導者である人間ほど過去世に謗法だったことになります。

宿命転換理論は宿命転換理論で使えそうですね(ノリツッコミ的には)。

宿命転換を口走る幹部は彼自身が過去世で一般会員より謗法であったわけで、
永遠の指導者は過去世で無限に謗法であったわけですね。

大多数の人が学会に入会しないのは過去世で謗法でなかったからですね。
なんとも現状がうまく説明できてしまう。
Posted by Leo at 2006年07月16日 02:06
 あーあさん、こちらでは初めまして。^^
 ナウシカさんもこちらではおひさです。(*´∇`*)

 Libra師匠、Leoさん、みれいしゃん、有用なコメントありがとです。

 メメさんっちの【この界隈について思う】で、にっしーさんと話し合ってきましたが、とりあえずメメさんのご判断で終了しました。^^
 にっしーさんのコメントからは、数年前までの私の信念・信条とよく似ているとなと強く感じました。
 私としては残念ながら自己訂正に結びつけられるような成果はなかったようですが、可謬性を認めることの重要性を再認識できたことは有意であったように思います。

メメさんっちの【この界隈について思う】
http://inunomeme.blog.ocn.ne.jp/kakarityou/2006/07/post_ce48.html
Posted by わめ at 2006年07月16日 17:00
わめさん

メメさんちではお疲れ様でしたm(__)m
私は、どうも感情的になってしまうのでダメですわ(x_x)
わめさんの冷静さを見習いたい!

軒ちゃんのblogで興味深い記事がUPされてましたよ。
『自由って不安かも?』
http://blog.goo.ne.jp/gehen_584/
Posted by ナウシカ at 2006年07月16日 20:29
メメさんとこの記事閉じちゃいましたね。
エンドレスになりそうだったので懸命な判断だと思います。でも肝心の聞きたい質問は返事がなくてちょっとさみし。
にっし〜さんのブログがあるので、ご本人がよろしければ少しだけお邪魔したいと思います。
http://blog.drecom.jp/nisshiey/

聞きしてみたい事がいろいろと。
Posted by みれい at 2006年07月17日 02:21
お聞き、「お」が抜けてる。
Posted by みれい at 2006年07月17日 02:22
みれいさん、わめさん、皆さん、こんにちは。

法律と仏教というところが気になったので、にっし〜さんのところにちょこっとお邪魔してみました。
Posted by Leo at 2006年07月17日 11:26
>1.板曼荼羅の作者なんてどうでもよいのでは?
>2.二箇相承の作者なんてどうでもよいのでは?

逆に昔と比べてどうでもいい人が増えていて、教義よりも、体験で正しさの確信を持っている人のほうが今は圧倒的多数なのではなんてことも考えてみたりする。

それが神秘体験、グノーシスといわれる部分なのでは。
どうやらグノーシスには神秘体験と権威がセットになっているらしいと。
Posted by みれい at 2006年07月17日 12:10
確かに「神秘主義」と「体験主義」は密接な関係にあるようです。

「神秘とは、人間がその知識や能力をもってしても全容を把握する(=知る)ことができない事物のことで、
 神や、「究極の真実」などがこれに含まれる。」

「人間は、一般的な事物について、それを言葉などで表現して伝えることができる。だが、神秘は、人間が
 把握している既存の事物との関連で表現することができない。すなわち、神秘は知識として記録する
 こともできず、直接体験することによってのみ、その当人だけが知ることができる。」

○ 神秘主義 (Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A7%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9

ある人が「神秘主義」を信じてしまうということが最大の「神秘」に思います...

正統派(とされる)の宗教も「神秘主義」の要素がないわけではないですし。
Posted by Leo at 2006年07月17日 13:15
 皆さん、こんにちは。^^

 ナウシカさん

> 私は、どうも感情的になってしまうのでダメですわ(x_x)
> わめさんの冷静さを見習いたい!

 私も全然冷静ではないです。汗
 ただ論議に感情は邪魔と考えておりますし、自己の見解も意見を異にする他の方の見解と同じように可謬性があることを理解していれば互いの見解を再検討し、うれしいことに自己の見解を訂正することもできますし、(最近は)熱くならなくなってきました。^^
 またLibra師匠のような「自己の見解を他者の批判の目にさらす」との批判的合理主義な考え方は、感情に流されることを防ぐ効果もありしっかり身につけていきたいと思っております。

> 軒ちゃんのblogで興味深い記事がUPされてましたよ。
> 『自由って不安かも?』

 ご紹介ありがとう。読ませていただきました。(^-^)
 考えさせられる記事でした。
 不安を克服するって大変なことなのかもしれませんね。

 生活のための糧を仕事などで得るためや、やりたいことのため、自らの意思・判断で自由な思考・行動の自制も必要になってくると思いますし、完全な自由を得ることは難しく思います。
 また、思想・宗教団体の活動も自らの意思・判断で行っているとすれば、自由を奪われていることにはならないと思います。
 このようないずれの場合も、不安ばかりではなく、「これでいい」とか「これしかだめ」などの固定観念を持つことも、自由な思考を奪っていくことになるのかもしれません。

 多くの人は、自由になりたい、楽しくいきたい、幸せになりたいなどの願望がありますが、それが手に入らないから渇望し妄想を抱き、手に入れても時間が経てばそれに慣れてもう何でもないことになり、他者との比較でしか手に入れたものの価値を確認できないもので、更なる願望が芽生え、飽くなき欲望にとりつかれていくものかもしれません。
 各言う私も、この多くの人のひとりで、そこから抜け出せていないことが悲しいです。涙
Posted by わめ at 2006年07月18日 13:58
わめさん、ご無沙汰していますm(__)m

私のblog記事では、わめさんちをリンクさせてもらってましたが、今回リンクフリーということでリンク集にもリンク貼らせて頂きました。
ちょっとご報告まで(^^)/
Posted by ナウシカ at 2006年07月26日 14:25
 ナウシカさん、こんにちは。^^

 リンクありがとう御座います。ヽ(  ´  ∇  `  )ノ ♪

 では相互リンクということでこちらからもお願いします。ぺこ <(_ _)>
Posted by わめ at 2006年07月26日 15:33
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