2005年12月19日

自灯明法灯明

 『宗教はやっぱり好きになれない』のコメント欄でわめは「ブッダと言えば自灯明法灯明って言葉(教え?)が好きです。」と書きましたが、とゆーかさんからわめの法灯明の”法”の捉え方が誤っているとの指摘を受けましてドキッ(笑)としました。とは言いましてもわめが正しい解釈をしていると考えるほうがおかしいと我ながら思ってもいるわけですが(自爆w)、わめの捉え方をもう少し詳しく提示してどこが誤りであるかを指摘して頂ければと思ったのですが、それなら広くご意見を頂きたいことと、『宗教はやっぱり好きになれない』では宗教を”信仰する”ことの有害性・副作用が問題と主に指摘していますが、このまま続ければとゆーかさんを意識せずともその好例へと誘引してしまいそうに感じますし、とゆーかさんもわめを仏教徒と勘違いしていたこともそのコメントには影響を与えてしまっているかもしれないので、それではわめも不本意でもありますので新たな記事にしてみました。
 
 
 発端はわめが、
ブッダと言えば自灯明法灯明って言葉(教え?)が好きです。(*´∇`*)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1127653318/8
と書いたことで、ここではリンクのリンク先にある『坊主松本の徒然日記』の自灯明・法灯明の記事の、
ブッダの教え、自灯明・法灯明。「自らを灯明とし自らを所依とし、法を灯明とし法を所依とせよ。」

 宗教はごまかしやまやかしではないし、ごまかしやまやかしは宗教ではない。日頃ごまかしやまやかしの目隠しで現実から逃避し続けるこの自分自身から、目隠しを引っ剥がし目ン玉見開かせて、抜き差しならない現実をフィルターなしで目の前に突きつけるのが、優しいブッダの厳しい教え、なのです。
とのご意見にわめは感銘を受けたわけですが、それとくまりんさんへのお返事にも、
ブッダの「信仰を棄てよ」、「自灯明法灯明」も、わめの無茶苦茶楽観的な考え方ではありますが、その思い、その実践は、現代の日本の無信仰の方達の心にこそあるのかもしれないなんて妄想したりしております。
と書きました。とゆーかさんはこのわめのこのどちらに対してかあるいは両方にか、わめの解釈はおかしいよとご指摘くださり、
わめさんへ
法灯明ていうのは、流れでいえば輪廻転生を信じろってことです。別に100%信じなくてもいいけど、100%認めない時点で邪見であり、仏説はその人にとって意味はなくなります。そういう体系なのです。
勝手な法を説くな、考えるな、邪見に陥らないように常に注意しろってことが法灯明のひとつの意味です。
無制限に自灯明だといえば、我見に凝り固まるだけです。最低限、法を見れるレベルになれということですが、法を正確に見れるのは悟った人だけですからぁ、残念ということです。
と、このように書かれておりますが、それに対しわめはブッダの遺言のような「自灯明法灯明」との言葉なのに、悟った人にだけにしか法が見れないから残念とは随分無慈悲な言葉を残されたなって思いと、上記の『 宗教はごまかしやまやかしではないし、ごまかしやまやかしは宗教ではない。日頃ごまかしやまやかしの目隠しで現実から逃避し続けるこの自分自身から、目隠しを引っ剥がし目ン玉見開かせて、抜き差しならない現実をフィルターなしで目の前に突きつけるのが、優しいブッダの厳しい教え、なのです。』とも不一致な見解とも思え、またわめなりの”法”の捉え方について、
 輪廻転生を100%認めない人と言うのも困ったもんだと思いますよ。特に輪廻については。
 ただ、そこまで否定できるほどの根拠を持っておられる方も少なく思いますし、口では否定的に言いましてもその可能性を0%と思っておられる方も少なく思います。そういった意味ではわめも可能性が0%とは思っておりません。^^

 法灯明についてですが、わめはとゆーかさんとよく似た捉え方をしてはおりますが、よく似たとは「法を見れる」(法を知る)ということなのですが捉え方の違うであろう点は、この法とは仏教の枠内でしか通用しない法ではなく(暫定)真理を指す言葉だと思う点です。
 (暫定)真理は悟った人だけにしか知ることが出来ないとは思いませんし、悟った人だけにしか知ることが出来ないのならブッダは悟った人にだけ「法灯明」と言う言葉を残されたことになってしまい、「自灯明」とセットにしながらも随分無慈悲な言葉を残されたことになってしまうのではないでしょうか。
 (暫定)真理に話は戻って、(暫定)真理とは客観的事実の背後に隠れているものではないでしょうか。例えば「エネルギー保存の法則」や「万有引力の法則」や「慣性の法則」などもこの(暫定)真理、法灯明の”法”を指しているように思うのです。これらの(暫定)真理を無視して、或いは逆らって人間が生きていくことは大変なことだと思います。汗
 またこのような捉え方の法灯明であれば悟った人にしか知ることのできないとは言えないと思いますし、これならブッダの「自灯明法灯明」も人間レベルの差別的言葉でも、無慈悲な言葉でもないように思いますがいかがでしょう。
 でもこれはとゆーかさんもわめも、個人的主観の意見ですから、すり合わせをする必要もないとは思いますが。(^^;
と、お返事をさせて頂きました。それに対してとゆーかさんのコメントは意を誤解されないように丸ごと引用になりますが、
どうも論理的、客観的に考えてくれないですね。

仏陀は、法を説いたのです。それは世界観と解脱に導く一切を説いたということです。

ゆえに、もしも、あなたが別の真理を発見し、それであなたが、新しい価値を発見して、別の絶対的な幸福を達成したとします。それと仏陀の説が矛盾したとします。

そうすると、仏陀は間違いを犯したことになります。
ですから、仏陀は一切を説いていなかった。大嘘つきであるということになるのです。

そういうことですから、その場合は、仏陀のいうことを全部捨てるべきであり、新しい自身の生き方をするべきなのです。

大嘘つきを基礎にして客観的な議論はできませんから、そこでは単なる我見と我見の戦いになるのです。

仏教は仏陀の教えです。仏陀が基本であり、法律であり、ルールなのです。
何人も彼の説に反する仏説を唱えることはできないのです。
新しい説、新しい発見をしたならば、自身の説として勝負すべきなのです。ex)キリスト教

我見か我見じゃないかは、仏教に関して言えば、仏陀に全ての権利があり、仏陀もこう経典で言っている。私も同じ意見である。こういう意見だけが、我を離れた客観的な意見であると認識されるのです。

この流れでいうと自灯明、法灯明と二つあるのは、自らの意見、感覚、経験は大事にしなさいということと、それと経典その他に由来する仏陀の教えにて、常にチェックを怠るなということです。両方揃わないと客観的なモノとしては認められないということです。

仏弟子を続けるつもりなら、仏陀の教えと自身の経験の違いに思いを馳せて、未熟のゆえか、自身が仏陀を越えたのか、そこが決断するポイントです。もっとも仏陀を越えたと思った時点でマーラーにやられただけでしょう、というのが仏教徒の認識なのです。

あなたの文章では、我見でぜんぶオーケーにみえるから、反論しただけです。

個人の経験、意見は尊重されるべきですが、仏説として表現する場合は、両方のチェックが絶対に必要です。あなたにはその感覚がないから、仏陀の生まれ変わりの教えも、すごい宗教なんだよね。新しい仏教なんだよね、みたいな論理になるんです。絶対に認められません。

そういう不心得ものがいないように、出現されないように、そう定められているのです。

暫定真理で語るのは自由ですが、そこに仏陀は関係ないでしょうということです。
拡大した意見に仏陀を絡ませる理由がわかりません。
ただの権威づけでしょう。そんなことはやめてください。権威づけのために引っ張り出して、論理が破綻したら仏陀のせいにするのがせいぜいです。
仏教的な意味で悪業を行うだけになります。無意味で無価値です。
とのご意見を頂きました。ここでわめは初めてとゆーかさんがわめのことを仏教徒と誤認識していたことを知り、上記コメントはその誤認識からのご意見も含まれると感じたので、このコメントを受けての法灯明についてのわめの意見は控えさせて頂きました。
 と長いプロローグになってしまいましたが、このようなわけで新たにこの記事で法灯明についてのわめの思うところを少し詳しく提示し、とゆーかさん他皆さんのご意見を頂けたらうれしいなと期待をしています。^^
 またとゆーかさんのコメントからは、わめを仏教徒と誤認識があったことも配慮してなるべく引用は控えたいと思います。

