2006年04月17日

Re: 地獄への道は人びとの善意によって舗装されている

 今回はLeoさんのブログ記事、『地獄への道は人びとの善意によって舗装されている』にコメント代わりにトラックバックしようと書いてます。^^

 「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」...は逆説的な表現だ。
「善を為そうとして悪を為してしまう現実」...平和を目指すはずだった昔の学生運動の内ゲバやある種の宗教など該当する例は枚挙にいとまがないのかもしれない
 分かりやすい例ですが、Leoさんのこの記事のリンク先にもアメリカのイラク攻撃や、公立学校の敷地内完全禁煙などの例も引かれています。
 善や平和や正義という心地よい言葉で飾られた行いにより殺されたり苦しむ人達がいる。
 どうも善や平和や正義という心地よい言葉は、人々を扇動するために誠に都合のよい言葉のようです。
 
 
 このような中身の曖昧な言葉は、人それぞれ微妙に捉え方が違うと思うし、ある行いに善や平和や正義というレッテルが貼られ正当化されながら悪の行いを為してしまうものかもしれません。
 私は善や平和や正義という言葉で飾られた思想・行いの裏に、人間個々のエゴや欲と言ったものが隠されているのではないかと疑っています。
 Leoさんのこの記事ではポパーの言が多用され、その中に『善の追求ではなく悪の排除のみをおこなえ』とありますが、この意味するところは例えば悪の排除のためには戦争も厭わぬのか、あるいは悪の排除のための悪を行うことも否定しているのかが不明ではありますが、これが後者を意味するものなら私の反戦主義とも一致する考えだと思います。
 私は悪というのも善や平和や正義と同じくらい曖昧な言葉のように思います。
 このような曖昧な言葉より、明解で非常に実践することが難しく大変な覚悟のいる反戦の言葉が好きです。

 ここまで考えながら書いてきてふっと気が付いたのが、人は曖昧で都合よく使える言葉を好み、明解で厳格的な言葉を避ける傾向にあると思うことです。
 このようなことからも、やはり人間はエゴや欲に振り回されている動物のように思います。
 そしてこの人間社会も、互いに摩擦を避けようとしながらあるいは摩擦をチラつかせたりしながら、それぞれがそれぞれのエゴや欲を満たすことを目的としているようにも思えます。

 随分悲観的でしょぼんな記事になってしまいました。
 どなたかのご意見を頂いて、明るい記事になるような追記ができたらいいんだけど…
posted by わめ at 10:05| Comment(90) | TrackBack(1) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
そんなら盛り上げたろ。あとのことはしらんで。

明解で厳格な言葉が、そのまま100%伝わるんやったらなんも問題ないんやけど、
明確な言葉も捉えかたで、すでに曖昧になってしまう。

メメさんちに書いて、ナマズさんにもコメントもらったんやけど、

明解なルールってなもんもないんやけど、なんとなくそうせなあかんってなとこが、
なんとなくわかってる状態の方がバランスとれてええんちゃう?
それぞれ個人がしっかりした自分を持ってなできへんかもしれんけえど、
明確で厳格な言葉で纏まって見えてる方がバランスはとれてないんやで。

あ、やっぱりわけわからんし。後たのんます。
Posted by 三九郎 at 2006年04月17日 16:14
 三ちゃん、久しぶりに来てくれたからたっぷりイジメちゃおっと。♪ d(⌒o⌒)b♪

> 明解で厳格な言葉が、そのまま100%伝わるんやったらなんも問題ないんやけど、
> 明確な言葉も捉えかたで、すでに曖昧になってしまう。

 明確で厳密な言葉が100%正しく伝わらないとして、不明確な言葉はどれほど曖昧になってしまうか…w汗

> 明解なルールってなもんもないんやけど、なんとなくそうせなあかんってなとこが、
> なんとなくわかってる状態の方がバランスとれてええんちゃう?
> それぞれ個人がしっかりした自分を持ってなできへんかもしれんけえど、
> 明確で厳格な言葉で纏まって見えてる方がバランスはとれてないんやで。

 明確や曖昧な言葉と、バランスとにはどのような関連性があるのかな? ( ̄ヘ ̄;)ウーン
 私はこうして言葉を使って話をする以上は、なるべく相手に言いたいことを理解されるような言明がいいように思います。
 曖昧な言葉であっても、それを自身がどのように捉え使っているかを明確にするとか。

 じゃないと、

> あ、やっぱりわけわからんし。後たのんます。

 こうなっちゃうのではないかしらんw?
Posted by わめ at 2006年04月17日 16:36
へっ、わめさんも明確で厳密な言葉使ってるつもりで
ちょっとした解釈の違いで亀裂がひろがってるの、よくあるやん。
明確な言葉を辞書で調べても1.2.3.って出てくるやろ?
こっちが1.の意味で使ってても、相手が2.の意味で捉えたらどうなんねんな。

なんとなくの感じを伝えるための方法が、お経とか聖書の喩えやと思うねんけどな。
Posted by 三九郎 at 2006年04月17日 16:50
 三ちゃんの逆襲だわw(*゜▽゜*)

> へっ、わめさんも明確で厳密な言葉使ってるつもりで
> ちょっとした解釈の違いで亀裂がひろがってるの、よくあるやん。

 あるある!(>▽<;; アセアセ
 それがどこかを指摘してくれなきゃ直せないじゃんw涙
 それに傷の舐め合いや尊重しあうより、こうして批判しあったほうが得るものが多いと思います。
 (⌒〜⌒)ニンマリ

> 明確な言葉を辞書で調べても1.2.3.って出てくるやろ?
> こっちが1.の意味で使ってても、相手が2.の意味で捉えたらどうなんねんな。

 これなんかも具体的に指摘してもらえばうれしいな。^^
 数字の若いものほど一般的な解説ですが、2や3もある限定的な使われ方をする場合の解説など多くてまた1に相反するような解説は少ないように思うぞ。
 一応辞書解説を引用するときは全部読んで確かめるようにしてます。(これはまだ最近か?w汗)

> なんとなくの感じを伝えるための方法が、お経とか聖書の喩えやと思うねんけどな。

 お経とか聖書に書かれてあることを、より正確に伝えようと喩え等はあるような・・・

goo辞書より
たとえ たとへ 3 2 【例え/▼譬え/▼喩え】

(1)たとえること。また、たとえられた事柄や話。
「―にもあるとおり、…」「―を引く」
(2)同じ種類の物事。例。ためし。
「世の―に漏れず」
――を取・る
似た例をあげる。多く打ち消しの語を伴って用いる。
「生残た妻子の愁傷は実に―・るに言葉もなくばかり/浮雲(四迷)」
Posted by わめ at 2006年04月17日 17:29
お経とか聖書を正確に理解せんでもええねんで。
そんなん、だれそれが何したなんて関係ないねん。
でもそのあやふやなところに不安を感じるのもわかるけど。

なんか感じるところを感じれたら
それを自分の言葉で説明できたらもっとええねんけどね。

ナマズさん、みれいさん、助けてや。
Posted by 三九郎 at 2006年04月17日 17:46
 三ちゃん、完全主観コメントになってるw汗

 またお話しましょうね。ヽ(  ´  ∇  `  )ノ ♪
Posted by わめ at 2006年04月17日 17:57
>ナマズさん、みれいさん、助けてや。

みれいさん、呼んでますよ。

Posted by ナマズ at 2006年04月17日 21:39
わめさん、こんばんは。

>随分悲観的でしょぼんな記事になってしまいました。
>どなたかのご意見を頂いて、明るい記事になるような追記ができたらいいんだけど…

「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」ははっとする言葉なのでブログで
取り上げてみました(ブログでは直接特定宗教の批判をせずに一歩一般的な批判を
してみてます)。

私は最近仏教を自分なりこのように解釈しておりますです。

・悪循環からの脱出 (輪廻が対象だったら輪廻からの脱出、その他「悪」からの脱出でもよい)
・スパイラル的な成長 (悪循環からの脱出だけでなく「良」循環をつくる)

で、ひっくりかえしてこれはどうですか。
「天国への道は人びとの悪意によって舗装されている」

困難な目にあった人が最後は花開く(冬が春になる)というのはドラマでも現実でもあるのでは
ないでしょうか。最悪な状態の宗教団体があったとしてもカモン・カモンですぜ。
わざと悪い状態をつくりだして人々を成長させるなんてのはこれはもう天然のなせるわざ
なんです。

人類が類人猿から進化したのも人類の祖先の住む環境が悪化してこまったちゃんになって
二足歩行したからだとか。「組織」に仕える思想を「個人」や「社会」にスリカエて頑張りませう。
Posted by Leo at 2006年04月18日 00:03
わめさん、こんばんは。

>「組織」に仕える思想を「個人」や「社会」にスリカエて頑張りませう。

伝統的宗教はこの限りでないかもしれないですが、新興宗教では教義を組織や指導者や
権力に都合の良いようにスリカエてるわけですから、既存の教義や指導を
「はいそうですか」と受け入れるのでなくて(受け入れなくなった人はすでに受け入れてない
と思いますが)、自分で自由に自分向けの教義や指導を合成してしまったらどうかと思うんですね。

ちなみにLibraさんの場合はもっと厳密で、教義や指導を合成というより、学問的に
妥当な確からしいものを選択してます。

教義や指導の合成が難しかったらなにか自分の好きなものを持ってきたり紹介したりする
のでもよいと思います。
Posted by Leo at 2006年04月18日 00:20
 Leoさん、こんばんは。^^

> 「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」ははっとする言葉なのでブログで
> 取り上げてみました(ブログでは直接特定宗教の批判をせずに一歩一般的な批判を
> してみてます)。

 うん、いい記事だと思ったのでトラックバックさせて頂きました。<(_ _)>

> 私は最近仏教を自分なりこのように解釈しておりますです。
>
> ・悪循環からの脱出 (輪廻が対象だったら輪廻からの脱出、その他「悪」からの脱出でもよい)
> ・スパイラル的な成長 (悪循環からの脱出だけでなく「良」循環をつくる)

 さっき別記事のコメント欄で書いた自動・反射的反応(曽我さんの言明からのパクリですがw汗)というのも悪循環・スパイラルのことかもしれません。
 仏教解釈については様々な見解があるでしょうが、Leoさんのこのような仏教解釈は悪くないと思います。

> で、ひっくりかえしてこれはどうですか。
> 「天国への道は人びとの悪意によって舗装されている」

 反面教師という言葉があるくらいですから悪くないでしょう。笑
 ただ多くの人から支持される見解かどうかは疑問が残りますが。汗

 私は、生活が豊かになり、個人の人権や権利が重んじられる社会なり、自由奔放な思考・言動ができるようになったことは悪くないとは思うのですが、だからといって自由奔放な思考・言動が良い事とは思えません。
 このような社会だからこそ、より個人の思考・言動には注意を払うべきじゃないかと思います。
 自由を謳歌している場合じゃなく、自由には責任が伴うんじゃないかと。

【良い言動と悪い言動】
http://wame.seesaa.net/article/13202523.html
Posted by わめ at 2006年04月18日 00:32
 Leoさん、何だか先ほどの私の投稿の”自由奔放な思考・言動”についてのコメントが、読み直してみたらLeoさんのコメントへの反論に思われかねない表現のようだったようで、まったくそんなつもりで書いていませんので誤解されないようにお願いしたいっす。m(_ _"m)ペコリ

