2005年12月20日

自性・無自性について

 また懲りもせず仏教”にも”関わる話題なのですが(^^;;、無自性についてLeoさんから掲示板でコメントを頂いてますのでご参考にしていただければと思います。また自性については佐倉哲氏のWebサイトの『空の思想--- ナーガールジュナの思想 ---第一章 自性論』で自性についてナーガールジュナの思想を語られておられますし、Libra師匠の『一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)』などで、わめはこれらのテキストからの自性・無自性の理解であったわけですが、くまりんさんの『出家とアビダルマ』を読んで、自性についての認識に誤りがあったのではないかと思い始め、これは「仏教は輪廻転生を説く教えか否か」について掲示板で、Libra師匠やくまりんさんやLeoさんが深い考察に基づき大変貴重な議論をされていることとも関わってくることでもあり、現在のわめの自性についての捉え方を改めて提示し誤謬の発見に努めたいと思っております。
 
 
 前述のくまりんさんの『出家とアビダルマ』から自性に関わるテキストを少し長いですが引用します。
アビダルマは認識論として表象の最小限の単位の記号化であって固執する対象にはなり得なかったダルマなんですね。その最小限の単位の記号化であるゆえに仏弟子たちは普遍性を与えて自性(vabhāva)を持つと定義した。自性(vabhāva)を持つとしたのは南方分別説でも同じです。だからテーラーワーダも同じです。ところがこれは大乗哲学が言うような法空で否定される自性(vabhāva)じゃないんですね。ブッダは定義しないことは語るな!と言った。ブッダは全て「ことば」は厳密に定義しているんです。定義しない「ことば」で議論しても議論にならないばかりか認識を人と共有することすら出来ない。ゆえに仏弟子たちは表象の最小限の単位を記号化して定義したんです。だから「修行者のための哲学・マニュアル」なんですね。それをレトリックで論破しても仏弟子たちからみれば「あー、そうですか。どうぞ頑張ってください」っていうしかないでしょう。だって縁起する自分自身の観察にその記号を利用するんであって煩悩と一緒にぽいぽいと滅していけばいいんですから。あるいは記号化を通してありのままを観察する手引きにすればいいんですから。長老はこう説きます。「物質やこころの現象を徹底的に分析した時は。『全てが空』という立場から説いたわけではないからです。 – 中略 – 『全てが空』という立場に執着して、全てその立場からだけ見ようとすると、空論以外は全て間違いだということになる。ただそれだけのことです。- p184」おお、なんと分かり易い。逆に言えば『全てが空』との思想の人だって「わたしとあなた」は空だから差異がない、「男と女」も空だから同じだとは言わないでしょう。「『全ては空』だと言っても寒いときは寒いし風を引いたら身体がくらくらします。『全ては空』でも、個々の現象は目の前にあります。悪口を言われたら怒ります。『一切皆空』など言葉とか哲学だけでいろいろいいますけど、それで現象の問題はなにも解決しません。- p183」。
 このように自性とは「修行者のための哲学・マニュアル」、「仏弟子たちは表象の最小限の単位を記号化して定義」と。
 認識主体が『全てが空』と諳んじることは認識主体も『全てが空』の内と捉えるわけですからおかしなことにもなってしまいそうです。(^^;; 皮肉な縦えでは、目の悪いお年寄りが交差点を渡るのに隣の人に「信号は今何色ですか?」と聞いて、聞かれた方が「全てが空です」と答えたのでは困ってしまうとも言えるかも知れません。(笑えないジョークですいませんw汗)
 このような自性ならわめにも理解できそうですし、自性・無自性が対立するものでもないと思うのですが、ただ『一切皆空』(無自性)と言うのは真実であり、少なくとも執着を捨てることの意味では有効に思います。

 それと引用記事のコメント欄でくまりんさんが書かれた、
一切の表象としての色(目に見え耳に聞こえ鼻に臭い舌で味が分かり身体で感触できる色)は空なんです。ぜーんぶ四大のそれぞれの構成比が違うものとして縁起した果が色ですから、そこには自性はなく生じては滅する空なんです。だけど四大のそれぞれは極限まで最小化された色の質量と結合の機能を表すから自性があると考えるんですね。
 の『四大のそれぞれは極限まで最小化された色の質量と結合の機能を表すから自性がある』は、わめ的解釈では自性と言うより性質との表現が合っているように思います。「四大のそれぞれは極限まで最小化」からは量子力学の世界を彷彿させますが、原子も原子核を取巻く電子の数でその性質が違うように思いますし、他のモノとの関係性によってその現れる反応も変化するわけですが、それが他のモノとの関係性が同じであっても、原子核の陽子や中性子の数の違いや原子核を取巻く電子の数の違いによりそれぞれの原子の反応が違ってくるわけですから明らかに性質が違うといえるかもしれません。

 いずれにしましても、自性・無自性ともそれぞれの人の立場に立って、どのように活かしていくかがポイントのように思います。

訂正2005/12/21 12:05

記事中の「皮肉な縦え」は、まったく的を射てないので該当箇所のテキストを打ち消し。

訂正2005/12/21 12:11

記事中の「認識主体が『全てが空』と諳んじること・・・」は、『全てが空』は『縁起するすべてのものが空』との解釈からは不適切であると思われますので該当箇所のテキストを打ち消し。
posted by わめ at 17:11| Comment(35) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わめさん こんばんは。

くまりんさんに書籍を紹介して頂いたのでアビダンマを少し勉強してみます。
(結構面白そうです)少ししたらまた感想書きます。
Posted by Leo at 2005年12月20日 23:16
Leoさん、こんばんは〜^^

あらw もう届いたの?
わめんちには今朝発送のメールは来たけど今日は届かなかった。(´・ω・`)ショボーン

わめも読んだら感想書くね。^^
Posted by わめ at 2005年12月20日 23:29
しかしわめが本を買って読むなんて岩波文庫の法華経(上中下巻)以来で何年ぶりだろw汗
Posted by わめ at 2005年12月20日 23:43
 ますます盛り上がっているようですね。本格的に参加できないのがほんとう
に残念です。

1.仏教は輪廻転生を説く教えか否か

 「仏教は輪廻転生を説く教えか否か」については、すでにいいたいことのほ
とんどをわたしは述べたつもりです。龍樹が『因縁心論』でいうように、「輪
廻の輪は誤った分別の習気によって生じさせられたものである」[*1]とわたし
はおもいます。梶山先生は、「輪廻は夢のようなものです。夢はない、とはい
えません。悪夢に苦しんでいる人にとっては、これほど深刻な事実はないでし
ょう。しかし夢から覚めたときに、人はそれが現実でなかったことをはじめて
知るのです。それと同じように、私たちが迷いの生存を生きているかぎり、輪
廻は事実です。しかし、さとったときにはじめて、私たちは輪廻が存在しなか
ったことを知るのです」[*2]といわれていますが、わたしもそのようにおもい
ます。


2.「自性」という語の多義性について

 くまりんさんは「自性」という語を龍樹とは異なる意味で使われているよう
におもいます。例えば、自性A・自性Bとかいうように、これらを区別して論
じないと議論が混乱するようにおもいます。ちなみに、『岩波仏教辞典』では
以下のようにも解説されています。

  「自性」「性」「本性」(『岩波仏教辞典』)
  http://page.freett.com/Libra0000/088.htm

 くまりんさんがいわれる意味での「自性」(自性A)というのは、わたしが
前にいった「概念」[*4]に相当するのかな、とちらっとおもいました。

 龍樹が「自性」という語をどのような意味でつかっているかについては、以
下の資料を参照されてください(わたしは松本先生の議論を正しいとおもうの
で、自性Bはさらに自性B1と自性B2に区別して論じたほうがよいとおもい
ます)。

  「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」(小川一乗)
  http://page.freett.com/Libra0000/086.htm
  

  『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗)
  http://page.freett.com/Libra0000/087.htm


3.「空(無自性)」という語の多義性について

 「自性」という語を異なる意味でつかわれていますので、くまりんさんと龍
樹とでは「空(無自性)」の意味も異なっているとおもいます。「ものが他に
よって存在することが空性の意味である、とわれわれはいう」[*3]というのが
龍樹の立場です。すなわち、他によって存在しないもの(=自性B)などはな
い(=無自性B)、すべては他によって存在するものである(=縁起説)とい
うのが龍樹の思想です。龍樹の空思想については、以下の資料も参照されてく
ださい。

  龍樹の空思想(新田雅章)
  http://page.freett.com/Libra0000/123.html


4.龍樹は批判対象を正確に理解していたか?

