2005年12月14日

宗教はやっぱり好きになれない

 今回は『輪廻転生について』でも触れましたくまりんさんの記事から「仏教は輪廻転生を説く教えか否か」についてEnjoyLife掲示板で、Libra師匠やくまりんさんが深い考察に基づき大変貴重な議論をされています。それはとてもありがたく思いますし、またわめなりにも意見もあるのですが場違いのようなわめのコメントで場を汚したくないのでこちらに書いてしまうことにします。^^

 お題が『宗教はやっぱり好きになれない』になってしまったのはわめの正直な気持ちで、この議論のずっと以前より思っていたことで、宗教の教えの中には沢山為になる教えはあるものの、それは現代の日本において宗教を信仰することで当時者やその周囲に対し有害性・副作用を顕著に感じるからです。もちろん宗教を”信仰する”ことにより苦悩から脱し、救われていく(と思っている)方も多くいるとは思いますが、だからといってその有害性・副作用を看過することはわめにはできないのです。
 またブッダは”信仰を棄てよ”とおっしゃっておりますが、その仏教においてもブッダ及びその教えを”信仰していく”のは如何な訳かもわけわかめ。(突っ込みどころを用意しました。^^)
 
 
 わめは長文は苦手で起承転結のないテキストしか書けませんので、今回もあとで記事追加や訂正、続編記事を書くつもりでとりあえず今ふっと思うことを手短に書きますので、そのために言葉足らずの表現不足や尻切れトンボになる可能性があることをお断りしておきます。

 宗教の効用は言うまでもなく皆さんご存知のように思いますので省略します。でもまったく効用をお感じにならない方もおられるかもしれませんので、そのような方にはくまりんさんの『単なる自我拡大の限界内の無宗教』を是非一読して頂きたいと思います。

 ってことで宗教を”信仰する”ことの有害性・副作用について書こうと思うのですが、これももう多くの皆さんが感じていることだと思いますので今更何をとお思いになるかもしれません。ですのでこの宗教を”信仰する”ことの有害性・副作用については、こんな有害性・副作用があるよとのコメントを募集したいと思いますので、お気軽にコメントして頂ければあり難いです。もちろんわめの意見や他の方のコメントに対し、そんな有害性・副作用はないと言うご意見もご遠慮なく書いてください。但し両者のご意見ともに、主観が入るのは仕方ないとしてもできるだけ客観的なご意見をお願いしたいと思います。

 わめも少し書いてみたいと思います。宗教を”信仰する”ことの有害性・副作用の中でもそこに選民意識のようなものが生じやすく、それは自らが信仰する宗教を最高のモノとして、それ以外の他の宗教の信仰者や無宗教者を劣った者、愚かな者等と断じ蔑む、哀れむようになってしまいがちで、信仰者の多くにそのような思考を感じてしまいます。信仰者の中にはこのような思考をなるべく表現しないようにしている方もおられますが、でも思考としてはそのような傾向にある方が大半だと思います。このような選民意識のようなものは歴史的にも明らかなようにファシズム(全体主義)や政治にも利用され、戦争の大義名分ともなってきたと思われます。
 日本には信教の自由があり、誰もがどの宗教を信じ信仰するのも、また信仰しないのも保証されております。言わば野放し状態にあるように思います。もちろん犯罪行為に及べば処罰はされるのでしょうが、そこに至るまでのあるいは犯罪行為と立件できないがため、その(物心両面の)被害者は泣き寝入り状態にある方が多く存在するように思います。このような指摘も一部のカルト的宗教が起こしているだけで自らが信仰する宗教においてはそんなことはないんだと思われている方もおられるかもしれませんが、それこそ選民意識の表れではないかと思うのです。

 信教の自由もこのような選民意識も、宗教が形而上学的なことを説き心的作用を謳うことが原因と思いますが、形而上学的な事柄や心的作用は客観的事実として証明しようがないため、どの宗教が正しくてどの宗教が間違っているのか、あるいはどの宗教も正しいのか、はたまたどの宗教もすべて間違っているのかを判断することなど不可能なことだからだと思うのです。

 このように宗教を”信仰する”ことの有害性・副作用は今後も私達に付き纏う様に思います。せめて選挙活動のように、布教活動の厳しい制限と、信仰をしない自由や、信仰を棄てることやまた信仰対象の転向の自由の確保や信仰する者を無理にやめさせようとしない等、これら個人の意思尊重を今まで以上に法整備して頂きたいと思い声をあげさせていただきます。
posted by わめ at 12:16| Comment(87) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。ポムと申します。テーラワーダに傾倒している野郎です。

>宗教の教えの中には沢山為になる教えはあるものの、それは現代の日本において宗教を信仰することで当時者やその周囲に対し有害性・副作用を顕著に感じるからです。

賛成。


>またブッダは”信仰を棄てよ”とおっしゃっておりますが、その仏教においてもブッダ及びその教えを”信仰していく”のは如何な訳かもわけわかめ。
 
仏陀は「実証不可能なもの」を捨てよとおっしゃっていると理解しています。釈尊の法は基本的に実証可能なもの、というスタンスとちゃいますか。
 

>宗教を”信仰する”ことの有害性・副作用の中でもそこに選民意識のようなものが生じやすく、それは自らが信仰する宗教を最高のモノとして、それ以外の他の宗教の信仰者や無宗教者を劣った者、愚かな者等と断じ蔑む、哀れむようになってしまいがちで、

仏法の全てを実証しきれず、「信仰者」の部類に入る自分としては、このような思考に囚われていることは否定できません。「愚かな者と断じ蔑む」ほどではないですが。仏教を知らないが立派な人格を持つ人は世の中にたくさんいると思ってます。

>このような選民意識のようなものは歴史的にも明らかなようにファシズム(全体主義)や政治にも利用され、戦争の大義名分ともなってきたと思われます。

これは別に宗教に限ったことではないんじゃないですか。選民意識、差別意識は会社員のオッサンでも持ってるでしょう。煩悩ある限り、差別意識からは誰も逃れられないのではないかと。


>もちろん犯罪行為に及べば処罰はされるのでしょうが、そこに至るまでのあるいは犯罪行為と立件できないがため、その(物心両面の)被害者は泣き寝入り状態にある方が多く存在するように思います。このような指摘も一部のカルト的宗教が起こしているだけで自らが信仰する宗教においてはそんなことはないんだと思われている方もおられるかもしれませんが、それこそ選民意識の表れではないかと思うのです。

少なくともテーラワーダを正確に理解する限り、犯罪行為まがいのことはできまへん。それと選民意識は何の関係もありません。単なる理解の問題です。

>形而上学的な事柄や心的作用は客観的事実として証明しようがないため、どの宗教が正しくてどの宗教が間違っているのか、あるいはどの宗教も正しいのか、はたまたどの宗教もすべて間違っているのかを判断することなど不可能なことだからだと思うのです。

釈尊はヴィパッサナーを怠るなかれ、とおっしゃています。仏教が正しいか否かは、ヴィパッサナー実践によって検証可能だというのが釈尊の立場です。ヴィパッサナーは客観的な証明方法でないとおっしゃるにしても、まずやってみなくちゃ分からんのとちゃいますか。

>これら個人の意思尊重を今まで以上に法整備して頂きたいと思い声をあげさせていただきます。

「個人の意思尊重」はいい加減止めたほうがいいと思います。それより判断力をつけさせてほしい。これは私自身の切実な願いです。

以上、駄文で申し訳ありませんでした。
Posted by at 2005年12月14日 14:10
嫌いなら嫌いでしようがないですね。

ただ、認識に問題があるので、またちょっと突っ込みだけ入れておきますよ。

凡夫はヤクチュウです。
説明のために、ニコチンチュウドクということにします。

タバコ吸っている人同士は、お友達です。
みんな一緒に灰皿囲んで交流しているでしょ。

タバコをまるっきり吸わない人(悟った人)は、タバコ吸っている人の近くにいってもたいして問題は生じません。たまに時期を見てタバコ止めたらというだけです。

禁煙を始めた人は、タバコの近くによることがとんでもなく苦痛です。きつい嫌煙者に喫煙経験者が多いのは見ていてわかるでしょう?中には、タバコをやめろと仲間に言う人も出るでしょうね。人間関係継続するかタバコやめるかの二択なのだから仕方ないです。ハタ迷惑な人です。

宗教ってそういうものですから、同じステージじゃない人は、なかなか一緒には居られないんですよ。
それを差別だなんだと大事にする神経がちょっと信じられないですけど^^;。

ま、そーゆーことで、お幸せでありますように。

Posted by とゆーか at 2005年12月14日 16:12
一回、アメリカやらアジアやらヨーロッパに言って、実際宗教がどういう風にそこに住んでいる人々に根付いているか見てみたいな。

日本は宗教は向かないと江戸時代にやってきた外国の方々もおしゃってますし(逝きし世の面影、参照)日本にいると宗教がわかりづらいな。


Posted by ナマズ at 2005年12月14日 16:29
ポムさん、初めまして&コメントアリガト!(´▽`)

> >宗教の教えの中には沢山為になる教えはあるものの、それは現代の日本において宗教を信仰することで当時者やその周囲に対し有害性・副作用を顕著に感じるからです。
>
> 賛成。

ポムさんのコメント全体を見ると客観的な目もお持ちのようで意見を述べるのがつらいです。涙
信仰者がすべて問題があるわけでもないと改めて思います。^^

> >またブッダは”信仰を棄てよ”とおっしゃっておりますが、その仏教においてもブッダ及びその教えを”信仰していく”のは如何な訳かもわけわかめ。
>  
> 仏陀は「実証不可能なもの」を捨てよとおっしゃっていると理解しています。釈尊の法は基本的に実証可能なもの、というスタンスとちゃいますか。

これは”個人の心的な作用&主観ではなく”ということでしょうか?
”個人の心的作用&主観”なら他の宗教でも充分実証可能なように思いますしわめも経験していますし、スポーツなら精神・肉体共の実証も可能かもしれません。

> >このような選民意識のようなものは歴史的にも明らかなようにファシズム(全体主義)や政治にも利用され、戦争の大義名分ともなってきたと思われます。
>
> これは別に宗教に限ったことではないんじゃないですか。選民意識、差別意識は会社員のオッサンでも持ってるでしょう。煩悩ある限り、差別意識からは誰も逃れられないのではないかと。

そうですね、選民意識、差別意識は会社員のオッサンも問題だと思いますね。逃れることはできないかも?しれませんが少なくしていくことには賛成ですし、微力であっても多少なりともその方向にすすむためにわめなりには言動していきたいと思っております。

> 少なくともテーラワーダを正確に理解する限り、犯罪行為まがいのことはできまへん。それと選民意識は何の関係もありません。単なる理解の問題です。

なるほど、正確に理解する人ばかりならいいですね。♪
ただわめの知る限り選民意識とまでいくかどうかは分かりませんが、少なくとも差別意識は持ってられる方はテーラワーダを正確に理解しているはずの方にも誰とは言いませんがおられるようですよ。もちろんわめの主観ですがw(^^;;