> >「組織」に仕える思想を「個人」や「社会」にスリカエて頑張りませう。
>
> 伝統的宗教はこの限りでないかもしれないですが、新興宗教では教義を組織や指導者や
> 権力に都合の良いようにスリカエてるわけですから、既存の教義や指導を
> 「はいそうですか」と受け入れるのでなくて(受け入れなくなった人はすでに受け入れてない
> と思いますが)、自分で自由に自分向けの教義や指導を合成してしまったらどうかと思うんですね。

 ご指摘の”教義を組織や指導者や権力に都合の良いようにスリカエ”は、悪印象を与える表現にも思えますが、時代や指導者に合わせた教義の改変や権力拠りになるのは、歴史が物語るように伝統的宗教にも多いように思います。(^^;;
 ”自分で自由に自分向けの教義や指導を合成”は、私の知る創価学会や霊法会他の会員の多くは実際に行っているように思います。

『日蓮(大聖人)の御書を読みその教えどおりの信仰活動をしているのかと言えばそのような方は少数派で、その教えを学会なりに解釈しての学会教義に対して”自己判断が介在”しての教条的になっておられる学会員の方が圧倒的なように感じます。』
【教条主義はファシズム?】 http://wame.seesaa.net/article/9440778.html より

> ちなみにLibraさんの場合はもっと厳密で、教義や指導を合成というより、学問的に
> 妥当な確からしいものを選択してます。

 師匠は明確に選択されているようですし、言明も克明であると思います。^^
 私はいつになったらそうなれるのやら…、そうなれる前に寿命が尽きそうです。涙

> 教義や指導の合成が難しかったらなにか自分の好きなものを持ってきたり紹介したりする
> のでもよいと思います。

 ”教義や指導の合成が難しかったら”は別として、みれいしゃんは自身が支持できる言明をうまく紹介されているように思います。
 私も見習わないといけないかもw汗
Posted by わめ at 2006年04月18日 03:03
わめさん、

確かに、自由奔放(なんでもアリ)がよいわけではありません。

ちょっと私流に脱線し過ぎましたが、友岡さんの言葉(引用)が念頭にありました。

「「人々に自分が考えているよりもはるかに自由なのだと教えること、人々が自明で真理だと
信じていることが、歴史の特定の時点に作り出されたものであり、このみかけの上の自明性
(簡単にいえば「常識」)が、批判し破壊することができるものだと示すこと」と、
ミシェル・フーコーはかつて自らの使命を語りました(Dits et &#233;crit, vol.4)。
この言葉は、いつも私の胸にあります。」

(友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』第三文明社)

自由奔放もよくないけど常識に捉われるのもよくないのではないかと。
Posted by Leo at 2006年04月18日 03:35
>Leoさん、何だか先ほどの私の投稿の”自由奔放な思考・言動”についてのコメントが、
>読み直してみたらLeoさんのコメントへの反論に思われかねない表現のようだったようで、
>まったくそんなつもりで書いていませんので誤解されないようにお願いしたいっす。m(_ _"m)ペコリ

いえいえ、批判はOKです。(私は熱くならないように気をつけないと)

>”自分で自由に自分向けの教義や指導を合成”は、私の知る創価学会や霊法会他の会員の多くは
>実際に行っているように思います。

学会を信じている人でも自分独自の解釈を持っている人はいますし、同じ教義・指導でも捉え方
が個人個人で違いますね(他宗の僧侶に石を投げる人もいれば、非学会員に親切にする人もいる)。
しかし教条的になると困りものですね。一方で、教義・指導を読んだり学んだりする暇がない
あるいは機会を持たない(下手に教義や指導に毒されない)良識的な学会員の方がいたりします。

>”教義や指導の合成が難しかったら”は別として、みれいしゃんは自身が支持できる言明をうまく
>紹介されているように思います。 私も見習わないといけないかもw汗

私の「教義や指導の合成」という表現は少し不謹慎かもしれません。自分が納得できるものや
支持できるものを選択するというのがよいかもしれません。
Posted by Leo at 2006年04月18日 03:50
>学会を信じている人でも自分独自の解釈を持っている人はいますし、同じ教義・指導でも捉え方
>が個人個人で違いますね(他宗の僧侶に石を投げる人もいれば、非学会員に親切にする人もいる)。
>しかし教条的になると困りものですね。一方で、教義・指導を読んだり学んだりする暇がない
>あるいは機会を持たない(下手に教義や指導に毒されない)良識的な学会員の方がいたりします。

私は最近、

人の状態 = 宗教(あるいは信条) × 本人(の傾向)

と思っています。

宗教や指導者が多少おかしくても、本人次第なわけで、極端なたとえをすると
ナチスドイツでも人道的な人はいたようです。
本人がよい人だと、その人がキリスト教だろうがイスラム教だろうが仏教だろうが
新興宗教だろうが無宗教だろうが、よい人ではないでしょうか。
よい人の要素というのは物事を教条的に捉えないという点があるのかもしれません。
(と書いていて私の反省点だなあ)
Posted by Leo at 2006年04月18日 04:04
 Leoさん、脱線大歓迎ですよ。(⌒∇⌒)

> いえいえ、批判はOKです。

 私も多少はポパってますので批判に遠慮はないかもしれませんが、あのコメントはLeoさんのコメントへの批判ではないことを明確に表明したかったのです。^^

> 自由奔放もよくないけど常識に捉われるのもよくないのではないかと。

 常識も(私の想像する)みれいしゃん的に考えれば、常識も、あるパラダイムの限定的な見解に過ぎないように思いますので、その考えを支持する私としましてはまったく異論はありません。
 外的に抑圧を受けていると感じる方には解放を、抑圧を受けてないと感じる方には自制を望みたいです。

> 私の「教義や指導の合成」という表現は少し不謹慎かもしれません。自分が納得できるものや
> 支持できるものを選択するというのがよいかもしれません。

 様々な読み手の立場を配慮して頂いて感謝です。ヽ(  ´  ∇  `  )ノ ♪
 でもブログ主の私自体が配慮が足らないので、私に対して嫌味にならない程度の配慮をお願いしたいです。爆

 って書いている間にまたまたコメントを頂けましたが、”よい人”は主体者次第と考えれば唯心論的で、”よい人”は環境が作ると考えれば唯物論的と言えるかもしれません。(?w)

 最近の私は極論的見解になりつつあるようで(汗)、私が死んだ後のこの世界を意識し過ぎているのか、より客観性重視、なるべく普遍性のある見解を持てればいいなと思ったりしています。
Posted by わめ at 2006年04月18日 04:38
うはーすでに出遅れている。

三九郎さんが言っているのは「フレキシブルさ」ですよね。
状況に応じて柔軟な対応をとることが出来る。
それを経典(や文字や言葉)を通じて得ることができるわけで、そのまま原理的にとったらあかんと。
三九郎さんは縁起の考え方が素で身についている気がする。

そんでわめさんが気にしているのは、言葉や文字、ひいては教典をを自分の(または自分の組織、団体、国の)欲望やエゴの為に適当に、曖昧に使っている状態を憂いている。
むしろ自分の為にフレキシブルってどうなのよ、みたいな。

どちらも「他との関わり」がキーワードかな。

人は自分の見解になりがちだけど、相手のベターのためにフレキシブルになれるといいな、

ということかな。
Posted by みれい at 2006年04月19日 12:12
 みれいしゃん、こんにちは。^^

> うはーすでに出遅れている。

 (⌒▽⌒)アハハ!

> 三九郎さんが言っているのは「フレキシブルさ」ですよね。
> 状況に応じて柔軟な対応をとることが出来る。
> それを経典(や文字や言葉)を通じて得ることができるわけで、そのまま原理的にとったらあかんと。
> 三九郎さんは縁起の考え方が素で身についている気がする。

 うん、教条的になるな、自分の頭でちゃんと考えろと言いたいようね。^^

> そんでわめさんが気にしているのは、言葉や文字、ひいては教典をを自分の(または自分の組織、団体、国の)欲望やエゴの為に適当に、曖昧に使っている状態を憂いている。

 これは大当たりです。

> むしろ自分の為にフレキシブルってどうなのよ、みたいな。

 こっちは小当たりかな。
 個人も思想や言葉を自分に都合よく解釈し過ぎるのは危険じゃないかと思います。

 教条的になるのはダメだと思うし、自分の勝手解釈も先人・他者の努力・智慧を蔑ろにしてしまっているように思います。

> どちらも「他との関わり」がキーワードかな。

 そうですね、音楽や芸術などを主観的に評価・感想はいいですが、互いにより正しい答えを模索しようとする議論には客観的見解が求められるし、この区別がつけられないと良好な人間関係は築けないのではないでしょうか。

> 人は自分の見解になりがちだけど、相手のベターのためにフレキシブルになれるといいな、

 主観的な「自分の見解になりがち」ならば、他者の主観的見解にも寛容であるべきですね。
 他者への寛容も、それが摩擦回避や自己防衛手段であるならば、希薄で無為な関係になってしまいそうに思います。

 私が悲しいのは、上記で書いた「互いにより正しい答えを模索しようとする議論」に出会う機会は少なく、そこかしこで自己主張大会のようなテキストにしか出合えないことです。

 (* ̄o ̄)ゝオーイ!! 三ちゃん、みれいしゃんきたぞ〜
Posted by わめ at 2006年04月19日 13:12
みれいさんおそいよ〜

すでに三九郎は完全主観ミサイルで撃墜されました。

フレキシブル? 縁起の考え方? ドッカ〜〜ン(自爆)
Posted by 三九郎 at 2006年04月19日 13:36
|_ ̄))ソォーッ

フレキシブル 2 [flexible]

(形動)
柔軟なさま。融通がきくさま。
「―な構造」「―な思考」

【○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について】
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/
Posted by わめ at 2006年04月19日 14:13
これ見ろってか、ってわめさんの意見やん。

いろいろな思考の末に簡潔に纏められた言葉って圧縮されたデータやな、
データ解凍したら元戻るけど、言葉はまた違う意味をもって増殖する っと。
ほんなら言葉の意味やなくて、全体の言わんとしてるとこの感じを
なんとなく感じてるほうが正しく伝わってるんちゃうん?

みれいさん ナマズさん タッチ タッチ
Posted by 三九郎 at 2006年04月19日 14:44
 もう三ちゃんたらw(`ヘ´) プンプン。

> これ見ろってか、ってわめさんの意見やん。

 私だけの意見じゃないよ。汗

> いろいろな思考の末に簡潔に纏められた言葉って圧縮されたデータやな、
> データ解凍したら元戻るけど、言葉はまた違う意味をもって増殖する っと。

 不適切・自分勝手な言語の意味解釈が、増殖を加速させていくんだろうね。
 それぞれの語句の意味を研究・検討された方達がいて、それが辞書等にもなっていると思うのだけど、自分勝手解釈の言葉の乱用は、思想・感情・意志などを互いに伝達し合うための手段として生まれた言語を蔑ろにすることにならないかな?

> ほんなら言葉の意味やなくて、全体の言わんとしてるとこの感じを
> なんとなく感じてるほうが正しく伝わってるんちゃうん?