 この法灯明の”法”とは一体何を指すのかと言うところが大きなポイントだと思うのですが、wikipediaで法を調べてみると、
サンスクリット語「ダルマ」(dharma)、パーリ語「ダンマ」(dhamma) は、漢訳仏典では音写されて達磨(だつま)、達摩(だつま)、曇摩(どんま)、曇無(どんむ)などとなり、通常法と訳されている。

ダルマは「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞 (dh.ri) からつくられた名詞である。本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」などを示すこともある。

仏教では、この法の概念を重要視し、いろいろな使いかたや意味づけがなされた。この法ということばで法則、真理を示し、それから教法や説法も指す。さらに、存在を意味し、具体的な存在を構成する要素的存在を意味する。このように仏教では、ことにその意味や使いかたが多岐にわたっている。
とあり、法則・真理も含まれる解釈となっているように思います。この意味ではわめの言った『例えば「エネルギー保存の法則」や「万有引力の法則」や「慣性の法則」などもこの(暫定)真理、法灯明の”法”を指しているように思うのです。』もあながち誤りとも言えないかもしれませんし、リンクのリンク先として示した『坊主松本の徒然日記』の『 宗教はごまかしやまやかしではないし、ごまかしやまやかしは宗教ではない。日頃ごまかしやまやかしの目隠しで現実から逃避し続けるこの自分自身から、目隠しを引っ剥がし目ン玉見開かせて、抜き差しならない現実をフィルターなしで目の前に突きつけるのが、優しいブッダの厳しい教え、なのです。』も、Wikipediaの法の解説からは逸脱していないように思います。
 ダンマパダ、97には『何ものかを信じることなく、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り、生死のきずなを絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、--- かれこそ実に最上の人である。(中村元訳)』との言葉からも信じる信じないに関わらず”法”はあるように思いますし、佐倉哲氏はブッダの「信仰を捨てよ」の言明について『この言葉は、ブッダの伝道宣言ともいわれている有名な「梵天勧請」にもありますが、そこでは、あきらかに、特定の人にあたえられた言葉ではなく、すべての人(「耳ある者」)にあたえられたブッダの言葉です。 『耳ある者に甘露(不死)の門は開かれた。信仰を捨てよ。(サンユッタニカーヤ 6:1、中村元訳)』 』とおっしゃられておりますが、これらのことからわめの勝手な解釈になるかもしれませんが、仏教という限られた枠内の世界観としての”法”ではなく『平静なこころがまえとおもいの清らかさ、それは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。 (スッタニパータ 1107) 』と、”真理に関する思索にもとづいて起こるもの”とのブッダの言葉にもあるようにこの”法”は仏教内でしか通用しない”法”ではなく、また信じる信じないに関わらずこの世界に在る厳然たる”法”なのではないかとわめは思います。

 ってことで、わめの法灯明の”法”の解釈への誤謬の指摘・ご意見をお待ちします。☆^∇゜) ニパッ!!
posted by わめ at 03:49| Comment(37) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
本当に自説にこだわる人ですねぇ。
仏陀は法を説きました。
それは法則そのものを発見する方法を説いたということです。
ですが、その法則を完全にきっちりと見れる人はすでに悟った人なのです。法則を完全に見れる=悟りだと考えてかまいません。

「目の玉かっぽじってよく法則を見ろ。」
こう言っているのです。そのための方法を教えているのですが、それは簡単なことでもありません。

試験問題集があり、それを全部解ければ、資格がもらえると同じようなシステムです。
そして、仏陀は模範解答として、経典を残されたのです。

回答が不一致であるならば、生徒が間違っているのです。そういうシステムだと私はいっているわけです。仏陀が間違っているなら、その時点で仏教は終わりです。

あなた自身、ヴィパッサナーを実践したということですから、法が見れるようになっているはずなのですが、どうですか?見れましたか?

見れない以上、あなたがいかに無我だの12縁起だの勉強したところで効果がないのです。
単に妄想しているだけです。

受と想と行と識を区別できましたか?
それらの関連性はどうでしたか?
時間的生起、因縁関係は見えましたか?
善心所はどれで悪心所はどうですか?

あなたが、このエントリーを書くときに、どの心処により書きましたか?
それは、貪瞋痴のどこに分類されますか?

ちなみに私は上のことをまるっきりできません。
ですから、仏陀の言葉を信じて修行にはげむのです。
その意味で悟った人は、信じる必要はないのです。
それゆえに阿羅漢は、無学(もう学ぶ必要がない)とも言われます。

別にそこまで見れなくても、いくつかの因縁関係が見れるだけで最低限の悟りは開けるというのがテーラワーダの見解です。

しかし、自分自身をそのままにしておいて、法について語れるほど簡単なことではありません。

とゆーことで、結論的に言えば、仏教徒じゃない人に仏教を語って欲しくないのですよ。

私の心情はそれだけです。

大体が、正しく理解していないだけですし、正しく理解するために経典を読んでみるような努力をしていないですし、議論の土台ができるわけもないのです。

結果として仏教に対する誹謗を行うことが多いようですし、それは結論として、苦界に赴く因縁を作ることになります。

それを見てしまったこちらの心情としては、自殺を真横で見るような心境になります。
わたしも悟っていれば、そういう心情にならないですむのですが、なかなかそういうわけにもいきません。

Posted by とゆーか at 2005年12月19日 09:40
 とゆーかさん、おはようございます。^^

 わめにも色々何かしらの体験や経験はありますが、悟りが何であるかはわかりませんし、悟ったと思うことも自身の妄想としてしまいそうです。(^^;;
 ですのでわめはとゆーかさんの求めるような悟りの境界には生涯辿り着けないように思いますし、またそのようなものも求めておりません。
 
 『他者との関係優先の思想』で書いたようにこれがわめの心の様で、思いを巡らすのもこのようなことばかりです。
 http://wame.seesaa.net/article/10416885.html

 このエントリーを書いた時もこのような心の様からです。とゆーかさんは「自灯明法灯明」の自灯明のみを頼りにされておられるように感じて悲しく思ったのです。

 法灯明についてはとゆーかさんのご意見を考慮して再度考えてみたいと思います。

 ご意見ありがとうございました。^^
Posted by わめ at 2005年12月19日 11:08
いつも書き込みありがとうございます。
もっと早くこちらでもご挨拶すべきだったのですが遅くなってしまいすみません・・・。

いわんとしてるようなことはわかるよう気がします。宇宙がある以上、生命がある以上、何かしらの法則は絶対ありますからね。
ただ”法”の説明は難しいですね。元々、頭で理解してわかるようなものじゃないし、普通はそんなこと意識して日々生活しないですからね。また見えないものですから、いくら言葉でいっても体でわからなければ信じがたいことだと思います。
それでも厳然と生きている以上、宇宙・生命を貫く”法”はただ一つあると思います。
僕の意見としてなんとなくなんですが、法=生命=宇宙だと思います。ということは一人の人が宇宙そのものだと思うのですが如何でしょう?
かなり簡潔すぎますがw
それは僕達の時間や空間の概念を超越したものすごいスケールの大きいものだと思います。だけども自分自身がそうなのだからどこか遠くではなく自分そのものであるから身近というか自分だし・・・
言葉で説明するのは難しい!
ただ”法”は余計なものがいっさいない物凄い慈悲に満ちたものだと思いますね。それにみんなが気づいたら、それこそつまらないことでは悩まないでしょう。戦争なんてもってのほか!
”法”は全生命・全人格をかけて人生を生き抜いてハッと確信するものだと思います。宇宙にいきてるわけですから生命の奥底で覚知は絶対できると思います。僕ももっとくっきりとわかりたいものですね。

今後ともよろしくお願い致します。
Posted by アンドロメダ at 2005年12月19日 17:50
今、気がつきましたが

「自らを灯明とし自らを所依とし、法を灯明とし法を所依とせよ。」
というのは、自分=灯明=所依=法だと思います。
ということは上記の僕の書き込みの”一人の人が宇宙そのもの”、
自分(一人の人)=法(生命・宇宙)と同じなんですが。僕なら”自灯明法灯明”をそう読みますね。
Posted by アンドロメダ at 2005年12月19日 18:01
じゃあですね。
人は万有引力に従って生きるのです。
はぁ?

人はオームの法則に従って生きるのです。
はぁはぁはぁ?