> 釈尊はヴィパッサナーを怠るなかれ、とおっしゃています。仏教が正しいか否かは、ヴィパッサナー実践によって検証可能だというのが釈尊の立場です。ヴィパッサナーは客観的な証明方法でないとおっしゃるにしても、まずやってみなくちゃ分からんのとちゃいますか。

わめも少しやってみたのですよ。(^^;; ヒマだから毎日数時間半月ほどw
でも普段から瞑想状態みたいなわめですから効果は薄かったようです。涙
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/140
ただ創価学会などでも勧誘方法として「やってみなければ分からないでしょ?」とよく言います。やればそれなりに体感できる方も多いと思います。でもポムさんはそう言われても創価学会の信仰などやってみたいと思わないのじゃないでしょうか?
それとも色んな宗教を経験してみないと分からないかとやってみますでしょうか?
どの宗教もそれなりに心理作用に影響は与えるもののように感じます。
霊法会という宗教団体では、釈迦の生まれ変わりの方や、神仏とお話できる方もおられます。実際には存在しなかった菩薩の生まれ変わりまでおられるのですからこれこそ驚異的な宗教といえるかもしれません。本部修行と呼ばれる儀式では発言者と言われるそのような方が、本部修行に来られた相手の先祖と交信もでき、また体を一時的に貸してあげて直接子孫と話をさせてあげることも出来るのですから、非常に魅力的な宗教かもしれません。
座禅などもそうかもしれませんし、心理療法などでも呼吸法と瞑想によって様々な効果が得られる場合もあるようです。
それはそれぞれそれでいいのでしょうけどそれらの体験した人は、その体験・信仰・宗教こそ最高!思っちゃうことが往々にあるのじゃないかと思うのです。そのような方やその周囲に対し有害性・副作用は存在するように思います。

> 「個人の意思尊重」はいい加減止めたほうがいいと思います。それより判断力をつけさせてほしい。これは私自身の切実な願いです。

的確な判断力を個人個人が身に付けるということには賛成ですが、個人の意思尊重は行き過ぎと言うことでしょうか?
もしそうならば現在の個人の意思尊重レベルからどの程度制約を設けたほうがよいとお考えなのでしょう?これは反論ではなくポムさんのご意見を伺ってみたいと思いました。

> 以上、駄文で申し訳ありませんでした。

コメントありがとうございました。m(_ _"m)ペコリ


とゆーかさん、こんばんは。^^

失礼ながら”凡夫はヤクチュウ”を”信仰者はヤクチュウ”としてあなたのご意見を読んでみるのも面白いと思ってしまいました。汗
それにとゆーかさんの正しいと思われる宗教も、他の宗教全体からは少数となってしまい、もしかしたら他宗教からその宗教の信仰者はヤクチュウと思われているかもしれません。

これらは自らが信じることが正しくて、それ以外を間違っていると思うその方のまったくの主観であり、客観性はないように思います。

コメントありがとうござざいました。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2005年12月14日 18:02
いや、その通りなんですよ。
中毒を別の中毒に置き換えていくのが宗教の修行なんだから仕方ないです。

ニコチン中毒をタイマ中毒に変えるぐらいのことから始めます。(習慣性、依存性が少ないから)
そこには、仏陀の通った道が最高だという認識がなけりゃ、どの中毒も一緒なわけで、そこに信仰というものが成立します。

ニコチン中毒をコカイン中毒に変えると悪行。
ニコチン中毒をタイマ中毒に変えると善行。
その程度のことです。
日本だと大麻のほうが悪い扱いですけどね。

テーラワーダにおける信は、
http://gotami.txt-nifty.com/journal/2005/11/dhannacast13_b9a1.html
こちらで説明されています。
創価学会の信仰とは微妙に違うことがわかるでしょう。お時間があったらどうぞ。

いずれにせよテーラワーダ系では、積極的に勧誘することはないですよ。無理に勧誘したところで、準備ができてない人は、その種の修行が本当にはできませんから。アルコール抜く最中に似た強烈な苦が出る人もあることを認識している以上簡単には薦められないのです。
自力門は慈悲が足りないと非難される所以です。

ちなみに釈尊の生まれ変わりと言った時点で、カタリで邪教決定です。全仏教徒を敵にまわす行為ですね。
が、わめさんにはどれも一緒にしか見えないでしょうから、言ったところで無駄ですね。

ちなみに、本当に仏陀なら三十二相を備えています。それが徴ですから。

それでは。
Posted by とゆーか at 2005年12月14日 19:45
とゆーかさん、こんばんは〜
あなたのおっしゃっているようなことは、信仰は違ってますから内容は少し違ってますがわめも以前よく言っていたこと多いです。^^

> いや、その通りなんですよ。
> 中毒を別の中毒に置き換えていくのが宗教の修行なんだから仕方ないです。

思い込みを思い込みで解消していくってのとはまた違うのでしょうか。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/216

> ニコチン中毒をタイマ中毒に変えるぐらいのことから始めます。(習慣性、依存性が少ないから)
> そこには、仏陀の通った道が最高だという認識がなけりゃ、どの中毒も一緒なわけで、そこに信仰というものが成立します。

ブッダと言えば自灯明法灯明って言葉(教え?)が好きです。(*´∇`*)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1127653318/8

> ニコチン中毒をコカイン中毒に変えると悪行。
> ニコチン中毒をタイマ中毒に変えると善行。
> その程度のことです。
> 日本だと大麻のほうが悪い扱いですけどね。

大麻は習慣性も体に及ぼす害も少ないと聞いてましたが、その幻覚症状からトンでもないことも出来てしまいますからわめは認識を改めましたw あ、話が違いますね。笑

> テーラワーダにおける信は、
> http://gotami.txt-nifty.com/journal/2005/11/dhannacast13_b9a1.html
> こちらで説明されています。
> 創価学会の信仰とは微妙に違うことがわかるでしょう。お時間があったらどうぞ。

くまりんさんっちにお知らせが来てましたわめもダウンロードして聞きました。^^
創価学会の信仰とは違うとは思いますが、教条主義的な面や信を重視する面は共通性が高いと思います。
それと学会でもずっと以前は無疑曰信といって、疑って疑って納得する答えが見つかるまで疑ってそしてそれらがすべて晴れた状態の信が大切だとの指導がありました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1109570758/2

> いずれにせよテーラワーダ系では、積極的に勧誘することはないですよ。無理に勧誘したところで、準備ができてない人は、その種の修行が本当にはできませんから。アルコール抜く最中に似た強烈な苦が出る人もあることを認識している以上簡単には薦められないのです。
> 自力門は慈悲が足りないと非難される所以です。

こちらのほうが学会とは大きく違うところです。^^

> ちなみに釈尊の生まれ変わりと言った時点で、カタリで邪教決定です。全仏教徒を敵にまわす行為ですね。
> が、わめさんにはどれも一緒にしか見えないでしょうから、言ったところで無駄ですね。

仏教にも色々な教えがあるということじゃないでしょうか。わめは一緒には見てませんが、これを信じる方もいて、そのような方は他の教えが間違って見えるということだと思いますよ。
皆さん、自分が信じているものが正しく見えるということじゃないでしょうか。

> ちなみに、本当に仏陀なら三十二相を備えています。それが徴ですから。

その宗教の釈迦の生まれ変わり(笑)の人が、わしはそんなこと言ったかどうか覚えとらんなんて言ったりしてね。爆
Posted by わめ at 2005年12月14日 20:26
わめさん、こんばんは。
 Libra さんも僕もわめさんの掲示板だって分かって書いていることですからどうぞ、ご自由に思うことを書いてくださいな。しかし、わめさん揺れてますね、あんまり突っ込んだことを書かなければよかったかしらんとちょっと思っています。

 選民思想については自己実現という自我を制御して注意を払わないとあらゆるグループ、共同体に擡げる思想ですね。仏教は原理的には無い筈なんですけど歴史的には胸を張れたもんでもないですから自戒は常に必要です。そもそも出家僧伽というのは世俗に布施して貰わなければ成立しないし本来なら法は肉親相続ではなくで常に新たな出家者を確保しながら歩んできたので、スポンサーとのバランスからそのような歴史を歩まざるを得なかったのは認識する必要があります。当然そうした歴史に対する反省は大乗仏教教団も含めて取り組まれているのですが、差別の歴史の事実は北西インドの各部派にも南方分別設部に歴然とあって、その舵取りとして律蔵が有ったわけですから、正式に律蔵を導入しなかった日本仏教はその自省が無く差別に対してはやりたい放題だったのは現実です。

 ちなみに選民意識、差別構造を日本仏教の思想構造に求めたのが袴谷先生の「差別事象を生み出した思想的背景に関する私見」という論文で用意され批判仏教の端緒になったわけです。それを踏まえて考察した拙テキストがあるので宜しかったらご参照のうえご批判下さい。

■市民運動は本当に進歩的か
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=743

■三省堂教科書問題の論争雑考・朝鮮語禁止問題を考える
http://ngp-mac.com/kumarin/index.php?p=766

 テラーワーダは無理に人を勧誘するようなことはないし、ぽむさんやとゆーかさんが仰ることはテーラワーダ仏教としては当然のことを言っているのだから説一切有部を研究してきた僕としては普通に受け流すことは出来るんですけど、仏教徒としてではなしに一介の研究者として私見を述べさせていただければ、日本社会は仏教に対してスリランカやタイ、ミャンマーよりもうすこし複雑な感情があるんだと思います。大乗仏教が殆ど葬送儀礼の主催者に留まっていてその後興隆したのが所謂カルト宗教であり、その直接の被害者の方はもちろん、そのニュースを木を見て森を見ずの見方をした第三者にもある種の宗教の恐ろしさという、諸々の仏教の名の下に行われたそのカルト教団の行為が形而上学的な構築物として形成され、それが仏教の負債として機能していることです。純粋に仏教の側から言えば「そんなのは別の教団がやったことで我々には関係ないんだから、そんなことで議論するならどうぞ、頑張ってください。甘露の門はいつでも開いているんですから、くぐってみたい方はどうぞ、そうでなければ我々は自分の修行をしちゃいますから。」というところなんでしょうが、パーリ律蔵を含む律文献の精神からすればそうした世俗社会の負債を脱構築していく努力は為されるべきだと思うんです。僕が自分のブログでとゆーかさんは仏教としては理に適っているけれども仏教徒ではないんではないかと失礼ながら書いたのはそういうことです。例えば説一切有部の仏教には一音説法というそうした時の自戒が有るんです。しかしこれはひとりとゆーかさんの問題ではなく教団自体にそう言う意識があんまりないんじゃないかと思います。それが南方仏教の伝統であると言われてしまえばそれまでですが。

>>霊法会という宗教団体では、釈迦の生まれ変わりの方や、神仏とお話できる方もおられます。
これはいくらなんでも!神はともかく釈尊も仏も般涅槃され二度とこの世に戻ることはないというのがブッダの考え方ですし、永遠の仏・世尊を希求したアシュバゴーシャでさえ、「神通力のあるブッダと言えども縁起の理を超えることは出来ず完全に涅槃された」と悲しみ歌い上げているくらいですから仏教としてはあり得ません(笑)

とゆーかさん。
 揶揄するような私見を申し上げてすみません。ところで
>>そこには、仏陀の通った道が最高だという認識がなけりゃ、どの中毒も一緒なわけで、そこに信仰というものが成立します。