 正しく伝わらないと思います。
 正しく伝わるなら六法全書や契約書や条例・条約等はもっと簡素なものにできると思います。
 (こんな感じでどう?的な法律や契約書って見てみたい気もするけど。笑)

> みれいさん ナマズさん タッチ タッチ

 .......(((((( =`□´=)/コラッ!!マテー!!
Posted by わめ at 2006年04月19日 15:26
>互いに伝達し合うための手段

それはそうなんやけど、伝達する中身と言うと精神世界のこと、形而上っていうのかな。
形而下に降ろされたものは契約書や条例で規制できるやろけどね。
形而上のものは説明不可やから、それをどうにか説明しようとしてんねけど、
説明できへんものを説明しようとするから、莫大な文字量になるんやん。
その中にはいろいろ解釈できるものがあって、限り無く増殖する っと。
Posted by 三九郎 at 2006年04月19日 15:39
 形而上のものが説明不可であるなら、宗教も哲学等(以下諸々省略)も生まれてこなかったと思いますよ。
 その重要な役割を果たしてきたのが言語であると思います。
 感性的なことを表現するには、短歌や俳句や詩や音楽や芸術等があります。
 思想・感情・意志などを”互いに伝達し合うため”には、言語はなるべく適切に、また勝手解釈は慎むべきかと思います。(自省激しく含む)
Posted by わめ at 2006年04月19日 15:55
宗教が形而上だからいろんな解釈して説明しようとしてるんでしょ?
言葉で正確に説明できるんやったら、お釈迦様の教えはこうですって
1册のレポートにまとめられるやん。

哲学って説明しにくい性質のことがらを説明する学問ちゃうかったっけ?

あかんわあ〜、昼間はだれも助けてくれへん!
Posted by 三九郎 at 2006年04月19日 16:21
 三ちゃん、頑張るね。(⌒∇⌒)

> 宗教が形而上だからいろんな解釈して説明しようとしてるんでしょ?

 形而上学は証明できる明確な答えがありませんから色んな解釈が生まれると思います。

> 言葉で正確に説明できるんやったら、お釈迦様の教えはこうですって
> 1册のレポートにまとめられるやん。

 釈尊はそれぞれ相手に合わせた見解を述べられておりますし、文字として教えを残されておりませんから、それを聞いた(又・又又・又又又聞き等含む)何人もの弟子がその教えを纏められて教典となっています。
 その内容は膨大で1册のレポートにとても収まるものではありません。

> 哲学って説明しにくい性質のことがらを説明する学問ちゃうかったっけ?

 調べれば簡単に分かることだと思いますよ。汗

 三ちゃん、難しく考えすぎてない?
 私は三ちゃんに、宗教や形而上学や哲学の話をしようとしているわけではありません。
「互いにより正しい答えを模索しようとする議論」がしたいだけなのです。
 それには客観的で言語はなるべく適切に、また勝手解釈は慎むべきではないかとの意見を述べているだけで、主観的な自己主張がお望みでしたらこうして話し合う必要もないのではないでしょうか?

goo辞書より
てつがく 2 0 【哲学】

〔(ギリシヤ) philosophia は知恵への愛・希求の意。西周(にしあまね)の訳語。賢哲の希求を表すために「希哲学」と訳したが、後「哲学」とした〕
(1)世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。もと臆見や迷妄を超えた真理認識の学問一般をさしたが、次第に個別諸科学が独立し、通常これらと区別される。存在論(形而上学)、認識論(論理学)、実践論(倫理学)、感性論(美学)などの部門をもつ。
(2)自分自身の経験などから得られた基本的な考え。人生観。
「社長の経営術には一つの―がある」
Posted by わめ at 2006年04月19日 18:43
> 主観的な自己主張がお望みでしたらこうして話し合う必要もないのではないでしょうか?

 自らの見解の誤謬を見つけるための主観的な見解の提出はこの限りではありませんし、これは私の得意とするところです。
 と言うか私の場合は相手が嫌気がさす位にくどいかもw(>▽<;; アセアセ
 Leoさん、ひゃっきまるさん、みれいしゃん他多数の方、いつもご迷惑をおかけして申し訳ないです。
 ペコm(_ _;m)三(m;_ _)mペコ
Posted by わめ at 2006年04月19日 19:26
結局、心だよねぇ。真心が伝わるかどうか。
伝わる事もあるし伝わらない事もある。

そもそも伝えるものが真心か下心か出来心かでも相手の反応ちがうしね。
Posted by みれい at 2006年04月19日 20:53
わめさんと三九郎さんのコンビはトムとジェリーみたい(^▽^)

ナマズさんどこいった?
Posted by みれい at 2006年04月19日 21:07
 みれいしゃん、こんばんは。

> わめさんと三九郎さんのコンビはトムとジェリーみたい(^▽^)

 くっ、くそw みれいしゃんも仲間に引き込んでやるw( ̄‥ ̄)=3 フン

> 結局、心だよねぇ。真心が伝わるかどうか。

 どっちがトムかジェリーか分かりませんが、心が通じ合えるからフレーム化しないとも言えそうです。^^

 が、相手の真心や思いやり・慈悲等のある言葉に心を動かされないように心掛けるべきかと思います。
 同様に、相手の敵対感情や悪意や作為のある言葉にも心を動かされないように心掛けるべきだと思います。
 真心ある人の言葉は「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」とも言えるかもしれない。
 また悪意ある人の言葉は「天国への道は人びとの悪意によって舗装されている」とも言えるかもしれませんから。

 互いに心ある生身の人間ですから難しいことかもしれませんが、心(感情)とテーマに対する議論は分けて考えたほうがいいのじゃないかと思います。
Posted by わめ at 2006年04月19日 21:41
 補足

>  真心ある人の言葉は「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」とも言えるかもしれない。

 熱心な学会員のことを言っているわけではありませんので誤解なきように。

>  また悪意ある人の言葉は「天国への道は人びとの悪意によって舗装されている」とも言えるかもしれませんから。

 創価学会という一団体のことを言っている訳ではありませんので誤解なきように。
Posted by わめ at 2006年04月19日 21:48
>くっ、くそw みれいしゃんも仲間に引き込んでやるw( ̄‥ ̄)=3 フン

いやん、適当なとこで早めにひきあげます♪
ハンマーと穴あきチーズ持って。

>心を動かされないように心掛けるべきかと

ん?
心をすべて感情に支配されないよう心がけるという意味ですかね?
理論だけでも感情だけでもいけなくて、やはりそこはバランスだと思います。

>心(感情)とテーマに対する議論は分けて考えたほうがいいのじゃないかと思います。

上記と同じ理由でクールロジカルでも慈悲(これを感情とは呼ばないけれど、心でしょ?)は根本だと思います。
(Libraさんの言葉引用)
心は自覚無くてもくっついてくるから、逆に自分の心のありかを確認しないと相手に損害を加えることになるのではと思います。

>「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」

心理学者アドラーからも似たような言葉を。
「不安定であるとか 劣っているという感情があるので、人間は自分を導き、自信を取り戻し、
人生を耐え得るものにするための目標を必要とします。
そしてその結果、人生に指標を示し、
不安定さを少なくするあらゆる特性を結晶化し、強化することになります。」

「人生の面倒な問題や 混乱の多くは、
指標が物事を正しいか間違っているか、
上か下かと分ける傾向にある場合に起こっています。」
Posted by みれい at 2006年04月20日 03:31
 みれいしゃん、ちょっと飲み過ぎて帰ってきましたが、思考は正常ですのでご容赦ください。

> いやん、適当なとこで早めにひきあげます♪

 ”いやん”がやけに色っぽく感じますw いい(≧∇≦)b

> >心を動かされないように心掛けるべきかと
>
> ん?
> 心をすべて感情に支配されないよう心がけるという意味ですかね?
> 理論だけでも感情だけでもいけなくて、やはりそこはバランスだと思います。

 自分の気持ちを素直(大げさ?)に言うと、議論・判断は客観性(理論・理性)重視で感情は邪魔になるものと考えていますので、必然的にバランスはとれない(感情は極力捨てるべき)ものと考えております。
 これはこの後みれいしゃん他のコメントを頂いて、私が誤っていることに気付いたら、Libra師匠の言明を引用してくださってもいることですので、明らかにその誤りを表明するつもりです。

 みれいしゃんと私との見解の相違点
 議論・判断は理論・感情のバランスが必要(みれいしゃん) or 議論・判断は客観性(理論・理性)重視で感情は邪魔(わめ)

> >「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」
>
> 心理学者アドラーからも似たような言葉を。

 申し訳ありませんが類似性があるのかよくわかりません。
 また人生の面倒な問題や混乱の多くが、正誤や上下を分ける傾向にあるということも理解できません。
 自身の心が納得できるかどうかはわかりませんが、客観的に考えれば明らかなことが多いように思います。それを自身の心が受け入れるかどうかは別問題ですが。
Posted by わめ at 2006年04月20日 04:59
あれかな?僕は感覚でしゃべって、わめさんは論理的に説明しようとしてるんかな?
哲学についても、言うてること一緒でしょ? でも食い違う・・・

>智慧・原理を探究する学問 〜 真理認識の学問一般をさしたが、次第に個別諸化学が独立し〜

数学が哲学から数学になったんは、証明されて、形而下に降りてきたからちゃうん?
いま哲学って呼ばれてるのは、いまも証明中だからでしょ?
主観や感覚を他人に伝える為に論理を組み立てる努力をしてる途中でまだ完成してへんの。

(コメント欄からシンプルテキストにコピペしたら文字が化ける、なんで? じゃまくさいよ!)
Posted by 三九郎 at 2006年04月20日 10:47
 三ちゃん、(;´ρ`)イマオキタヨ

> あれかな?僕は感覚でしゃべって、わめさんは論理的に説明しようとしてるんかな?

 うーん、三ちゃんは日常会話的感覚で、私も普段はそうなのだろうけど、議論するテーマによってはなるべく合理的なことを話そうと努力しています。
 今回の場合は、言語・語句を適切に使うべきかそれぞれの個人の感覚で使えばよいのか、相手の書いたテキストを適切に解釈すべきかそれぞれの個人の感覚で捉えればよいのか、と言うのが元々の議論のテーマだと思うのですが、このテーマに対して客観性や合理性のない個人の主観的な議論では、それぞれ自分の好きにしたらいい以外の答えを見つけることはできないように思います。
 結局どのようなテーマの議論であれ、客観性や合理性のない個人の主観的見解から導き出されるのは、それぞれ自分の好きにしたらいい以外の答えは見つからないように思います。
 こう思う私ですから、客観性や合理性のない個人の主観的な立場で議論をしても無駄になってしまうと考えています。

> 哲学についても、言うてること一緒でしょ? でも食い違う・・・
>
> >智慧・原理を探究する学問 〜 真理認識の学問一般をさしたが、次第に個別諸化学が独立し〜
>
> 数学が哲学から数学になったんは、証明されて、形而下に降りてきたからちゃうん?
> いま哲学って呼ばれてるのは、いまも証明中だからでしょ?
> 主観や感覚を他人に伝える為に論理を組み立てる努力をしてる途中でまだ完成してへんの。

 探求〜証明に至るすべての過程で客観性や合理性は欠かせないと思います。
 個人の主観的見解は、その見解に客観性や合理性がなければこの探求にまでも至らないのではないでしょうか。

> (コメント欄からシンプルテキストにコピペしたら文字が化ける、なんで? じゃまくさいよ!)

