2006年03月30日

今、創価学会に思うこと 03

 今年も母の命日が近づいて「願いとして叶わざるなし」の言葉が思い出される。
 学会員の方なら日蓮(大聖人)のこの御金言?をまず知らない方はいないでしょうけど、ご多聞に漏れず私も長い間この言葉を信じ心肝に染めていました。
 そして病床の母にこの言葉で叱責していた私が、今更ながら悔やまれてならない。

 健康長寿を願う方は多いと思いますが、多くの学会員はそれを願わないのでしょうか?
 少なくとも私は母に対して、母は自身や家族に対して願っていたと思いますがその願いは叶いませんでした。

 母は心の病(鬱病)も患っていましたが、それを克服せんがためにも折伏・唱題・学会活動に励んでおりましたが、返って悪化し寝込んでしまいました。
 そして皮肉なことに寝込んで活動ができなくなったことで役職を降ろされ鬱病は快方に向かいました。

 譬喩・方便と理解し、相手に合わせ、時に「願いとして叶わざるなし」の言葉で励ますことまで悪いこととは思いませんが、願いは何でも叶うと信じ込みそれを他者にまで言い切るのは如何なものか。
 また願いが叶わないのは信心が足りないとか(ありもしない)宿業が深いから等で、自分や他者を責めないで頂きたい。
 私と同じ過ちで、大切な人を傷つけないように切に願います。

 関連記事 『わめの母に対する複雑な思い

  
 以下は軒ちゃんの記事、『姉の思い出』へのわめのコメント


Unknown (わめ)

2005-08-21 22:47:40

軒ちゃんさんこんばんは^^

わめは既に母を亡くしておりますが、その母は軒ちゃんさんのお母さんのように学会命の方でした。

ただ、私のことを思う母の気持ちは痛いほど感じておりましたので、母の行き過ぎた学会活動による家族への罪の部分はすべて許しております。

死に逝くものにとって大切なのは、この世に残していく者への、見届けない得ないその行く末ではないかと感じております。
この世に残していく者へ、出来る限りの力を尽くして死んでいけることは、長く生き長らえたとしてもなかなか得られないことかもしれません。
その意味において、軒ちゃんさんのお姉さんは、短い人生ではあったものの、生きた証を力強く残され、後悔するような人生ではなかったのではないでしょうか。

わめの感じたままを身勝手に書かせてもらいましたこと、お詫び致します

それとわめが感銘を受けた記事リンクを貼らせていただきます。
佐倉さんのHPより ある仏教徒の「死後の世界」観
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/masutani.html


わめの母に対する複雑な思い (わめ)

2005-08-22 00:03:10

複雑な気持ちといえば、軒ちゃんさんがお姉さんに対するものとは違うとは思いますが、わめも母が亡くなってから複雑な思いがあります。

母はわめが生まれた頃に入信し、父の反対など物ともせず学会活動に励んできました。
反対だった父も、わめが成人する前には入信してました。

母は親戚や近所では学会員として一粒種でした。
それが母の地道な折伏により、親戚の多くや近所の方や、また友人知人を入信させていきました。
聖教配達も30年以上も続けておりました。

そんな母が40代半ば、子宮筋腫の手術・更年期障害・鬱病の発症と立て続けに起こり、婦人部の役職を降りることになりました。
しかしこのような災い起こったのに、それ以降の母は、今までTVなどほとんど観たこともなかったのに、TVを観たり、貧乏なりに買い物を楽しんだりし、明るい笑顔をよく見ることが出来るようになりました。
というのもそれまでの母は、苦しみに耐え、いつも口をへの字に曲げているような、そんな表情が多かったのです。

今思えば、この頃の母が、体の状態は悪くても一番幸せだったのかもしれません。

・・・なのにわめは、当時男子部副部長で創価班のバリバリだったこともあり、体の調子が悪いなら、寝ながらでもいいから唱題をするようにとか、魔に負けてるとか、母につらく当たっておりました。

学会活動にすべてを賭して戦ってきた母、そしてそれなのに病魔に襲われた母、それにより学会活動から逃れられ、人並みの幸せを少しばかり味わえた母、その幸せを魔に負けてる姿だと罵った私、癌であったことも何度も入院しても発見されず手遅れ状態で逝った母・・・