 最近僕は ajita さんにもいろいろと情報をいただきながら説一切有部思想の比較対象として南方分別設部やテーラーワーダを勉強させていただいているんですが、とゆーかさんが仰られる「信仰」は南方分別設部や大乗仏教にも見うけられる「信仰の成立」には違いがないのですが、むしろ南方分別設部系にみられるヒンドゥー的要素をしばし批判的に止揚しつつあるテーラワーダもそうなんでしょうか?この点がブッダ自身の思想は了義(nitartha)であるに違いないが口伝された伝承や経典は了義と非了義があるので了義さを峻別していかなくてはならないとしてまず「ことば」を重視した説一切有部の信仰とは大いに対立するところで非常に興味があります。

********
生きとし生けるもが幸せでありますように
Posted by くまりん at 2005年12月14日 22:32
くまりんさん、(;´ρ`)イマオキタヨ またまた夕食後夢の中に行ってました。(>▽<;; アセアセ

>  Libra さんも僕もわめさんの掲示板だって分かって書いていることですからどうぞ、ご自由に思うことを書いてくださいな。しかし、わめさん揺れてますね、あんまり突っ込んだことを書かなければよかったかしらんとちょっと思っています。

 今回、掲示板(「○試論 釈尊の説かれた縁起の法・空・無我について」スレ)に書かずこちらに書いたのはスレに相応しい(以上ですがw)状態にしてくださったくまりんさんやLibra師匠のコメントに水を差したくないとの思いからと、このように上記スレからもその内容からもそぐわないことを書きたかったからなのですがこれは当然妥当だと思います。それがこのように返ってくまりんさんに気を遣わせてしまって申し訳なく思っております。くまりんさんにこそこのようなことで遠慮などはして欲しくないですから、よろしくお願いいたします。

 わめが揺れていると言うご指摘で、意識はしていませんでしたがそのようにお感じになるくらいですから、揺れているのかな?とそのような目で自身を見てみると、元々宗教好きではなかった自身が宗教的な活動から離れられて3ヶ月ほど立ち、今まで以上には客観的な目で宗教を見れるようになったかなと思うのですが、くまりんさんともご縁を頂いてまたLeoさんやLibra師匠ともお話できて、仏教も捨てたものではないかもと言う気持ちが湧いてきてのここ最近だったのですが、またブッダ(日蓮(大聖人)も広い意味で含めて)の心情も人々を苦しみから助けてあげたいとの思いで教えを広められたと感じますし、その点はまったく抵抗感などなくわめも同じ思いを持つと大それたことを勝手に思うわめですから(笑)このような意味では安定した心持だったかもしれません。
 それが現実に宗教によって苦しまれる方が多くいることを考えると、また苦しめる側も仏教徒の端くれだったりするものですから、それにくまりんさんも掲示板で書いてくださったお祖父さん、Mさんの残された遺族、お父さんや叔父さんへの仕打ちも仏教徒の端くれだったりするわけで、それはカルト教徒が行った行為との見方もあるかもしれませんが、くまりんさんもおっしゃるように仏教の負債なように思います。初期仏教においてもそれを信仰する者の中にも、自分達はブッダの教えを正しい教えを学び行じているとの思い込みからか、やはり他宗教やその信徒、また一般の方達を劣った者、迷妄する者との蔑みや哀れとの見方はあるように思いますし、このような仏教の負債や思い込みはブッダの望んだものではないように思いますし、またやはりブッダも人間であって、死後このような事態の予測もつかなかったのは仕方がないとしても、その思いを受け継ぐと自負する者はブッダの教えに教条的に従うのではなく、現代にマッチした形で仏教の負債を無くす作業とブッダの思いを実現すべく継承していくことが大切ではないかとの思いに変わりつつあるわめの”揺れ”なのかもしれません。

 ともあれ人間には本源的に何かを強く信じることで思い込みと妄想が生まれ、たとえそれが知り得る内の最高の模範的教義であったとしても、信じる側の人間にとってはやはりそこからも思い込みと妄想が生まれることはやむを得ぬ事実なのかもしれないと感じております。

 と、くまりんさんのコメントを一通り読んでながら、引用させてもらったくまりんさんのコメントだけのお返事になってしまったようです。涙

 続きはまた改めて書きたいと思いますので今回は寝起きと言うことでご容赦ください。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2005年12月15日 01:19
> 現代にマッチした形で仏教の負債を無くす作業とブッダの思いを実現すべく継承していくことが大切ではないかとの思いに変わりつつあるわめの”揺れ”なのかもしれません。

これはおもっきり誤解されそうな発言ですねw(>▽<;; アセアセ
これは宗教・明確な思想を指しているのではありませんので誤解しないでくださ〜い。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2005年12月15日 01:33
寝起きで書くと言葉足らずが余計にひどいw

> これは宗教・明確な思想を指しているのではありませんので誤解しないでくださ〜い。m(_ _"m)ペコリ

むしろ対症療法的に使う宗教以外(これも心理療法で賄えないだろうか)や、客観的事実に基づかない思想を排していくための思想を望んでいるのかもしれません。
Posted by わめ at 2005年12月15日 01:54
くまりんさん、やっとご紹介くださった記事を読ませていただきました。

でも読解力のないわめには最低3回は読まないと最低ライン読んだとは言えない状態です。涙
それでもくまりんさんの”思い”だけは伝わってきますし、その思いのカケラはわめにもあると自負しています。ぉぃw

でもその思いは残念ながら多くの信仰者には届かないと思います。それはくまりんさんのご意見は信仰者の目的ではないように思うからで、教条的には外に向かう大乗仏教の信仰者でさえその多くからは同意は得られないように思いますし、個に向かいがちな初期仏教の信仰者達にとってはことのほかではないでしょうか。この点においてむしろ無信仰の方達の一部から賞賛の声を得られるのではないかと思うのです。ブッダの「信仰を棄てよ」、「自灯明法灯明」も、わめの無茶苦茶楽観的な考え方ではありますが、その思い、その実践は、現代の日本の無信仰の方達の心にこそあるのかもしれないなんて妄想したりしております。

また時間的に不可逆、順としての個が先かもしれませんが、だからと言って個が優先されるとはいえないと思いますし、その向うにある他者、またその間にある関係性、それを仏教でどのように捉えるのかも知りませんが、それらが不在の世界なんて在り様もありません。それらを軽視するのが仏教とも思えませんが、信仰者の多くが個の利益(物心共)の追求に忙しくそれらを置き去りにしていってるように感じるのはわめの偏見の目に映る誤った認識でしょうか。
Posted by わめ at 2005年12月15日 03:06
わめさん、こんばんは。

>>でもその思いは残念ながら多くの信仰者には届かないと思います。それはくまりんさんのご意見は信仰者の目的ではないように思うからで、教条的には外に向かう大乗仏教の信仰者でさえその多くからは同意は得られないように思いますし、個に向かいがちな初期仏教の信仰者達にとってはことのほかではないでしょうか。

 そうかぁ。僕としてはあれが僕の仏教原理から迸った仏教の現代社会へのアダプテーションの何ですよ。僕流の立正安国論というか。「汝、すみやかに信仰の寸心を改め・・・・」やっぱり他の仏教徒には指示されないでしょうか(笑)?

 それはともかく一定のグループに共有される宗教思想がまるで四次元空間で密に連携して迫ってくるように、わめさんご自身とわめさんが我がことのように思いを想像できる出来る方々に対して、負の要素として機能していることはテキストの行間から迸るように読み取ることが出来ます。そう言う意味で「宗教は好きになれない」とのご趣旨は理解出来ます。

>>また時間的に不可逆、順としての個が先かもしれませんが、だからと言って個が優先されるとはいえないと思います
 僕が仏教の縁起として申し上げている時間的に不可逆とは「優先される」のは自己反省されるべき者としての個で、主張する個を他者に優先しようと言うわけではありません。反省を先にすべきは「わたし」、嫌な思いを先にすべきは「わたし」→「関係性」をありのままに先に引き受けるべきは「わたし」が縁起の時間の不可逆が意味するところと僕は理解しております。

 ここから先はブッダの説いたことではないですが、その延長に論理上有るはずであると僕が勝手に思うのは、なんていうか論文に書くような仏教学としてではなく単なる僕の思想とし、信仰の究極の姿は信仰のそぶりを微塵も見せぬまま何ものにもとらわれずにただ(只管)に自由自在に自己と同じ有限的他者と接することが出来る人格に趣くことであると思っています。そういられる人には宗教の教義はもうまったく不要になるんですね。他者との関係性をよりよく願うとおっしゃるわめさんの今後の考察のオプションにちょっと加えていただけたらなぁと思うんです。

いわゆる宗教者である僕の立場からちょっと宗教を庇ってみました。

********
- お幸せでありますように -
Posted by くまりん at 2005年12月16日 02:41
むむっ わめの我欲の貪りを邪魔する奴はくまりんさんか!笑

ほとけにあえば仏を殺せ ってちょっと冗談が過ぎました。m(_ _"m)ペコリ

>  そうかぁ。僕としてはあれが僕の仏教原理から迸った仏教の現代社会へのアダプテーションの何ですよ。僕流の立正安国論というか。「汝、すみやかに信仰の寸心を改め・・・・」やっぱり他の仏教徒には指示されないでしょうか(笑)?

 うーん、求めるもの、目的が違うからじゃないかと・・・
 遠回りでも実は一番目的に近いことだったりするとわめは思うので非常に残念です。

 素晴らしと思うことは素晴らしくていいとは思うのですけど、現実とのギャップも考えてもらいたいと思うし、現実を置き去りに達観できるならやってみなさいよとちょっと挑発的な意味での「宗教は好きになれない」だったかもしれません。照
 でも一人でもう最高!って境智にご満悦になれるものなのでしょうかね。>涅槃や成仏
 誰か一人でも悲しい人を見つけたらもうそんなどころじゃないでしょというのが、わめのヒューマン(Leoさん指摘)たる所以なのかもしれません。涙

> 反省を先にすべきは「わたし」、嫌な思いを先にすべきは「わたし」→「関係性」をありのままに先に引き受けるべきは「わたし」が縁起の時間の不可逆が意味するところと僕は理解しております。

 あらら〜 わめの大きな勘違いでしたw 素敵です。ヽ(  ´  ∇  `  )ノ ♪
 わめ的には幼児期の自我の成長が阻まれた(嘘、わめの大事件から)からか、自己と他者の区別がつかなくなることがあって、タバコが吸いたいと思った時にハッと自己のポジションに気が付くといったことが多々あるのですが、「わたし」を忘れてたまに相手にそれ(嫌な思い・先に引き受ける)を要求しているようなもんですね。反省しなくちゃw汗
 あ、違うんだ、そんな話じゃないw これは「わたし」の欲求たる「涅槃」とか「成仏」を求める個に向かう「わたし」を批判したのです。
 それなのに・・・くまりんさんにはやられっぱなしです・・・((“o(>ω<)o”))クヤシイー!!