 私の使ってるテキストエディタやWindowsのメモ帳・ワードパット・WORDでは化けないよ。
 三ちゃん昼間は会社のMACから書き込んでいるだろうから、シンプルテキストの文字コードを変えてみれば直るかも?
Posted by わめ at 2006年04月20日 13:24
>議論・判断は理論・感情のバランスが必要(みれいしゃん)

感情だけではなくて、「心」には倫理、道徳、謙虚さ、意識、自覚、理論的感受性なども含みます。

ああでも「女心」とかはまさに感情だけなのでちょっと端っこに置いといたほうが面倒くさくならなくていいかもしれませんw

Libraさんのとこと、他のサイトから「主観と客観」について引用します。
そもそも天国と地獄の話はLibraさんのところにもある話で、最終的にはやはり寛容性と可謬性の問題になると思います。
ちゃんとポパれるかしら・・・
(Leoさんのフォローもお待ちしてます)

http://page.freett.com/Libra0000/083.htm
「ポパーの倫理思考」

http://page.freett.com/Libra0000/013.html
「エゴイズムの昇華」

http://page.freett.com/Libra0000/z023.html
「対話主義と可謬主義」

「地上に天国を作ろうとする企ては不可避的に地獄を産み出す。その企ては不寛容を導く。その企ては宗教戦争に至り、そして、魂の救済を異端審問を通じて行うに至る。そして、私見によれば、その企ては、われわれの道徳的義務の完全な誤解に基づいているのだ。」

主観と客観(グーグル最初のあたりで拾いました)
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/4688/sub2.html

http://homepage3.nifty.com/ketto_see/works1/kyakkann.html

http://www1.odn.ne.jp/~cax58080/kyakkan2.htm

http://mubou.seesaa.net/article/2899385.html
Posted by みれい at 2006年04月20日 13:39
>Libraさんのとこと、他のサイトから「主観と客観」について引用します。

Libraさんのとこと、それとは別で他のサイトからも引用しました。

人はいかようにして客観的になれるか、
また、客観的になれるのか、
そのあたりが重要になってくるかもしれないなぁと。

感覚って、けっこう大事だと思う。
それが多くの皆が「そうだよね」と共感する意見が客観的と呼ばれて、少数だと「それって主観的」と呼ばれる事もしばしばあるかもしれないと、二人の意見を見て思いました。
相手の感覚にのってみる、というのが結構寛容なことでは、なんて思ったりも。

なんて書いてるとどんどん脱線するのでそろそろ脱出・・・
Posted by みれい at 2006年04月20日 13:54
みれいさん、行かんといてや!

>議論するテーマによってはなるべく合理的な〜

そらテーマによるわさ。
わめさんちで議論されてるテーマって合理的説明のつかないことが多いんちゃうん?
たくさんの言葉や引用を使って議論するからどんどん分裂したりするんやろ。

>すべての過程で客観性や合理性〜

すべてが説明可になって、証明されたら、形而下に降りてきたと言うこと。
形而下にないと客観性や合理性も認められないし、
探究過程では主観によるあてずっぽ!
Posted by 三九郎 at 2006年04月20日 14:19
>みれいさん、行かんといてや!

うひょっ
はいぃっっ

>ちゃんとポパれるかしら・・・

これは自分に向けてです。
ポパー(永遠の)1年生なもので・・・
Posted by みれい at 2006年04月20日 17:02
 みれいしゃん、こんにちは。

> 感情だけではなくて、「心」には倫理、道徳、謙虚さ、意識、自覚、理論的感受性なども含みます。

 心には理性*1も含まれると思いますが今回のテーマは、”議論・判断は理論・感情*2のバランスが必要なのか、あるいは議論・判断は客観性(理論・理性)重視で感情は邪魔”なのかだったと思いますので、この点においてのご意見を頂ければありがたいです。
 これについて私の意見である”議論・判断は客観性(理論・理性)重視で感情は邪魔”を、私など理論などと呼べるほどのものを持ち合わせていません(涙)ので、理論を外して合理性も重要に思いますので”議論・判断は合理性・客観性・理性重視で感情は邪魔”と訂正させて頂きます。m(_ _"m)ペコリ

 参考リンクも沢山して頂きLibra師匠サイトは読んでますし、影響も受けて私も多少ポパってます。(^^;
 主観と客観のリンク先は初めてのところばかりで、参考になり自分の現在思うところの訂正にも役立ちそうです。<(_ _)>

> 人はいかようにして客観的になれるか、
> また、客観的になれるのか、
> そのあたりが重要になってくるかもしれないなぁと。

 そのように思います。
 客観的であると思うことも、既に主観的判断なのかもしれませんし、常に自分の可謬性を忘れないようにしたいものです。

> 感覚って、けっこう大事だと思う。
> それが多くの皆が「そうだよね」と共感する意見が客観的と呼ばれて、少数だと「それって主観的」と呼ばれる事もしばしばあるかもしれないと、二人の意見を見て思いました。

 多数の方の共通認識だからといってそれが必ずしも正しいわけではないと思います。
 それが合理*3的であるかどうかが重要ではないでしょうか。

> 相手の感覚にのってみる、というのが結構寛容なことでは、なんて思ったりも。

 感性的なテーマについてのお話や、互いに友好的に理解し会うことや、円滑な人間関係を目的と考えればその通りかもしれません。

> なんて書いてるとどんどん脱線するのでそろそろ脱出・・・

 私も色々レスつけてしまいました(汗)が、テーマについてのみ話し合ったほうがよさそうですね。(^^;;

goo辞書より
*1
りせい 1 【理性】

(1)感情におぼれずに、筋道を立てて物事を考え判断する能力。
「―をはたらかせる」「―を失う」
(2)〔哲〕〔英 reason; (ドイツ) Vernunft〕(ア)感覚的能力に対して、概念的に思考する能力。
(イ)カントの用語。広義には、先天的能力の総称。このうち先天的認識能力を理論理性、先天的意志能力を実践理性と呼ぶ。また狭義には、感性・悟性から区別され、理念によって悟性認識を統一する能力をいう。
→感性
→悟性
(ウ)ヘーゲルの用語。抽象的概念の能力である悟性と区別される、具体的概念の能力。弁証法的思考能力。
(エ)神の啓示に対して、人間の自然的知。
→自然の光
(オ)宇宙や世界を支配する原理(世界理性・絶対理性)。

*2
かんじょう ―じやう 0 【感情】

(1)喜んだり悲しんだりする、心の動き。気持ち。気分。
「―に訴える」「―を顔に出す」「―を害する」「―を込めて歌う」
(2)〔心〕 ある状態や対象に対する主観的な価値づけ。「美しい」「感じが悪い」など対象に関するものと、「快い」「不満だ」など主体自身に関するものがある。また、一時的なものを情動、持続的なものを気分と呼び分ける場合もある。
→かんせい(感情)
――を害(がい)・する
人を不快な気持ちにさせる。また、不快な気分になる。

*3
ごうり がふ― 1 【合理】

(1)論理にかなっていて理性でとらえることができること。
(2)道理に合っていて無理のないこと。
Posted by わめ at 2006年04月20日 18:05
 三ちゃん、こんちは。^^

> >議論するテーマによってはなるべく合理的な〜
>
> そらテーマによるわさ。

 今回のテーマはどうでしょう?
 『今回の場合は、言語・語句を適切に使うべきかそれぞれの個人の感覚で使えばよいのか、相手の書いたテキストを適切に解釈すべきかそれぞれの個人の感覚で捉えればよいのか』

> わめさんちで議論されてるテーマって合理的説明のつかないことが多いんちゃうん?

 ドキッ!! Σ(~∀~||;) そかもw汗
 というか、私が合理的に説明できてないだけかも…( ̄ー ̄; ヒヤリ

> たくさんの言葉や引用を使って議論するからどんどん分裂したりするんやろ。

 そうじゃないと思うよ。話が横道にそれちゃったりするのがその原因かと。ヾ(_ _。)ハンセイ…

> >すべての過程で客観性や合理性〜
>
> すべてが説明可になって、証明されたら、形而下に降りてきたと言うこと。
> 形而下にないと客観性や合理性も認められないし、
> 探究過程では主観によるあてずっぽ!

 三ちゃんの言うことは意地でも100%は認めません(爆)が、反論が浮かばんw(((((¬_¬) フンッ
Posted by わめ at 2006年04月20日 18:14
 しかし、

> 探究過程では主観によるあてずっぽ!

 ”あてずっぽ!”は三ちゃんらしいユニークなコメントで言い得て妙とも感じましたが、”主観による”が怪しく感じましたので忘れた頃に反論するかも。笑
Posted by わめ at 2006年04月20日 18:24
そんなに長いテーマやった? 『曖昧な言葉』ってなことちゃうかったっけ?

“あてずっぽ”は自分でも気に入った。
Posted by 三九郎 at 2006年04月20日 18:39
> そんなに長いテーマやった? 『曖昧な言葉』ってなことちゃうかったっけ?

 うーん、読み返してみたけどよく分からんw
 主観ミサイルで撃沈したしね。(ΦωΦ)ふふふ・・・・

 その後だと・・・、じゃ「形而上のことが説明不可か可か」かな?
Posted by わめ at 2006年04月20日 19:40
>今回のテーマは、”議論・判断は理論・感情*2のバランスが必要なのか、あるいは議論・判断は合理性・客観性・理性重視で感情は邪魔”なのかだったと思いますので、この点においてのご意見を頂ければありがたいです。

それを定義付けるのは、ここにおいてはわめさんの自由だとおもうのですが、
コメント欄読んでいても、「感情は邪魔」と言っているわめさんが実に感情豊かで(おまけに表情も豊かだし)、それでもアリなんじゃないかと思っています。
Posted by みれい at 2006年04月21日 00:20
>参考になり自分の現在思うところの訂正にも役立ちそうです。<(_ _)>

こちらこそおかげさまで参考にさせていただくきっかけになりました。<(_ _)>

>常に自分の可謬性を忘れないようにしたいものです。

同感です。

>多数の方の共通認識だからといってそれが必ずしも正しいわけではないと思います。
 それが合理*3的であるかどうかが重要ではないでしょうか。

同感です。
Posted by みれい at 2006年04月21日 00:24
 みれいしゃん、こんばんは。

> それを定義付けるのは、ここにおいてはわめさんの自由だとおもうのですが、

 みれいしゃんからの”議論・判断は理論・感情のバランスが必要”とのコメントを頂きまして、”議論・判断は合理性・客観性・理性重視で感情は邪魔”との私の考え方が間違っているのかなと感じましたので、今後もこの私の考え方が誤りであると思う理由などご指摘願えたらうれしく思います。

> コメント欄読んでいても、「感情は邪魔」と言っているわめさんが実に感情豊かで(おまけに表情も豊かだし)、それでもアリなんじゃないかと思っています。

 人間には感情がありますので不快感を与えるようなコメントはなるべく避けたいと思っています。
 またテーマに対する重要に思う見解には、理性重視で感情移入はなるべく避けたいと思っております。

 何だか説明不足で矛盾するようなことのように思われるかもしれませんが、私の中では整合性が取れておりご理解いただけたらうれしいです。

 今回のみれいしゃん、三ちゃん、Leoさんとのやり取りで、私なりに考えさせられるところが沢山出てきました。
 これは私にとって大変貴重なことですので、今後自身の訂正のための課題としていきたいと思っております。
 ありがとうございました。…と書くと私らしくないようで…w
 みれいしゃん、三ちゃん、Leoさんアリガト!(´▽`)
 ナマズさんにも(*^・^)チュ☆
Posted by わめ at 2006年04月21日 00:49
 もう少し説明しないとw(^^;;

>  人間には感情がありますので不快感を与えるようなコメントはなるべく避けたいと思っています。
>  またテーマに対する重要に思う見解には、理性重視で感情移入はなるべく避けたいと思っております。