 わたしは龍樹の空思想を支持しますが、龍樹が批判対象を正確に理解してい
たかどうかまでは追跡していません。もしかしたら、龍樹は批判対象を正確に
は理解しておらず、それゆえ、龍樹が批判対象とした思想などは実はどこにも
なかった(ただ龍樹の頭の中だけにあった)という可能性もないわけではない
でしょう。その場合には、《龍樹が批判対象とした思想》と《龍樹自身の思想》
は、客観的には(龍樹の自己解釈に反して)矛盾しないということもありえる
でしょう(だとすれば、わたしは《龍樹が批判対象とした思想》を肯定するか
もしれません)。

 そして、「龍樹を批判対象とする人の龍樹理解は正確か?」というのも全く
同じ問題だとおもいます。


  [*1] 梶山雄一『空入門』、春秋社、1992年、p. 191。

  [*2] 同上、p. 196。

  [*3] 『廻諍論』第二二詩節、梶山前掲書、pp. 138-139。
  
  [*4] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1127661169/33
Posted by Libra at 2005年12月21日 02:22
Libra師匠、こんにちは。^^

貴重なテキストとリンク、ありがとうございました。
寝る前と起きてからリンク先を頭を捻りながら何度も読んでたら書き込むのがこんな時間になっちゃったw汗

年末年始お時間がとれて、たっぷりのご参加を楽しみにしています。
Posted by わめ at 2005年12月21日 12:00
わめさん、こんにちわ。 Libraさんはじめまして。

今日は誰も相手してくれへんから、ネット覗いてたら発見しました〜!

僕が可謬とか無謬っていうの、Libraさんの雑記の「対話主義と可謬主義」を読んだからなんです。
大分前に隣の女子部をはじめとする回りのSG員との対話が噛合わなくて絶望的な気分になってたとき、
どこから行ったか覚えてませんが「対話主義と可謬主義」に行き着いて「これや〜」と思いました。
それから若干SG員との付きあい方も考えるようになりました。

アンチとシンパの対話が成り立たないのもあたりまえですよね。
他の難しい宗教論はよく理解できませんが、またよろしくお願いします。
Posted by 三九郎 at 2005年12月22日 17:57
三ちゃん、こんばんは。^^

(ノ´▽`)ノオオオオッ♪ 三ちゃんも以前にLibra師匠のテキストに触れられていたのですね。
http://freett.com/Libra0000/z023.html

> アンチとシンパの対話が成り立たないのもあたりまえですよね。

そうですね「可謬主義的な視点が絶望的に欠落」している方とはどうしても対話にはなりません。
人は思想に自身が乗っ取られてテロ行為にも及ぶこともありますね。怖いです。
三ちゃんのように余り(まったくかw)高尚なことを考えない方は大丈夫だと思いますけど。爆

それに三ちゃんは人に安心感を与えてくれますね。人徳ですね。(*´∇`*)
Posted by わめ at 2005年12月22日 19:37
そうなんです、今日Libraさんち覗いて、あ〜これや〜。
そうやったんや、Libraさんやったんや〜って。

まったく高尚なこと考えないで悪かったねっ!
Posted by 三九郎 at 2005年12月22日 22:05
>人は思想に自身が乗っ取られてテロ行為にも及ぶこともありますね。

守るものや、大切なものができると、それを守るために他者にたいして冷酷な仕打ちができますからね。

本人は他者を傷つけても、その行為を冷酷とは思ってない(無自覚)のが怖いところですね。

自分の居場所がなくなるという、恐怖からくる攻撃性てやつですね。
Posted by ナマズ at 2005年12月22日 22:51
三ちゃん、ナマズさん、こっちでも再々こんばんは。^^

> そうなんです、今日Libraさんち覗いて、あ〜これや〜。
> そうやったんや、Libraさんやったんや〜って。

☆^∇゜) ニパッ!!

> まったく高尚なこと考えないで悪かったねっ!

悪くはないですよ。わめは誉めているんですからね。^^

> 守るものや、大切なものができると、それを守るために他者にたいして冷酷な仕打ちができますからね。
>
> 本人は他者を傷つけても、その行為を冷酷とは思ってない(無自覚)のが怖いところですね。

 これは思想に自身が乗っ取られていない一般の方に言えることですね。
 テロの場合などは思想的背景が大きいと思いますが、でも守るものや、大切なものが危険に晒されているとする思想的背景もありますから微妙ですね。(^^;;

> 自分の居場所がなくなるという、恐怖からくる攻撃性てやつですね。

 組織・団体・思想を守るため、敵対勢力に攻撃を仕掛けるとか色々ありそうです。

 ただ「守るものや、大切なものができると、それを守るために他者にたいして冷酷な仕打ち」はわめは賛成できないな。
 そのような状況になる前にはそうならない努力はしますが、その場に立つと蛇に睨まれたカエルなわめでありそうです。(^^;;
Posted by わめ at 2005年12月22日 23:11
>冷酷な仕打ち」はわめは賛成できないな。

nanaさんて、人を傷つけてるて意識はほとんどないなーて暴言はいてるレスみながら思いました。

>その場に立つと蛇に睨まれたカエルなわめでありそうです

僕はその場から立ち去るかな。
Posted by ナマズ at 2005年12月23日 07:11
ナマズさん、こんばんは。^^

ナマズさんのおっしゃている方がどうかは分かりませんけども、

> 人を傷つけてるて意識はほとんどないなーて暴言はいてるレスみながら思いました。

誰であってもこれは怖いと思います。
意識があれば自制が利くのでしょうけどその意識がないとそれさえ働きませんからね。

> >その場に立つと蛇に睨まれたカエルなわめでありそうです

> 僕はその場から立ち去るかな。

その見解も分かります。(^^;
わめが色々学んできたことの中にはそのようなことも含まれますし、また他にもね。
ただそれらのいずれかがわめの意思を決めるに至ってないのと、漠然とその場に立った時に覚悟好きなわめならこうなるのかなぁって予測してみました。汗
Posted by わめ at 2005年12月23日 18:31
わめさん、Libraさん こんにちは。

中間連絡です。

Libraさん曰く:
>わたしは龍樹の空思想を支持しますが、龍樹が批判対象を正確に理解してい
>たかどうかまでは追跡していません。

>そして、「龍樹を批判対象とする人の龍樹理解は正確か?」というのも全く
>同じ問題だとおもいます。

とのこと。数年前、LibraさんとASCさんの紹介で、

 (a) 小川一乗 『大乗仏教の根本思想』 法蔵館

という本を読んだのですけどアビダンマやナーガルジュナの捉え方が、

 (b)『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』

と異なるのですね。それに(a)のアビダンマ批判が正確か、(b)のナーガルジュナ批判が正確か
ということについては疑問が残ります。

そういう点はありますが、(b)はアビダンマを現代的にわかりやすく解説されているところが
興味深いと思います。
Posted by Leo at 2005年12月24日 13:46
Leoさん、こんにちは。^^

中間連絡アリガト!(´▽`)

 わめはまだ1/3も読んでないけどもう挫折気味です。(>▽<;; アセアセ
 でも買ったからしっかり読んで元は取ります。笑
 概念的には面白いかもと思いますけど、またその概念の中の真理限定なら受け入れられなくもないけど、(物質に)直接の触れた体の部位に心が生じるというところではこけちゃいましたw(o_□_)oドテッ
 これだと脳死状態でも心が生じることになってしまいそうですがわめが何か勘違いしてるのかなw汗
 謎が解けるかもなので頑張って続きを読みますね。(^^;
Posted by わめ at 2005年12月24日 14:23
中間連絡 その2 です。

>このような自性ならわめにも理解できそうですし、自性・無自性が対立するものでもないと思うのですが、
>ただ『一切皆空』(無自性)と言うのは真実であり、少なくとも執着を捨てることの意味では有効に思います。

仮にアビダンマのいう自性が量子(最小単位)のようなもだとすると、自性の有無はそれぞれ存在の
二面性を捉えたものということになるかもしれません。また自性の有無のどちらの説を用いても最終的に
執着(法についても)を捨てるならば流儀の違いということになるようにも思います。
(たとえば『摩訶止観』の最後の方では「法をまねく破せ」となったりしています)