・・・何だかやりきれない複雑な気持ちがあります。

だからどうなんだと言いたいわけでもありません。
ただわめの母に対する複雑な思いを書いてみただけです・・・

ごめんなさい
posted by わめ at 14:20| Comment(23) | TrackBack(0) | 今、創価学会に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わめさん、ちょ〜お久しぶりです。
長い間の失踪(?)お許しくださいませm(_ _)m
これからは、ぼちぼちな感じでやっていきますのでよろしくお願いします。(内容はブログにて)

それにしても、

さぞ、つらかったんでしょうね。わめさんも、わめさんのお母さんも。活動しているといつも数字に追われ、精神的に追い込まれていき、達成なくして勝利なしという雰囲気のなかでも、自分なりに頑張ってこられたんでしょうね。活動から離れてみせた笑顔というのは、ほんとの笑顔だったのではないでしょうか?
法華経(というより学会)でいう歓喜は、もしかしたらそのことを指しているのではないかとも思いますが、どうでしょうかね。

僕自身はというと、ますます…活動から離れています(^^;)
でも母は活動に苦心しながらまい進しております。
Posted by itto at 2006年04月09日 22:28
>わめさん、ご無沙汰しております。
「願いとして叶わざるなし」は、昔から何度となく聞いてきた御文ですが、御書のどこに書いてあったか失念してしまいました。要文集を見てもわかりませんので、教えていただけないでしょうか?

自分の体験では、ここ一番というとき、つまり人生の勝負所で祈りが叶ったことがありません。自分なりに真剣に祈っていたのにです。
Posted by マターリ at 2006年04月09日 22:56
 ittoさん、マターリさん、こんばんは。

 お二方ともお久しぶりの登場でうれしいです。^^
 
>ittoさん
 ブログはマイペースでいいんじゃないですか?
 私も今年からはEnjoy系の掲示板やブログはのんびりやってます。

> さぞ、つらかったんでしょうね。わめさんも、わめさんのお母さんも。活動しているといつも数字に追われ、精神的に追い込まれていき、達成なくして勝利なしという雰囲気のなかでも、自分なりに頑張ってこられたんでしょうね。活動から離れてみせた笑顔というのは、ほんとの笑顔だったのではないでしょうか?

 母も私もどちらかといえば内向的な性格で似てはいますし、またそうかと思えば楽観的な性格もあり数字云云で信心はしていなかったしお互い精神的にそれほどつらくなかったかもしれませんが、母は頻繁な会合等でつらかったかもしれません。だから活動から離れられて幸せそうでした。
 私は当時学会と言うより日蓮仏法に惚れ込んでましたから、学会活動はほどほどで教学上からみておかしなことを言う幹部には平気で食って掛かってましたからストレスと言うより楽しんでいた感じでした。(^^;

> 法華経(というより学会)でいう歓喜は、もしかしたらそのことを指しているのではないかとも思いますが、どうでしょうかね。

 さぁどうなのでしょうね。

> 僕自身はというと、ますます…活動から離れています(^^;)
> でも母は活動に苦心しながらまい進しております。

 皆さん自由であってほしいですね。
 自分の生き方は自分で決めていけばいいと思いますよ。(^-^)


>マターリさん

> 「願いとして叶わざるなし」は、昔から何度となく聞いてきた御文ですが、御書のどこに書いてあったか失念してしまいました。要文集を見てもわかりませんので、教えていただけないでしょうか?

 そのものズバリの御文は御書から発見できませんでしたが、祈祷抄の「大地ささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬことはありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬことはあるべからず」(御書全集1351頁)の御文などはそのような意味合いですね。

> 自分の体験では、ここ一番というとき、つまり人生の勝負所で祈りが叶ったことがありません。自分なりに真剣に祈っていたのにです。

 私は意外と勝負時には願いは叶っておりましたが、結果的には棚ボタではなくちゃんと結果が出る行動を取っていましたから祈りが叶ったとは言わないのかもしれませんw汗

 結局誰(釈尊・日蓮・キリスト・偉い人等)がどう言おうと、世の中原因と結果で、原因と結果には切り離せない因果関係があるわけで、それ以外の要素を求めるのは楽して儲ける方法はないかとついついそれを求めがちになるような、そんな我欲に過ぎないように思います。^^
Posted by わめ at 2006年04月10日 01:33
はじめまして。お邪魔します。
今、snowさんのところからですが、寄り道させていただいてます。皆さん方がこのようなブログを作ってくださった事で、とても助かっています。本当にありがとう!