 逆に相手の感情を意図的に操作しようとして、こちらの都合のよい結果に誘導するのも避けたいと思います。
 これらが私の”議論・判断は合理性・客観性・理性重視で感情は邪魔”と考える理由のひとつです。
Posted by わめ at 2006年04月21日 01:46
ナマズさん、一行コメントやったなあ。
Posted by 三九郎 at 2006年04月21日 11:18
みなさまお疲れさんです。
Posted by ナマズ at 2006年04月21日 20:34
>議論・判断は合理性・客観性・理性重視で感情は邪魔”と考える理由のひとつです。

客観的事実の前には、誰がどう思おうがその事実は変わりませんからな。

例、誰がどう思おうが地球は回っている。

感情論で反対しても事実は変わらない(キリスト教会)
Posted by ナマズ at 2006年04月22日 10:00
天動説を揺るがない事実とし、地動説を異端とし、ガリレオを裁判にかけ地動説を否定させたのも(昔の)キリスト教。
その誤りを認めガリレオに謝罪したのは数百年経ったごく最近。

「宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である。」とはアインシュタインの名言。

Posted by みれい at 2006年04月23日 10:48
 ナマズさん、みれいしゃん、こんにちは。

> 客観的事実の前には、誰がどう思おうがその事実は変わりませんからな。
> 例、誰がどう思おうが地球は回っている。
> 感情論で反対しても事実は変わらない(キリスト教会)

 ナマズさんのこのご意見と、

> 天動説を揺るがない事実とし、地動説を異端とし、ガリレオを裁判にかけ地動説を否定させたのも(昔の)キリスト教。

 このみれいしゃんの「天動説を揺るがない事実」のどちらにも”事実”の言葉が使われておりますが、この事実というものを”常識”だからとか、”誰もが信じていること”だからとか、”権威の失墜”を恐れなどなど、人は自分の信じることに肯定的な見解には根拠もなく受け入れやすく、事実でないことを事実と信じ、自分の信じることに批判的な見解には根拠もなく否定的で感情的になりやすく、事実を事実として受け入れられない傾向にあるようです。

> その誤りを認めガリレオに謝罪したのは数百年経ったごく最近。

 このようなことにならないためにも、客観的見地や合理性重視で話し合っていくべきだと思います。

> 「宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である。」とはアインシュタインの名言。

 アインシュタインは、下記理性解説の理性と良心の重要性を支持する信念を持っておられたように思いますので、私は”宗教*1”を”理性*2と良心*3*4”と読み替えたほうが、誤解を与えることが少ない表現のように思います。


*1
しゅうきょう ―けう 1 【宗教】

(1)神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。
(2)〔religion〕経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから、ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教、さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界宗教にいたる種々の形態がある。


*2
りせい 1 【理性】

(1)感情におぼれずに、筋道を立てて物事を考え判断する能力。
「―をはたらかせる」「―を失う」
(2)〔哲〕〔英 reason; (ドイツ) Vernunft〕(ア)感覚的能力に対して、概念的に思考する能力。
(イ)カントの用語。広義には、先天的能力の総称。このうち先天的認識能力を理論理性、先天的意志能力を実践理性と呼ぶ。また狭義には、感性・悟性から区別され、理念によって悟性認識を統一する能力をいう。
(ウ)ヘーゲルの用語。抽象的概念の能力である悟性と区別される、具体的概念の能力。弁証法的思考能力。
(エ)神の啓示に対して、人間の自然的知。
(オ)宇宙や世界を支配する原理(世界理性・絶対理性)。


*3
りょうしん りやう― 1 【良心】

(1)道徳的に正邪・善悪を判断する意識。
「―の呵責(かしやく)を感ずる」
(2)〔倫〕〔conscience〕善悪を判断して善を命じ悪を退ける知情意の統一的意志。その起源や妥当性に関して、生得説・経験説・批判説などがある。


*4
【アインシュタイン神を語る/書評】より
http://www.kousakusha.co.jp/RVW/einp.html

『 アインシュタインは「すべての組織された宗教に反対」と言明する。それは無神論者であることを意味しない。彼の目指す「真の宗教人」とは、死も生も恐れず、盲目的な信仰を持たず、自分の良心だけを信じる。そうすれば、周囲の出来事を観察し、判断するための直感、さらに「自分が無限の知恵の海岸の一粒の砂にすぎない」と悟る謙そんを身につけることができる。そこに「宗教と科学は調和する」可能性があると語るのだ。 』
『 貴重な言葉を、どう受けとめればよいだろうか。「私の死後、さだめし多くのことが捏造されるだろうね。少なくとも私は、いいカモだよ」。十分に読みごたえがある。 』
『 前述したように、本書の話の中心は宇宙的宗教である。宇宙は単純であると信じる彼は、統一理論を求めた。宇宙の秩序、単純で美しい法則を知ると人は世俗的苦悩から解放され、おのずから宇宙法則にのっとった生き方を選ぶというのだ。これが宇宙的人間であり、この行動原理は科学的事実なので民族を超えて万人に受け入れられるはずだという考えだ。 』
Posted by わめ at 2006年04月23日 13:50
わめさん、今晩は。 皆さん今晩は。

>アインシュタインは「すべての組織された宗教に反対」と言明する。それは無神論者であることを意味しない。彼の目指す「真の宗教人」とは、死も生も恐れず、盲目的な信仰を持たず、自分の良心だけを信じる。そうすれば、周囲の出来事を観察し、判断するための直感、さらに「自分が無限の知恵の海岸の一粒の砂にすぎない」〜

よく判りませんが、そんな気もします。直感って無視できないと思います。
わめさん、皆さん、いつも色々と教えてくださって有難う。m(__)m

ようやく最近、少し落ち着いて記事を読めるようになりました。最初の頃は、あせって、色々なブログを駆けずり回っては苛立っていました。そのうち仕事を始めるでしょうが、皆さんのブログがあると思うと安心です。でも、難しい記事は省略させて頂いてます。能力的に無理みたい(苦笑)


ナマズさん、今晩は。
先日は有難うございます。最近、学会が怖くなくなりましたよ〜 ヽ(^o^)丿
わめさん、のブログから耳猫さんの所にお邪魔してゲラゲラ笑っているうちに、気にならなくなりました。でも、用心はしていくつもりです。私も何かせねばと思うようになりました。
Posted by おばさん、です at 2006年04月23日 21:03
>この事実というものを”常識”だからとか、”誰もが信じていること”だからとか、”権威の失墜”を恐れなどなど、人は自分の信じることに肯定的な見解には根拠もなく受け入れやすく、事実でないことを事実と信じ、自分の信じることに批判的な見解には根拠もなく否定的で感情的になりやすく、事実を事実として受け入れられない傾向にあるようです。

>このようなことにならないためにも、客観的見地や合理性重視で話し合っていくべきだと思います。

このあたりは、私はわめさんに非常に賛同します。

気になっているのが、それが通らない人々もいるということ。

>批判的な見解には根拠もなく否定的で感情的になりやすく

これは私もたまに味わいます。少し前にそういう方に攻撃対象にされましたしね。

宗教信者には客観性、合理性がなぜか通用しないことがある。

例えば、創価学会はフランスでセクト(カルト)認定されていますが、その理由はグノーシス主義であることも理由の一つにひっかかっているようです。
グノーシス主義は、簡単に言えば神秘主義、もう一つは自分達を知識ある者とし、世を悪と考える。(わめさん、「仏教 グノーシス」とグーグル検索するといろいろ出てくるのであとは頼みます)

そうなると、宗教者の客観性は、非常に自分達の都合に良いものしか見えないのか?
と思う事が、日本だけではなく、世界で、いろんな宗教でも起こっているようです。

ガリレオの問題は、過去だけでなく、現代でも宗教団体の間では起こりうる問題ではないかと思います。

今後これについて取り上げてほしいと思います。
(ちゃっかり)
Posted by みれい at 2006年04月23日 23:00
丁度いい本をみつけたので。
「善人は、なぜまわりのひとを不幸にするのか」
曽根綾子著。

善悪を考えるのにもってこいの本です。
世の中にいくつかの悪があり、世の中に悪人はいるってことを忘れずにいなければいけないですが、悪人と思っている人が必ずしも悪人ではなくて、実は自分が悪人である可能性も見逃さないほうがいいだろうと思います。
Posted by みれい at 2006年05月15日 09:28
わめさん、また、どこいきよったんやろ?
Posted by 三九郎 at 2006年05月17日 14:30
逆に悪人はまわりの人を実は(究極的には)幸福にするのでしょうか。
ふと、そんなことを考えました。
Posted by Leo at 2006年05月19日 00:59
三九郎さま

>わめさん、また、どこいきよったんやろ?

はじめまして。
私も気になっていました。
おばさんに憑依されそうで居留守つかってるのかと・・・
HNを若作りすればよかったかな、と思いました。
Posted by おばさん、です at 2006年05月19日 22:18
はじめまして、おばさん(これでいいんかな?)。 いや、おばさまにしとこ。

ほんまどこいきよったんやろね、お〜い、わめきちっ!
Posted by 三九郎 at 2006年05月22日 12:46
 皆さ〜ん、コメントありがとです。(*゜▽゜*)

 わたくしめ、最近ずっとリアル世界でエンジョイライフしております。(>▽<;; アセアセ

 相変わらず皆さんのブログの巡回等はさせてもらってはおりますが、考えがまとまらず書き込みできずにおりますし、同じく記事も書けずにおりますw汗

 まだ当分記事等は書けそうにありませんが、みれいしゃんのコメントにある「グノーシス主義」について調べてみましたが、一種の選民思想でもあるように感じました。
 個人においては、エゴイズム・優越感などがグノーシス主義・選民思想と関連性があるように感じますが、自らがそうならないためにも何より自己の可謬性の自覚(不可謬性の否定)と、誤謬の発見・訂正に努めることが重要に思います。そうあれば発言は自身の正当性の主張にはならず、批判を受けることを喜びとできるのではないかと思います。

 それではまたしばらくリアル世界にどっぷり浸かってきます。ぺこ <(_ _)>
Posted by わめ at 2006年05月22日 14:32
見てるんやんか。
Posted by うおお at 2006年05月22日 14:58
あ〜〜っ、わめさん!
しんぱいしたぁ〜。冗談抜きに心配した〜。

わめさん、とこにコメントした時キツイ調子で書いたから。 
記事から、わめさんの優しさを感じ取り、学会への怒りの感情を、わめさんへも飛ばしたような気もするし。

もしかして、学会と衝突しててブログどころじゃなくなっているのかもと。
わめさんの憎しみをそそのかしたのか、とも。
わめさんが血だらけになってるのか、とも。

>最近ずっとリアル世界でエンジョイライフしております

なんだ〜 疲れた〜
ネットって怖いですね。色々な事件を見て、妄想する危険あり、でした。

三九郎さん、時々おじゃましてま〜す。山椒の木は良さそうですね。

Posted by おばさん、です at 2006年05月22日 17:06
「うおお」じゃなくて「三九郎」でした。ごめん。
Posted by 三九郎 at 2006年05月22日 19:24
おおわめさんありがとう

>選民思想

同意見。

自分達は正しく偉いのだ、これでいいのだと、何の根拠で言っているのかわからない学会員さんがいる。
折伏行為もこれに基づいているのだろうけれど、
内容がないまま信じて勧めて、他を受け入れられなくなっている事実。
これがグノーシスなのかぁと思いました。
なんとなく古いカトリックみたいと思う。