あと下のような主張があるのですが、釈尊の言っていることはひとつだったのではないかとか、
セクトをこえて共通したものを見いだす場合も出てくる場合がある、というのは有益かもしれないです。

○ 最後は自分の信念によって選びとるしかない(田村芳朗)
http://page.freett.com/Libra0000/007.html

「しかしながら、宗教も結局は思想の結晶であり、思想は、客観的視野に立ちながらも、
 最後は自分の信念によって選びとるしかないものである。仏教にしても仏教の経典にしても、そうである。
 ただ、それが主観的・恣意的なものに終わらないよう、できるだけ客観的視野に立ち、客観的な場に照らして
 見なければならない。これが、ひいてはセクトをこえて話しあい、語りあい、ときに交わりあうことにもなり、
 また現代的立場からの仏教の再評価ともなるのである。」

「ともあれ、諸仏教・諸経典は、すべて発展的産物であることが自明の理となった以上、
 それをありのままに受けいれつつ、発展のあとを客観的にたどり、その上で、それぞれの思想の特色を浮きぼりにし、
 選びとることが残された唯一の道である。またその結果、共通したものを見いだす場合も出てこよう。」

○「選択」とは(小川一乗)
http://page.freett.com/Libra0000/090.htm

「そういう立場で釈尊の仏教といわれているものから贅肉を取り払って、いろいろな作り話や、
 そのための死体となっている教理をカットして、釈尊の真髄に迫っていったら、龍樹の言っていることも、
 親鸞の言っていることも、釈尊の言っていることも、ただ一つの事柄について言っているのであるということが、
 すこし見えてくるのではないかと思います。」
Posted by Leo at 2005年12月24日 21:30

 三九郎さん、こんばんは。こちらこそ、よろしくおねがいします。

 拙文「対話主義と可謬主義」を読まれて、三九郎さんが「これや〜」とおも
われたとすれば、それはすべてポパーの議論の説得力によるのだろうとおもい
ます。
Posted by Libra at 2005年12月24日 23:53
 Leo さん、こんばんは。

1.龍樹はアビダルマ論師たちのいう「自性」の意味を正確に理解していた

 わたしは (b) を読んでいませんので、 (b) の主張内容が龍樹の主張内容と
どのような関係にあるのかはわかりません。お気づきの点がありましたらぜひ
ご教示ください。

 わたし自身は「龍樹が批判対象を正確に理解していたかどうかまでは追跡し
ていません」が、わめさんが尊敬されている佐倉さんの追跡[*1]をわたしなり
に追いかけてみたかぎりでは、龍樹は批判対象を正確に理解していたといえる
ようにおもいます。佐倉さんは、『阿毘達磨大毘婆沙論』を追跡されて、以下
のように結論されていますが、わたしは、この佐倉さんの議論を支持します。

  ─────────────────────────────────
  アビダルマ論師たちによれば、存在を構成している諸々のダルマには必ず
  自性があり、〔中略〕自性は、原因もなく無条件的にダルマに存在し、未
  来・現在・過去を通して存在する恒常的かつ不変的な何かです。ここには、
  まさに、ナーガールジュナが批判する自性の恒常性、不変性、不滅性、自
  立自存性などの性質が明らかに認められます。

  (佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、
    http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html
  ─────────────────────────────────

 佐倉さんの議論にあらわれた『阿毘達磨大毘婆沙論』のポイントとなるであ
ろう文を以下に抜き出しておきます(和訳は佐倉さんのものをそのまま引用さ
せていただきます)。

  ─────────────────────────────────
  (ダルマが)自性を含むのは、時間と原因を待たずに含むこと意味してお
  り、それは究極の意味における「含む」ことである。「時間を待たずに」
  とは、諸々のダルマが、時には自性を持たないということがないことをい
  う。ダルマは一瞬たりとも自体(自性)を捨てないからである。「原因を
  待たずに」とは、諸々のダルマは原因なしに自性を含んでいることを言う。
  原因や条件を待たずに自体(自性)が有るからである。

  攝自性者。不待時因而有攝義。是究竟攝。不待時者。諸法無時不攝自性。
  以彼一切時不捨自體故。不待因者。諸法無因而攝自性。以不待因縁而有自
  體故。

  (『阿毘達磨大毘婆沙論』卷第五十九、大正蔵第27巻、p. 307a)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  問う。なぜ「諸々のダルマはそれぞれ自性を含む」と(アビダルマ経典に)
  書いてあるのか。答える。〔中略〕自性はそれ自身、過去に存在しないと
  いうことも、現在に存在しないということも、未来に存在しないというこ
  ともあり得ず、常に存在するのであるから、「(ダルマは)自性を含む」
  説いているのである。自性はそれ自身、増加もせず、減少もしないから、
  「(ダルマは)自性を含む」説いているのである。諸々のダルマが自性を
  含むというのは、〔中略〕(ダルマは)それぞれの自体(自性)を執持し、
  決して散壊させることがないので、「(ダルマは)自性を含む」と説いて
  いるのである。

  問云何諸法各攝自性。答〔中略〕自性於自性非不巳有非不今有非不當有故
  名爲攝。自性於自性非増非減故名爲攝。諸法自性攝自性時。然彼各各執持
  自體令不散壞故名爲攝。

  (『阿毘達磨大毘婆沙論』卷第五十九、大正蔵第27巻、p. 308a)
  ─────────────────────────────────


2.言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は説き示されない

 龍樹は「〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示され
ない」[*2]といっています。「言語慣習」というのは、「概念の体系」を前提
とするものだとおもいますので、龍樹も「概念の体系」に依拠して自らの思想
を語っています(あたりまえですが)。もっとも、龍樹の場合には、《「概念」
もまた自性Bを欠くものである》と考えていたでしょうから、「概念の体系」
は plastic であるという視点[*3]をもっていたのではないかとわたしは推測
しています。


3.ゆきつくところは同じか?

 龍樹のいっていることと釈尊のいっていることは同じであるとわたしは理解
しています。しかしながら、いまのわたしには、アビダルマ論師たちのいって
いることと釈尊のいっていることが同じだとはおもえません。

 田村先生は「諸経・諸宗の底に共通したものが流れており、ゆきつくところ
は同じだということはあくまで前提であって、検討した結果そうなったという
のではない。そこにこの考えかたの限界があり、事実また、経典や宗派の間に
根本的に相容れないものがおこり、対立をおこしている例もある。とすれば、
後者の考えかたを結局はとらざるをえないことになる。すなわち、これこそ深
い思想であり、シャカの真意であるとして討論し、ときに対決しあうしかない
ということである」[*4]といわれていますが、わたしもそのようにおもいます。


  [*1] 佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

  [*2] 龍樹『根本中論偈』第二四章第十偈、三枝充悳訳『中論(下)』
     〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 641。

  [*3] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1127661169/33

  [*4] 最後は自分の信念によって選びとるしかない(田村芳朗)
     http://page.freett.com/Libra0000/007.html
Posted by Libra at 2005年12月25日 01:32
わめさん、Leo さん、Libraさん、おはようございます。
 Libra さんのご発言はなにか性急さ感じ違和感を持ちました。ご自説の補強に毎回色々な研究者のテクストを引用されていますが、以前意にそれらでは僕は説得され得ませんという言い回しで掲示板の方でコメントさせていただきました、意味するところはそれらのテキストは最新の仏教学では批判的に扱われ議論としての真を揺るがされている部分を持つテキストでもあるということです。信仰としてお考えならばそれは結構なのですが皆さんに学説として情報を提供する場合如何なものでしょうか?と思います。輪廻にしても自性にしても議論としては性急に結論を急ぐべきのようなものではないと僕は考えますので皆さんに議論以前の思考のオプションとして提供し、しばらくは旧説の繰り返しではなく新たな議論として複雑で混沌としたまま記述しておけばいいのかなと思います。(以下研究者の敬称は略)

 例えば松本史朗は名指しではないものの佐倉哲のような関係性においてのナーガルジュナ理解を明確に批判し否定して、ナーガルジュナの言う縁起はブッダの十二支縁起であり時間的に不可逆なものであると主張しています。また袴谷憲昭はそれを後押しするようにナーガルジュナの縁起思想を関係性で理解することは場所的な相互依存的因果理解であり場所という基体に立つものであって時間である縁起を説いたブッダの思想とは明確に対立する概念で仏教ではないと言っています。こうした議論は已に Libra さんが引用されている同じテクストの別の部分で言及されていることであり、たとえばわめさんが師匠と慕っていらっしゃるくらいですからこういう議論をわめさんにご提供されてもよいのではないかと思っていたのですが。ご自分が松本の中観説を支持する表明をされるのであれば別途では中心的に取り上げる佐倉との相違点、しかも決定的な相違点は指摘されるべきであると思いました。