>  ここから先はブッダの説いたことではないですが・・・

 それが人間ブッダ、人間くまりんさんの思いじゃないのでしょうか。^^
 そうであればわめはもう惚れまくりですよ。^^
 現実や結果を考えた場合、形(宗教・思想・主義等含む)あるものを強く宣揚することは、今の時代には争いごとや思い込みや妄想や拘りを生み、本来の目的の達成や推進することなど現段階では不可能なように思います。
 だから形のない思い(心)こそ重要な気がします。

 わめ的には自身が至上の喜びや境智を手に入れるより、一人でも悲しい人が少なくなることを望みます。っていうかそんな人がいるのに自分だけ無理じゃん!って諦めてます。涙
 みんなが至上の喜びや境智を手に入れるのは、わめやくまりんさんの後の世の方達で充分じゃないでしょうか。
 かっこいいことを書いてしまいましたが(かっこよくない?w)、実は周囲に笑顔がないとわめも楽しむことが出来ないという自己中が本音なのですがw汗

 酔っ払ってますので、ご気分を損ねることを書いてしまったかもしれませんが許してたもれ。
チュッ♪(〃^)(* ̄▽ ̄*)v
Posted by わめ at 2005年12月16日 03:49
わめさん、おはようございます。

>>仏に逢ふては仏を殺し、祖に逢ふては祖を殺し、生死岸頭(しょうじがんとう)に於て大自在を得、六道四生の中に向かって遊戯三昧(ゆいげざんまい)ならん。且(しば)らく作麼生(そもさん)か提撕(ていぜい)せん。平生の気力を尽くして箇の無の字を挙せよ。--- 無門関 一 趙州狗子 より

 わめさんがこの無門関の一節を引用された気持ちはわかりますよ。

>>現実とのギャップも考えてもらいたいと思うし、現実を置き去りに達観できるならやってみなさいよと

 そんな自分で思い描いた妄想のブッダなら殺してしまえ!と臨済禅では言うんです。経外別伝、不立文字とは唐代から宋代にかけての仏教徒たちの形而上学的な宗学論争に対するアンチテーゼとして生まれたものなんですね。そもそも臨済和尚はじめから禅宗なのではなく天台で教学を学んでいます。それで愛想をつかして禅門を叩いたと伝えられています。ところがその臨済宗もまた同じことを繰り返す。あるべき正義や権威をプライオリティーとして立ててしまうと人間はそれにしがみついてしまいます。なんて弱き悲しい存在でしょうか。

>>みんなが至上の喜びや境智を手に入れるのは、わめやくまりんさんの後の世の方達で充分じゃないでしょうか。

 縁起の時間の先頭の刹那/\にいる認識主体としてのみの「我がものでは無いわたし」が自覚できれば、苦しんでいる方の苦しみや悲しんでいる方の悲しみもみな「わたし」自身の苦しみや悲しみそのものでしょうに。そうしてなにものにも執らわれずに、信仰への憧れを持つ人には一切智者への信仰の姿で接っし、信仰を嫌う人には信仰の素振りを微塵も見せずに、あるときは共に悲しみ、あるときは共に苦しみ、人を批判する時と境を辨え、いつのまにか自然に生きる喜びを伝え、そして喜びを分かち合えるひと。

 そういう人に僕はなりたいですけれども、そういうひとこそ、初期仏教では阿羅漢と呼び、大乗では慈悲の人と呼ぶ、そして禅で呼ぶ般若が自発発展する仏さんなんだと思います。そういう人格に趣く人はまた結果を急がずそのプロセスを重んじる。なぜなら厳しい自戒とともに常に他者を見ているから。その選択すべき未来への希望こそ「後の世の方達」への希望です。そしてそのことだけのための即今自己此処。ブッダこそそのように生きた人であったに違いないと僕は勝手に思いたい。論文じゃないからこの勝手をお許しくださいね(笑)

>>かっこいいことを書いてしまいましたが(かっこよくない?w)、実は周囲に笑顔がないとわめも楽しむことが出来ないという自己中が本音なのですがw汗

 まわりのひとの笑顔、笑顔にかこまれて生きられたら本当に素敵ですね >^_^<

********
- 生きとし生けるものが幸せでありますように -
Posted by くまりん at 2005年12月16日 07:11
くまりんさん、こんにちは。^^

くまりんさんの思い、ご意見に、わめは両手を挙げて喜んでます。\(^o^)/
わめは如意棒片手にやんちゃするお猿さんかもしれませんが。涙
もうこれ以上書くことないわw汗

今回お話できたことを大前提に、今後のくまりんさんとLibra師匠との自性・無自性議論を楽しみにしております。^^
Posted by わめ at 2005年12月16日 14:11
くまりんさんへ

えーと、答えるものが何もないです。
申し訳ない。自身がその責を担うようなレベルじゃありません。テーラワーダの事情に詳しいわけでもないです。

わめさんへ
法灯明ていうのは、流れでいえば輪廻転生を信じろってことです。別に100%信じなくてもいいけど、100%認めない時点で邪見であり、仏説はその人にとって意味はなくなります。そういう体系なのです。
勝手な法を説くな、考えるな、邪見に陥らないように常に注意しろってことが法灯明のひとつの意味です。
無制限に自灯明だといえば、我見に凝り固まるだけです。最低限、法を見れるレベルになれということですが、法を正確に見れるのは悟った人だけですからぁ、残念ということです。
結局、四諦八正道です。仏説とはそういうものであるというのが、仏教の学術的な(世界的な)定義です。
どの宗派でもそれを否定することはないはずです。
がどこに重さをとるかはてんでんばらばらなようです。

それでは。
Posted by とゆーか at 2005年12月17日 00:50
とゆーかさん、こんばんは。^^

 輪廻転生を100%認めない人と言うのも困ったもんだと思いますよ。特に輪廻については。
 ただ、そこまで否定できるほどの根拠を持っておられる方も少なく思いますし、口では否定的に言いましてもその可能性を0%と思っておられる方も少なく思います。そういった意味ではわめも可能性が0%とは思っておりません。^^

 法灯明についてですが、わめはとゆーかさんとよく似た捉え方をしてはおりますが、よく似たとは「法を見れる」(法を知る)ということなのですが捉え方の違うであろう点は、この法とは仏教の枠内でしか通用しない法ではなく(暫定)真理を指す言葉だと思う点です。
 (暫定)真理は悟った人だけにしか知ることが出来ないとは思いませんし、悟った人だけにしか知ることが出来ないのならブッダは悟った人にだけ「法灯明」と言う言葉を残されたことになってしまい、「自灯明」とセットにしながらも随分無慈悲な言葉を残されたことになってしまうのではないでしょうか。
 (暫定)真理に話は戻って、(暫定)真理とは客観的事実の背後に隠れているものではないでしょうか。例えば「エネルギー保存の法則」や「万有引力の法則」や「慣性の法則」などもこの(暫定)真理、法灯明の”法”を指しているように思うのです。これらの(暫定)真理を無視して、或いは逆らって人間が生きていくことは大変なことだと思います。汗
 またこのような捉え方の法灯明であれば悟った人にしか知ることのできないとは言えないと思いますし、これならブッダの「自灯明法灯明」も人間レベルの差別的言葉でも、無慈悲な言葉でもないように思いますがいかがでしょう。
 でもこれはとゆーかさんもわめも、個人的主観の意見ですから、すり合わせをする必要もないとは思いますが。(^^;

 四諦八正道と言うのが”仏教の学術的な(世界的な)定義”ならわめにはあまり関係ない話なのでコメントを控えさせていただきますね。(*´∇`*)

 ご意見ありがとうございました。(^-^)
Posted by わめ at 2005年12月17日 01:33
どうも論理的、客観的に考えてくれないですね。

仏陀は、法を説いたのです。それは世界観と解脱に導く一切を説いたということです。

ゆえに、もしも、あなたが別の真理を発見し、それであなたが、新しい価値を発見して、別の絶対的な幸福を達成したとします。それと仏陀の説が矛盾したとします。

そうすると、仏陀は間違いを犯したことになります。
ですから、仏陀は一切を説いていなかった。大嘘つきであるということになるのです。

そういうことですから、その場合は、仏陀のいうことを全部捨てるべきであり、新しい自身の生き方をするべきなのです。

大嘘つきを基礎にして客観的な議論はできませんから、そこでは単なる我見と我見の戦いになるのです。

仏教は仏陀の教えです。仏陀が基本であり、法律であり、ルールなのです。
何人も彼の説に反する仏説を唱えることはできないのです。
新しい説、新しい発見をしたならば、自身の説として勝負すべきなのです。ex)キリスト教

我見か我見じゃないかは、仏教に関して言えば、仏陀に全ての権利があり、仏陀もこう経典で言っている。私も同じ意見である。こういう意見だけが、我を離れた客観的な意見であると認識されるのです。

この流れでいうと自灯明、法灯明と二つあるのは、自らの意見、感覚、経験は大事にしなさいということと、それと経典その他に由来する仏陀の教えにて、常にチェックを怠るなということです。両方揃わないと客観的なモノとしては認められないということです。

仏弟子を続けるつもりなら、仏陀の教えと自身の経験の違いに思いを馳せて、未熟のゆえか、自身が仏陀を越えたのか、そこが決断するポイントです。もっとも仏陀を越えたと思った時点でマーラーにやられただけでしょう、というのが仏教徒の認識なのです。

あなたの文章では、我見でぜんぶオーケーにみえるから、反論しただけです。

個人の経験、意見は尊重されるべきですが、仏説として表現する場合は、両方のチェックが絶対に必要です。あなたにはその感覚がないから、仏陀の生まれ変わりの教えも、すごい宗教なんだよね。新しい仏教なんだよね、みたいな論理になるんです。絶対に認められません。

そういう不心得ものがいないように、出現されないように、そう定められているのです。

暫定真理で語るのは自由ですが、そこに仏陀は関係ないでしょうということです。
拡大した意見に仏陀を絡ませる理由がわかりません。
ただの権威づけでしょう。そんなことはやめてください。権威づけのために引っ張り出して、論理が破綻したら仏陀のせいにするのがせいぜいです。
仏教的な意味で悪業を行うだけになります。無意味で無価値です。

それでは。
Posted by とゆーか at 2005年12月18日 02:40
とゆーかさん、こんばんは。^^

どうもご気分を害させてしまったみたいで申し訳ないです。(^^;;
ただ、とゆーかさんが勘違いされていることを元に意見を述べられていると思いますので、この点だけは弁解させていただきますね。

わめはこのブログの記事やコメントで何度も書いておりますけど、いずれの宗教も信仰していませんし仏教徒でもありません。
ですので”仏弟子を続けるつもり”も何もありませんw(>▽<;; アセアセ

わめは無信仰者ですので、どうぞこの点だけは誤解なきようによろしくお願いいたします。

ただ、仏教からも学ぶべき点は大いにあるようにも思いますので、今後ともとゆーかさんのご意見にそのsourceを添えてコメントを頂ければ、楽しい議論など続けていきたいと思います。(*´∇`*)

ご意見ありがとうございました。☆^∇゜) ニパッ!!
Posted by わめ at 2005年12月18日 03:16
「宗教はやっぱり好きになれない」ということですが、話の流れを完全に無視してちょっと自分の考えを語ってみます。