ありえなーいでしょ。
仏陀は人の生き方についてずっと語っているのです。

妄想を捨ててください。仏教哲学を勉強するとあなたのためになりません。
くまりんさんと意見を完全に異にしますが、妄想を膨らませるだけです。

あなたに必要なことは、八正道、正しく生きるようにできる範囲で努力することだけです。
そう決心さえすれば、あとはいくつかの条件を満足すれば、それで立派な仏教徒です。どこかの団体に属していなくても、財施をしなくても。

本当は、仏法僧に帰依する必要がありますし、五戒を守るべく努力する必要がありますが、所詮在家ですから完全には要求されません。

悪しき業論を持ち出すと、僧侶を貶める団体に所属していたせいで、そういう性格傾向(習気)がついてしまっているようですが、いずれそのうちおさまるでしょう。

なぜ、仏教哲学が悪いかは、
http://gotami.txt-nifty.com/journal/2005/12/_dhp_iv_pupphav_a103.html

こちらを読めばその理由はご理解できると信じます。

関係性のお話はご自由にどうぞ。
自我を捨てて他我で生きるというのがお好みなら、どうぞご自由に。カルト教団向き、北朝鮮向きの素敵な人になれるでしょう。

その程度のお話です。自我をただ滅却して殺すだけならロボットになるだけです。

優しい人になれるのは、優しい環境に住む必要があるのです。力いっぱいそういう場所を作るための努力をしてからでなくてはいけません、それ以前にそんなことをするのは有害ですらあるのです。

それでは、お幸せでありますように。

Posted by とゆーか at 2005年12月19日 21:33
http://gotami.txt-nifty.com/journal/2005/11/post_3a5c.html
ごめんなさい。さっきのはすでに紹介ずみでしたね。

Posted by とゆーか at 2005年12月19日 21:44
アンドロメダさん、いらっしゃ〜い。そしてコメントアリガト!(´▽`)

> 宇宙・生命を貫く”法”はただ一つあると思います。

 とゆーかさんにまた怒られちゃいそうですが(爆)、わめはこの記事で説明しているように万有引力の法則や熱力学の第二法則などの(暫定)真理も、それらを人が発見する以前から元々この世界にあるもので法灯明の”法”の範疇に入るものと思っていますが、それらが更に一つの”法”の一部としてあるのか、まったく関係ない”法”が一つなり複数なりあるのか、はたまたまったく独立しあいながらあるのか、わめ的にはそれら”法”は関係性の上に成り立つものばかりじゃないかとの憶測もあるのですが、個人個人の主観に立たない限りは現段階でその答えを見つけ出すことは難しいように思います。

> ただ”法”は余計なものがいっさいない物凄い慈悲に満ちたものだと思いますね。

や、

> 生命の奥底で覚知は絶対できると思います。

は、アンドロメダさんの主観ではありますが、このように”法”を捉えることによって御自身に慈悲の心が満ち溢れているようで素敵です。

 わめなんて悲観的で、例えば幼児が知らずに高いところから足を滑らして落ちかけた時に、そこだけに万有引力の法則が働かなかったらどんなにいいかなんて思ったりもするのですが、そうはイカンザキでわめの思う”法”に慈悲はありません。涙

 でもその分人は”法”を学び生かし、また助け合ったり切磋琢磨し合いながら互いの人生をよりよい方向へと進めて行くことは可能だと思っております。

 ってことでアンドロメダさんとわめとでは意見は違いますが、目的・目標としている思いはそれほど大差ないのではと言葉巧みに便乗させていただきました。(⌒▽⌒)アハハ!
Posted by わめ at 2005年12月19日 22:54
 とゆーかさん、こんばんは。

> じゃあですね。
> 人は万有引力に従って生きるのです。
> はぁ?

 逆らってどうやって生きていけるのでしょう?汗

> 人はオームの法則に従って生きるのです。
> はぁはぁはぁ?

 オームの法則などの物理法則を生かすことによって、こうしてネットを通じ意見を交し合ったりできているように思います。^^

> ありえなーいでしょ。

 ありえないでしょうか?
 この記事で示した法灯明じゃないとのご指摘の法則などに逆らって、とゆーかさんは生きていけるのでしょうか。

> 仏陀は人の生き方についてずっと語っているのです。

 暫定真理や物理法則に逆らえば生きていくことさえ困難になってしまうと思います。
 人の生き方にはこのようなことは関係ないのでしょうか。
 わめも記事でブッダの言葉を引用させていただいておりますが、このブッダの言葉に嘘偽りはないとすれば、わめや佐倉哲氏の解釈に誤りがあるということになると思いますのでその反証をお願いします。

> 妄想を捨ててください。仏教哲学を勉強するとあなたのためになりません。
> くまりんさんと意見を完全に異にしますが、妄想を膨らませるだけです。

 妄想とは法灯明の”法”のわめの捉え方のことでしょうか?
 わめはこの”法”の捉え方に固執するものではありませんが、とゆーかさんの主観で申されましても返って誤った捉え方になってしまうかもしれないとの危惧もあり、上記で述べたようにしっかり反証をしていただき、その反証に客観性(仏教内の客観性でもいいです)があり、わめがそれに反証できないようであれば法灯明の”法”のわめの捉え方を改めさせていただきます。
 また改めるにしても、不放逸の教えもあり「今をしっかり見て知って、刹那刹那を峻別しながら生きるていくこと」と解せますが、その刹那刹那にも暫定真理の影響を人は受けているわけでそれらを知っていくことは重要なことだと思います。過去や未来への妄想はともかく、暫定真理を知り活かしていくことは大切なことであるように思います。

くまりんさんと意見を完全に異にして仏教哲学を勉強することはわめにとっては妄想を膨らませるだけとのご指摘ですが、ひとつのご意見として参考とさせていただきます。(^-^)
Posted by わめ at 2005年12月20日 00:13
 とゆーかさんは達観されているようでわめのようなものでは理解が難しいようです。涙
 ですので該当しそうなブッダの言葉だけを下記に引用しますので、的外れであるならご指摘ください。
 またもしも当たらずとも遠からずならば、とゆーかさんはくまりんさんの言われるようなインド的な出家者なのでしょうか?

> その程度のお話です。自我をただ滅却して殺すだけならロボットになるだけです。

このような絶妙な見者におたずねしようとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?

つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない。
(スッタニパータ、1119)

世の中はうたかたのごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。
(ダンマパダ、170)

> 優しい人になれるのは、優しい環境に住む必要があるのです。力いっぱいそういう場所を作るための努力をしてからでなくてはいけません、それ以前にそんなことをするのは有害ですらあるのです。

ああ短いかな、人の命よ。百歳に達せずして死す。たといそれより長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。人びとは「わがものである」と執着したもののために悲しむ。所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。
(スッタニパータ、808〜809)

世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分の拠るべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。
(スッタニパータ、937)
Posted by わめ at 2005年12月20日 00:40
わめさん、こんばんは。
 わめさんととゆーかさんの議論はハラハラします。わめさんの「仏教徒ではない宣言」はいいんですけど、であるならば仏教の概略は押さえたうえで仏教から教えをパクって行かないとなんかごっちゃになってしまう感じ。わめさんとの対話の仕方は僕ととゆーかさんはまったく違いますけど実は仏教について言ってることは僕ととゆーかさんはほとんど同じなんですね。

 わめさんいいセン行くのに自分でちょっと安心しちゃうと眼が人間じゃなくて世界や宇宙に行っちゃいますね。他者との関係なんて仰ってる割にはちょっと安心すると人間じゃなくて世界や宇宙の方を向いてしまうように見えます。そんなわけで「大天の五字」にも「出家とアビダルマ」にも「自灯明法灯明」も「信仰を棄てよ」も答を入れておいたのになー。とりあえず法は「四聖諦」と理解すればいいんです。そんなかに十二支縁起と八正道はちゃんと入ってるから。だからとゆーかさんの仰っている「法」は彼の主観ではなく仏教学から仏教を研究対象として見た場合の客観的見方と一致することは僕も保証しますです。

 だってブッダは人間が苦から解放される「法」を説いたんであって客体としての宇宙を説いた訳じゃないから。ちなみに「万有引力」だって四大で説明付いちゃいますけどね仏教では。人間にしっかり眼が行っていたら「万有引力」は真理であろうと関係ないんですけどね。とゆーかさんはケンカ売っているように見えるけどそうじゃないように思います。憎らしかったらここまで付き合ってくれないっとゆーか。たまにガツンとやるのもブッダ以来のオシゴトですからね、テーラワーダでは。