 わめさんにもう一点。テーラワーダと創価学会に同じカルト性をみるようなことを仰っていましたがそれはわめさんのご経験からすれば致し方ない事かも知れません。しかし世界中の仏教研究者、それを職業もしくはそれでお金をもらっている人はおそらく数千人に及ぶかも知れませんが彼らはおおむねテーラワーダ仏教を仏教と考えていますが創価学会は仏教とは考えていません。特にジャック・デリダの薫陶を受けた碩学フランスのベルナール・フォールとその研究グループは中国や日本の仏教思想は臨済禅思想とその照射であると考えており天台や浄土教などは思想とは認めずむしろディコンストラクシオンされるべき東アジア仏教の悪しき習慣として位置づけています。フォール自身は仏教を複雑で混沌としたまま記述しようとする研究者なのですがその彼をもってしても東アジアから思想を取り出そうとしたときに禅しか見えないという誤りを犯すことになります。彼のように余分な贅肉をそぎ落とさず歴史をそのまま記述しようとする研究者ですらそうなのです。勿論彼はスリランカ上座部を仏教として認めていますが。後述する下田正弘が言うように単純にブッダの思想、ナーガルジュナの思想というように歴史と切り離し単純化しようとする研究態度が以下に危険で観念的なものであるかを示唆するものでしょう。
Posted by くまりん at 2005年12月25日 10:17
---つづき
 ナーガルジュナについても梶山雄一、松本、佐倉とは視点の違う研究が石飛道子、グレゴリー・ショペンによって為されているのでご存じでしたら失礼とは思いますが Leo さんやわめさんにも紹介したいのでちょっと書きます。石飛はナーガルジュナのテクストであるとされる『方便心論』の研究で成果を上げたニヤーヤ哲学を専門とする研究者ですがナーガルジュナ研究で新たな地平を切り開きました。石飛によればナーガルジュナの論理は主にサンユーッタ・ニカーヤ、アングッタラ・ニカーヤ、マッジマニカーヤで使われるブッダの説法を成立させる論理の忠実な模倣であるとし、松本の主張・ナーガルジュナの縁起=時間を支持しています。そして最も興味深い点はブッダの論理は三つのパターンがあるとしている点です。(『ブッダ論理学五つの難問』)最近ではナーガルジュナのレトリックは結局ニヤーヤに論破されたと発表しました。

1.存在論を対象として語る。「〜がある」「〜がない」という形式を用いる言語世界。ブッダの認める「生じ滅する」ダルマだけが代入を許される。それ以外は無記とされる世界。
2.認識論を対象とする言語世界。おもに「〜は・・・である」という形式。主に五蘊非我を説く文。これらをブッダは「自己ではない」として存在要素であるダルマとしています。阿含経典では「無我」は「自己ではない」という意で用いられている。そしてブッダは明らかにダルマの存在を示唆しています。
3.日常の言語で語る。積極的に自己を語る。阿羅漢に達した人、すなわち修行を完成した人は「わたし(アハン)」という暗黙の了解の自己を用いて相手に合わせて言語表現に囚われない。

 これらの3つの要素をブッダは弟子達にも説き、このように法を説け!このように教えを暗唱しろ!とも述べているのですがそれが阿含経典として口伝で伝承されたと考えても良いと思います。こうした分析の仕方は宮本啓一との共同研究の成果でしょうがすでに原始仏教は「非我」説を採用していたとして経典のこうした分類を示唆させるテキストは Libra さんが良く引用される三枝充悳の『初期仏教の思想』にも述べられており中村→三枝と漠然としていた説を宮本、石飛の両氏がヴァイシェーシカ、ニヤーヤ、サーンキヤとの比較検討でまとめ上げたと言っても良いでしょう。袴谷は最近パーリ三蔵は仏説としてもっと尊重されるべきであると発言しました。榎本文雄にはブッダはヤージニャ・ヴァルキアの忠実な後継者であり彼の思想を発展させたと言いうるという宮本・石飛説の補強にもなる主張があります。したがって宮本は業と輪廻を仏教から排除するのは論外とまで言い切り前述の「ブッダの論理のは三つのパターン」を持って阿含経典を検討すればまったく矛盾なく論理として成立し、初期経典に矛盾があるなどという仏教学者の説はインド論理学を理解しない「たわごと」だと断言しています。

 また梶山の「輪廻は夢のようなものです。夢はない、とはいえません。悪夢に苦しんでいる人にとっては、これほど深刻な事実はないでしょう。しかし夢から覚めたときに、人はそれが現実でなかったことをはじめて知るのです。」と言う主張は学者がたいそうに述べるような研究成果だとは到底思えないとする僕に岡野潔はそれは大衆部系の説出世部『マハー・ヴァストゥ』に顕れる表現であり説一切有部や南方上座部は断固こういう思想を拒否したと示唆下さり、また平岡聡は『マハー・ヴァストゥ』と般若経群の相互依存関係は注目すべきとしています。こうした三蔵に入らない仏伝や説話はまだ解明の終わっていない、あるいは研究者が手をつけていないカローシュティー文字の椰子葉はまだまだ多数有り九大岡野教授はサンスクリット原典研究の希望者を募集しています。一つの思想を廻る成立背景や事件などまだまだいろいろあるでしょうにそれらを机上にすら上げることができない段階です。
Posted by くまりん at 2005年12月25日 10:18
---つづき
 『阿毘達磨大毘婆沙論』に対する佐倉の態度は基本的に誤りがあると思います。『婆沙論』とナーガルジュナの著作に対してのテキスト批判の方法論に相違が見られるからです。佐倉はナーガルジュナ思想を理解するためには阿含経典や『婆沙論』を比較検討してその思想を文献から抉り出す作業をしていますが、何故か『阿毘達磨大毘婆沙論』については文献解釈だけしか試みていないようです。そもそも『阿毘達磨大毘婆沙論』はテーマの提起と解釈の指示、テーマにあがった由来、連結と三パーターンのテキストでセットになっておりその中でテーマの提起と解釈の指示部分を文献解釈したところで有部の思想的意図は一方向性しか見えません。連結はツッコミどころ満載ですが連結部分とラップする『根本説一切有部律』の説話部分を探し出し、その説話に対応する『ケン度部』と『婆沙論』の由来部分の比較検討によって始めてその思想が浮かび上がるもので、こうした方法論は研究者の間では常識的に行われている方法であり佐倉は致命的なミスを犯したと言っても過言ではないでしょう。ナーガルジュナファンの思いとしては良いテキストだと思いますが学術的な信頼性は首を傾げざるを得ません。

 例えばナーガルジュナは「戒だけに関してさえ、ブッダはシャーリープトラの領域さえ超越している。ブッダの概念が不可思議なるものとしてどうして認められないのだろうか。」とイライラした心情を『ラトナーヴァリー』に書き綴りましたが、この『全ては空』の学僧の焦りは「大乗の抱える問題と共に嘲笑、あざけり、侮辱の対象になっていた」とグレゴリー・ショペンは指摘しています。たしかに『全ては空』に似つかわしい態度ではありません。『ラトナーヴァリー』の分析とナーガルジュナのテキストから彼を大学者ではあったものの党派心の強い説教術を持つ小さな戦闘的集団の一員であったとし、仏教史の中での彼の果たした負の面の指摘。そして「ある運動の提唱者がたとえそれが真実ではないとしても、その活動が嘲笑の対象になっていることを自ら繰り返し主張するというようなことは自滅的な行為であったことを示唆しています。それは彼になにもよいことをもたらさず、その論理に基づいて行われる議論を台無しにしてしまったことでしょう。」とナーガルジュナがその空思想を実践できなかった人であると指摘しています。また袴谷は前述したような文献の比較検討によって「私個人としては法を絶対する法無我は(仏教としては)必要ないと考え、我を絶対否定した上でなら、あらゆる第六意識の対象については『xという法であり、非xという法ではない」というように、拝中律を守って「相対否定」を用いていくだけで充分ではないかと考えている。従って、絶対否定が必要なのは『xという法がある』という主張が実在論的に行われる場合に『xという法はない』と批判する際だけではないかと考えるのである(『仏教入門』)」と述べ、アビダルマに対しての考えかたはほぼスマナサーラ長老と視点を一にしていますがこれは僕もまったく同感です。袴谷のこのテクストにおいて「我を絶対否定」とは存在論としては我に対して無記、認識論としては自己ではない五蘊非我が示唆もされています。