Posted by おばさん、です at 2006年04月10日 13:17
おばさん、ですさん、初めまして。^^

またコメントくださりありがとうございました。

私のブログが少しでもお役に立てたのならとってもうれしいです。
ヽ(  ´  ∇  `  )ノ ♪
Posted by わめ at 2006年04月12日 13:00
わめさん、お返事ありがとうございます。
大変、大変、大〜変,役に立っております。

わめさん、も内部事情ご存知でしょうからお分かりいただけると思いますが、「学会の悪口ばかり書く週刊新潮なんか読まないほうがいい」と言われたのを鵜呑みにしてきました。モチロン、ネット検索等も然りです。外部情報、一切遮断です。

仕事や生活に追われて、疑問を感じながらも流されたと思います。また、自分自身への自信のなさや無知が、難しい教義の中から時に魅力的な御書の一説に共感し「創価学会の正義を信じるロマン」に結びついていたのかもしれません。
mocoさんのブログ「私は創価学会員でした」で、ファンタジーという表現をされていらっしゃいますが、私の場合、一部認めざるをえません(苦笑)。

皆さんのブログに大変、助けられていますが、正直なところ未だ真実を、方向を見極められずに悩む状況です。私は最近、創価学会への疑問が拭いきれず距離をおきましたが、創価学会というか、宗教の良さもあるのではとも思っております。皆様の与えてくださる情報を基に「いい人生」「あるべき宗教」などを考えてまいりたいと思います。

ところで、HNが扱い難いのではないですか?「おばさん、です」には、既にさんがついていますので、おばさん・・・で宜しくお願い致します。

創価学会は婦人が中心で、特に普通のおばさんが活動力です。その人たちが捨て身になって此処まで発展させたと言えるでしょう。その人たちが「鍵」を握っているとするなら、真実の情報が、おばさん達にも届くことを願っています。学会に間違いがあるなら、改善に繋がるように。

これからもお邪魔させてください。


Posted by おばさん、です at 2006年04月12日 18:40
お言葉に甘えて・・・おばさん、こんばんは。(^^;

 私が役職を降りることを壮年幹部にその理由について話したことがあります。
 その中で、学会の方針には学会に不利な情報はなるべく見させないようにしようとしていることを認めた上で、その幹部からの話の中で「学会にはご年配の学会員さんが沢山いますしそのような方に猜疑心を与えてどのような結果になるのか?」、「長年信心を純真にしてきた年配の方に学会は間違っているということを分からしたからといってその方達は幸せになれると思う?」と言うような問いかけをされました。学会の誤りを学会が公的に認めることは、長年に渡り学会を支えてきてくれた方達を苦しめることになると・・・
 私にも情というような感情があり、身近に純真なご年配の学会員さんも多いですが、その方達に学会の過ちを指摘し、心を掻き乱させるようなことは言えないのです。
 性急に学会の誤りを糾すということは、多くの学会員に非情な苦痛を味あわせることになるように思います。
 学会に依存しきっている方に何を言っても反感を買うだけですし、疑問を抱いている方は自主的に情報を求め取捨選択しこれからを自身で考えて生き方を選択していくように思います。

 学会問題について今のところ私には、こうしてブログ等で思うことをなるべく客観的に書き綴ることくらいしかありません。

 こんな私ですがよろしかったらまたコメントなどお寄せください。
Posted by わめ at 2006年04月13日 02:58
わめさん、こんばんは。お久しぶりです。

>「学会にはご年配の学会員さんが沢山いますしそのような方に猜疑心を与えてどのような結果になるのか?」、
>「長年信心を純真にしてきた年配の方に学会は間違っているということを分からしたからといってその方達は幸せになれると思う?」

これ言った人、もしかして職員さんかな?
一見、末端会員を気遣ってるようだけど、実は見下してるような匂いがぷんぷんしませんか?
こいつら所詮学会がないとダメ、みたいな。
違ったらごめんなさい。

もし職員さんなら、
「あーた、誰のおかげで生活してるんですか?」
って言ってやりたいですね、私は。
Posted by 耳猫 at 2006年04月13日 23:54
 耳猫さん、ヽ(^Д^*)/おひさ〜♪

> これ言った人、もしかして職員さんかな?

 聖教新聞の地域販売店主ですから職員ではないですが、学会が生活の糧となっているということは職員さんと変わりないかもしれませんね。

> 一見、末端会員を気遣ってるようだけど、実は見下してるような匂いがぷんぷんしませんか?