宗教と一口にいってもいろいろあるわけで、十把ひとからげに語れないという印象があります。

例えば日本人は神道と儒教と仏教がぐちゃぐちゃに混ざり合った宗教観を持っているんですね。神道は木や石や自然のあらゆるものに神様が宿っているみたいな考え方で、儒教は日本人の倫理観の最も基本的な部分を担っています。

そしてこれらは文化と切り離せない状態にあります。

お盆に死者が帰ってくる、というのは神道から来てるんだと思いますが、それを迷信だ、とか言うのは無粋に思います。

あと、現代より前の宗教の重要な役割として、世界観の提示というのがありました。今は唯物論的世界観が説得力をもってしまっているので、二重の世界観ができてしまって混乱してしまう人もいるんじゃないかと思います。

音楽や美術その他文化全般通して、宗教を抜きにして歴史を語ることはできません。宗教にはいろいろな役割があったのだと思います。

たぶんわめさんは、「本尊」があり、「教義」があり、信仰することによる「功徳」があるような宗教を想定して言っているのだと思いますが、必ずしもそういうものがない宗教もたくさんあります。神道とか儒教とかがそうです。

キリスト教や仏教のようないわゆる「世界宗教」だけでなく、その土地にはその土地にもともとある土着の宗教観があるのですね。キリスト教も仏教もそういうものと混ざりながら変化し分岐し発展(?)してきました。

宗教というものをもっと広くとらえ、その上で、わめさんが「否」とする宗教の特徴を分析していけばよいのではないでしょうか。
Posted by ひゃっきまる at 2005年12月27日 02:57
 ひゃっきまるさん、今度はこっちにお返事します。^^

> 「宗教はやっぱり好きになれない」ということですが、話の流れを完全に無視してちょっと自分の考えを語ってみます。

 ( ̄▽ ̄)ゞラジャ

> 宗教と一口にいってもいろいろあるわけで、十把ひとからげに語れないという印象があります。

 それは理解できるのですが、

> 例えば日本人は神道と儒教と仏教がぐちゃぐちゃに混ざり合った宗教観を持っているんですね。神道は木や石や自然のあらゆるものに神様が宿っているみたいな考え方で、儒教は日本人の倫理観の最も基本的な部分を担っています。

 儒教は社会にどのような影響を与えているか詳しくは分からないのでコメントできませんが、神道にはかなり抵抗感を持っております。政財界との繋がりや土木・建設・金融(銀行系)業界への関わり、天皇制を支持し右傾的志向の強い宮司さん達もわめの知る限りにおいては多くおられるように思いますし、権威主義的傾向は氏子にも影響を与えているように感じます。地域社会においても特に田舎にいくほどその傾向は強く、地元に根を張り家督を継ぐ家々を中心とした閉鎖的な暗黙の階級社会の維持存続の一翼を担っているようにも思います。また一般にはあまり知られていない国・県・市町村から報酬を受けることが出来る資格者の候補選びや選定などにも深く関わっているように思います。

> そしてこれらは文化と切り離せない状態にあります。

 伝統文化とかいい面もあるとは思います。^^

> たぶんわめさんは、「本尊」があり、「教義」があり、信仰することによる「功徳」があるような宗教を想定して言っているのだと思いますが、必ずしもそういうものがない宗教もたくさんあります。神道とか儒教とかがそうです。

 うーん、歴史ある宗教にはその地域社会においても影響力が大きく、それがいい面にだけ働けばいいのですが、そうはいかないのもこの人間社会だと思うのです。
 唯一絶対思想的な宗教はもちろん嫌いですし、伝統宗教の多くにも腐敗や政財権力との繋がりが強くあるように思いますし、一般人は知らぬままで済んでいるからいいようなものの、特権を受けることができる方達はこのような伝統仏教に深く関わる家系の人たちが選ばれていく傾向にあることも知っていくべきだと思いますし、このようなことも宗教が好きになれない理由になっているのかもしれません。
 とは言ってもどんな宗教も大嫌いなんてことではなく好きになれない程度ですし、この記事で言っているように「宗教を信仰することで当時者やその周囲に対し有害性・副作用」を与えないのであれば、功罪ありとして偏見の目では見ていないつもりなのですが、自分でそう思っているだけなのかもしれませんね。(>▽<;; アセアセ
Posted by わめ at 2005年12月27日 19:38
&#173;>儒教は社会にどのような影響を与えているか詳しくは分からないのでコメントできませんが、&#173;

儒教の教えの基本的なものを五倫五常というらしいです。
五常はこれで解説があってるかあまり自信がないので興味があれば調べてみてください。

<五倫>
父子の親(しん) 父と子が自然な親愛の情で結ばれていること
君臣の義(ぎ) 主君と家臣が正しいあり方で結ばれていること
夫婦の別(べつ) 夫と妻のあいだにはけじめが必要であること
長幼の序(じょ) 年上と年下には序列があること
朋友の信(しん) 友は互いに信頼で結びついていること

<五常>
仁 人に思いやりを持つこと、己を律すること
義 悪を恥じ道理をわきまえること
礼 儀礼、人を敬うこと
智 真偽を判断すること
信 ?

えっと・・・。ちょっとこれだけだとピンとこないかもしれませんが、僕は儒教は日本の道徳と呼ばれているもののほとんどを担ってきたのだなあ、と思っています。僕らはこういう道徳を当たり前と思っているけど、当たり前と思ってしまうくらい、文化と心に染み付いているわけです。御書にも似たような一節があったかと思いますが、儒教がなければ人間は禽獣の世界で生きるようなものです。

例えば、聖徳太子の十七条の憲法は、ほとんどを儒教の教えから構成されています。有名なところでは「和を以って貴しと為す」は論語の学而篇からです。昔から日本人は儒教の倫理感を敬ってきました。

西洋の文化が大々的に入ってくるまでの日本人は儒教の倫理観を基本的に無謬に正しいとしていたので(学問として研究されていたので厳密には無謬主義ではない)、国、村、家、といった諸々の単位の社会システムも儒教を前提とした仕組みになっています。現代の会社等でも、儒教の教えを社訓として会社の方針にしているところは多いです。

つまり、宗教や思想というものは、単に形而上のものを信じるというだけではなく、生活する上での基本的な倫理観や社会システムの前提になっていたりするので、宗教が嫌いといってもそもそも僕らは(気づいていようがいまいが)なんらかの宗教的価値観の上に生活しているし、その恩恵を受けている、といえると思います。ヒンズー教のカースト制度が差別主義だから、といって簡単に撤廃できないのはこういう理由もあります。

じゃあ、宗教的な世界観をなくして、社会科学に基づいた世界を新しく作った方がいいんじゃないの? という考えもあると思いますが、そういう考え方が流行したことがあって、実際にやろうとしたのが「共産主義」です。結果としては失敗してしまいましたね・・・。宗教にしろ科学にしろ所詮どちらも人間が考えることなんですから、どちらが優位ってことはないと思いますが、宗教の倫理観は長い間の先人の知恵が凝集されてます。表面上の迷信に捉われず、学ぶべきものは学ぶべきなんでしょう。

神道については割愛しますが、穢れや魂についての日本人の考え方が神道の根本と考えてよいでしょう。必ずしも神社とかは関係ありません。

わめさんがおっしゃっている、儒教や神道の弊害というか、悪い面ももちろんあると思います。そういうものの実態について僕はあまりに無知なので、コメントできる立場にはないのですが、わめさんのおっしゃるとおり、問題点について一般の人達の関心を集めて知ってもらうことが必要なのだと思います。
Posted by ひゃっきまる at 2005年12月28日 03:09
 ひゃっきまるさん、お返事アリガト!(´▽`)

 う〜ん、宗教的な世界観と言うのも結局権威権力者に取り入る思想でもあるように思うのです。
 儒教の教えも権威権力者に非常に都合のいいもので、その意味では念仏なども百姓一揆を防止するためには随分都合のよい教えだったわけで、権威権力者に都合よい宗教が流布しているとも言えなくもないように思います。
 逆に考えれば宗教者は権威権力者に都合よい教えを説いたとも言えなくはないわけで、権威権力者がこの世の春を安穏と享受・維持、塗炭の苦しみにある民が世を乱さぬために一役買っているとも言えなくもないように思います。
 現在の民主主義社会にあっては一概にこのようなことは言えないとは思いますが、伝統的宗教の多くはこのような理由で流布され、また権威権力者の意に具わない宗教は淘汰されて影も形もなくなってしまったものもあるのではないかとも思ったりもします。

 ただ、ひゃっきまるさんのご指摘のように、それが多くを望み得ない民衆の苦を麻酔のように除くことには役立っているわけですから、宗教の本質がどうあれ権威権力者から最下層の人々にまで幅広く受け入れられていったことは事実で、わめも宗教の功の部分を否定するつもりはないです。^^

 儒教のご説明ありがとうございました。
 ひゃっきまるさんのこのようなコメントが、多くの方の知識や参考となり役立っていくとわめは信じております。
Posted by わめ at 2005年12月28日 03:41
>う〜ん、宗教的な世界観と言うのも結局権威権力者に取り入る思想でもあるように思うのです。

儒教も仏教もキリスト教も、初期においては反体制側の宗教でした。しかしどれも、それが国教として政治の道具として使われた結果、現在のような性質のものになったといえると思います。

僕はこれをもって悪いとも良いとも言えないと思います。それは宗教の持つ効果を為政者が理解して利用したということですから。良いこともあるし(道徳の普及による平和社会の実現)、悪いこともある(合理的でない支配構造の安定)、と思います。

また、いったん為政者の道具と化してしまった宗教も、腐敗が頂点を極めると先祖返りを起こす(いわゆる宗教改革)というようなこともあると思います。これは宗教がどんなに変質しようとも、その宗教が本来主張した本質に立ち返ることができることを示していると思います。

> ただ、ひゃっきまるさんのご指摘のように、それが多くを望み得ない民衆の苦を麻酔のように除くことには役立っているわけですから、

そのようなことは言っていません。僕は、僕らが通常当たり前と思っているような道徳観などが、気づいていようがいまいが、そもそもなんらかの宗教の世界観に由来している(日本の場合は儒教がメイン)、ということが言いたいわけです。わめさんも例外ではありません。なぜなら道徳的観念をもっていない人間などいないし、いるとしたら社会生活を送ることはほとんど不可能と思うからです。

例えば、「人を殺してはならない」ということを言いたいときに、この理由を合理的に説明するのは極めて困難ですが、宗教や道徳というのはこれらの理由を問われません。

もちろん、家長制度や男尊女卑思想など、現代から見れば必ずしも正しいとは言えない主張も宗教はします。しかし忘れてはならないのは、宗教も発展し、教えの内容は時代に即応して変化していくということです。

日本の儒教的世界観は、西洋の文化や合理主義などとぶつかることにより、その無謬性が破壊されました。文化と文化が出会えば、必ずそれらはお互いに影響し合い、新たなものに発展することができます。社会の変化によって教えの内容が時代にあったものでなくなったならば、問題意識を持つ人間の手によって変わります。

宗教や道徳といってもそれは固定されたものではなく、肉体を持った生活する人間が持つものですから、生き物のように変化し、自らを訂正し続けながら存続していくのだと思います。
Posted by ひゃっきまる at 2005年12月29日 05:19
 ひゃっきまるさんの『悪いとも良いとも言えない』とのご意見にわめも異論はありません。^^

 また『僕らが通常当たり前と思っているような道徳観などが、気づいていようがいまいが、そもそもなんらかの宗教の世界観に由来している』とのご意見にも異論はありませんし、この点をまったく意識していない方も多くいらっしゃると思いますが、これが事実であろうと思っております。

> もちろん、家長制度や男尊女卑思想など、現代から見れば必ずしも正しいとは言えない主張も宗教はします。しかし忘れてはならないのは、宗教も発展し、教えの内容は時代に即応して変化していくということです。

 この「時代に即応し変化」ということには疑問はあります。時代に即応はされていないように思いますし、もしも時代に即応したとしてもどのような形で宗教は発展し時代に即応するのかもわかりませんし、果たしてそれはよいことなのでしょうか。
 特に現代は情報の伝達手段が発達し、今後宗教というものの果たしてきた役割の多くを、社会風潮とか世論というものに譲り渡していく(きた)のではないでしょうか。
Posted by わめ at 2005年12月29日 15:18
わめさん、ただいま〜
ようやくネット復活しました。
少し来ないうちにさらに豪華メンバーが揃っているのですね!