 おおよそこうした態度を取る研究者は下田正弘、グレゴリー・ショペン、リチャード・サロモン、ベルナール・フォール、宮本啓一、石飛道子、小谷信千代を始め、佐々木閑、松田和信、岡野潔、榎本文雄、平岡聡、最近では袴谷憲昭もこちらよりで枚挙に暇がないくらい多数の研究者がこうした態度を取るようになり、僕などもその末席を汚しているのかも知れませんが前提となる研究態度は「仏教から余分な贅肉をそぎ落としていって明瞭な仏教を導き出す」批判仏教までの態度ではなく、批判仏教の成果を踏まえながら仏教を複雑で混沌としたまま記述していこうとする態度です。勿論小乗と大乗についても既成のパラダイムを取り払い連続性を認めていく態度をとります。このような揺さぶりがなぜ起きたかと言えば批判仏教で明瞭になったかとも言えはするるものの、逆に観念的な面も拭えない理性的な仏教に対する批判的態度でしょう。さらにテーラワーダ仏教の活躍も無視できません。批判仏教は体験としての悟性の問題を議論から積み残し、あるいは排除しましたが、「さとり」はブッダ自身の体験として説かれているし、その為の方法論として仏教には存在論、認識論があるからです。理性を語り尽くしたところでやはり仏教にはなり得ないからだとも言えます。

 最後に下田正弘博士のメッセージを引用して今日は終わります。
----------------
 研究者たちは、「その中には、正しいものと間違ったものが混在しているからだ」と考え始めます。そして「正しい仏教は同質の正しい起源に、間違った仏教は同質の間違った起源に発しているはずではないか」と理解し、仏教の起源にあるブッダは、純一な、無誤謬な、理性そのものとでもいうべき人間として仮定されてしまうのです。
 しかし考えてもみてください。こんなことが歴史的な、実証的な研究から帰納されることがあり得るでしょうか。たしかにもともと、ブッダの姿は、ブッダ自身が弟子たちに刻印したものと考えることができるでしょうが、そのブッダのイメージを後世に向かって表現したのは、つまり刻印したのは、ブッダではなく弟子たちです。となれば、今われわれに残されたブッダをめぐる伝記資料は、ブッダ自身の表現なのか、弟子たちのブッダをめぐる心象の表現に過ぎないのか、けっして一方に決着できる問題ではないのです。しかも、弟子たちの個性は多種多様で、理知的な弟子から感性的、あるいは情緒的な弟子まで、律法的に厳しいものから、感覚的に自由なものまで、際限なく、幅広く存在しています。資料が示すブッダが、まさにこの複合体としての存在になるのは当然のことであります。けっして純化され、結晶化された単なる存在などに落ち着くはずはありません。(仏(ブッダ)とは何か『駒澤短期大学仏教論集 5号』(駒澤短期大学仏教科/1999.10所収)より)
-----------------

********
- 生きとし生けるものが幸せでありますように -
Posted by くまりん at 2005年12月25日 10:19
 くまりんさん、Libra師匠、Leoさん、こんにちは。^^

 こうして皆さんのテキストに触れられるわめはなんて果報者なのでしょう。(*´∇`*)

 くまりんさんご指摘の、

> テーラワーダと創価学会に同じカルト性をみるようなことを仰っていましたがそれはわめさんのご経験からすれば致し方ない事かも知れません。

 は、創価学会(広い意味で日蓮仏法含む)の強信な信者、広くは他の宗教やあらゆる思想などを絶対的に信じる強信者の態度を知る者にとっては、わめに限らずともそのような印象を持つのではないかと思います。
 またそのような人を知らずとも何とはなしに感じることができる方もそう少なくはないと思います。
 言わば唯一絶対思想への強信者の態度には、共通性がみられると感じております。
 唯一絶対思想とは対象となる思想が、他のあらゆる思想よりも優れているとする主張が含まれる思想を指して使っています。
 ただ、カルト性といった意味ではカルトの定義も曖昧に思いますし、唯一絶対思想への強信者の態度がすべてカルトと思っているわけでもないのですが、他者の意見をその思想の尺度から判別しそれに合わない場合や、その思想からは低レベルと定義される場合や、その思想にない意見は受け付けない・批判的になるといった態度や、意見を異にする者を見下す、哀れむ、蔑むといった態度がその言動から現れることが顕著であるように感じるのと、この現実社会においてこのような態度は決して良いものとは言えないとわめは思っておりますし、この点においてテーラワーダもわめの言う唯一絶対思想、その強信者にはそのような態度が見受けられると思います。これがわめの誤解であるならば、ご指摘願えたらあり難いです。^^

 話は変わりまして”縁起”の解釈について、十二支縁起を指すのか、スッタニパータなどにみられる「これがあるとき、かれがある。・・・・」などの縁起の思想を指すのかで、捉え方が違っているように思うのですが、ブッダの真意がどちらの縁起にあるのかは興味深くこの後の議論に期待しています。

 それとわめが今のところ議論に入れないなと思うことがダルマとは何を指しているかと言うことが分からないので、できましたらこのダルマの定義をどなたかが提示していただき議論し、ダルマの定義を定めないとこの記事の主題でもあります『自性・無自性について』の議論が空回りしそうに感じています。
Posted by わめ at 2005年12月25日 11:42
 くまりんさん、こんにちは。ご丁寧なコメントをありがとうございました。

 わたしの考えについて補足しておく必要があると感じた点につき、以下にコ
メントさせていただきます。

1.わたしの考えは最新の仏教学の批判には耐えていないのかもしれません

 わたしは、今現在、仏教を学問的に研究できる身分にはありません。仏教学
関係の資料も、現在はほとんど所持していません。わたしの現在の仏教学的知
識は、数年前のそれと比べて一歩も進歩しておらず、むしろ退歩しているだろ
うとおもいます。読者の方には、このことを念頭におかれたうえで、拙文を読
んでいただけたらとおもいます。

 アルブレヒト・デューラーは、「しかし、わたしよりも有能な者が真実を推
察し、その仕事の中でわたしの間違いを証明して、論破できるようにするため
に、わたしが学んだ僅かばかりのものを世に出そうと思います。ここにおいて、
自分がその真実の明らかにされるに至る手段になったということに、わたしは
喜びを感じます」[*1]といっていますが、わたしもこのような気持ちでいろい
ろと書いているのだとご理解ください。


2.初期経典に矛盾があるという仏教学者の説は「たわごと」か?

 「わたしはこのことを尊師からまのあたりに直接に聞いた。まのあたりうけ
たまわった。〔中略〕これが師の教えである」というようなことが初期経典と
いう形で現在に伝わっているとしても、「それらの文句を、(ひとつずつ)経
典にひき合せ、〔中略〕経典(の文句)にも合致〔中略〕しないときには」
「これはかの尊師の説かれたことばではなくて、この修行僧の誤解したことで
ある」という「結論に到達すべき」である[*2]とわたしはおもっているわけで
す。初期経典を編集した人たちの〈典拠への参照〉が完璧だったとすると、初
期経典に矛盾はないということになるのでしょうが、わたしにはそうはおもえ
ません[*3]。初期経典の編集者が意図的にシャカの「ことば」に操作を加えた
などとはわたしもおもっていません。ただ、シャカの言葉を誤解した修行僧も
いただろうとおもうし、編集者の参照吟味も完璧ではなかっただろうとおもう
のです。


3.佐倉説と松本説

 わたしの「この佐倉さんの議論を支持します」という発言は、佐倉さんの
「第一章 自性論」に限定していったものだとご理解ください。この部分につ
いては松本説と矛盾しないとおもいます。

 1996年7月11日発表の佐倉さんの「序章」[*4]については、松本先生
の『縁起と空─如来蔵思想批判─』(大蔵出版、1989年)や小川先生の『大乗
仏教の根本思想』(法蔵館、1995年)に触れていない点を不思議におもいます。