>HNを若作りすればよかったかな、と思いました。

おばさん、ウケました。
やがておばあさんになったら若つくりのHNになるかと思いますが、もしHN変えたら教えてくださいね。
Posted by みれい at 2006年05月22日 23:05
>もしHN変えたら教えてくださいね

は〜い、承知しました。
freeさんや某ブログでも指摘されたし、私自身も最近のコメント欄に「おばさん、です」が表示されると、やっぱり可笑しいような気もしないではないのですが(いいHNが)思いつかないのです。
OBA、おば、準干し大根(リアル過ぎ?)、シナモンカレー(チョットおしゃれ?)・・・と、こんな感じで。

>リアル世界でエンジョイライフしております

↑でも本当に心配しました。
私には政治やこのような分野は敷居が高いのです。わめさん達の議論は難しくって、記事は【畳】にしか見えないのです(汗)
3畳、4畳半、6畳〜と、こんな感じで(苦笑)
「やってる、やってる」と素通りでしたが、長く見かけないと不安になりました。
たとえラブホテルからでも【生存の報告】だけは欲しいと思ったりもしました。
このコメント、顰蹙をかうような読者さん用にだけモザイクをかけたいです。
Posted by おばさん、です at 2006年05月23日 09:17
 おばさん、ご心配を掛けてしまったようで申し訳ありません。<(_ _)>

> 私には政治やこのような分野は敷居が高いのです。わめさん達の議論は難しくって、記事は【畳】にしか見えないのです(汗)

 この感覚、少し以前の私と似ているような気がします。
 
 佐倉哲氏のホームページやLibra師匠サイトなどの一つひとつのテキストを、グーグル(のキャッシュ)検索、Wikipedia、goo辞書、参考リンク等々をフル活用しながら、畳の目であったものが言葉として今だ手前勝手解釈や理解できていない部分もありそうですが、ある程度理解できるようになるまで相当の日数・時間がかかりました。
 また、自分の思うところを整理し、明確な言葉にすることは更に難しくも思います。

 理性等で越えていけそうな無理解というハードルは、無理解のまま放置するのではなく、取り合えず今、自身の持つ考えや信念等をハードルを越えるまで制止して、その後に広がりゆく新たな見識を身に付けていくことは大切なことのように思います。

 何だかおばさんのコメントを引用しながら自省も込め、皆さんへの問いかけのコメントになってしまったようです。汗

 PS
 生存報告の件、了解です。(^^;
Posted by わめ at 2006年05月23日 14:12
 みれいしゃん、こんにちは。^^

> 自分達は正しく偉いのだ、これでいいのだと、何の根拠で言っているのかわからない学会員さんがいる。

 このような考えは元々人間に内在する心理であって、そこに正しいと主張する思想を信じ込むことによりこのような方が出てくるように思います。
 人によってはとてもつらいことかもしれませんが、人も思想も否、世の中の総てにおいて、可謬性のないものなど存在しないことを、勇気や覚悟をもって受け入れるべきだと思います。

 以下、佐倉氏のサイトより引用
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/faq.html

質問 クリスチャンをやめたそうですが、棄教後の気持ちを聞かせて下さい。

神やキリストや未来の世界などについて、本当は自分は何も知らないくせに、あたかもなにか知っているかのごとく確信しふるまわなければならない苦痛からの解放です。本心から信じることのできない様々なキリスト教ドグマを、自らの救いのために、あれこれとアクロバット的な正当化を施して信じなければならないやましさからの解放です。信じることのできないものは「信じられない」、間違っていると思われるものは「間違っている」、あやしいものは「あやしい」、知らないものは「知らない」と、そのまま自分の心を表現できる自由です。この開放と自由は、ほんとうにすばらしいものなので、いかなるバラ色の救いの約束も、とても色あせて見えます。
Posted by わめ at 2006年05月23日 14:32
 みれいしゃん、こんにちは。^^

 新しい記事、【理解し合うため 02】を書き始めていて、みれいしゃんが引用くださったLibra師匠の、

> (Libraさんの言葉引用)
> 心は自覚無くてもくっついてくるから、逆に自分の心のありかを確認しないと相手に損害を加えることになるのではと思います。

 このテキストを引用したいと思っているのですが、師匠がこれを書かれたURLを教えていただけませんか?
Posted by わめ at 2006年05月28日 23:45
三ちゃんのところの【やりなおし】の記事とコメント
http://blog.livedoor.jp/s3939/archives/50417046.html

何だかこの記事&コメントとも関連してそうなのでリンクしちゃいます。^^

あ、【やりなおし】の記事は同じく三ちゃんの記事の【選民】の続編です。
http://blog.livedoor.jp/s3939/archives/50412988.html
Posted by わめ at 2006年05月31日 18:33
わめさん

> 心は自覚無くてもくっついてくるから、逆に自分の心のありかを確認しないと

あ、そこの引用部分はLibraさんのを私が読んで思ったことで、Libraさんの言葉からの引用は↓

>>「クールロジカル」でも「慈悲は根本」だと

のほうです。

http://page.freett.com/Libra0000/z004.html

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/73

「クールロジカル」という言葉はLibraさんのサイトでは出てこないと思いますが、
お手紙や掲示板のやり取りの中で、
「理性的批判」や「クールロジカル」の文字が登場します。
余談ですが、「クール」でなくて感情的になったら、いったん気分転換してから話を進めないとですね。
それこそ、ヴィパッサナーや瞑想や座禅はそういう内観とか沈静にもいいと思います。
まったくもって自省をこめて。
Posted by みれい at 2006年05月31日 23:57
 みれいしゃん、お返事ありがとうございます。

 なるほど、そういうことでしたか。
 私にとって「理性的批判」や「クールロジカル」より、みれいしゃんの「心は自覚無くてもくっついてくるから〜」がストレートに伝わってくるし、なるほど、その通りだなと思いますので、是非記事で使わせてください。m(_ _"m)ペコリ

 余談の感情については、私にとって自身の誤謬の発見と訂正を最優先しているせいか、批判を受けることがうれしくて仕方ありません。^^
 まぁこれも感情ではありますが、”自覚無くてもくっついてくるし”悪感情とも思えないので取り合えずこのままでもいいかと楽観しております。汗

> まったくもって自省をこめて。

 自省っていいですよね。(´▽`)はぁぁ・・♪
Posted by わめ at 2006年06月01日 02:28
そう言えば三ちゃんのところと関連して、メメさんのところでも・・・汗
【うおぉぉ】
http://inunomeme.blog.ocn.ne.jp/kakarityou/2006/05/post_c7dc.html
Posted by わめ at 2006年06月01日 04:24
>是非記事で使わせてください。m(_ _"m)ペコリ

はい、ご自由にどうぞ〜


メメさんのとこと三九郎さんのとこをみてあらためて思うのは、
私もしばしばそうですが、相手の記事の部分的な所に的を絞って「ここはこうなんじゃないか」という自分の主張を持っていくのが優先されてしまい、
相手が文章全体で伝えようとしているメッセージに対しては薄くなるときがあるように思いました。
そこをすっとばすと、記事を書いた相手にとって失礼だったり勘違いだったり、という事態が生じるのかも。

学校でも「この文章の主題は何か」と習いますよね。
その答えは読む側の主観でしかないのだろうけれど、それなりに作者の意図を汲み取る必要があるわけで。主観だからってなんだっていいわけではないのはご承知のとおり。

それは文章の細部の意味合いや可謬性を探る前に、まずは文章全体のメッセージを掴み取ることが必要になってくるのだろうと思いました。

わめさんがいつも気にされる文字と言葉の意味の共通認識ですが、
同じ言葉でもまったく共通にするのは不可能で、ニュアンスの違いは本人の背景により多少違う事は認めないといけないと思います。
国内でも、例え辞書には共通の意味が提示されていても、実際個人で使われている生の言葉のニュアンスは、驚くほど地方の背景によっても違う。(県外に引っ越すと言葉の文化の違いでノイローゼになる人もいるくらい)

そんなことを踏まえたうえで、「相手はだいたい何を言おうとしているのかを掴めてるかって大事だよ」って。
三九郎さんがいつも言うのはそこなんじゃないかな。

んで歩さんが実際してみせたのもそこで、
「理解してほしい」「理解したつもり」というのは自我、我執でしかなくて、
例え主義主張は違っても「相手の真意を理解する」「相手に意見をシンクロさせる」というのは無我のなせるわざ。
出来てるようで皆も私もなかなか出来ないのがこれ。

可謬性も大事なのですが、同調上手も大事なのだろうと思いました。
Posted by みれい at 2006年06月01日 13:22
 みれいしゃん、こんにちは。^^

> はい、ご自由にどうぞ〜

 アリガト!(´▽`)

> 相手の記事の部分的な所に〜

 私は「文章全体で伝えようとしているメッセージ」に対しての批判はそのように、部分的に問題がありそうに思うところは部分的に指摘してしまいます。
 それは「文章全体で伝えようとしているメッセージ」に問題がないからといって、その部分的な問題に眼を瞑るということは避けたいと思うからです。

> そこをすっとばすと、記事を書いた相手にとって失礼だったり勘違いだったり、という事態が生じるのかも。

 私はこのコメント欄でも書いているように、議論に感情は邪魔と考えておりますので往々にしてその傾向があるかもしれませんが、傍観者の方から仲間内のなぁなぁ話としてその議論の内容をよく読みもしないで色眼鏡で見られたり他愛のない話とされてしまうことを嫌いますので、まだ当分は改めることは難しいかもしれません。
 勘違いは私の専売特許ですが(汗)、みれいしゃんの指摘されているところにも原因があるかもしれません。気を付けねば・・・w

> わめさんがいつも気にされる文字と言葉の意味の共通認識ですが、〜
> 同じ言葉でもまったく共通にするのは不可能で、ニュアンスの違いは本人の背景により多少違う事は認めないといけないと思います。

 ニュアンスの違いは当然あると思います。
 私はだからこそなるべく正確な表現を心掛けるべきではないかと思うわけで、その心がけがなければ他者との意志の疎通や正確な情報伝達に支障をきたす可能性が大きくなっていくのじゃないかと。
 同様に受ける側も、みれいしゃんの言われるように相手の表現したいことを正確に掴みとる心掛けが必要で、発信者・受信者共々にこの心掛けが大切なことと私は思います。

 支障の原因を、一方的に送信者側や受信者側に押し付けることはできないと思いますし、それぞれどちら側にもなり得るわけですから、そのどちらか側になった自身が何より心掛けるべきではないでしょうか。

 私はこの両者の一方に原因を求める偏った考え方はできません。

> 可謬性も大事なのですが、同調上手も大事なのだろうと思いました。

 私は格差社会のコメントで書きました(下記)が、同調を求めたりすることは可謬主義の立場から否定的で、同様に他者に同調することも避けたい(シビアに議論したい)と思っております。(コミュニティ系等の場では同調上手ですがw笑)
 でも極端になり過ぎるのは、議論相手や読み手に余計な感情を起こさせる原因にもなりかねませんので、ちょっと試験的にスタイルを変えてみるのもいいかもとみれいしゃんのご指摘で思い始めました。^^

 私は自身の心や考え方や言動について
・責任ある言動をしているか?
・いい加減な、あるいは根拠のないことを発したり吹聴していないか?
・問題を他人のせいにしてないか?
・自己の見解の正当化や他者に同調を求めていないか?
・自身の誤りの発見と訂正を最優先に考えているか?