 私はこの幹部の方が末端会員を見下しているようには捉えませんでしたけど、そのような面もあるのかもしれません。

> こいつら所詮学会がないとダメ、みたいな。

 こいつら表現はどうか分かりませんが(汗)、学会がなくなればトンでもないことになってしまうとは思っているようです。
 学会依存度の強い会員の方に対して、私もこの点は心配ではあります。

> もし職員さんなら、
> 「あーた、誰のおかげで生活してるんですか?」
> って言ってやりたいですね、私は。

 耳猫さんのお気持ちは、これが私にとって見ず知らずの職員さんに対してなら私も共感できるところがありますが、私はこの幹部の方をある程度知っておりある意味可愛そうに思いました。
 幹部であるが故に学会の悪い面もよく知っておられ、教義・指導にも疑問というより誤りがあると認められていましたし、そうであってもこの方にとっては学会は生活の糧でもあるわけで心の葛藤もある(あった)ように思います。
 その心の葛藤の結果として、学会を改善していこうとの方向性を持っておられるように思いますが、それは主に多くの学会員を思いやってのことなのか、生活面を主に考えてのことなのかまでは私には分かりません。

 ともかく多くの学会員を身近に見てる私にとっては、痛いところを突かれたことだけは確かで、それが前回のコメントになっています。
Posted by わめ at 2006年04月14日 15:07
わめさん、お返事ありがとう。おばさん、です。

名前の欄に、思わず感じた第一声を記入してしまいました。勝手な使い方をしてゴメンナサイ。

わめさんを通して壮年幹部のお話を訊けて嬉しいです。このようにしながら、自分自身の創価学会への気持ちや考えを整理していくのですね。

ところで下記についてですが、
>「学会にはご年配の学会員さんが沢山いますしそのような方に猜疑心を与えてどのような結果になるのか?」、「長年信心を純真にしてきた年配の方に学会は間違っているということを分からしたからといってその方達は幸せになれると思う?」と言うような問いかけをされました。学会の誤りを学会が公的に認めることは、長年に渡り学会を支えてきてくれた方達を苦しめることになると・・・

ごもっともです。確かにお爺ちゃんやお婆ちゃんに今更、真実を教えたらショックで、万が一、学会がビジネスオンリーの世界だったら「私の青春をかえして〜」です。今世でのそれぞれの使命があるようですから「駒」に対する思いやりなのでしょう。

・・・でも、誰が本心から納得するでしょうか?
間違いは誰にでもある。失敗もそう。其れは仕方ないかもしれない。

ただ、私が疑問に思う事の一つは、その、ご年配の方々または、うぶな新入社員じゃなくて・・・新しく入った学会員や、年齢に関係なく純粋な人達に、学会は今現在どのように対処しているのか、です。改善しているのでしょうか?「あなたのできる範囲でいいですよ」、「ご無理をなさらないで下さい」と、活動や財務をさせているでしょうか?

私の見聞きした学会は、様子を見ながら、相手を見ながら無理に無理を強いていると感じます。
今まで読んだこのブログ関連でも、あなたのお母様やmocoさんのお母様のように、歯に歯を食いしばって学会に全てを捧げている方達は、30年も前の過去のことでしょうか?現在進行形で変わっていないように感じました。違いますか?

「捨石でいい」と腹を決めてるなら、その本人の事はかまいません。学会が正しいなら尊い事です。そのような皆様のお蔭で社会は恩恵を受けますし、立派な仏道修行で成仏をされるのですからご本人も本望でしょう。でも、「それに付いて行けない人達」も現にいます。

言葉巧みに上手く「組織保守」の為に誘導している、だ・け、見えます。学会はしたたかです。

私は、わめさんに、「丸め込まれないで」と内心思いました。学会を憎むことをそそのかすつもりはありません。何が真実かは分かりません。
余計な事だと思いましたが我慢できなくて、つい書き込みました。亡くなったお母様の事をこれだけ心に留めておられるあなたに、私は「間違っているかもしれない」と思いながらも、今回感じたことを率直に書きました。

その壮年幹部の発言内容、学会に疑問です。

ブログへのコメントやこのような話題も慣れませんので、後で訂正させて頂く箇所もあるかもしれません。もしも不快に感じるようでしたら、お許し下さい。
Posted by さすが学会、利口な学会、あっぱれ、あっぱれ! at 2006年04月14日 17:23
 おばさん、こんばんは。^^

> 名前の欄に、思わず感じた第一声を記入してしまいました。

 あはは、人の弱みを突くと言うことでは当たっているかもしれませんね。(^^;

> ただ、私が疑問に思う事の一つは、その、ご年配の方々または、うぶな新入社員じゃなくて・・・新しく入った学会員や、年齢に関係なく純粋な人達に、学会は今現在どのように対処しているのか、です。改善しているのでしょうか?「あなたのできる範囲でいいですよ」、「ご無理をなさらないで下さい」と、活動や財務をさせているでしょうか?