 佐倉さんの「第二章」[*5]については、支持しない部分のほうが多いかもし
れません。たとえば、「有」と「無」についての解釈は、小川先生の解釈を支
持します。


  [*1] カール・R・ポパー『確定性の世界』(田島裕訳、信山社、1998年)
     の 88 ページから孫引き。

  [*2] 〈典拠への参照〉(『大パリニッバーナ経』)
     http://page.freett.com/Libra0000/004.html

  [*3] http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/239

  [*4] 「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 序章 方法論」
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku00.html

  [*5] 「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第二章 縁起論」
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html
Posted by Libra at 2005年12月25日 14:44
 わめさん、こんにちは。

 「ダルマ」というのはいろんな意味でつかわれる言葉なので、わめさんが混
乱されるのも無理はないとおもいます。

 今の議論では、佐倉さんのように、「「もの」あるいは「事物」」[*]という
理解でよいのではないでしょうか。

  [*] 佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、
     http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html
Posted by Libra at 2005年12月25日 15:07
わめさん、こんにちは。
>>この点においてテーラワーダもわめの言う唯一絶対思想、その強信者にはそのような態度が見受けられると思います。

 テーラワーダは議論の俎上に引き上げない限り不特定多数に向かってそのようなことはないと思います。とゆーかさんにしてもいきなり出てきたわけではなく「テーラワーダ仏教で言う障害」でわめさんの批判があったから応えに出て来られたのではないでしょうか。
  
 教団としてのテーラワーダは日本仏教の各派やキリスト教教団とも交流をしていますし、僧伽としての活動はそのスタート時点から社会に適応しており、創価学会のように真面目な信者から集めた財施を批判ではなく罵詈雑言で罵倒した教団への裁判費用ですとか、殺人事件に関与するような噂ですとか、出版妨害事件ですとか、盗聴事件で敗訴して有罪判決を受けるような世俗のルールを破るようなことはしていません。

 とゆーかさんとわめさんとのこちらでの議論はあくまで個人対個人の議論に納まるものではなかったですか。例えば他のテーラワーダの方も今回の議論は承知していたにもかかわらず、とゆーかさんを加勢に発言される方はおられず、あくまでもとゆーかさんとわめさんとの議論と言うことで見守られバトルになるようなことはなかったと思います。これが例えばわめさんのところではなく、わめさんが言われるような「創価バリバリ会員」のブログに僕なりとゆーかさんが出て行ったらおそらくバトルになってこちらが罵詈雑言で罵倒されたことでしょう。2chの創価系の版でも僕の大乗仏教成立に関するエントリに賛意を示してくださったかたがいらっしゃるんですが、他の方の反応をみるととてもじゃないけど発言する気にはなれません。

>>ブッダの真意がどちらの縁起にあるのかは興味深くこの後の議論に期待しています。
 十二支縁起が僕や宮本啓一が言うようにブッダの思想の確信として口伝されたと仮定するならば、スッタニパータなどにみられる「これがあるとき、かれがある。」は「無明があるとき行がある」「無明がなければ行はない」との時間的因果関係を指す十二支縁起のことになると言えます。ブッダの思想は四聖諦にも時間は貫かれており、弟子達によるアビダルマも存続し続ける過去とその自己反省による未来の選択も時間です。また前述の石飛道子によれば「〜がある」「〜がない」という形式を用いる言語世界はブッダの認める「生じ滅する」ダルマだけが代入を許されることになるので生じ滅するダルマとはブッダ財世時の十二支縁起であり、部派の時代になればより細かく記号化されたアビダルマのダルマですからやはり十二支縁起と解釈するべきであると考えます。
Posted by くまりん at 2005年12月25日 16:35
---つづき
 また時間が止まった空間的な解釈は比丘ではなく一般的なインド民衆に見られる世界観であるので、そうした解釈は大衆部系の文献に見られると岡野潔が「仏陀の永劫回帰信仰」(『 印度学宗教学会 論集』、第17号)という論文で指摘しています。

----------------
このような信仰は、上座部よりも大衆部系の人々において、形而上学的な根拠をもちえたと思われる。『異部宗輪論』(説一切有部 ヴァスミトラ著 引用者補填)によれば、大衆部の教義においては、世間 (loka) と出世間 (lokottara)、すなわち〈輪廻の世界〉と〈それを越えた世界〉という、絶対的に分かれ た2つの世界が、想定されている。現象界(時間の世界)は、虚妄の世界であって、それを越えた世界、法界(永遠の無時間的世界)が、実なる世界である。仏は本来法界に属し、現象界に降りてきた仏は仮の姿にすぎないと主張される。
  中略  
理論的な「報身」説の完成によって、それぞれの過去仏にそれぞれの歴史性を持たせることが理論的に可能となった時、釈迦仏の仏伝は一回的で絶対的なものとなり、他の仏と共通のものではなくなったのである。こうして「報身」の成立によって、仏伝の永遠反復は理論的に、より複雑で矛盾のない学説に克服された。出家の論師たちにとって非時間的仏陀と時間的仏陀の二元論の内包する矛盾に悩む必要はなくなったわけである。その後も、民衆の中には、信仰として単純明快な、永遠反復の法身信仰をもつ者がなお在続していたであろうが、しかし仏教全体の流れから見れば、永遠反復の仏陀観が大衆部から初期大乗にかけて一つの流れとして現われただけで、すぐさま仏教の新しい流れは、久遠釈迦や阿弥陀などの特定の仏への熱狂的な信仰に向かっていったのではないかと思われる。
---------------- http://homepage3.nifty.com/indology/okano1990a-buddha.html

 引用した岡野論文によればそうした思想はインド土着的なものであり、『本来大衆部の部派に限られる説であったものが(『異部宗輪論』参照)、仏伝文学の流行によって他部派にも広がっていったものである。このために、仏伝は部派を越えて互いに類似するに至ったものと思われるが、同時にそれによって大衆部系統に由来するであろう仏伝の永遠反復説を反映した仏伝の描写が、痕跡あるいは模倣として他部派の発達仏伝の中に残るに至ったと考えられる。』としそれが常に仏弟子のエリートであり時間主義的な歴史性のあるブッダ観を持つ声聞の仏教思想を脅かしたと指摘していますが、その仏教を破壊する時間無視の場所的相互依存性を牽制する為にこそ説一切有部はアビダルマを体系化し、律蔵を増広していったと僕は考えています。また平岡聡の指摘する大衆部系の文献と般若経群の相互依存、影響関係(『説話の考古学 インド仏教説話に秘められた思想』仏教大学提出博士論文の書籍化)を前提にし、ナーガルジュナの伝記に伝えられるようにナーガルジュナが般若経を理解した上で『中論頌』を現したとすれば場所的相互依存性と解釈する佐倉哲のナーガルジュナ理解は正しいことになるけれども、時間的思想としてのブッダの十二支縁起は対立するとは言えないまでも副次的なものとなり、かかる思想の持ち主だったとすれば松本説は退けられることになります。しかし石飛の指摘するようにナーガルジュナはブッダの論理学を理解していたことは否定され得ない(時間的縁起も含まれるとすれば)のでなかなか興味深いところではありますが僕はどちらでもかまいません(笑)。

 またナーガルジュナの伝記よれば彼は強姦を犯していますから有部律では比丘にはなれない人であるけれども大衆部の比丘であるならば、大衆部では悪業は善業を積めば消えるとされ(有部では悪業は善業を積んでも消えないとされる)ているので伝記に記載されていることは矛盾なく成立することになるし、そうなればショペンの言うように有部やニヤーヤ学派に乗り込んで論争を挑んだ『党派心の強い説教術を持つ小さな戦闘的集団の一員で』自らの『論理に基づいて行われる議論を台無しにしてしまった』ことも自然に考えることができます。しかし彼の思想を受け継いでいった比丘達は中観派という確固とした思想の流れを仏教史に記したことは紛う方なき事実です!なぜならば佐倉が指摘するようにアビダルマを実体的なものとして固執して教条主義的な教えにしてしまった比丘が多数いたであろうことは普通に考えても推測できるからです。こうしたエピソードは仏教史をゆたかにすることには間違いがないので賛否はともかく歓迎されるエピソードだと思います。