********
- お幸せでありますように -
Posted by くまりん at 2005年12月20日 03:08
 あは、くまりんさん、ご心配かけてすいません。( ̄ー ̄; ヒヤリ

 ただ「仏教の概略」も分かるのですが、そこから導き出されるのも結局初期仏教を指しているように思うのはわめの勘違い?
 一応大乗仏教も仏教の端くれで、そっちから見れば初期仏教もまぁ色々と問題があるように見えるように思いますし、ポジションを置く位置によって感じ方は違ってくるのかなと思ったりします。
 そういった意味ではわめは大乗仏教も経験し、初期仏教も学ばせてもらって、その上で仏教徒ではないわけで、意外と客観的に見れる立場ではあるわけなんですが、まぁそれぞれ問題があってそれぞれいいところもあるんだなぁって傍聴している感じで、傍目八目になっちゃってまして申し訳なく思っているのですが、くまりんさんの言われていることは重々分かっている”つもり”なんですけども体験主義というか世俗的に見ると危ないんじゃないかとも思えなくもなくて色々考えちゃうんです。(>▽<;; アセアセ

 ただね、この人間ってことも世俗的な目が大事なんじゃないかと思うわけで、もちろんわめも世俗的な視点じゃないのかもしれませんが、そうであってはこの世間で通用しない気もするのです。
 世俗的視点からは、最近のわめやくまりんさんやとゆーかさんのお話なんて、勝手にやっててくださいってなもののように感じるのです。これはわめの他世界のEnjoy系は傍観するだけとのお約束で見てもらっている友人達の意見でもあるわけですが、ある意味どうぞお好きにやってくださいとしか感じられないそうで、わめもその側で見てみるとなるほど、そうかもしれないなぁなんて感じちゃったりしているわけで、そういった意味でもその友人達の勧告もそうですが、あまりひとつの思想に傾注するのも何なんじゃないかと感じているわけで、あやふやに言いますけどわめの求めるものはそこにないとやっぱり感じて”きている”わけで、くまりんさんのおっしゃる”オシゴト”も理解できてる”つもり”なんですよ。^^

 まぁそんなわけでくまりんさんにはハラハラさせて申し訳ないのですが、事態の収拾に努めていこうと思っていますので、できるなら見守っていてもらって今後「ぉぃぉぃ危ないぞ〜」って感じたらまたこうしてコメントを頂戴したく存じます。m(_ _"m)ペコリ

 わめが世界や宇宙に向かうように見えるのはくまりんさんの御明察で、でもちろん人間なんですよ(強調!)、夢も見たいじゃないですか(妄想かもですがw)、関係性重視のわめですからそれがどこまで矛盾なくこの世界で通用するのかなって好きな海外ドラマを観る感じでついつい思索に耽ってしまうごく普通の人間でもあるわけで、またそのごく普通の人間じゃなきゃダメじゃないかとも思っております。

 わめは以前にも書きましたが如意棒片手のいたずら大好きなお猿さんなわけで、そういった意味ではもう情けないくらいに人間(あ、猿かw)なんです。くまりんさんから見れば眼を離したらトンでもないことやっている悪ガキでもあるわけで、いやそれがホントなわけで買いかぶってもらっちゃ困るわけで、それでも”思い”としては一寸も外していないなんて自負もありますので、親の気持ちで目に余ったらゲンコツのひとつもお願いします。

 まだまだわめは(死ぬまでかも)、人間臭くこれからもいっちゃいそうです。涙
Posted by わめ at 2005年12月20日 04:06
別に佐倉さんの記述に問題はありません。
信仰を捨てよというのはまったく正しいですから。
ただし、阿羅漢になってからという前提がつくだけです。そのために、阿羅漢にいたる道を教えたのですかr。

また、ダンマパダの思索は用語翻訳が間違っており、多分、ジャーナ=瞑想のことです。
法則について考えるのは無意味ということがおわかりいただけますか?



Posted by とゆーか at 2005年12月20日 09:25
死王について言えば、
単純に涅槃を証しているものは見ることができないだけです。

どこにも仏教的な意味で誤解しようがないところです。

Posted by とゆーか at 2005年12月20日 09:25
とゆーかさん、くまりんさん、おはようございます。^^

マジ今起きたばかりでうまく書けませんが、とりあえずお礼だけでもと思い書いてます。

とゆーかさん、頑なに自論を曲げなくてごめんなさい。そしてここまでお付き合いくださりありがとうございました。

法灯明の”法”に暫定真理などが含まれるとするのは、わめの主観の思い込みであるとはっきり認めます。

とゆーかさんのおかげでくまりんさんからも思いやりのあるコメントが頂け、それに酔っ払って甘えて言いたいこと言って寝ちゃったのですが、書き込み直後にはもう憑き物みたいなのが落ちちゃって、何で仏教を勝手に自論に取り込んでまるで自論を補強するような道具にしてたのか不思議にもなりました。

お恥ずかしい限りです。(● ̄▽ ̄●;)ゞぽりぽり

今後レスさせていただくか記事として書くかは分かりませんが、わめが誤っていたことだけはここでお伝えしておきます。

とゆーかさん、くまりんさん、ありがとうございました。心より感謝しております。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2005年12月20日 11:41
とゆーかさん、こんばんは。^^

> 別に佐倉さんの記述に問題はありません。
> 信仰を捨てよというのはまったく正しいですから。
> ただし、阿羅漢になってからという前提がつくだけです。そのために、阿羅漢にいたる道を教えたのですかr。

 持続的に阿羅漢でいられるのはインド的出家者のみとのくまりんさんのテキストもありますので、「阿羅漢になってからという前提」では、インド的出家をしてからしか信仰は捨てられなくなってしまうように思います。

 また佐倉哲氏の言明や、『耳ある者に甘露(不死)の門は開かれた。信仰を捨てよ。(サンユッタニカーヤ 6:1、中村元訳)』からは「阿羅漢になってからという前提」が読み取れないのですが、むしろ「すべての人(「耳ある者」)にあたえられたブッダの言葉」と言われているようにそのような前提がつくようにも思えないです。
Posted by わめ at 2005年12月21日 00:37
このサイトは面白そうな話題が満載で全てにレスをつけたくなってしまいます・・・。

ところで、佐倉さんはもうHPに復帰されているのでしょうか? だいぶ前に更新がストップされていたと思っていたのですが。以前龍樹などについて質問のメールを送らせていただいたことがあるので、ちょっと気になります。

僕も「自灯明、法灯明」という言葉が好きです。先に結論を書くと、「法(ダンマ)」が何を指しているか、釈尊のいない今、はっきりとした答えを出すことはできないのではないでしょうか。ただ、歴史上の人物である釈尊がどのような意図でこの言葉を発したのか、という観点から、一番ありえそうなものを推測するしかないと思います。

ここで、
1・現代までに至る大乗仏教の歴史を踏まえて考える
2・特定の宗派の立場を語る

ことは禁止事項でしょう。1は、あくまで歴史上人物である釈尊の思惑が正解となるべきという点から禁止されます。2は、信仰の問題を語るのであればそれでよいのでしょうが、それでは無数の答えを許すという点で議論の対象にできないということになります。

Q&Aの形で答えていきます。

Q 「法」とは、自分で見出すもの? 釈尊が説いたもののこと?

A もし勝手に自分で見出すものとしたら、六師外道やバラモン教も含まれてしまう可能性がある。かといって釈尊が説いたものに限定してしまうと、自ずから覚りを見出すという仏教の基本的スタンスに反する。
→ あくまで釈尊の提示した修行法や言葉に則って、自分で見出すもの

Q 「法」とは、物理法則などの客観的法則を含む?

A 釈尊は、「苦」を滅する方法を説いた。このとき、形而上学的見解や、宇宙はどのようなものであるか、ということは人間の「苦」とは関係ないとして説かなかった。そもそも仏教は物理法則や宇宙論に関心を持たないといえる。
 しかし、「法」が一切存在の在り方(諸行無常など)を指しているのだとしたら、究極の客観的なもの(誰にとってもそうだといえる真実)ともいえるのではないか。

Q 「法」には輪廻転生を含む?