で、あいかわらずわめさん風味のコメントですね。
これからゆっくり読みマース。
Posted by みれい at 2005年12月30日 23:02
 (ノ゜ο゜)ノ オオオオォォォォォォ- みれいしゃん、復帰お(・∀・)め(・∀・)で(・∀・)と(・∀・)う!

> 少し来ないうちにさらに豪華メンバーが揃っているのですね!

 (゜▽゜)(。_。)(゜▽゜)(。_。)ウンウン 幸せ感じてます。♪

> で、あいかわらずわめさん風味のコメントですね。

 _(T▽T)ノ彡☆ばんばん! 的を射たお言葉承りました。笑
 最近、春田の蛙さんのところでも意見交換をさせていただいてますが、その春田の蛙さんから携帯電話でのテキスト入力にも関わらず大変な長文のご意見を頂けました。(感謝!)
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1135333870/nt73-88
(88だけがわめのコメントですw汗)

> これからゆっくり読みマース。

 。.:♪*:・'(*⌒―⌒*))) スペシャルスマイル
Posted by わめ at 2005年12月31日 02:51
くまりんさん、ひゃっきまるさん、わめさん、
あけましておめでとうございます。

わめさんは絵文字で和顔施の達人ですね。
それだけでも無意識に人をハッピーに導く時があって、徳を積む行為ではないかと思います。
わめさん全然意図してないと思いますが。

さて、宗教被害ゆえに大の宗教嫌いで宗教アレルギーから現在宗教肯定派にいたった私は(ここまでくるまでに相当の時間を費やしていますが)、くまりんさんとひゃっきまるさんの意見に賛同すると同時に、とてもお勉強になりました。

あと、宗教が被害を生むことについて、
まだ読みかけの本(弁護士が書いた宗教トラブルに関しての本)からなのですが、
日本のカルトなどを含む宗教トラブルに対しての国の対応の悪さと宗教犯罪を未然に防ぐ機能が西洋から比べて甘い理由が、どうも法律というより宗教(もしくは宗教観とでもいいましょうか)の差、という考察が載っていました。

西洋の場合、キリスト教のクリスチャニズムが国に根付いているために、カルト教団など警戒する必要がある団体への線引きがしやすいのと比べ、
日本は儒教や仏教などが入る以前の宗教でもある先祖信仰、たたり信仰などが現在でも根強く残り、またそれらの信仰スタイルも多岐にわたる為、警戒すべき団体との線引きをしようとするとほとんどの宗教団体が何らかの形でひっかかってしまうという問題があり、法律的に整備したくともなかなか成し得ない現状もあるようです。

宗教被害側の立場からすれば被害の実例や問題点も置き去りにされ、果ては宗教テロのような大事件に至る結果となってしまった、という面やその他いろいろも指摘されていました。

さすがにオウム事件以降は宗教団体もカルト問題に取り組むさまざまな動きもみられるようですが、宗教家や宗教学者からの視点と、被害者側や被害者弁護団からの視点ではまだまだ多くのずれや認識違いがあると感じるのは私だけではないかもしれません。
Posted by みれい at 2006年01月05日 03:29
ああ、まちがって途中でボタン押しちゃった。
マウスがご機嫌ななめです。

宗教の種類によって、またはその信仰者の意識レベルによっては道徳や倫理を包括したり超越したり相反したり、のようですが、
個人的に今気になったのは日常の家族レベル、地域レベルでの信仰(もしくは信仰の有無)です。
善悪の基準、ものごとの価値観、道徳観という実に町のお母さんレベルでの視点です。
生活観が持った宗教で大きく変わってしまうというのを身をもって体験したため、
まずは自分がどうあるかを考えること、子供たちに道徳も含めて宗教について教えるべきこと、後世に残すべきこと、それぞれ普段意識はしていないものの、宗教に対して無関心ではいられないないです。
別に功徳や罰や奇跡や神秘でなく、
ご飯粒を残さない、靴をそろえる、あいさつをする、そんな当たり前を教えるのも、実は宗教が担う部分でもあると思うのです。
Posted by みれい at 2006年01月05日 04:17
微妙に誤字^^;読み流してくださいね。
Posted by みれい at 2006年01月05日 04:25
 みれいしゃん、明けまして★:゜*☆※>('-'*)♪オメデトウ♪(*'-')<※★:゜*☆

> わめさん全然意図してないと思いますが。

 うん、意図してないw
 単純に互いがまた見る人が気持ちがよいほうがいいかなと、ただそれだけのことかもしれません。

> さて、宗教被害ゆえに大の宗教嫌いで宗教アレルギーから現在宗教肯定派にいたった私は(ここまでくるまでに相当の時間を費やしていますが)、くまりんさんとひゃっきまるさんの意見に賛同すると同時に、とてもお勉強になりました。

 わめも宗教アレルギーから脱するのには時間が掛かりました。涙
 ただそれが宗教肯定派になれなく、また宗教否定派にもなれない。結局のところは宗教には功罪ありの結論に至っているわけです。
 でも宗教是非の概念ではなく、事々の例をあげればみれいしゃんとわめとはよく似た見解になっちゃう場合が多いのではないかとも感じています。^^

 あえてみれいしゃんとわめとの見解の違いをものすごくアピールするならば、この宗教の功罪について宗教を薬物と考えれば薬物に頼らないと生きていくことが非常に苦しい方には必要かもしれませんが、宗教の功を考えるなら薬物は与えても、それは薬物に頼らないでも生きていける力を与えるためのものではないかと思ったりします。

 また宗教に関して他の分野との大きな違いは宗教は罪部分が大きいことだと思うのですが、音楽とか映画とか芸術とか小説とか人にとって色々な影響を与えるものがあるとは思いますが宗教以外は罪部分は少ないのではないかと思うのです。
 このようなことを考えるとわめとしてはとりあえず宗教に関わりを持たないで済む方には、関わりを持たないほうがいいんじゃないかとの思いが働くわけで、それが他者に対するわめのスタンスが宗教否定派的なイメージを与えてしまっているとも思うのですが、別にわめのイメージなどどうでもいいことで結果として人が何ものをも頼らず、身近な人達との関係性(愛?、思いやり?、労わり合い?・・・etc)重視の生き方を選択してもらったほうがいいのかなと思っているわけです。

 これを書いてるときにみれいしゃんから追加コメントをいただけましたが、自身や自身の身近な人達との関係を第一とするならば、わめからすれば宗教や他の役に立つものは何でも活用することには大賛成なのですが、割り込むことには否定的なのです。(^^;;
 何のための宗教や他の分野か、それは自身や自身の身近な人達との関係を円満(言葉に表現することは難しいですがそこにこそ最高の喜びがあるのではないかと)にするための道具として使っていくべきではないかと思うのです。
 それが自身や自身の身近な人達との関係を越えて人の思考に君臨することには断固否定の立場なわめなのです。
Posted by わめ at 2006年01月05日 04:35
わめさん

>結局のところは宗教には功罪ありの結論に至っているわけです。

というところに落ち着いてしまうあたりが、まだ創価学会の宗教観の枠組みがわめさんの体に残っているように感じます。
私でもいまだにひょっこり顔を出したりしますしこればかりは周りも自分ももがいてもどうにもなりません。
なので

>このようなことを考えるとわめとしてはとりあえず宗教に関わりを持たないで済む方には、関わりを持たないほうがいいんじゃないかとの思いが働くわけで

>それが自身や自身の身近な人達との関係を越えて人の思考に君臨することには断固否定の立場なわめなのです。

このあたりは、とても理解できます。

>宗教の功を考えるなら薬物は与えても、それは薬物に頼らないでも生きていける力を与えるためのものではないかと思ったりします

>結果として人が何ものをも頼らず、身近な人達との関係性(愛?、思いやり?、労わり合い?・・・etc)重視の生き方を選択してもらったほうがいいのかなと思っているわけです。

私はこのわめさんの結論が個人レベルでの本来の宗教の最終的な役目だし、そこへ導くことが現在の宗教家たちの仕事と思っています。
カウンセリングに例えれば、患者が最終的にカウンセラーを必要としなくなることがカウンセリングの終了であることであり、そこへ導くことがカウンセラーの役目であること。
頼みもしないのにカウンセリングにかけられても迷惑としか思わないのも当然なのに、時々カウンセリングの押し売りがいる。

本来の人間の生きる智慧と力がつけばわめさんのイメージするような宗教や信仰そのものに人をくくっている必要も無くなっていくものだということ、それが私の宗教観です。

う〜ん、伝わるのかなぁ・・・?

