2006年03月08日

不可謬性の否定

 またまた『B.R.アンベードカル著 「ブッダとそのダンマ」 山際素男訳 光文社新書』からの考察です。
 Leoさんから『霊魂について』で、「『ブッダとそのダンマ』はLibraさんの仏教理解に近いものがあり、(相違点が全くないわけではないですが)、理にかなっていて共通する部分が「ダンマ」なのかなとも思ったりもしています。」とのコメントを頂きましたが、私もそのように思います。またLeoさんの仏教理解も同様に近いものがあるように思いますが、そのひとつの共通点として「不可謬性の否定」が挙げられると思います。私がここでいう「不可謬性の否定」とは、私達には不可謬なことの有無や、不可謬なことがあったとしても確証することなどできないとする見解です。

  『B.R.アンベードカル著 「ブッダとそのダンマ」 山際素男訳 光文社新書』の『第三部-第四章 何がダンマではないか』の「八 ダンマ経典の不可謬性を信じるのはダンマではない」を以下に引用します。
 バラモンはヴェーダの神聖さのみならずその権威も最高だとした。彼らはヴェーダを決定的なものであり不可謬であると宣した。しかしブッダはその点で徹底して反対した。彼はヴェーダの神聖さ、絶対的権威、不可謬性のいずれをも否定した。彼と似た態度を取った思想家は他にも沢山いたが、結局総てバラモン哲学とバラモンの権威に屈し、ブッダのみ譲らなかった。
 テーヴィッジャー経で、ブッダはヴェーダは水のない砂漠、道なき森でありつまりは破滅であると明言している。知的、道徳的渇きを持つ者がヴェーダに向ったとて決してその渇きを癒すことはない。ヴェーダの不可謬について彼は何事も不可謬ということはありえず、総ては徹底した検討、再検証に委ねられねばならないとした。
 このことを彼はカーラーマへの教えではっきりさせている。
 ある時、釈尊は大勢の弟子を連れコーサラ国を通り過ぎる途中、カーラーマの住むケーサプッダの町に立ち寄った。カーラーマはそのことを知り釈尊の許へ赴きこのように語った。
「世尊よ、何人もの隠者や苦行者がケーサプッタを訪れ、それぞれ自分の見解を披露し教示しますが、誰もが他人の考えをやっつけ反対します。そのため私共はどの人の考えが正しくどの人が間違っているか分からず不安で仕方がありません。」
「不安と疑いを持つのはもっともですカーラーマさん、あなたはいい時に不安と疑問を抱かれました。
 いいですかカーラーマさん。あなたが聞いたことを単に信じてはいけません。人から人に手渡されたものを単純に信じてはいけません。一般に流布していることもそうです。経典に書かれていること、理の巧みさ、表面上の考察、説かれた信条や考え方が気に入ったからとか、もっともらしさや評判の高い隠者たちの言葉だからなどの理由で総てを簡単に受け入れてはなりません」
「ではどうやってその正しさを見分ければよいのでしょうか?」
「それは先ず自らに問うことです。これとこれは健康に良くない、これらはいけないことだ。これらは賢人によって戒められている、これらは悪しき状態、苦しみを引き起こしているかどうかを見分けることです。そして更に一歩進め、教わった教理が渇望、憎しみ、幻想、暴力を増長させていないかどうかを検討しなくてはなりません。しかしこれだけで十分とはいえません。その教理が人を情念の虜とするものではないか、生き物を殺させようとしていないか、他人のものを取ろうとか、人妻の後を追いかけ嘘をつき、他人にも似たようなことをさせようとしていないか、そういう現われがないかどうか良く確かめなくてはなりません。そして最後にこれら総てが不健康と不幸に向わせるものでないかどうかを自らに問わねばなりません。どうですかカーラーマさん? これらのことは不健康と不幸につながりませんか?」
「つながります世尊よ」
「これらはいけないことですか?」
「いけないことです」
「賢人が戒めていませんか?」
「戒めています」
「それらは不健康や不幸に導きませんか?」
「導きます」
「その経典は決定的で不可謬ではありえませんか?」
「ありえません、世尊よ」
「しかしカーラーマさん、私は”これこれのことをただ簡単に受け入れてはならない”といっただけなのです。あなたがそのことを十分見極めてから退けなくてはいけません」
「見事です世尊よ。誠に素晴らしい。どうか私共を今日より死ぬまで弟子として受け入れて下さい。我々はあなたを信じ拠りどころとします」
 この論旨の眼目は簡明である。誰の教えであれその権威を受け入れる前に、それが経典に書かれているからとか、理が巧みに説かれているからとかで直ぐ受け入れず、表面上の考察や、説かれている信条や考えが気に入ったとか、もっともらしく見えるからとか、偉い人がいったことだからとかいったことだけで受け入れてはならない。それらの信条や考え方が健康か不健康か、いけないことかいけなくないか、幸福か不幸かどちらに導くことなのかを十分考慮しろということである。これらに基づいてのみ私たちは他人の教えを受け入れることができるのである。