A 上記理由で、輪廻には関心を持たなかったと考えられる(推測)。


・・・こんな感じですか。結果としてとゆーかさんよりの考えかもしれないです。
Posted by ひゃっきまる at 2005年12月27日 02:09
 ひゃっきまるさん、皆さん、こんばんは。^^

 パソコンで年賀状トラブルもようやく今日で終わったかも。(´▽`) ホッ
 うまくいけば(いかないだろうけどw)これで今年は仕事じまいかも。♪

> このサイトは面白そうな話題が満載で全てにレスをつけたくなってしまいます・・・。

 ご遠慮なくどこにでも書いてくださいね。ウキウキ♪o(^-^o)(o^-^)oワクワク♪

> ところで、佐倉さんはもうHPに復帰されているのでしょうか? だいぶ前に更新がストップされていたと思っていたのですが。以前龍樹などについて質問のメールを送らせていただいたことがあるので、ちょっと気になります。

 わめは一年半ほど前にメールをしましたが、質問でもなかったので返事は来てません。汗
 Webページでは「自分の存在意義」2004年06月13日で更新はストップしてますね。

> 僕も「自灯明、法灯明」という言葉が好きです。先に結論を書くと、「法(ダンマ)」が何を指しているか、釈尊のいない今、はっきりとした答えを出すことはできないのではないでしょうか。ただ、歴史上の人物である釈尊がどのような意図でこの言葉を発したのか、という観点から、一番ありえそうなものを推測するしかないと思います。

 わめもそう思ってましたが推測も他の方をあまり刺激するのもなんですのでちょっと控えめにしています。どうしても主観が入っちゃいますしね。(^^;;

> Q&Aの形で答えていきます。
>
> Q 「法」とは、自分で見出すもの? 釈尊が説いたもののこと?
>
> A もし勝手に自分で見出すものとしたら、六師外道やバラモン教も含まれてしまう可能性がある。かといって釈尊が説いたものに限定してしまうと、自ずから覚りを見出すという仏教の基本的スタンスに反する。
> → あくまで釈尊の提示した修行法や言葉に則って、自分で見出すもの

 どうなのかな・・・ わめにはよく分からないやw汗

> Q 「法」とは、物理法則などの客観的法則を含む?
>
> A 釈尊は、「苦」を滅する方法を説いた。このとき、形而上学的見解や、宇宙はどのようなものであるか、ということは人間の「苦」とは関係ないとして説かなかった。そもそも仏教は物理法則や宇宙論に関心を持たないといえる。
>  しかし、「法」が一切存在の在り方(諸行無常など)を指しているのだとしたら、究極の客観的なもの(誰にとってもそうだといえる真実)ともいえるのではないか。

 わめは究極の客観的なもの(誰にとってもそうだといえる真実)=批判に耐えている言明=暫定心理と捉えていますが、「法」が一切存在の在り方を含むのならそのように思います。^^

> Q 「法」には輪廻転生を含む?
>
> A 上記理由で、輪廻には関心を持たなかったと考えられる(推測)。

 釈尊は上記理由から、当時大多数の人々に当たり前のように信じられていた輪廻には関心を持っていたと思います。しかし形而上学な輪廻を否定も肯定も出来ないことと、そのようなことに惑わされるのは愚かだと無記と言うセンセーショナルな態度を採られたのではないかと推測しています。

> ・・・こんな感じですか。結果としてとゆーかさんよりの考えかもしれないです。

 わめの推測ですが、多分とゆーかさんは釈尊が輪廻に関心を持たなかったとは思ってなくて、輪廻はあって輪廻から脱するための教えを説いたと思っておられるのではないでしょうか。
Posted by わめ at 2005年12月27日 17:29
> ご遠慮なくどこにでも書いてくださいね。

ブログ形式のサイトには初めて書き込みましたが、新しい書き込みなどすぐにわかるところやトラックバックなるものはなかなか便利そうですね。ただ、一度書き込みしてしまうとレスのやりとりがエンドレスになってしまいそうで・・・。

とりあえずわめさんが今一番ホットと思われる記事を教えてください。個人的感情として意見を聞きたいところでもいいですし。

>佐倉さん

なるほど。ではわめさんも直接佐倉さんと面識があるわけではないのですね。

>輪廻について

これは初期仏教の考え方を追うにあたってかなり難しい問題と思います。率直にいって僕の手には負えないのですが、一応現時点での考えを述べます。

一般的に言って仏教は「輪廻からの解脱」を基本的な教義としますから、通常は輪廻が前提となっていると答えて間違いないと思います。また輪廻が普通に信じられて事実とされている社会においては、輪廻があろうとなかろうと、在るという世界観の文脈で教えを説いたとして不思議はありません。

しかし釈尊は形而上のことは取り扱わなかったと思いますので、輪廻が釈尊の教えの本質部分に絡むということはないと思います。ということは、輪廻があろうとなかろうと僕らは気にする必要はないということです。

例えば、昔は地上が円盤のような平らな板であると考えられていたかもしれません。釈尊もそう思っていたとしましょう。それで、教えを説くときに、地上が平らであることを前提にした教えを説いたとしましょう。

しかし僕らがその教説を見るとき、「釈尊は地上が平らであると言っているから、仏教の教えは地上が平らであると説くんだ」と考える必要はありませんし、それが仏教の教えの根幹であると思う必要もありません。

>法(ダンマ)の解釈について

わめさんがイメージしているものは、自然科学でいう法則と考えると筋が通ります。それに気づいたのは、「批判に耐えている」とか「暫定」という言葉によってです。これらは普通自然科学の話をするときに出てくる言葉です。

科学というのは自然にもともと存在している、人間の意図や意志が介在しない法則を見つけ出そうとするものです。人間がそれを発見しようがしまいが、それは厳然とそこに在り、しかも世界と人間を成り立たせています。

科学法則を発見するためには、いろいろな国の人がいろいろな考え方や方法論でもって見つけようとして良いのであって、最終的に「実験」によって「証明」されれば、万人にとって認められます。理論は人間が考え出すものですが、「実験」を行うことによって世界そのものが審判者となっているので、法則の客観的正しさが保証されることになります。

デカルトの時代を出発点として近代科学は洗練されてくるのですが、基本的には、「実証主義」「懐疑主義」という方法によって真実に近づくことができるというものです。実際これは大成功したと言ってよいと思います。

また、現在知りうる知見は人間の不完全性ゆえに常に暫定的なものであって、真実そのものではない(可能性がある)と考えられています。

さて、このような科学の考え方の大前提として、「客観的真実」が存在する、というものが必要です。当たり前と思うかもしれませんが、僕はこれもある種の宗教観と考えています。広義でのイデア論とも言えますし、キリスト教神学とも無縁ではないように思います。

そして科学法則は「真実の唯一性」の特徴があります。ある法則とある法則が矛盾している場合、どちらかが間違っているか、もしくはどちらも間違っているか、であり、どちらも正しいということはありえません。

さて、仏教における「真実」、仏教における「法」が、上記までのような科学法則において言えるような「真実」とイコールで結ぶことができるのかどうか、ということを考えていけばよいのですが、結論からいって「イコールではない」、むしろ、このような「真実」に対する考え方のアンチテーゼとしての教えを釈尊は提示したのではないか、と僕は考えています。

長くなってしまったので、この話題に興味があるかお伺いしてからまた続きを書こうと思います。また、わめさんの「法」の考え方が科学法則と同じなのではないか、というのは僕の勝手な憶測ですので、これについて確認してから先をすすめようと思います。
Posted by ひゃっきまる at 2005年12月28日 01:24
 ひゃっきまるさん、興味律々です。(^¬^) よだれ〜

 わめの言っているのは自然科学でいう法則だったのですね。^^ わめは諸々の法・(暫定心理)は他の諸々の法・(暫定心理)と複雑に絡み合っているように思います。
 こう言ったことを考えちゃうからわめは関係性重視思考になっちゃうのかもw(^^;;
Posted by わめ at 2005年12月28日 01:48
たまたま

「客観的事実」とは?
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1127661169/

の記事を見つけ読んでしまったのですが(ああ、今日こそ早く寝ようと思ったのに・・・)、わめさんの「暫定真理」の考えはここから来ているのですね。

Libraさんの解説はすごいですね。文章も用語もとても丁寧で正確です。
これを読んでいていろいろ自分の誤りに気づいたので、自分で判る範囲で訂正しておきます。

僕は単純にわめさんの「法」が、自然科学でいう法則のことではないかと言いましたが、もっと広義にいうべきでした。

(1)
> 「実在と一致(対応)する言明」が「真である言明」であるという考えは
>「対応説」とよばれています。わたしはこの説を支持しています。
>
> ここでいう「実在」というのは、言明が記述しようとしている対象のことで、
> いってみれば、わたしたちが住んでいる現実のこの世界のことです。

現実世界に対する言明であれば、必ずしも自然科学である必要はありませんね。そしてそれは「客観的事実」に対する言明でもあるわけです。
また「批判的合理主義」も自然科学にだけ施行されるものではなく、学問全般に施行されるものです。