だから宗教団体に加入させ精神的な足かせをはめて経典を都合よくケミカルに扱って依存させていくような、いわゆるわめさんのいう「宗教」や宗教団体には私は今でも否定的な考えです。

そしてわめさんが宗教と思っているものは、ひょっとしたら法華経の方便のような気がしてきました。それは最後は捨てるべきもののようです。
そして、最終的に捨てるべき方便だけが日本中に蔓延しているということです。
そう考えると自然な反応なのでは、と思いました。
Posted by みれい at 2006年01月05日 14:17
 みれいしゃん、こんにちは。^^

> >結局のところは宗教には功罪ありの結論に至っているわけです。
>
> というところに落ち着いてしまうあたりが、まだ創価学会の宗教観の枠組みがわめさんの体に残っているように感じます。

 うーん、宗教に限らず功罪がないものってないと思うし、これに創価学会云々は関係ないと思うのだけどな。汗

> だから宗教団体に加入させ精神的な足かせをはめて経典を都合よくケミカルに扱って依存させていくような、いわゆるわめさんのいう「宗教」や宗教団体には私は今でも否定的な考えです。

 この辺は罪部分であるわけですしね。^^
 伝統的な宗教でもやはり罪部分はあると思いますよ。

> そしてわめさんが宗教と思っているものは、ひょっとしたら法華経の方便のような気がしてきました。それは最後は捨てるべきもののようです。

 方便だけではないと思うけど、方便じゃないもの(暫定心理等)は信仰対象にする必要はないと思いますし、宗教から抜き出して自身の生き方に活かしていけばいいんじゃないかと。

> そして、最終的に捨てるべき方便だけが日本中に蔓延しているということです。
> そう考えると自然な反応なのでは、と思いました。

 うん、方便への信仰が蔓延していると思っています。(^^;
 方便への信仰が当面必要な方もおられるでしょうが、必要じゃない方まで信仰しちゃうのは宗教(&宗教団体)の罪部分じゃないかなと思っちゃいます。
 それに多くの方は「最終的に捨てるべき方便」とも思っておられませんし、これじゃ宗教依存から抜けられないまま一生を送られる方も大勢出ちゃいますし何だかなぁって考えさせられます。

 事実として低く見積もっても人は自身や周囲の方達に依存しているのですから、出来る限り他に依存しないで生きていくことが自身や周囲の方達にとっていいことじゃないかと思うのです。
 感謝はお世話になってる身近な方々や現実のこの世界にすべきだと思いますし、このようなことを主に説く宗教なら功罪の功が勝ってると思うし、わめもこれはいい宗教だと呼べるかもしれません。
Posted by わめ at 2006年01月05日 15:11
わめさん、

>事実として低く見積もっても人は自身や周囲の方達に依存しているのですから、出来る限り他に依存しないで生きていくことが自身や周囲の方達にとっていいことじゃないかと思うのです。

>感謝はお世話になってる身近な方々や現実のこの世界にすべきだと思いますし

もしわめさんが自分の考えを世に訴え、これに賛同する人が増え、わめさんの考えが広がったらわめさんの教え、ということで「わめ教」になるでしょう。
こんなふうに、考え方を説くひともいるし、教えを請う人がいる。
そうすれば自然に宗教ができあがり。
長い年月生き残る教えかどうかは、どれだけ道理にかなっているかどうか、かもしれません。

仏教ももとはこんな始まり方じゃないかしら。

話がそれました。

これからでかけてきます。
Posted by みれい at 2006年01月05日 16:54
 みれいしゃん、こんばんは。^^

> もしわめさんが自分の考えを世に訴え、これに賛同する人が増え、わめさんの考えが広がったらわめさんの教え、ということで「わめ教」になるでしょう。
> こんなふうに、考え方を説くひともいるし、教えを請う人がいる。
> そうすれば自然に宗教ができあがり。
> 長い年月生き残る教えかどうかは、どれだけ道理にかなっているかどうか、かもしれません。
>
> 仏教ももとはこんな始まり方じゃないかしら。

 わめもこのようなことは掲示板や記事や記事コメントとして書いています。(^^;
 新しい宗教を生まないような誰にでも分かる言葉や当たり前のことを言い、そして何より心(思い)こそ大切じゃないかと思います。

 この記事のコメント欄では、12/15〜12/16のくまりんさんとわめのテキストに含まれる部分がこのことに該当しそうです。

 以下コメントより抜粋

Posted by わめ at 2005年12月15日 01:19
『初期仏教においてもそれを信仰する者の中にも、自分達はブッダの教えを正しい教えを学び行じているとの思い込みからか、やはり他宗教やその信徒、また一般の方達を劣った者、迷妄する者との蔑みや哀れとの見方はあるように思いますし、このような仏教の負債や思い込みはブッダの望んだものではないように思いますし、またやはりブッダも人間であって、死後このような事態の予測もつかなかったのは仕方がないとしても、その思いを受け継ぐと自負する者はブッダの教えに教条的に従うのではなく、現代にマッチした形で仏教の負債を無くす作業とブッダの思いを実現すべく継承していくことが大切ではないかとの思いに変わりつつあるわめの”揺れ”なのかもしれません。
 ともあれ人間には本源的に何かを強く信じることで思い込みと妄想が生まれ、たとえそれが知り得る内の最高の模範的教義であったとしても、信じる側の人間にとってはやはりそこからも思い込みと妄想が生まれることはやむを得ぬ事実なのかもしれないと感じております。』


Posted by くまりん at 2005年12月16日 02:41
『 ここから先はブッダの説いたことではないですが、その延長に論理上有るはずであると僕が勝手に思うのは、なんていうか論文に書くような仏教学としてではなく単なる僕の思想とし、信仰の究極の姿は信仰のそぶりを微塵も見せぬまま何ものにもとらわれずにただ(只管)に自由自在に自己と同じ有限的他者と接することが出来る人格に趣くことであると思っています。そういられる人には宗教の教義はもうまったく不要になるんですね。他者との関係性をよりよく願うとおっしゃるわめさんの今後の考察のオプションにちょっと加えていただけたらなぁと思うんです。』


Posted by わめ at 2005年12月16日 03:49
『 素晴らしと思うことは素晴らしくていいとは思うのですけど、現実とのギャップも考えてもらいたいと思うし、現実を置き去りに達観できるならやってみなさいよとちょっと挑発的な意味での「宗教は好きになれない」だったかもしれません。照
 でも一人でもう最高!って境智にご満悦になれるものなのでしょうかね。>涅槃や成仏
 誰か一人でも悲しい人を見つけたらもうそんなどころじゃないでしょというのが、わめのヒューマン(Leoさん指摘)たる所以なのかもしれません。涙』

『 現実や結果を考えた場合、形(宗教・思想・主義等含む)あるものを強く宣揚することは、今の時代には争いごとや思い込みや妄想や拘りを生み、本来の目的の達成や推進することなど現段階では不可能なように思います。
 だから形のない思い(心)こそ重要な気がします。』


Posted by くまりん at 2005年12月16日 07:11
『>>現実とのギャップも考えてもらいたいと思うし、現実を置き去りに達観できるならやってみなさいよと

 そんな自分で思い描いた妄想のブッダなら殺してしまえ!と臨済禅では言うんです。経外別伝、不立文字とは唐代から宋代にかけての仏教徒たちの形而上学的な宗学論争に対するアンチテーゼとして生まれたものなんですね。そもそも臨済和尚はじめから禅宗なのではなく天台で教学を学んでいます。それで愛想をつかして禅門を叩いたと伝えられています。ところがその臨済宗もまた同じことを繰り返す。あるべき正義や権威をプライオリティーとして立ててしまうと人間はそれにしがみついてしまいます。なんて弱き悲しい存在でしょうか。』

『 縁起の時間の先頭の刹那/\にいる認識主体としてのみの「我がものでは無いわたし」が自覚できれば、苦しんでいる方の苦しみや悲しんでいる方の悲しみもみな「わたし」自身の苦しみや悲しみそのものでしょうに。そうしてなにものにも執らわれずに、信仰への憧れを持つ人には一切智者への信仰の姿で接っし、信仰を嫌う人には信仰の素振りを微塵も見せずに、あるときは共に悲しみ、あるときは共に苦しみ、人を批判する時と境を辨え、いつのまにか自然に生きる喜びを伝え、そして喜びを分かち合えるひと。

 そういう人に僕はなりたいですけれども、そういうひとこそ、初期仏教では阿羅漢と呼び、大乗では慈悲の人と呼ぶ、そして禅で呼ぶ般若が自発発展する仏さんなんだと思います。そういう人格に趣く人はまた結果を急がずそのプロセスを重んじる。なぜなら厳しい自戒とともに常に他者を見ているから。その選択すべき未来への希望こそ「後の世の方達」への希望です。そしてそのことだけのための即今自己此処。ブッダこそそのように生きた人であったに違いないと僕は勝手に思いたい。論文じゃないからこの勝手をお許しくださいね(笑)

>>かっこいいことを書いてしまいましたが(かっこよくない?w)、実は周囲に笑顔がないとわめも楽しむことが出来ないという自己中が本音なのですがw汗

 まわりのひとの笑顔、笑顔にかこまれて生きられたら本当に素敵ですね >^_^<』
Posted by わめ at 2006年01月05日 19:45
笑顔で締めくくられていていいですね!

>方便への信仰が当面必要な方もおられるでしょうが、必要じゃない方まで信仰しちゃうのは宗教(&宗教団体)の罪部分じゃないかなと思っちゃいます。

>それに多くの方は「最終的に捨てるべき方便」とも思っておられませんし、これじゃ宗教依存から抜けられないまま一生を送られる方も大勢出ちゃいますし何だかなぁって考えさせられます。

宗教嫌いでいる自由があるように、よほどの迷惑や問題でない限りは宗教に漬かる自由もあると思います。

依存度は宗教団体の問題もかなりあると思いますが、信仰する本人の依存度や選択にもよると思います。
カルト問題を世の中でこれだけ取り上げているというのに、いまだにカルトに陶酔する人がいる。
信仰心(または何かを信じる心)やカルトに近寄ってしまう人というものはたとえ宗教団体がこの世から無くなっても存在すると思います。
カルトも宗教団体にのみ存在するわけではなく、思想団体、会社などにも存在しますしね。

ヤマギシって知っていますか?
あれも宗教ではありませんが非常に問題を生んでいます。

罪に関して、素朴な疑問なのですが、
人間が関わっているものに、罪のまったくないものがあるでしょうか?

個人レベルでも罪をつくらないこと、依存しないようにセルフコントロールや意識改革能力が必要であるように、宗教団体も改善能力、イノベーションは必要だと思います。
Posted by みれい at 2006年01月07日 18:12
 みれいしゃん、こんばんは。^^
 何だか堂々巡りをしているように感じますw汗

> 宗教嫌いでいる自由があるように、よほどの迷惑や問題でない限りは宗教に漬かる自由もあると思います。

 これは記事の最後にも書きました『信仰する者を無理にやめさせようとしない等、これら個人の意思尊重』にあたると思います。
 決して良いこととは思いませんが、草創の頃からの学会員さんで今は老齢な方も沢山おられますが、このような方の信仰心を掻き乱すようなことをわめには言えません。

> カルトも宗教団体にのみ存在するわけではなく、思想団体、会社などにも存在しますしね。
>
> ヤマギシって知っていますか?
> あれも宗教ではありませんが非常に問題を生んでいます。

 これも前回コメントの『 現実や結果を考えた場合、形(宗教・思想・主義等含む)あるものを強く宣揚することは、今の時代には争いごとや思い込みや妄想や拘りを生み、本来の目的の達成や推進することなど現段階では不可能なように思います。
 だから形のない思い(心)こそ重要な気がします。』に該当するかと思います。

> 罪に関して、素朴な疑問なのですが、
> 人間が関わっているものに、罪のまったくないものがあるでしょうか?