 これは学会員と言えども人によるように思います。
 また「あなたのできる範囲でいいですよ」、「ご無理をなさらないで下さい」と言う様な方もおられますが、本心からそう言われていない方も多いように思います。ですのでそう言われたからといって、ああそうですかと活動の参加不参加、財務もまったく個人の意志でどうするかを自由に決められるというわけにはいかないと感じる方も多いと思います。
 ただ少しづつではあると思いますが、学会も改善はされてきているように思います。

> 私の見聞きした学会は、様子を見ながら、相手を見ながら無理に無理を強いていると感じます。

 私が更に痛く感じるのが無理強いをする方も悪気がなく、それが自分や本人や家族のためであり、学会のためであり、果ては日本や世界のためになることと信じてらっしゃることです。悪意がある方には徹底抗戦の構えもやりやすいですが、悪意ある学会員というのはごく稀にしかいないように思います。

 このように思う私としましては、学会に限らずこの問題の根本にある(と思う)人が何かの思想を客観的根拠もなく強く信じ込んでしまう傾向の歯止めと、如何にすればそのような状態から脱却できるかをこれからも考察していきたいと思っております。

 単純に考えると、幸せになりたい(したい)と願う心(欲)が、冷静な判断や客観的な思考を鈍らしてしまっているのがひとつの大きな要因ではないかと思うこの頃です。
Posted by わめ at 2006年04月14日 20:54
わめさんお久しぶりです。

>単純に考えると、幸せになりたい(したい)と願う心(欲)が、冷静な判断や客観的な思考を鈍らしてしまっているのがひとつの大きな要因ではないかと思うこの頃です。

大賛成。

frrさんのところから派生した、「正しい宗教」を犬のメメさんの所でレスのやりとりをしていたのですが、最終的に上のわめさんの意見に持っていこうとしたのですが、中々そこにたどりつけずにあきらめていたのですが、三九朗さんが幸せについて書いてくれたおかげでなんとかそこにたどりつけました。

本当は幸せの定義とかもしたかったのですが、ちょっと疲れてしまいました。
Posted by ナマズ at 2006年04月15日 18:04
 ナマズさん、こんにちは。^^

> わめさんお久しぶりです。

 三ちゃんのところでナマズさんのコメントを見てるから久しぶりという感覚はないな。笑

> frrさんのところから派生した、「正しい宗教」を犬のメメさんの所でレスのやりとりをしていたのですが、最終的に上のわめさんの意見に持っていこうとしたのですが、中々そこにたどりつけずにあきらめていたのですが、三九朗さんが幸せについて書いてくれたおかげでなんとかそこにたどりつけました。

 メメさんっち見てきました。(^^
 このコメントの最後に”正しい”についてのgoo辞書の解説を載せましたが、”正しい”とは主観的見地で議論するようなものではないように思いますね。
 ナマズさんがメメさんっちで書かれていたように、どうも客観的見地で論ずるべきもののようですね。
 というか客観性なしに議論は成り立たないように思います。自己主張大会?(^^;;
 【最近思うこと】 http://wame.seesaa.net/article/15077399.html

> 本当は幸せの定義とかもしたかったのですが、ちょっと疲れてしまいました。

 これもgoo辞書の解説を載せましたが、こちらは主観的な人間個々の心の感覚なので様々な定義ができてしまいそうですし議論にならず疲れてしまうと思いますよ。
 主に客観的な”正しい”と、主観的な”幸せ”と、結びつけて論じることは困難なことのように思います。

 日本人は私も含め、もう一度日本語の語句の意味をしっかり学び直すべきかもしれませんね。

goo辞書より
ただし・い 3 【正しい】

(形)[文]シク ただ・し
物事のあるべき姿を考え、それに合致しているさまをいう。
(1)道徳・倫理・法律などにかなっている。よこしまでない。
「―・いおこない」「心の―・い人」
(2)真理・事実に合致している。誤りがない。
「―・い結論」「―・い報道」
(3)標準・規準・規範・儀礼などに合致している。
「―・い時刻」「―・い書類」「―・い言葉遣い」「―・い作法」
(4)筋道が通っている。筋がはっきりたどれる。
「由緒―・い家柄」「―・しき其孫なればさる事もやあるらむ/保元(中)」
(5)最も目的にかなったやり方である。一番効果のある方法である。
「機械を―・く操作する」「―・い薬の飲み方」
(6)ゆがんだり乱れたりしていない。恰好がきちんと整っている。
「―・い姿勢」「―・い円を描く」
〔漢字訓読に多く見え、平安時代の和文にはほとんど用いられていない〕
[派生] ――さ(名)