ところで、「客観的事実」とは? の最後の方で議論されかかっていたことが、僕が書こうとしていたことに関係がありました。

(2)
>> 実体を指す言葉は何なのでしょう?
>
> 仏教では「自性」といいますね[*1]。
>
>> わめは縁起から考えて、「自立自存」するものはないと考えていますから、
>> 「実体」もないことになってしまいます。
>
> それこそまさに龍樹がいわんとしたことです[*2]。まさに「ウサギの角」[*3]
>のようなもので、たとえ概念的に想定できたとしても、もともとありません。

ちょっと(1)と(2)を並べて読んでみてください・・・。でも、この話(自性、無自性の話)って、もしかしたら別の記事ですでに議論されているのでしょうか? だとしたら、Libraさんに法(ダンマ)について聞いた方がいいかも・・・。僕ではボロがでまくりです!
Posted by ひゃっきまる at 2005年12月28日 05:02
 ひゃっきまるさん、こんにちは。^^

 2週間ほど留守にされるそうでさみしくなりますがお帰りを楽しみにお待ちします。

> ちょっと(1)と(2)を並べて読んでみてください・・・。でも、この話(自性、無自性の話)って、もしかしたら別の記事ですでに議論されているのでしょうか? だとしたら、Libraさんに法(ダンマ)について聞いた方がいいかも・・・。僕ではボロがでまくりです!

 わめの「自立自存」するものはない=実体もない(=無自性)とのコメントに対し、Libra師匠は『それこそまさに龍樹がいわんとしたことです[*2]。まさに「ウサギの角」[*3]のようなもので、たとえ概念的に想定できたとしても、もともとありません。』とお返事を頂き、自性あるものはこの世界には存在しないと言うのが師匠とわめの共通認識だと思います。
 自性・無自性について、また”法”について別記事の『自性・無自性について』で議論を継続中です。^^

  [*2] 龍樹の空思想(新田雅章)
     http://freett.com/Libra0000/123.html

  [*3] 「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」(小川一乗)
     http://freett.com/Libra0000/086.htm

 『自性・無自性について』 http://wame.seesaa.net/article/10864702.html
Posted by わめ at 2005年12月28日 16:50
今夜が今年最後の書き込みです。

どうもこの問題はいろいろな記事に飛散して展開しているようですね。記事のタイトルだけ見るとそう思えます。

また、わめさんやLibraさんは非常に高度な話をされているようですので、僕はいったんわめさん達が参照しているテキストの内容などを理解して自分なりに消化できるまでは、見(けん)に回ってみようかと思います。

ただ、この記事の主題に関して申し述べるならば、とゆーかさんの言うこともわめさんの言うことも一理あると思ってます。

とゆーかさんが言いたいのは、仏教を何でもあり、ということにしちゃったら仏教じゃなくなっちゃうんじゃない? ということと思うのです。例えば自然科学や論理学や哲学だって真実諦を求めるという意味では仏教の求めるものと重なる部分があると思いますが、それらを仏教と呼ぶことはできないということです。仏教はあくまで釈尊の覚りを規範とするからこそ仏教なのだ、ということと思います。

対してわめさんが言いたいのは、釈尊が言うところの「法」というのは、単に釈尊が覚ったものだけを指すのではなく、可謬に追求されるべきものだ、ということと思います。なぜならば釈尊自身も、自説が間違っていると思ったならば、直ちに自説を撤回するのは容易に推察できるからです。
Posted by ひゃっきまる at 2005年12月29日 04:36
 ひゃっきまるさん、こんにちは。^^

> どうもこの問題はいろいろな記事に飛散して展開しているようですね。記事のタイトルだけ見るとそう思えます。

 ですね。(^^;;
 わめ的には客観的にホントのことがわかればうれしいかなと思っているのですが、そんな簡単に結論を見出せるようなモノ・コトじゃないのかもしれません。

> とゆーかさんが言いたいのは、仏教を何でもあり、ということにしちゃったら仏教じゃなくなっちゃうんじゃない? ということと思うのです。例えば自然科学や論理学や哲学だって真実諦を求めるという意味では仏教の求めるものと重なる部分があると思いますが、それらを仏教と呼ぶことはできないということです。仏教はあくまで釈尊の覚りを規範とするからこそ仏教なのだ、ということと思います。

 その通りだと思います。
 そしてわめを仏教徒だと思われていたことが、語調を強くさせてしまったのではないかと感じています。

> 対してわめさんが言いたいのは、釈尊が言うところの「法」というのは、単に釈尊が覚ったものだけを指すのではなく、可謬に追求されるべきものだ、ということと思います。なぜならば釈尊自身も、自説が間違っていると思ったならば、直ちに自説を撤回するのは容易に推察できるからです。

 人間ブッダのイメージをわめはそのように捉えていましたし、でもそんなものはわめの勝手なイメージでしかなくそんなブッダ好きのわめの勝手な妄想とも言えなくもなく、それをひゃっきまるさんは「釈尊自身も、自説が間違っていると思ったならば、直ちに自説を撤回するのは容易に推察できるから」と、わめと似た釈尊観を持っておられるようでうれしくは思うのですが、わめはこのような釈尊観を批判に耐えるソースを持っておりませんし、仏教とわめ自身の考え方は一緒であれ違っているとしてもそのようなことにはそれほどの関心もなく、ならば他者に不快感を与えるような主観的な主張はちょっと控えるべきかと思ったわけです。
Posted by わめ at 2005年12月29日 14:58
 あけましておめでとうございます。

>人間ブッダのイメージをわめはそのように捉えていましたし、
>ひゃっきまるさんは「釈尊自身も、自説が間違っていると思ったならば、直ちに自説を撤回するのは容易に推察できるから」と、わめと似た釈尊観を持っておられるようで

補足をさせていただくと、僕の釈尊のイメージは、生老病死という人間の根源的な苦を解決することをこそ最重要に考えており、自分の説く法が真実であるとかそうでないとかに対してあまり関心をもたなかった、というものです。

目的を達したならば舟を乗り捨てよ、という言葉もあります。

そこにこそ仏教の最大の特徴があり、それが「仏教が教条的になってはいけない」、と言われる由縁なのだと思っています。

>わめはこのような釈尊観を批判に耐えるソースを持っておりませんし、仏教とわめ自身の考え方は一緒であれ違っているとしてもそのようなことにはそれほどの関心もなく、ならば他者に不快感を与えるような主観的な主張はちょっと控えるべきかと思ったわけです。

わめさんの考える釈尊観を提示することは全く問題ないと思います。ただ、文献的なものや研究者の著書から言っていることか、そうでないかをわかるように書く必要があると思いますが、わめさんがそれを混同するように書いているようには僕には思えませんでした。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 00:19
 ひゃっきまるさん、おかえり〜 お待ちしておりました。(*´∇`*)

> 補足をさせていただくと、僕の釈尊のイメージは、生老病死という人間の根源的な苦を解決することをこそ最重要に考えており、自分の説く法が真実であるとかそうでないとかに対してあまり関心をもたなかった、というものです。

 ひゃっきまるさんと意見の大きく違うところは、仏教(ブッダの説く法)が真実(暫定心理)であるかどうかはブッダにとっては重要だったと思うことです。
 ブッダは真実を知ることによって根本的な苦の解決があると思われていたと思うからです。
 キサー・ゴータミーの物語や、
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html
↑の(2)キサー・ゴータミーの物語

> 目的を達したならば舟を乗り捨てよ、という言葉もあります。

 これは筏の縦えのことだと思いますが、これは主に仏教以外の宗教を指しているように思いますし内容的には真実を知ることができない人に一時的に宗教(信仰心)は必要であっても目的を達したら宗教(信仰心)は捨てるべきとのお話だとわめは思います。
 それとブッダは自身の説くことが宗教とも思われていなかったと思います。
『信仰とその周辺スレから「筏の喩え」について』 http://wame.seesaa.net/article/9016740.html

> そこにこそ仏教の最大の特徴があり、それが「仏教が教条的になってはいけない」、と言われる由縁なのだと思っています。

 これは上記で書いたように仏教は真実を説く教えで宗教でも信仰対象でもなく自身で真実かどうかを確かめることができる教えであって当然教条的になるべきものではなく、根本的な苦の解決には真実を知って宗教(信仰)は捨てるべきものであると説かれているように思います。

> わめさんの考える釈尊観を提示することは全く問題ないと思います。ただ、文献的なものや研究者の著書から言っていることか、そうでないかをわかるように書く必要があると思いますが、わめさんがそれを混同するように書いているようには僕には思えませんでした。

 ありがとです。^^
Posted by わめ at 2006年01月10日 05:59
> ひゃっきまるさんと意見の大きく違うところは、仏教(ブッダの説く法)が真実(暫定心理)であるかどうかはブッダにとっては重要だったと思うことです。
> ブッダは真実を知ることによって根本的な苦の解決があると思われていたと思うからです。

ところで、わめさんの文章には「暫定心理」という言葉がかなり頻繁に出てきますが、これは単なる誤変換なのでしょうか?