>>ダルマとは何を指しているかと言うことが分からない
 この場合のダルマとは教義には十二支縁起の各支、五蘊、眼耳鼻舌身の五根と働きを現す五境、四大であり、広義には説一切有部のアビダルマで記号化される五位七十五法、あるいは南方分別説部(テーラーワーダ)のアビダルマ・物質、心、心所の各ダルマを指します。
Posted by くまりん at 2005年12月25日 16:36
Libra さん、こんにちは。
>>わたしもこのような気持ちでいろいろと書いているのだとご理解ください。

この件は了解いたしました <(_ _)>
 僕の考え方も今俎上にあがっている議論や事実を俎上に上げて整理するのが精一杯で、それらをご紹介するに留まっており、実際どれが僕の主張であるかは一部を除いてまったく主張するような状態ではありません。様々な研究者から報告される議論が連鎖のように繋がっては消え、繋がっては消えている状態です。思想のオプション程度にお考え下さい。

>>初期経典に矛盾があるという仏教学者の説は「たわごと」か?
 宮本啓一は戦闘的な発言で定評があります(笑)。学者として認知されるのが同世代の学者に比べて遅かったことが彼にこのような態度を取らせる理由かも知れません。そういう意味では論争の方法論はナーガルジュナに似ているとでも言うのでしょうか?彼の最新の主張は『仏教かくはじまりき パーリ仏典大品を読む(春秋社 ISBN4393135377)』で論じられていると思います。実際まだ机の上に積んである状態で読んでいませんが・・・。宮本の主張には疑問に思うところがあります。その問題が本書で解決されていれば嬉しいのですが、以前の論文で彼は自ら瞑想し十二支縁起が理解できたようなことを書いていましたが、ならな輪廻転生を積極的に肯定し、ブッダの思想は論理的であったとする彼が前世の煩悩である無明と行を観察し認識したのかは非常に不可解です。僕は十二支縁起の観察は過去世のことを観察するのではなく有部が主張するように未来の涅槃を選択するために現世の生存原理としての無明と行しか認識し得ないのではないかと考えています。

>>「わたしはこのことを尊師からまのあたりに直接に聞いた。まのあたりうけたまわった。〔中略〕これが師の教えである」というようなことが初期経典という形で現在に伝わっているとしても、「それらの文句を、(ひとつずつ)経典にひき合せ、〔中略〕経典(の文句)にも合致〔中略〕しないときには」「これはかの尊師の説かれたことばではなくて、この修行僧の誤解したことである」という「結論に到達すべき」である[*2]とわたしはおもっているわけです。

 御意、この点について宮本は前掲書の出版前に発表した「はじめに」で以下のように言っています。
----------------
ゴータマ・ブッダは仏教の開祖であり、弟子や信者たちからは、「バガヴァット」(幸あるお方、世尊)と呼ばれていました。この尊称は、後のヒンドゥー教では世界を主宰する最高神の尊称にもなっています。インドは、古くはヴェーダ聖典の伝承のしかたからも分かるように、記憶力大国で、丸暗記の訓練の厳しさ、それによって養われた記憶力では、インド人は、世界に他の追随を許しません。  仏教文献学者は、何か自分の頭で不明なところに遭遇すると、すぐにこの個所は後世の増広に成るものだと、むやみやたらに言いたがります。しかし、ゴータマ・ブッダの弟子、孫弟子、ひ孫弟子たちが、バガヴァットのことばを忘れたり、勝手に捏造したりすると考えるのは、ことインドという場にあっては非常識なのです。
 ゴータマ・ブッダのことばがどのような形で伝えられたのか、そして、結果としてどうしてこれほどたくさんの仏典が私たちの手に遺されているのか、その真相は、記録がありませんので、確かなことは言えません。
 しかし、ゴータマ・ブッダは、対機説法でしたから、同じ文言を用いたり(むしろ多くの場合は)用いなかったりという説き方をしました。ゴータマ・ブッダ入滅の後、遺された弟子たちは、ゴータマ・ブッダのことばを忠実に伝えたはずですが、ある一連の話をつなげたり、別の一連の話にまとめたりするさいに、あるいは同じ文言を採用したり、あるいはしなかったりしたのです。パラレル・パッセージ(同一、あるいはほぼ同一の文言)が、色々な仏典に重複して出てくるのはそのためだと考えられます。
---------------- http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/hon/daihon.html

 しかし説一切有部はこのような態度をとりません。彼らは経典に説かれた了義さに注目しました(『異部宗輪論』参照)。彼らは前コメントで紹介した石飛道子による経典の論理の分類のうち 『(3.)日常の言語で語る。積極的に自己を語る。』を修行僧の誤解を恐れたためか排除した形跡が認められます(『阿毘達磨大毘婆沙論』)。袴谷憲昭は『(3.)』のような具体的な言い方はせず『有部はそれらの主体を心(cita)に求めることを排除した』と指摘していますが僕の考え方としてはこうした思想は並列に踏まえて認識しておき、あらたな考古学的な発見を心から期待し、そうした可能性と現実に直面したときに向かいあえる学問的体力をつけておきたいと思っています。下田正弘の『もともと、ブッダの姿は、ブッダ自身が弟子たちに刻印したものと考えることができるでしょうが、そのブッダのイメージを後世に向かって表現したのは、つまり刻印したのは、ブッダではなく弟子たちです。』を支持します。

>>3.佐倉説と松本説
 こちらも了解いたしました。「「第一章 自性論」に限定して」ならば仰るとおりだと思います。わめさんが「関係性」にこだわっておられたので以前 Libra さんが仏教理解の基本として十二支縁起説を採用するようなコメントを読んだ記憶があったものですから、それなら Libra さんから松本説=十二支縁起説というご提示があったほうがいいのかなと思っていた次第です。差し出がましいことを申し上げて失礼いたしました。総体的にも僕は現在もそのご発言の内容から推測して Libra さん仏教学に近い場所におられると思っておりましてので大変失礼な文脈もあったかと存じます。想像力の足りない非礼をお許しください。率直にお詫び申しあげます。

********
- 生きとし生けるものが幸せでありますように -
Posted by くまりん at 2005年12月25日 16:37
Libra さん、追伸です。
>>1996年7月11日発表の佐倉さんの「序章」[*4]については、松本先生の『縁起と空─如来蔵思想批判─』(大蔵出版、1989年)や小川先生の『大乗仏教の根本思想』(法蔵館、1995年)に触れていない点を不思議におもいます。

 佐倉さんはナーガルジュナに心底惚れたんじゃないかと思います。そういう風に自分で意識すると同じようにナーガルジュナに心底惚れ込んでいる研究者のテキストには手を出さないという選択肢があると思うんです。だって自分ではパラダイムを替えて客観的にその研究対象を把握しようと努めるじゃないですか。ナーガルジュナに対しては様々な文献批判を通して迫っていくアプローチを取っているのに説一切有部に対しては大毘婆沙論の翻訳だけで済ませていることからもわかります。

 僕にたとえて言えば法華経がそうです。子供の頃から慣れ親しんでいる法華経を僕は大好きなんですね。だから同じように法華経を愛する研究者のテクストはなるべく読まないようにしている。だってコロッと騙されちゃいますもん。批判的に法華経の仏教史の中での位置づけをなんとか客観的に捕まえようと試みるんです。僕の場合は夢中に成らずになるべく距離を置いてですが。松本史朗博士なんかその典型であれほど本覚思想が如来蔵思想がなどとあげつらっているくせにこと法華経になるとそんなことどっかへ言ってしまっていきなり研究者から文学者になってしまう。それで永遠のブッダを待ちきれなかった人々なんて言われちゃうと「そうだようなぁ」なんてすぐ同意しちゃうから、危ない、危ない。だから僕は松本氏の一文は『仏教思想論 上』の序文で仕方なく眼にしてしまいましたが菅野博史氏の論文は絶対に読みません(笑)。佐倉さんもそう考えたんじゃないかと思います。

 実際問題として法華経の基底に有る思想の一部はブッダ在世中からの思想もあり、またブッダを永遠の神がかった存在にしてしまっているのも已にアショカの建立した仏塔の ICON に見られるように人間としては表現し得ない「仏足」や「法輪」として表現されているじゃないですか。ブッダを歴史的人間として扱ったのはガンダーラまたはマトゥラーの説一切有部の仏塔や香室に安置された仏像が最初でしょう。仏塔信仰を勧めるフリをして実は経典信仰へ誘導するのも仏塔信仰を厳密に定義する有部律への反発とも考えられますし、あるいはナーガルジュナが批判したようなアビダルマ教条主義の凡候な瞑想比丘が多数いて、法華経グループの法師達への戒めとして有部の律師達が律蔵の仏塔信仰をより厳密に定義したのかも知れません。議論と言うよりこれは余談です。