しあわせ ―あはせ 0 【幸せ/仕合(わ)せ/▼倖せ】

(名・形動)[文]ナリ
(1)めぐりあわせがよい・こと(さま)。幸運。幸福。
「友人の―を祈る」「―な生涯」
(2)めぐりあわせ。運命。
「我はそも、何時ぞやも言ふ如く、―も悪ければ/仮名草子・竹斎」
(3)ことの次第。始末。
「無念ながらも長らへて、さて只今の―なり/浄瑠璃・出世景清」
Posted by わめ at 2006年04月16日 16:05
辞書で調べると分かりやすくて良いですね。

>”正しい”とは主観的見地で議論するようなものではないように思いますね。

客観的な主張がないと論議の仕様がないですからね。

主観だけの主張なら、あーあなたはそう思うのですかで終わりです。

主観同士が言い争ってもケンカになるだけですから。

いちおアンチブログなので突っ込んどきました。

>主観的な”幸せ”と、結びつけて論じることは困難なことのように思います。

よく宗教サイトで、その人が幸せと思えばそれは正しい宗教(メメさんもそのような主張です)という書き込みをよく見かけますが、人それぞれ幸せと思うものが違うし、時がたてばその時幸せに思っていたものが実は不幸だったってことがあるのだから、<「正しい宗教」=幸せ>はなりたたないっていう風に持っていきたかったのですよ。







Posted by ナマズ at 2006年04月17日 13:40
 ナマズさん、お返事ありがとう。

 今回の正しい宗教と幸せについて、ナマズさんと私との意見の相違は発見できませんでしたので楽しくありません。笑

 それでは面白くないのでメメさんのところでのナマズさんのコメントに、恐れ多いことですがちょっと因縁をつけさせて下さい。冷汗w

 ナマズさんの”宗教は道徳を説き”ですが、道徳は”宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの”のようです。
 宗教にもその時代に応じた道徳的な装いはあるかもしれませんが、宗教の根幹をなすものは形而上学的見解(教え)であるように思いますので、道徳と相反する部分も多いのではないでしょうか。

『宗教とモラル』 http://wame.seesaa.net/article/11767590.html

 余談ですが多くの宗教は形而上学的見解(教え)をさも真理であるように説き、その(宗教の)主観的見地で客観的判断で導き出されるはずの真理の語を用いることも矛盾しているように思います。


goo辞書より
どうとく だう― 0 【道徳】

(1)ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。
(2)小・中学校において、道徳教育を行う教育課程。1958年(昭和33)から新設。
(3)〔もっぱら道と徳とを説くことから〕老子の学。


ろうし らうし 【老子】

(1)中国、春秋戦国時代の楚(そ)の思想家。周に仕えて守蔵室(図書館)の史になったといわれる。道家の開祖。姓は李(り)、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽、諡(おくりな)は(たん)。儒家の人為的な仁義道徳思想に対し、宇宙の根本を道や無と名づけ、これに適合する無為自然への復帰を人間のあるべき姿と説く。後漢末に道教が成立すると、その開祖と仰がれ、唐の高宗からは玄元皇帝の尊号を贈られた。生没年未詳。
(2)老子の著書と伝えられる道家の経典。二巻、八一章。戦国時代初期から中期頃成立。現象界を相対化してとらえ、現象の背後にある絶対的本体を道とし、それから付与される本性を徳とし、無為自然の道とそれに即した処世訓や政治論を説く。道徳経。老子道徳経。


けいじじょう-がく ―じやう― 4 【形▼而上学】

〔metaphysics〕
(1)存在者を存在者たらしめている超越的な原理、さらには神・世界・霊魂などを研究対象とする学問。第一哲学。
(2)客観的実在やその認識の可能を端的に認める哲学的立場。不可知論や実証主義の立場から独断論や実在論を称した語。
(3)事実を離れて抽象的なものにだけとどまる議論を揶揄(やゆ)していう語。
(4)書名(別項参照)。