僕が考える釈尊の説いた法とは、世の中をありのままに観察する方法であり、苦を解決する方法であったと思うのです。それは、わめさんの考える「客観的真実」というのとはかなり違うものだと思っています。

> これは筏の縦えのことだと思いますが、これは主に仏教以外の宗教を指しているように思いますし内容的には真実を知ることができない人に一時的に宗教(信仰心)は必要であっても目的を達したら宗教(信仰心)は捨てるべきとのお話だとわめは思います。

すみません。筏を舟と間違えて覚えてしまっていたようです。筏の喩えは、釈尊が仏道修行者に対して語った言葉であるので、

比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。(マッジマ・ニカーヤ)

この場合の筏(善き教え)とは釈尊の教えのことであることは明らかと思います。またこの喩えは、釈尊の「苦の解決」と「法」に対する考え方を明確にしていると思います。

参考↓
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud078.html

>仏教は真実を説く教えで宗教でも信仰対象でもなく自身で真実かどうかを確かめることができる教えであって当然教条的になるべきものではなく、根本的な苦の解決には真実を知って宗教(信仰)は捨てるべきものであると説かれているように思います。

当時のインドに宗教に相当する概念がなんだったのかはわかりませんが、確かに釈尊は何度も信仰を捨てよと言っていたと思います。ただし、この場合の信仰とは狭義の意味の信仰と僕は思っています。このことに関しては「宗教はやっぱり好きになれない」の方に書かせていただきます。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 14:55
 ひゃっきまるさん、こんにちは。^^

> ところで、わめさんの文章には「暫定心理」という言葉がかなり頻繁に出てきますが、これは単なる誤変換なのでしょうか?

 あは(^^; 誤変換ですw汗 暫定心理は暫定真理と読み替えてください。m(_ _"m)ペコリ
 わめは真実の表出された状態?を客観的事実、その真実には暫定真理が働いていると思いますし、ブッダの教え『縁起(無我・無常・空)』にもこの暫定真理が含まれていると思っています。

> 僕が考える釈尊の説いた法とは、世の中をありのままに観察する方法であり、苦を解決する方法であったと思うのです。それは、わめさんの考える「客観的真実」というのとはかなり違うものだと思っています。

 世の中をありのままに観察する方法とは何でしょう。非常に興味があります。o(^o^)o ワクワク
 わめはブッダが「世の中をありのままに観察」し(客観的事実)、『縁起(無我・無常・空)』という暫定真理を見つけ出し、この客観的事実・暫定真理を知ることで苦を克服できるものと思ってます。(^^;;

> 比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。(マッジマ・ニカーヤ)
> この場合の筏(善き教え)とは釈尊の教えのことであることは明らかと思います。またこの喩えは、釈尊の「苦の解決」と「法」に対する考え方を明確にしていると思います。

 いつもわめは「法」の解釈に悩まされるのですが(汗)、この「法」がブッダの教え全般(修行法等含む)を指すなら納得できます。

> 参考↓
> http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud078.html

 上記佐倉氏のテキストには『ブッダは自らの教え -- その中には「一切は壊れる」という無常の思想も含まれますが -- を「永遠不変の真理」として主張はしなかった、と思われます。 』とありますが、ブッダの教えとしてまた”「永遠不変の真理」として主張はしなかった”としたならばブッダはやっぱり立派だと思いますし、教えとして『縁起(無我・無常・空)』も捨て去るべきなのかもしれませんね。
 コメントが重複しちゃいますが、わめはこの「永遠不変の真理」ではない『縁起(無我・無常・空)』と呼ばれる暫定真理を知り深く納得することこそ長期にわたり苦を克服する方法だと思っております。
Posted by わめ at 2006年01月10日 16:08
>世の中をありのままに観察する方法とは何でしょう。

原始仏教で示される修行のことです。具体的には出家生活を送ることや、四諦、八正道などでしょうか。

>わめはブッダが「世の中をありのままに観察」し(客観的事実)、『縁起(無我・無常・空)』という暫定真理を見つけ出し客観的事実・暫定真理を知ることで苦を克服できるものと思ってます。(^^;;

 僕は釈尊のいう「ありのまま」(如実)とは、客観的事実とよぶべきものではないと思っています。ところで、わめさんは原始仏教のことをいろいろと学んだのだと思いますが、それによって「苦」は解決されたでしょうか。また、解決されたとしたら、それは具体的にはどのように解決されたのでしょうか。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 18:17
 ひゃっきまるさん、こんばんは。^^

> >世の中をありのままに観察する方法とは何でしょう。
>
> 原始仏教で示される修行のことです。具体的には出家生活を送ることや、四諦、八正道などでしょうか。

 わめの思う原始仏教はちょっと横っちょに置いといて、出家も四諦(仏教的真理?)も八正道も苦を滅するための修行方法かな。
 出家はともかく、八正道の規範となるものが縁起などの暫定真理ならこれはこれで良い修行方法かと思いますが、縁起などの暫定真理(規範)を知らずには八正道なども正しく行えないので矛盾があるようにも思います。(^^;;

>  僕は釈尊のいう「ありのまま」(如実)とは、客観的事実とよぶべきものではないと思っています。ところで、わめさんは原始仏教のことをいろいろと学んだのだと思いますが、それによって「苦」は解決されたでしょうか。また、解決されたとしたら、それは具体的にはどのように解決されたのでしょうか。

 釈尊のいう「ありのまま」(如実)とは何なのかな・・・ わめには想像がつきません。
 「苦」の解決ですかw 元々苦を解決しようなどとも思ってなかったのですが、と言うか苦が実感できないのでどのように解決したかも説明ができないかもですが、原始仏教から学んだことと言えば縁起(無常・無我)は暫定真理であり、誰人も暫定真理から免れることはできないと言うことは学びました。
 ちょっと無理して苦と結び付けてみると、苦の多くは暫定真理を知らないか知っていても自分は免れることができるかもしれないとの淡い(無謀な?w)期待を持つことから起きることが多いように思います。
 わめの場合、縁起(無常・無我)などの暫定真理を知り理解し納得し、そのような淡い期待は消し飛んでしまい代わりに覚悟(投げやりってコトじゃないよw汗)が生じてきました。
 以来意識的に苦を求めることはありますが、自然に苦を感じることは少なくなってきたように思います。
Posted by わめ at 2006年01月10日 19:29
わめさんと初期仏教や釈尊の話をしているとどうも違和感があるのですが、わめさんがソースとしている初期仏教や歴史上の釈尊の知識というのはどこから得ているのでしょうか。

>縁起などの暫定真理(規範)を知らずには八正道なども正しく行えないので矛盾があるようにも思います。(^^;;

これは全く逆と思います。縁起というのははじめに法則として示され、それにしたがってものごとを見る、というようなものではないと思います。八正道を実践し正しい思惟と行動を実践していくうちに、自然に身につけていくものと思います。

また、初期仏教というものは、どこまでいっても「苦」という問題提起に対し、その解決する方法を示している、という以上でも以下でもないというように認識しています。縁起という哲学上の問題に対し理論を発展させてもそれはそれでかまわないと思いますが、釈尊の本意ではないでしょう。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 20:57
> わめさんと初期仏教や釈尊の話をしているとどうも違和感があるのですが、わめさんがソースとしている初期仏教や歴史上の釈尊の知識というのはどこから得ているのでしょうか。

 ヽ(・∀・;)ノ アヒャッ! 色々なところからごちゃ混ぜ・ごった煮になっているかもw汗

 あでも左サイドメニューの「参考サイトリンク」にあるところからは多くを学んでいるつもりです。^^
 というかひゃっきまるさんもよくご存知の佐倉哲氏のHPやLibra師匠のサイトが主ですね。(*´∇`*)
 あと「仏教の源流からスレ」のNo364からのPoh師匠のテキストからもw
 http://kangaeyou.hp.infoseek.co.jp/925_1029381997.html#364