 等々、今一度問い直してみようと思います。
Posted by わめ at 2006年06月01日 14:19
 みれいしゃん、今回は批判的コメントになってしまい申し訳ありません。

> 「理解してほしい」「理解したつもり」というのは自我、我執でしかなくて、
> 例え主義主張は違っても「相手の真意を理解する」「相手に意見をシンクロさせる」というのは無我のなせるわざ。
> 出来てるようで皆も私もなかなか出来ないのがこれ。

 ”「理解してほしい」「理解したつもり」というのは自我、我執”は分からなくもないですが、「相手の真意を理解する」「相手に意見をシンクロさせる」が無我のなせるわざというのは理解に苦しみます。
 相手の真意の、その意はテキスト化する段階の一瞬間を指しているのか、意が書き込まれた段階の意なのか、いずれにしましても意というものは瞬間瞬間変わっていくものですし、その変わりゆく一瞬間の意にシンクロさせるとは、ある瞬間を捉えた写真の世界に入り込むようなものではないでしょうか?そうであれば無常の観点から言って、過去に捕らわれて無我の境地とは言えないのではないでしょうか?
 また「相手の真意を理解する」「相手に意見をシンクロさせる」も、それができたと捉えてしまえばそれは自我、我執そのものと言えませんか?
 もひとつ、私には不可能に思えるのですが、相手が無我の境地で書いたテキストをこちらも無我の境地になって真意を理解・シンクロは机上の空論的にはあり得そうですが、自我、我執ある人のテキストに触れ、無我の境地で真意を理解はもしかしたらできても、シンクロはあり得そうにないと思います。

 私は理解しようとする努力は非常に大切であると思いますが、自他にそれ以上を求めることや、それ以上を得た”つもり”になることには賛成できませんし、釈尊の悟り得た無我という境地・用語をこのような事例に持ち出すことにも疑問を感じます。
Posted by わめ at 2006年06月01日 17:19
わめさんへ

>議論に感情は邪魔と考えておりますので往々にしてその傾向があるかもしれませんが、

たしかに論議に感情は邪魔ですね。

>私はだからこそなるべく正確な表現を心掛けるべきではないかと思うわけで、

そうですね、言葉をどういう意味で言ってるを明確にしないと、論議がずれていくだけですからね

>私は自身の心や考え方や言動について

なるほど勉強になります。
Posted by ナマズ at 2006年06月01日 18:35
わめさん

指摘というより、ちょっと一緒に考えてみたいと思った部分です。
よろしゅうに。
一つ目のコメントは同意です。


>相手の真意の、その意はテキスト化する段階の一瞬間を指しているのか、意が書き込まれた段階の意なのか、いずれにしましても意というものは瞬間瞬間変わっていくものですし、

わめさんは、書き込んだ瞬間にすぐに違う主張をするでしょうか。
時間は刻々と過ぎ去っても意はそれほど小刻みには変わらないと思います。
相手が書いた「伝えたかったこと」と同調できれば問題ないと思います。

例えば営業の心理でも、「イエス・バット方式」というものがありますね。
相手の意見を汲み取り、同意を得た上でさらに交渉を重ねていくものです。
営業以外の人付き合いでも、最初の段階で相手とそぐわない場合、その先へ話が進められない事はあることです。
相手の同意を得る時、それがより相手の真意に近づけられるかどうかということで、それは自分本位では成り立たないということを無我と表現しました。

>私は理解しようとする努力は非常に大切であると思いますが、自他にそれ以上を求めることや、それ以上を得た”つもり”になることには賛成できませんし、

それを私は言いたいのです。
「自他に」というよりは、自分には心がけるものなのだろうと思います。


>釈尊の悟り得た無我という境地・用語をこのような事例に持ち出すことにも疑問を感じます。

わめさんが無常、縁起という言葉を使うのとそれほど差はないと思っています。
無常、無我、縁起は特殊な環境のみで発生するものではないと思います。
(その観念が持てるかどうかはそれぞれの立場によると思います。
個人的には、無我というのは、特殊なものではなく精神発達と関連するのだろうと思います。)

長々書きましたが、要は、人はどれだけ相手の立場に立って物事を捉えることが出来るか。そのうえで可謬性をもって議論できるか、ということです。
(またわめさんのいう事と変わらなくなってる気がしてます・・・)

>でも極端になり過ぎるのは、議論相手や読み手に余計な感情を起こさせる原因にもなりかねませんので、ちょっと試験的にスタイルを変えてみるのもいいかもと

とおっしゃった、こういう思いやりとか気遣いがとても大事なのだろうと。
わかっているようでなかなか出来ていない自分にもやっとする事があります、といいたくて。


http://blog.goo.ne.jp/mirei-2005/e/04054bf6edf55d5693038b1a6510f399

我あり

http://blog.goo.ne.jp/mirei-2005/e/d8c4834bab3b97aa5f5bcf40cae1593e

相手への理解
Posted by みれい at 2006年06月03日 02:07
 ナマズさん、こんばんは。^^

 って朝だw汗

 三ちゃんのところに帰ってきてくれてうれしっす。☆^∇゜) ニパッ!!
Posted by わめ at 2006年06月03日 06:02
 あ、ナマズさん
 同じことを指す言葉なのにナマズさんは論議、私は議論と表現してきましたが、論議がより正確な表現に思いますので、今後は私もなるべく論議と表現しようと思います。<(_ _)>
Posted by わめ at 2006年06月03日 06:12
 みれいしゃん、こんばんは。^^

 一々細々にお返事を返すのは、今回のみれいしゃんとの論議の私の思う本題の論点がずれちゃうかな?
 と思ったりするので、一々の部分についてはどちらの意見が正しいかなどと言うことは、明確に断定することは難しいと思いますので、互いの見解の相違ということで、とりあえず済ましちゃっていいでしょうか?
 同意が得られるかは分かりませんが、とりあえず私はその方向でコメントを書きますね。
 とはいうものの、見解の相違点と感じるところだけは、私の見解を書いておかないと相違してるかも分からないと思いますので掻い摘んで書きます。

 無常について、変化は緩やかかどうか?
 私は緩やかな場合もあるし急激な場合もあると思っております。ですので一概に決め付けることはできないとの見解です。
 また無常の語を使ったのは、相手の真意の理解・シンクロについて”無我のなせるわざ”とのご意見に対して、無常から言えば過去のある瞬間の相手の真意の理解・シンクロに過ぎなく、また更にそれはあくまで”つもり”に過ぎなく、真意を理解したやシンクロできたと思うことは自我的であり、過去をそう捉えることは執着でもあるように思いますので、”無我のなせるわざ”とは言えないとの見解です。
 また、私には表現が難しいので適切な表現ではないかもしれませんが、私は無我を確実に体得・体感・実感・理解できておりませんし、おそらくみれいしゃんもそうではないかと推測しており、無我を確実に体得・体感・実感・理解されていないのに、このような事例にその解決策として”無我のなせるわざ”と断定的に使用されたことに疑問を感じたのです。

 以上、みれいしゃんと私との見解の相違点らしきことを書かせていただきました。


 次にスタイルの変更ということから私らしからぬ意見を。(^^;;
 信仰を持たない方や仏教以外を信仰されている方や仏教に懐疑的・批判的な方、また仏教を肯定的に捉えている方でも無我の捉え方の違う方等の立場から言えば、今回の場合の”無我のなせるわざ”の表現は、このような方達に悪感情を抱かせてしまう可能性の高い表現ではないかと推測しますが、他者に悪感情を抱かせてしまうようなことは、みれいしゃんの本意ではないと思いますので、今回の論議での仏教用語の使用は今後避けるべきではないかと提案(お願い)します。


 以上、書いていよいよ本題(だと思う)に入ろうと思ったのですが、この時間になりほとんど力尽きましたので(汗)、私が本題だと思うことが何なのかだけを書いて今夜(朝かw)は取り合えず終わります。

 私が本題と思うこと、それは私とみれいしゃんでは、論議に対する姿勢が大きく違うと感じる点です。
 難しくてうまく表現できそうにはありませんのでイメージ的な表現で申し訳ありませんが、みれいしゃんは論議することに対して「和(和み・調和・融和等)、寛容、思うことは違っても互いに認め合おう、仲良く、美、楽しく等々」のようなことを大切にされているように感じます。
 もしも当たらずとも遠からずなら、これは私も”論議”以外については同様に大切に感じる部分なのです。^^

 みれいしゃんとは以前にもこのようなことで論議してきましたが、改めて”論議する姿勢についてどうあるべきか?”を本題として話し合えればうれしく思います。
 というか、”論議する姿勢”以外には、みれいしゃんと私とは大きな見解の相違がないように思うし、結局いつも”論議する姿勢”の違いで摩擦があったり、堂々巡りをしてしまっているのじゃないかと感じ、残念でならないから、ここに絞り込んで是非話し合いたいです。
Posted by わめ at 2006年06月03日 06:13
 みれいしゃんの”論議する姿勢”には、昨夜書いた「和(和み・調和・融和等)、寛容、思うことは違っても互いに認め合おう、仲良く、美、楽しく等々」が含まれているのじゃないか思うわけですが、それでは長いので不適切かもしれませんが良心と表現させてください。
 その良心が論議には必要なのか否か、私は論議の動機や背景にはとても重要には思いますが、論議自体には以前に感情は邪魔と表現しているように否定的です。
 それは良心の有無、良心の強さが表われた表現や、悪意の有無、悪意の強さが表われた表現が、意見の中に盛り込まれてしまっては、論議に対する冷静・客観的な判断が難しく、その判断に論議とは関係のない良心・悪意に対する受ける側の心理に影響を与えて、誤った判断を生む可能性が大きくなってしまうように思うからです。
 例えば、相手の意見の真意は理解しようがありませんが、その意見に良心的なことが多く書かれていればその良心的な意見に受け手は影響を受け、好意的に受け取る方も出てくるでしょう。
 悪意的なことが多く書かれていれば、受け手はその逆の影響を受け反発心が強くなるかもしれません。
 でも肝心なことはその良心・悪意を取り除いた意見が、論議の命題に対する意見そのものであり、正しいことには良心・悪意は関係なく、また間違っていることにも良心・悪意は関係のないことなのです。

 ちょうどこの記事は、そのような良心・悪意の表現が人間の判断を狂わしてしまうことへの警鐘として書いた記事でもあり、この社会には自己(団体等含む)の正当化や利益のため、良心的な言葉をふんだんに使い、対象者の煽動を企てる輩も横行しており、良心・悪意での判断は非常に危険な世の中であると思います。

 悪意を感じるコメントに多くの方は反感を受けるものかもしれませんが、そのコメントの中には良心を装わない正しい意見が書かれている可能性もあります。

 このようなことから論議には、良心や悪意などの感情的なこと、広く言えば心情に影響を与えるような表現はなるべく避けるべきものと考え、私はそのように心掛けて意見を述べるようにしています。

 今回の”論議する姿勢”について以上のように私の見解を述べましたが、これはそうでない方を批判するつもりではなく、”論議する姿勢”をこうあるべきとの自分なりの理想を描くことは悪いことではないと思いますが、それが理想的かは確実性はないわけですし、「論議する姿勢の自分なりの理想を唯一正しい基準と思い込まず、またその理想を他者に要求しないこと」、これが今回私が一番言いたいことです。
Posted by わめ at 2006年06月03日 16:29
わめさん

>無常について、変化は緩やかかどうか?