しんり 1 【真理】

(1)正しい道理。だれも否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実。
「不変の―」
(2)〔哲〕(価値を慮外にして)事態の真相。真。その基準については諸説ある。(1)思想と事物の一致、すなわち判断や命題が存在と正確に対応すること(対応説)。(2)ある命題(思想)が他の諸命題と矛盾せず整合性があること(整合説)。(3)プラグマティズムでは、ある思想が有効な働きや結果を示すこと。


プラグマティズム 5 [pragmatism]

〔哲〕〔ギリシャ語の pragma(行動)から〕一九世紀後半以降、アメリカを中心に展開された反形而上学的な哲学思想。デカルト以来の意識中心の立場を批判して、行動を重視し、思考・観念の真理性は環境に対する行動の結果の有効性から実験的検証を通じて帰納的に導かれるとする立場。パース・ジェームズ・デューイらによって創始され、現在では分析哲学との結びつきを強めてクワイン・ローティらのネオ-プラグマティズムに引き継がれている。実用主義。
Posted by わめ at 2006年04月17日 14:45
>幸せについて書いてくれたおかげでなんとかそこにたどりつけました。

ナマズさん、お役にたててよかったですう。

>意見の相違は発見できませんでしたので楽しくありません。

わめさんは、ディベートしたいだけかい!
Posted by 三九郎 at 2006年04月17日 15:55
 三ちゃん ('-'*)フフ

> わめさんは、ディベートしたいだけかい!

 いえ、意見の相違がないと言うことは、自己の見解を訂正できないので楽しくないという意味です。

goo辞書より
ディベート 2 [debate]

特定のトピックに対し、肯定・否定の二組に分かれて行う討論。


Enjoy掲示板より「可謬性」及び「批判的合理主義」の簡単な解説

「可謬性」とは、ポパーが用いた用語で、われわれの知識が完全に真理に到達したかどうかは確証できず、常に誤っている可能性があるということ。
「批判的合理主義」とは、「私は間違っているかもしれない、あなたが間違っているかもしれない、そしてお互いに批判的に検討しあえば、よりよい真理に到達できるかもしれない」とする見解をいう
Posted by わめ at 2006年04月17日 16:06
>ナマズさんの”宗教は道徳を説き”ですが、

まあ、宗教が社会的道徳を守るなら、後は好きにしていいよって意味でございます。

魔女狩りとか、神の戦いとか、ポアとか生贄をささげるとか行き過ぎた布教活動などなど。

>余談ですが多くの宗教は形而上学的見解(教え)をさも真理であるように説き、その(宗教の)主観的見地で客観的判断で導き出されるはずの真理の語を用いることも矛盾しているように思います。

そうなんです。メメさんの所で僕がしつこく根拠もなく思うことは、カルトの始まりって言ってるのはわめさんがいうようなことなんです。

ようするに思考停止状態。

やで、宗教をまじめにやりすぎると危険なのであります。

せめて、社会的道徳を守る範囲でやってねちゅうことです。
Posted by ナマズ at 2006年04月17日 21:20
 ナマズさん、こんばんは。

> まあ、宗教が社会的道徳を守るなら、後は好きにしていいよって意味でございます。
>
> 魔女狩りとか、神の戦いとか、ポアとか生贄をささげるとか行き過ぎた布教活動などなど。

 なるほど、そういうことでしたか。^^

> >余談ですが多くの宗教は形而上学的見解(教え)をさも真理であるように説き、その(宗教の)主観的見地で客観的判断で導き出されるはずの真理の語を用いることも矛盾しているように思います。

> そうなんです。メメさんの所で僕がしつこく根拠もなく思うことは、カルトの始まりって言ってるのはわめさんがいうようなことなんです。
> ようするに思考停止状態。
> やで、宗教をまじめにやりすぎると危険なのであります。

 誰が何を思ったり信じたりしても、思う・信じるだけなら自由(私は不本意ですが)だと思いますが、ナマズさんの言われるように”根拠もなく思うことは、カルトの始まり”とも言えるかもしれません。
 人の言動・振る舞いには、その時々に縁することに対して意識・無意識的に自動・反射的反応があるように思いますが、その自動・反射的反応は以前からの人それぞれの経験・思考・信念により様々でありますが、それが根拠もなく思う・信じる傾向にある方は詐欺やカルトやマルチ・霊感商法やニセ科学等に引っ掛かりやすいのではないかと思います。