********
- お幸せでありますように -
Posted by くまりん at 2005年12月25日 18:26
Libraさん、くまりんさん、わめさん こんばんは。

Libraさん曰く:
> わたしは (b) を読んでいませんので、 (b) の主張内容が龍樹の主張内容と
>どのような関係にあるのかはわかりません。お気づきの点がありましたらぜひ
>ご教示ください。

(b)についてわめさんの掲示板をお借りして一部抜粋を行いました。

アルボムッレ スマナサーラ、藤本 晃『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ―物質の分析』サンガ、2005年
一部抜粋(2)

○大乗仏教の空論への批判 (注 この題目は上の書籍の題目でなく便宜上付したものです)

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/288

抜粋部分に龍樹と名指しはありませんが(たとえば『中論』ですべてが空との主張があるので)
龍樹が念頭にあるのではないかと思います(曖昧ですみませんm(_ _)m)。

あと、このような抜粋も行いました。

(同上)
一部抜粋(1)

○アビダンマと対象とする入門テキスト『アビダンマッタサンガハ』について。
および(スマナサーラ長老が語るところの)仏教の考え方。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/287
Posted by Leo at 2005年12月25日 22:05
 くまりんさん、Libra師匠、Leoさん、こんばんは。^^

 またまた分からないことが出てきましたw汗 くまりんさんのテキストで、

> ナーガルジュナの縁起思想を関係性で理解することは場所的な相互依存的因果理解であり場所という基体に立つものであって時間である縁起を説いたブッダの思想とは明確に対立する概念で仏教ではないと言っています。

 とありますが、この「関係性で理解することは場所的な相互依存的因果理解であり場所という基体に立つ」と言うのがさっぱり分かりません。
 関係性と基体がどうして結びつくのか、その間に場所というのが出てきますが、わめにも分かるように教えてホシィッ☆O(> <)o☆o(> <)O☆ホシィッ
Posted by わめ at 2005年12月27日 19:56
わめさん、こんばんは。

師匠方の説明の前に前座でちょこっとコメント。

「ナーガルジュナの縁起思想」を「場所という基体に立つもの」というのは下のような
批判仏教の「基体説」批判への痛烈なカウンターパンチだと思います。

「ナーガルジュナの思想」を場所の関係性、「ブッダの思想」を時間の関係性として
ナーガルジュナは独特、ブッダとは違うという主張だと思います。

○如来蔵思想は仏教ではない(松本史朗)http://page.freett.com/Libra0000/001.html

「これについて、筆者は、如来蔵思想と唯識思想に共通する根本論理として、
 “dhatu-vada”(基体説)というものを想定した(18)。“dhatu-vada”とは、
 現象的なあれこれの存在は、「無常」であり、「無我」であるが、
 それらを生み出す原因となる基体(dhatu 場)それ自体は、「常」であり、
 「我」であり、実在であると説くものである。」
Posted by Leo at 2005年12月27日 23:23
Leoさん、こんばんは〜^^ (わめはおはようなのだがw汗

> 現象的なあれこれの存在は、「無常」であり、「無我」であるが、
>  それらを生み出す原因となる基体(dhatu 場)それ自体は、「常」であり、
>  「我」であり、実在であると説くものである。」

この説明には場所がないじょ〜 それに関係性と場所の繋がりも分かりません。汗
それに現象的なあれこれの存在がなければそこに関係性もないわけですし、「無常」で「無我」なあれこれの存在と「無常」で「無我」なあれこれの存在'sで生じる関係性に「常」や「我」が有り様がないと思うのですがw(o_□_)oドテッ
Posted by わめ at 2005年12月28日 01:19
 Libra師匠より掲示板で「関係性について」の見解を投稿して頂けましたのでこちらにリンクさせていただきます。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/nt290-296

 Libra師匠、ありがとうございました。よく読んでお返事いたします。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2005年12月28日 16:32
 Libra師匠、こんばんは。^^

 師匠の「関係性について」の見解を読まさせていただきました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/nt290-296

 師匠らしく非常に論理的に書かれており、「すべての存在は危機的存在」、「概念も危機的」、「法も危機的存在」と言っておられると思うのですが、わめはこの記事の冒頭で「”仏教”にも”関わる話題」と申しましたように、仏教にも関わることかもしれませんが、これは現実のこの世界として自性あるものがあるのか、すべては無自性なのかを考えたいと思っていたわけですけれども、師匠の見解は仏教の枠組みの概念からも、現実のこの世界を考えてみても自性あるものはないと言われておられるように思います。
 わめは仏教の枠組みの概念からは未だよく分からないのですが、現実のこの世界に自性あるものはないと言う点で同意見です。
 また「存在も法も危機的存在」であるならば関係性も無自性であり基体でもないと言えると思います。(これは短絡的結論?w汗)
 ポパーのある種の知的牢獄のお話も理解度がまた少し深まったように思います。^^

 ただ自性ということについてくまりさんは下記の中で、
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/273
 『アビダンマは哲学や心理学を語るものではありません。瞑想する場合に役立つことだけを考えています。煩悩をなくするために修行するとき役立つようにと、その目的で書いていますから、一般には通用しません。このままでは現代の哲学にはなりません。修行者のための哲学・マニュアルなのです。 』と書かれており、これはLibra師匠がこの記事のコメント欄で書かれた『くまりんさんがいわれる意味での「自性」(自性A)というのは、わたしが前にいった「概念」[*4]に相当するのかな、とちらっとおもいました。』と書かれているように、師匠の[*4]で言われれている『われわれが世界を切り分ける(認識する)ために用いる「差異の体系」であるといえるかもしれません。』のこと、つまりは『瞑想する場合に役立つことだけを考えています。煩悩をなくするために修行するとき役立つ』という「差異の体系」だとわめも思います。瞑想する場合に役立つ自性であり、アビダンマは一般には通用しないとも言われておりますのでこれらの点においては、”仏教上もこの現実世界において”自性あるものはないと言うことに今のところ異論はないものと思いますがいかがでしょう。
 でもこんな簡単(都合よく?)に話をまとめてしまうのはどうも気持ちが悪いし、わめがしっかりこの議論を把握・理解しないままでまとめてしまっているかもしれませんので、異論やわめの理解力不足等のご指摘をお待ちします。(^^;;

[*4]『「客観的事実」とは?』 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1127661169/33
Posted by わめ at 2005年12月29日 01:44
 わめさん、こんばんは。

 《「現実のこの世界に自性あるものはない」と主張するのが仏教である》と
いうのがわたしの見解です。

 わめさんのご発言の後半部分(「ただ自性ということについて…」)は意味
がよくわかりませんでした。

 だいたい議論は尽きたとおもいますので、EnjoyLife系にこれまで投稿した
記事を書写のほうにそろそろ記録しなければいけないなと考えています(めん
どくさいけど)。

 では、よいお年を。
Posted by Libra at 2005年12月31日 00:02
 Libra師匠、こんばんは。^^

>  《「現実のこの世界に自性あるものはない」と主張するのが仏教である》と
> いうのがわたしの見解です。

 なるほど、わめにはLibra師匠のように仏教の主張がそうであるかどうかは分かりませんが、そうであって欲しい気持ちではあります。(^^

>  わめさんのご発言の後半部分(「ただ自性ということについて…」)は意味
> がよくわかりませんでした。

 (o_□_)oドテッ そうですかw汗 わめの勝手(誤った?w)解釈なのでスルーしてもらっていいのですが、「現実のこの世界に自性あるものはない」として、アビダルマは瞑想修行者のために自性の概念を導入しているのじゃないかと思ったのです。(^^;;

>  だいたい議論は尽きたとおもいますので、EnjoyLife系にこれまで投稿した
> 記事を書写のほうにそろそろ記録しなければいけないなと考えています(めん
> どくさいけど)。

 (ノ´▽`)ノオオオオッ♪ 大変でしょうけど是非お願いしたいです。<(_ _)>

>  では、よいお年を。

 今年は大変お世話になりました。
 師匠もよいお年を。^^
 来年も何卒よろしくお願いいたします。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2005年12月31日 04:12
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/10864702
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。