> >縁起などの暫定真理(規範)を知らずには八正道なども正しく行えないので矛盾があるようにも思います。(^^;;
>
> これは全く逆と思います。縁起というのははじめに法則として示され、それにしたがってものごとを見る、というようなものではないと思います。八正道を実践し正しい思惟と行動を実践していくうちに、自然に身につけていくものと思います。

 うむむw、でもでも正語・正念・正定などは真理を基準に判断する?わけですからその基準が分からなければ実践も成り立たないような・・・w

> また、初期仏教というものは、どこまでいっても「苦」という問題提起に対し、その解決する方法を示している、という以上でも以下でもないというように認識しています。縁起という哲学上の問題に対し理論を発展させてもそれはそれでかまわないと思いますが、釈尊の本意ではないでしょう。

 たしかに「苦」の解決は仏教においてテーゼだと思いますがそれだけとも言えないように思います。
 また縁起は哲学上の問題ではなくそこに暫定真理が含まれていると思いますし、「苦」の解決のためには不可欠だと思います。
 更にもひとつ、慈悲というのも根源的仏教思想のようにも思うのですが…

 ・・・仏教徒でもないわめなのに何だか仏教を庇っているようなw汗
Posted by わめ at 2006年01月10日 21:36
 苦と縁起の関わりについて曽我さんのサイトをリンクしておきますね。^^
『…現時点の私の仏教理解の総括…』
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/summary.html
の「◆7、苦を滅する道:無常=無我=縁起を納得する。」以降がいい感じかも。(*´∇`*)
Posted by わめ at 2006年01月10日 21:45
>初期仏教や歴史上の釈尊の知識

僕が思うには、わめさんはネットからの知識だけではなく、「スッタニパータ」や「ダンマパダ」などもひと通り読み、一般的な仏教研究の入門書や概説書もある程度は読んだほうがよいように思います。ネットで議論をするよりはずっと時間もかかりませんし。

というのは、佐倉さんやLibraさんにしても、彼らは当然こうした一般的な手順を踏んだ上で初期仏教に関して言及しているわけです。

いわば、彼らの説は本の「感想文」に当たるわけで、我々がネット上で「同じ本」について感想を述べ合うためには、当然「同じ本」を読んでいることが前提になります。

「本」を読んでいない人が、「感想文」だけを見て、それは納得できる、納得できない、と繰り返していても、それは「感想文の感想」にしか過ぎないのではないでしょうか。

佐倉さんやLibraさんの考察がすごい由縁は、普通一般人が手を出さないような専門書や原文書さえも当たって調べているところにあります。全く驚嘆するばかりですね。

>でもでも正語・正念・正定などは真理を基準に判断する?わけですからその基準が分からなければ実践も成り立たないような・・・w

確かにそういう疑問は当然起こりますよね。僕は、「何が正しいということなのか?」ということを考えることも修行に含まれるのだと思っています。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月12日 02:24
> 僕が思うには、わめさんはネットからの知識だけではなく、「スッタニパータ」や「ダンマパダ」などもひと通り読み、一般的な仏教研究の入門書や概説書もある程度は読んだほうがよいように思います。ネットで議論をするよりはずっと時間もかかりませんし。
>
> というのは、佐倉さんやLibraさんにしても、彼らは当然こうした一般的な手順を踏んだ上で初期仏教に関して言及しているわけです。

 『宗教はやっぱり好きになれない』でコメントしましたようにわめは”初期仏教に関して言及”しているわけではありません。汗
 佐倉氏やLibra師匠にしてもどちらかと言えば思想史的方法でブッダの思想を探求しているように思います。

> いわば、彼らの説は本の「感想文」に当たるわけで、我々がネット上で「同じ本」について感想を述べ合うためには、当然「同じ本」を読んでいることが前提になります。

 佐倉氏やLibra師匠は感想を述べているわけではないと思うのですが…w

> 「本」を読んでいない人が、「感想文」だけを見て、それは納得できる、納得できない、と繰り返していても、それは「感想文の感想」にしか過ぎないのではないでしょうか。

 今まで本はあまり読まないと言ってますので自語相違になることを言うのは避けたい(笑)と思いますが、まったく読まないわけでもありません。この点は秘密にしておきます。(^^;;
 ただ、ひゃっきまるさんの言い分では「本」以前に釈尊と同じ経験をすることがベストになってしまいませんか? というかわめは仏教だけを知ればいいと思ってなくて、色々な分野から学んでいきたいと思っていますので釈尊と同じ経験を積もうとか、あらゆる仏教書を読みとろうと思ったらその志半端で一生を終えそうですし、仏教から目的物を取り出せただけで充分なのです。

 またコメントを下さる皆さんにも、個々人に浅薄はあっても今のままの仏教知識(仏教以外の知識についても)で思ったままを書いていただきたいと思います。
 わめのEnjoy系は研究発表をしたり、感想を述べ合うのが目的ではなく、どのように生きていくのが人生をEnjoyできるかを考察していこうとするものです。

> 佐倉さんやLibraさんの考察がすごい由縁は、普通一般人が手を出さないような専門書や原文書さえも当たって調べているところにあります。全く驚嘆するばかりですね。

 というかわめは専門書や原文書を読んでも佐倉氏やLibra師匠のように仏教を考察できませんし、もしできたとしても各々見解が同じとは言えませんし目的物を拾い出せなかったと思います。
 こういったことからわめは”いいとこ取り”を自認するわけなのですが(爆)、できる方なら専門書や原文書を読んで頑張ってもらうことにはエールを送りたいです。^^

> >でもでも正語・正念・正定などは真理を基準に判断する?わけですからその基準が分からなければ実践も成り立たないような・・・w
>
> 確かにそういう疑問は当然起こりますよね。僕は、「何が正しいということなのか?」ということを考えることも修行に含まれるのだと思っています。

 八正道も初期仏教のお話になると思いますし、前回コメントで曽我さんのページを紹介させて頂きましたが、曽我さんの見解にわめは近いということだけお返事させていただきます。(^^
Posted by わめ at 2006年01月12日 10:50
 ごく簡潔に前のレスでの意図を述べますが、「初期仏教」及び「ブッダの思想」に関して論考したり、他人と議論するならば、ネットで得た間接的な知識だけでなく、仏典である「スッタニパータ」「ダンマパダ」などは読んでおくべきだし、一般的な「入門書」「概説書」も数冊(せいぜい2冊程度でよいと思います)は読んでおいたほうが良いと思います。

 これらを読むのは特に時間がかかるわけではないと思います。

 もしわめさんがこれらをすでに読んでおり、その上で議論されているのならば、失礼をお詫びします。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月15日 02:57
 ひゃっきまるさん、こんばんは。^^

>  ごく簡潔に前のレスでの意図を述べますが、「初期仏教」及び「ブッダの思想」に関して論考したり、他人と議論するならば、ネットで得た間接的な知識だけでなく、仏典である「スッタニパータ」「ダンマパダ」などは読んでおくべきだし、一般的な「入門書」「概説書」も数冊(せいぜい2冊程度でよいと思います)は読んでおいたほうが良いと思います。

 中村元博士訳のものならご指摘の書はかじっているかもしれません。(あ、バラしちゃったw汗)

>  もしわめさんがこれらをすでに読んでおり、その上で議論されているのならば、失礼をお詫びします。

 わめはひゃっきまるさんに何も要求することはありませんし、お詫びもして頂かなくて結構です。(^^;;
 ただわめの誤謬を指摘していただければうれしく思います。(*゜▽゜*)
Posted by わめ at 2006年01月15日 03:07
 ひゃっきまるさん、わめの仏教全般についての見解は”縁起”を除きみれいしゃんがシナプスさんっちでご紹介して下さったサイトで説明されていることと大差ないと言うことと、このサイト、とても簡素に要点を述べられていまして読むのに30分もかからないと思いますのでよかったらみていただけるとありがたいです。^^
http://www.asahi-net.or.jp/~vy6k-mrm/tao/index.htm

 わめは仏教から”縁起”を取り出せて満足しておりますので初期仏教についての自説などありませんし(強いてあげれば初期(上座部)仏教は個に向いがちなのでは?という印象はもっていますが)、ひゃっきまるさんがコメントくださったことについても、ブッダの悟りは”縁起”にあると言うわめの主張を除けばなんら異論を差し挟むものではありません。ただ”信仰を捨てよ”に初期仏教は含まれるか否かについてはお返事を頂いておりませんので、含むとするわめの意見と対立するかは未だ分かりませんが…
Posted by わめ at 2006年01月15日 03:30
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