 Leoさんのブログ記事【「ニセ科学」入門 】
http://blogs.yahoo.co.jp/leo020503/2484790.html

> せめて、社会的道徳を守る範囲でやってねちゅうことです。

 上記で”私は不本意ですが”と書きましたが、この”せめて”の言葉にナマズさんの不本意な思いが感じられ、ナマズさんと私の不本意な思いはかなり近いものがあるように思います。
 歯がゆいですよね・・・
Posted by わめ at 2006年04月18日 00:03
ナマズさんへ。
はじめまして。ナマズさんの居場所が分からないので、わめさんの所をお借りしました。

>まあ、宗教が社会的道徳を守るなら、後は好きにしていいよって意味でございます。
魔女狩りとか、神の戦いとか、ポアとか生贄をささげるとか行き過ぎた布教活動などなど。

そうですよね。私は学会が怖いです。
わめさん、私用に使って申し訳ありません。m(__)m
Posted by おばさん、です at 2006年04月18日 17:47
わめさんどうも。

>歯がゆいですよね・・・

そうっすネ・・・。

おばさん、です さんはじめまして

>私は学会が怖いです。

あんまり怖がり過ぎてもダメですよ。

Posted by ナマズ at 2006年04月18日 20:43
>母は心の病(鬱病)も患っていましたが、
>それを克服せんがためにも折伏・唱題・学会活動に励んでおりましたが、
>返って悪化し寝込んでしまいました。
>そして皮肉なことに寝込んで活動ができなくなったことで役職を降ろされ
>鬱病は快方に向かいました。

自分もかつて死ぬほどつらい大鬱を経験したものです。
当時、藁をもすがる思いで、某県の総県長に直接指導を仰ぎに行きました。
指導は「暫く活動から離れること。折伏も勤行もしないこと。人からなにを言われても、無理はしないこと。ただし、学会からは、はなれてはいけない。」
おかげさまで病状は薄皮をむくように快方に向かい、信心はともかく社会生活は正常化しました。

>また願いが叶わないのは信心が足りないとか(ありもしない)
>宿業が深いから等で、自分や他者を責めないで頂きたい。
>私と同じ過ちで、大切な人を傷つけないように切に願います。

人生においては、願いが叶うことよりも、かなわないことのほうが遥かに多いに決まっています。
御母堂の先輩の指導の内容が「何でもかなう信心」「叶う叶わぬは御信心によるべし」一辺倒であったとすれば、その先輩は「これまですべての願いが叶った超人」または「無責任幹部(婦人部に多い)」のどちらかです(たぶん後者)。
自分なら、「許す、しかし、永遠に忘れずに、事あるごとに公の場(会合等)で事実を正確に広く叫びつづける」とおもいます(反論を期待しつつ)。

現実には、願いが叶わないことが不幸なのではなくて、叶わなかったことに対し、諦めの心が生じてしまい、それに自分が負けてしまうことが不幸なのです(近時の先生の指導を参照のこと)。

それはそうと、おそらく先輩に恵まれておられなかった御母堂が哀れでなりません。
御母堂も他の人と同様に、霊山に詣で御本仏に拝謁しているかと。

なお、自分は現在活動に参加しておらず、朝晩の勤行も欠かしており、財務もこの3年間行っていないことを明記しておきます。

追伸
「祈りとして叶わざるはなく」は大聖人の御金言ではありません。
これは確か寛師によるものと記憶しております(六巻抄参照のこと)。
Posted by 通りすがり at 2006年07月08日 01:32
 通りすがりさん、こんにちは。^^

 願いについてのあなたの考え方に、幸不幸についてを除いては私の考え方とも近く感じられました。
 幸不幸の感覚は、個人の価値観により微妙に違うように思いますし、幸せを願う度合いも人それぞれのように思います。

> 御母堂も他の人と同様に、霊山に詣で御本仏に拝謁しているかと。

 お言葉うれしいですが、私は死後に生命(霊魂)などは残らないと考えておりますので、このようには捉えられませんが、そのお気持ちだけはありがたく頂戴いたします。<(_ _)>
【霊魂について】
http://wame.seesaa.net/article/13875458.html

> 「祈りとして叶わざるはなく」は大聖人の御金言ではありません。

 そうですか、探してみたけど見つからないはずですよね。(^^;
 でも 2006年04月10日 01:33で書きましたが、祈祷抄の「大地ささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬことはありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬことはあるべからず」(御書全集1351頁)の御文は、言葉は違いますが同様の内容のように思います。

> これは確か寛師によるものと記憶しております(六巻抄参照のこと)。

 了解です。^^ ありがとう。
Posted by わめ at 2006年07月11日 12:16
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