 不可謬性の否定はドグマに陥ることから防いでくれますし、上記引用の中でも”経典は決定的で不可謬ではありえない”と書かれているように、またひゃっきまるさんも『仏教は超越的存在(神)であるとか、宗教的指導者(預言者)などを「絶対」とすることで信仰するのではなく、逆にあらゆる「絶対」に対する「否定」が出発点なのです。』との見解を示されておりますが、本来の仏教とは不可謬性の否定、苦しみを引き起こす悪しき状態、不健康、渇望、憎しみ、幻想、暴力などからの脱却のために説かれたとも言えるのではないかと私は思います。
posted by わめ at 19:50| Comment(3) | TrackBack(0) | ブッダとそのダンマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わめさん、こんばんは。

>そのひとつの共通点として「不可謬性の否定」が挙げられると思います。
>私がここでいう「不可謬性の否定」とは、私達には不可謬なことの有無や、
>不可謬なことがあったとしても確証することなどできないとする見解です。

私は(特に仏教の)経典が神聖なものと思いがちな心がどっかにあったので、
『ブッダとそのダンマ』の「経典は決定的で不可謬ではありえない」は新鮮に
聞こえました。

たとえばポパーによれば確かめることが可能でかつ確かめられたものほど信頼性が高く、
逆に確かめることができないものは信頼性はないということですね。

反証可能性 (Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%A8%BC%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7
「ある仮説が間違いかどうかを実験・観察の結果によって証明できる方法があることである。
 科学理論とは、反証可能性を備えつつ未だ反証されていない理論のみ生き残る
 「暫定的仮説」の性格を持ち、厳しいテストに耐え抜いた仮説ほど、
 より信頼性が高いとした。より詳細な予測を行うために潜在的な反証例をより多く
 持つ仮説をより反証可能性が高い仮説だとした。」

確証できないあるいは実証できないものは批判できないと思ってしまいがちですが、
たとえばポパー的立場では批判可能とのことです。
(アンベードカルはアンベードカルでヒンドゥー教を批判しています...)

「そしてポパーは、大部分の宗教的言明を科学でないものに分類す
るとはいえ、宗教的あるいは形而上学的レベルでの討論の可能性を否定し
ていない。つまり、ポパー的立場に立つかぎり、宗教の内部に立ち入って
宗教批判をおこなうことが可能なのである。現代日本におけるカルト宗教
のおぞましさに引きつけていえば、科学者はカルト宗教を別種の生活様式
としてたてまつる必要がないどころか、それらに立ち入って批判しうると
いうことである。」
(小河原誠『ポパー─批判的合理主義』〔現代思想の冒険者たち 第14巻〕、
    講談社、1997年、pp. 70-71)
 http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_001.html
(「みんなで考えよう」掲示板「仏教の源流から」スレ)

またポパーは科学者のような理にかなった傾向を持つ人間でさえも誤りを
避け難いことから新しい倫理観を提案してますね。
これは例外のない人間としての「不可謬性の否定」ではないでしょうか。

「ポパーは、誤ることなき知識をもつことができるし、もっているという古い職業倫理に対して、
 十二の原則からなる新しい職業倫理を提案する。その大部分は、
 ポパーの方法論的反証主義の一般化とみることができる。」

「誤りは、あらゆる科学者によってたえず犯されている。」
「それゆえ、そうした誤りを探求することが科学者の特殊な課題となる。」
「またわれわれは、最大級の科学者でさえ誤りを犯したことを思いだすべきである。」
(小河原誠 『ポパー──批判的合理主義』講談社、1997年、p.345-346)
http://page.freett.com/leo020503/maxim.html
(「哲学の言葉」「ポパーの基本思想」)
Posted by Leo at 2006年03月08日 23:50
引用の方ありがとうございます。
わめさんのブログもときどき見てますので…。
大変勉強になります。
Posted by ひゃっきまる at 2006年03月09日 00:58
 Leoさん、ひゃっきまるさんこんにちは。^^
 って返事が遅くて(*_ _)人ゴメンナサイ

 Leoさん

> 私は(特に仏教の)経典が神聖なものと思いがちな心がどっかにあったので、
> 『ブッダとそのダンマ』の「経典は決定的で不可謬ではありえない」は新鮮に
> 聞こえました。

 私も以前は経典や(日蓮の)御書を絶対的な教えとして疑う気持ちを持てませんでした。汗
 少し考えれば分かることなのに、経典や御書を書いた人も人間で、人間(仏や神と呼ばれようと)に誤りがないわけがないことに気が付かない時代がありました。

> たとえばポパーによれば確かめることが可能でかつ確かめられたものほど信頼性が高く、
> 逆に確かめることができないものは信頼性はないということですね。

> またポパーは科学者のような理にかなった傾向を持つ人間でさえも誤りを
> 避け難いことから新しい倫理観を提案してますね。
> これは例外のない人間としての「不可謬性の否定」ではないでしょうか。

 そういうことだと思います。(*゜▽゜*)


 ひゃっきまるさん

> 引用の方ありがとうございます。

 そう言っていただけると勝手に思ってました。(● ̄▽ ̄●;)ゞぽりぽり

> わめさんのブログもときどき見てますので…。
> 大変勉強になります。

 私もひゃきまるさんのごにょごにょ・・・で勉強させてもらってます。^^
Posted by わめ at 2006年03月19日 13:12
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