私も緩やかに限ったものでもないと思っていますが、とりあえず

>今回の論議での仏教用語の使用は今後避けるべきではないかと提案(お願い)します。

こちらの意見で了解します。言葉の認識は、実際、私も以前そうであったように、精神的にアレルギー反応が出る方もいると思いました。

>悪意を感じるコメントに多くの方は反感を受けるものかもしれませんが、そのコメントの中には良心を装わない正しい意見が書かれている可能性もあります。

>正しいことには良心・悪意は関係なく、また間違っていることにも良心・悪意は関係のないことなのです。

良薬口に苦しですね。

「論議する姿勢についてどうあるべきか?」について
私の印象は一応わめさんの自由ですが、
>「和(和み・調和・融和等)、寛容、思うことは違っても互いに認め合おう、仲良く、美、楽しく等々」が含まれているのじゃないかと思う

おお。それほど仲良しごっこが上手ではないのですが(井戸端会議が苦手タイプ)。
今までの日本の和の素はきっと相対的な思想で、今も多くはそうなのだろうと思います。相対的な思想を侵食してきた一神教的な思想の支配からの脱却と展望はきっと多元的な考え方であろうと思います(まだここは自分でも曖昧ですが)。
そのなかで、他を害しない限りは違いが認められる部分があり、人と交わりながら新たな価値観を得てゆくことで、ただ個人の固執した価値観に囚われずによりよいものへと向かえる可能性があるのではないかと思います。個人的な感想。

さて、わめさんの主張されるものについては、以前Libraさんと『理性的批判』について話をさせていただいたのを思い出しました。
批判や論議の姿勢と共通するものだと思いますし、おそらくわめさんの「議論に感情は邪魔」とおっしゃりたいのもそこではないかと思います。

〜Libraさんの書き込みより。〜
『批判とは、論理的矛盾や事実との齟齬を指摘することにより、
批判される対象と現実を直面させる試みである。
そしてその目的は、批判対象をよりよきものにすることにある。
この意味では、批判はその対象に対する真剣な関心の現れである。
それは批判の対象を改善するきっかけ、チャンスなのである。
だから、批判や反駁を受け入れることは改良への一ステップである。』
(蔭山泰之「面目と反駁−批判的合理主義の観点から見た日本的組織の諸問題−」、
       http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v10n1kagefr.html
       
       
『日本的組織では、ある行動や思想を、それを生み出した者の人格と容易にむすびつけてしまう強い傾向がある。
〔中略〕こうした傾向が強いところでは、批判即人格攻撃と受け取られてしまうだろう。
しかしそうであるからこそ、行動や、思想と人格を切り離し、たとえ理論が誤っていたとしても、「われわれの代わりに理論を死なせる」と考えられる観点が、きわめて切実に要請されてくる。(同上)』

(参考。日蓮考察の「折伏」と理性的批判について、より)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/73

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/84

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/85


これらに関して私は異論はないです。
(とはいえ感情は邪魔とは思わないですけどね)
ただ、それ自体も認識をしたうえである程度の技術を要するものだという印象はあります。ディベートの技術のような。
なので、万人に通用するものではなく、まさにおっしゃるように「議論の場において」となると思います。

http://www.kt.rim.or.jp/~jda/intro/intro4.htm
Posted by みれい at 2006年06月05日 00:17
 みれいしゃん、お返事ありがとう。
 今しがた帰ったばかりで、一通りコメントは読ませて頂きましたが、リンク先などまだ読めておりませんのでまだちゃんとお返事ができませんが、みれいしゃんは私が尊称として”しゃん”を付けて呼ぶ唯一の方であり、今後もそう呼ばせて下さいね。^^

 コメントを読み直し、リンク先等も拝見させていただいてまた改めてお返事します。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2006年06月05日 01:30
 みれいしゃん、こんにちは。^^

 Libra師匠のEnjoyLife掲示板での理性的批判に関する発言やそのリンクURLのご紹介ありがとうございました。
 私は理性的批判は論議の姿勢として理想的に思います。
 前回、拙い言葉で長々と論議する姿勢についての見解を述べさせていただきましたが、私は理性的批判が大切であると言いたかっただけなように思います。(^^;

 考えてみると私がこのように思うようになったのも、Libra師匠の影響大なのかと。


 ディベートと論議とでは目的が違い、その姿勢を同様に考えることはできませんが、みれいしゃんの言われるようにある程度の技術が必要という点では同感です。

 私は論議に感情は邪魔と言っておりますが、「心は自覚無くてもくっついてくる」ものだから、邪魔であろうとなかろうと、感情のコントロールは必要に思います。
 この点での私とみれいしゃんとの見解の相違(感情は邪魔かバランスが大事か)も、それほど大きくはないと感じております。

 唯一論議する姿勢の大きな相違点と感じるのがうまく説明できるか分かりませんが、人間個々の心の在り様は主観的であり、極端に言えば何でもアリでいいんじゃないかと私は考えております(不本意ですが)が、みれいしゃんは一人ひとりの人間の心の在り様をよりよい方向に変えていきたいと考えておられ、それが時折ご意見の中に現れてくるように感じます。
 この点を私は前回のコメントで『「論議する姿勢の自分なりの理想を唯一正しい基準と思い込まず、またその理想を他者に要求しないこと」』と書きましたが、みれいしゃんの時折現れてくるこのようなご意見は、そのつもりではなくても時に他者への要求であったり、批判であったりするように受け取られるように感じられ、それは控えるべきじゃないかと思います。

 上記で不本意と書きましたが、本意としては、みれいしゃんと私はこの点でも大きな相違はないように感じておりますが。
Posted by わめ at 2006年06月05日 12:09
>考えてみると私がこのように思うようになったのも、Libra師匠の影響大なのかと。

私も影響受けました。とはいっても、私は咀嚼するまでに結構な年月がかかっていますし、まだまだ自分の認識の浅さから咀嚼しきれていないであろうLibraさんの深海領域に少しずつ踏み込むのを自分でも楽しみにしていたりします。


>みれいしゃんの時折現れてくるこのようなご意見は、そのつもりではなくても時に他者への要求であったり、批判であったりするように受け取られるように感じられ、それは控えるべきじゃないかと思います。

こちらは相互批判ウェルカムなのですが、自分で思うよりもなお、他に対しつっぱり押し出しが強いのかもしれません。
ご指摘のとおり意識して「控えめ」「慎み」を心がけようと思います。
(あ、ちょっとこのフェミニンな(?)感じに不慣れというのがまさに今の私の足りない部分なのだな)
またいつでもご指摘くださいませ。

>本意としては、みれいしゃんと私はこの点でも大きな相違はないように感じておりますが。

まったく同感。

>私が尊称として”しゃん”を付けて呼ぶ唯一の方であり、今後もそう呼ばせて下さいね。^^

いやん、恥ずかしい・・・(こうゆうのを書くとよろしくないかw)

私こそ様々な面で多くの方を手本にさせていただいていますし、あらゆる面でまだまだの私なんぞは普通に敬称にでもしていただければありがたいと思っておりますm(_ _"m)ペコリ
Posted by みれい at 2006年06月06日 01:30
 みれいしゃん、こんにちは。^^

> こちらは相互批判ウェルカムなのですが、自分で思うよりもなお、他に対しつっぱり押し出しが強いのかもしれません。
> ご指摘のとおり意識して「控えめ」「慎み」を心がけようと思います。

 ☆^∇゜) ニパッ!!
 論議の姿勢のあり方を論題として論議する場合には、批判し合うことももちろんOKだと思います。
 あるいは、論議の進行を著しく阻害しているように感じる方の発言に注意を与えることもOKだと思います。
 私は論議の姿勢というのは、食事時のマナーみたいなものなのかなって感じたりしています。^^

> >本意としては、みれいしゃんと私はこの点でも大きな相違はないように感じておりますが。
>
> まったく同感。

 食事時のマナーについて私の本意・不本意を表現すると、
 ・本意 おいしく食べる(食べてもらう)ことを心掛ける。
 ・不本意 他者に迷惑にならなければどんな食べ方も認める。

> >私が尊称として”しゃん”を付けて呼ぶ唯一の方であり、今後もそう呼ばせて下さいね。^^
>
> いやん、恥ずかしい・・・(こうゆうのを書くとよろしくないかw)

 とてもよろしいかとw(*´∇`*)
 わたくし、村上世彰氏ではないですけど意図せず嘘を付いておりました。(>▽<;; アセアセ
 尊称として”しゃん”を付けて呼ぶ方は、みれいしゃんの他にcocoしゃんもおられたw

> 私こそ様々な面で多くの方を手本にさせていただいていますし、あらゆる面でまだまだの私なんぞは普通に敬称にでもしていただければありがたいと思っておりますm(_ _"m)ペコリ

(ノ≧ロ)ノ<嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌
Posted by わめ at 2006年06月06日 13:54
cocoさんと並ぶのこそはずかしいでやんす〜

そういえばcocoさんの掲示板に鬼太郎さんという方がいらっしゃって、以前ネットでお世話になった方なのですが、その方とても哲学や理論に富んだ方なので、機会があれば連れてきます。
パラダイムを教わったのがその方です。
Posted by みれい at 2006年06月08日 23:56
 みれいしゃん、こんにちは。^^

 超遅レスになってしまったw汗

> cocoさんと並ぶのこそはずかしいでやんす〜

 あは^^
 そう言えばcocoしゃん仕事が忙しくらしく、長い間「原始仏教の智慧と大乗の信仰」でのお話が中断してましたが、そろ〜りそろそろ再開できるかもとちょっぴり期待してます。♪
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/17142/1094230028/

> そういえばcocoさんの掲示板に鬼太郎さんという方がいらっしゃって、以前ネットでお世話になった方なのですが、その方とても哲学や理論に富んだ方なので、機会があれば連れてきます。
> パラダイムを教わったのがその方です。

 w( ̄△ ̄;)wおおっ! それは楽しみです。ヽ(  ´  ∇  `  )ノ ♪

 おっと、cocoしゃんっちで鬼太郎さんって方の書き込み発見!
 ・・・最近は2ch哲学板、教育板、心理学板などにおられるようで強者・論客であられることは間違いなさそうw
 (((((((( ;゚Д゚)))))))ガクガクブルブル
Posted by わめ at 2006年06月14日 15:57
わめさん、こんにちは。

2005年12/14「輪廻転生について」コメント数83を「地獄への道は人びとの善意によって舗装されている」が抜きましたね〜。
88畳の【大広間】ですよ(笑)

わめさん、お世話になりました。
皆さん、お世話になりました。

お蔭様で気持ちに一区切りつきました。
現実生活が忙しくなりそうです。コメントは残せないかもしれませんが、まだまだ知りたい事が沢山ありますから、これからもお邪魔させていただきます。大変ありがとうございました。
Posted by おばさん、です at 2006年06月15日 23:08
 おばさん、こんにちは。

> お蔭様で気持ちに一区切りつきました。

 ”気持ちに一区切り”ですか、それはよかったですね。私もうれしいです。^^

 私は消化不良はありませんが、我'sが闊歩するこの社会に少々食欲不振気味です。(^^;
 あぁ またわけわかめ・・・w
Posted by わめ at 2006年06月18日 16:01
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Excerpt:           わたしがもしも神さまならば           地球をゆらして           人間が殺しあいの戦争をしてきた           すべての兵器をなくしたい          ..
Weblog: 情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士
Tracked: 2006-04-18 21:29
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