 スピード違反と殺人とでは罪の重さはまったく違いますが、宗教だけではなく何事においても功罪はあるでしょう。これは前述の思い込みや妄想や拘りを生じやすいものほど大きくなるように思います。

> 個人レベルでも罪をつくらないこと、依存しないようにセルフコントロールや意識改革能力が必要であるように、宗教団体も改善能力、イノベーションは必要だと思います。

 個人レベルのお話には賛成なのですが、宗教団体の多くは依存させようとする教義があるのですから難しい問題かもしれません。また信者の多くを依存させなければ宗教団体として運営も厳しくなりますし、経済的にも破綻していくことになってしまいそうです。(^^;;
 結局宗教と言ってもそれで生活を立てている方がおられて、その食い扶持は信者に頼らざるを得ないところに問題があるように思いますし、妻帯せず少欲知足で乞食(こつじき)等で生きる糧を賄うようになれば多くの問題は解決するようにも思うのですが・・・
Posted by わめ at 2006年01月07日 19:23
わめさん

>何だか堂々巡りをしているように感じますw汗

基本的にはもうくまりんさんが話したことで完結してるしw

私は宗教観を持つことと、必ずしも宗教団体に所属することとはイコールではないです。
だから宗教は肯定します。

>また信者の多くを依存させなければ宗教団体として運営も厳しくなりますし、経済的にも破綻していくことになってしまいそうです。(^^;;

経済的に信者におんぶしている、またはおんぶさせる団体ならばどんどん破綻していけばいいと思いますし、すでにそれに甘んじていた団体では淘汰ははじまっていると思います。
今の既成仏教団体でも若い人は少数でしょう。
檀家数は年々減っていると思います。

信者のお金で生計をたてるような、まさに宗教を商売道具にするようなお坊さんは淘汰されて当然ですし、人を宗教嫌いにさせたり無関心にさせていった張本人でしょう。

また、信者の獲得に合わせて教義を変えているような宗教企業団体も、長い時代は続かないと思います。

>妻帯せず少欲知足で乞食(こつじき)等で生きる糧を賄うようになれば多くの問題は解決するようにも思うのですが・・・

それは賛成です。
そしてそういうお坊さんと出会ったことがあります。
その方みたいに本来の「施」の形になればいいと思います。
Posted by みれい at 2006年01月07日 21:42
 みれいしゃん、寝起きなわめです。(>▽<;; アセアセ

> 基本的にはもうくまりんさんが話したことで完結してるしw

 ☆^∇゜) ニパッ!!

> 私は宗教観を持つことと、必ずしも宗教団体に所属することとはイコールではないです。
> だから宗教は肯定します。

 これは興味があります。
 このようなことをわめは宗教と、宗教を信仰することとを分けて考えているのですが、ある特定の宗派の宗教観のみを持つことは思想的に自己が乗っ取られた形であると思いますのでそれを信仰することと変わりがなく否定的ではありますが、それでも人や自然科学や社会などからも多くを学ぶことができる方なら、ある特定の宗派の宗教観を持つことであってもその一部であり信仰とは呼びがたく、そのような宗教観ならわめも肯定的であります。当然ある特定の宗派の宗教観のみを持たなければ後者であります。
 おそらくみれいさんの言われる「宗教は肯定」もこのようなことを指しているように思いますので、そうであるならば受け手の側として異論はありません。
 わめも仏教の宗教観には多大な影響を受けているわけですし。(*´∇`*)

 ただ受け手である人により宗教の功の部分はあるとしても、罪部分としてこのあとみれいしゃんが否定的に言われているような宗教団体があるのも事実で、(被害を受ける側にも問題があるとは思いますが)被害に遭われる方も大勢いるわけで、現実に今悲痛な声をあげられている方も沢山おられるのですから「宗教は肯定」と注釈なしにおっしゃることには注意が必要だと思います。

 車は便利でも欠陥車の製造・販売を放置していてはいけませんし規制もあり、運転するならそれなりの技能が必要で免許制度がありますし、交通ルールを破ることには罰則もあります。
 宗教には欠陥ある宗派・団体の規制も、信仰するための免許制度も罰則もなく野放し状態です。
 なので「車は便利♪」みたいに「宗教を肯定」することには賛成できません。

> 経済的に信者におんぶしている、またはおんぶさせる団体ならばどんどん破綻していけばいいと思いますし、すでにそれに甘んじていた団体では淘汰ははじまっていると思います。

> 信者のお金で生計をたてるような、まさに宗教を商売道具にするようなお坊さんは淘汰されて当然ですし、人を宗教嫌いにさせたり無関心にさせていった張本人でしょう。
>
> また、信者の獲得に合わせて教義を変えているような宗教企業団体も、長い時代は続かないと思います。

 やはり個々の例を引くとご意見は同じになっちゃいますね。^^
 でも竹の子のように新しい形態の宗教団体も生まれてくるようにも思いますし、被害者が減っていくと楽観視することはできないように思います。
Posted by わめ at 2006年01月08日 00:50
寝起きにありがとうです。
わめさんマメですよね。

まったくもって私の言葉の足りない分をそのまま補足していただいた感じです(^^)v

宗教と政治と法律がそれぞれ別の角度から紡ぎ合う事が大事だと思います。
一番よろしくないのは勉強が足りないことよりも無関心であることじゃないだろうかと思ってます。

というわけでまたロムにもどります〜
Posted by みれい at 2006年01月08日 23:20
>わめさん

「宗教」という言葉は人によって全く定義が違うのだと思います。「宗教の定義をめぐる諸問題」(文部省旧制の調査局宗務課編刊・1961年)という本では、諸々の学者や権威による宗教の定義が104も記されているそうです。

>この宗教の功罪について宗教を薬物と考えれば薬物に頼らないと生きていくことが非常に苦しい方には必要かもしれませんが、宗教の功を考えるなら薬物は与えても、それは薬物に頼らないでも生きていける力を与えるためのものではないかと思ったりします。

わめさんの宗教観を否定するわけではないのですが(だって人によって定義が違うのだから)、一ついえるのはわめさんと僕の宗教観はかなり異なる、ということです。

わめさんは宗教が「人間」にとって付加的なものだと考えていると思いますが、僕は宗教(正確に言い換えるなら信仰心や世界観の前提)は人間の一部をなしており、人間という存在を定義づけるものであるとさえ思っています。

どこで聞いたかは忘れましたが、クリスチャンの誰かが、「この世には2つの奇跡がある。生まれることと、死ぬこと」というようなことを言ったそうです。生物学的には生物の発生、個体の誕生や死を唯物論的に語ることができたとしても、自分自身のこととして、「生まれ、存在している」ことと、いつかは必ず「死に、存在しなくなる」ことのとてつもない不思議さはどんなに時代が進んでも残っていくのではないでしょうか。

自分が生まれたことに意味はないし、死んだらそれで終わり、という考えを持っている人もいると思いますが、それも一つの宗教観であると僕は考えます。僕が考える宗教というのはこのようなものです。つまり、自分の生や死に関して考えを持たない人はいない、ということです。

> この「時代に即応し変化」ということには疑問はあります。時代に即応はされていないように思いますし、

日本においては神道や仏教はものの考え方の「くせ」のようなものとして残っているとしても、冠婚葬祭に関わるだけですでに形骸化されていますし、今後更にその傾向は強まると思います。結婚式も人前式が増えているようです。檀家制度もあと1世代も下れば限界ではないですかね。

> 特に現代は情報の伝達手段が発達し、今後宗教というものの果たしてきた役割の多くを、社会風潮とか世論というものに譲り渡していく(きた)のではないでしょうか。

今まで宗教の役割であったものに代わるより説得力のある「話」があれば、当然その部分だけは置き換わっていくことと思います。ただし唯物論や理屈だけで説明できないもの(生き死に、など)がある以上は、宗教が全くなくなることはないと思います。


>みれいさん
どうも、はじめまして〜。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 01:23
 みれいしゃん、(*゜ー゜)vオハヨ♪

> わめさんマメですよね。

 _(^^;)ツ アハハ

> まったくもって私の言葉の足りない分をそのまま補足していただいた感じです(^^)v

 何度も議論していくことで理解し合える面も、また相違点も分かってきていいですね。^^

> 宗教と政治と法律がそれぞれ別の角度から紡ぎ合う事が大事だと思います。

 そうだと思います。
 ホントは宗教や政治や法律など無くなっても人が円滑に生きていけることが理想的だと思いますが、そんなのは現実的じゃないしね。(^^;;

> 一番よろしくないのは勉強が足りないことよりも無関心であることじゃないだろうかと思ってます。

 受け手の側としてはまったくその通りだと思います。

> というわけでまたロムにもどります〜

 あぅw (ノ≧ロ)ノ嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌
Posted by わめ at 2006年01月10日 06:12
 ひゃっきまるさん、おはようです。^^

> 「宗教」という言葉は人によって全く定義が違うのだと思います。「宗教の定義をめぐる諸問題」(文部省旧制の調査局宗務課編刊・1961年)という本では、諸々の学者や権威による宗教の定義が104も記されているそうです。

 むむっ、宗教の定義って難しいですね。(^^;
 わめも宗教という言葉を使う時にその意味するところが時と場合により微妙に違ってきたりしますw

> わめさんは宗教が「人間」にとって付加的なものだと考えていると思いますが、僕は宗教(正確に言い換えるなら信仰心や世界観の前提)は人間の一部をなしており、人間という存在を定義づけるものであるとさえ思っています。

 わめは原始仏教と言うかブッダ自身が説かれたことは合理的でそれは宗教ではないと思っています。
 またブッダ自身も宗教や信仰することには否定的だったとも捉えていて、わめはブッダ自身が説かれたことは宗教ではないと思っておりますので、ひゃっきまるさんの宗教観とわめのこの解釈が大きな相違点のように思います。
 まずはこの根本的?な相違点についてもっと議論をしていかないと先に進めないような気がしています。^^
Posted by わめ at 2006年01月10日 06:46
> わめは原始仏教と言うかブッダ自身が説かれたことは合理的でそれは宗教ではないと思っています。
> またブッダ自身も宗教や信仰することには否定的だったとも捉えていて、わめはブッダ自身が説かれたことは宗教ではないと思っておりますので、ひゃっきまるさんの宗教観とわめのこの解釈が大きな相違点のように思います。

僕は原始仏教はてんで合理的とは思っていません。

例えば、「一切皆苦」ということが僕には理解できません。そして合理的に考えることによってこの結論にたどり着けるというようにも思えません。

出家者は妻帯・殺生してはならず、全てのものを捨てさり(所有してはならず)、煩悩を滅することで涅槃に至るとされますが、現代からすると非常に特殊な世界観といわざるを得ません。

もし仮に釈尊が全人類の救済を願って、このような修行を広めることに成功していたら、全人類は滅びていることでしょう。

原始仏教は単なる哲学なのではなく、実際の厳しい修行内容と僧の集団(サンガ)を伴った、「俗(在家)」とは一線を画するまぎれもない宗教であると思います。その中には当然我々に受け入れがたい世界観も含まれます。

ただ、我々が原始仏教やそこから発展した仏教哲学のエッセンスから何事かを学び取り、(我々は在家であるにも関わらず)自分自身の生活に生かしていくことは有意義なことと思います。

次に釈尊の言う「信仰」とは何なのか、という問題ですが、仏典の「信仰を捨てよ」の言葉が出てくる文脈からは、「神」や「人間を超えた原理」に祈ることによって奇跡的現象を引き起こすこと、つまり、「祈祷」や「呪い」のことを指しているのだと思います。

更に、釈尊が形而上のことで語りえないことに関しては沈黙を守った、ということからも、宗教的世界観(天国や地獄など)の虚妄に囚われてはいけない、という主張が読み取れます。

これは現代の「信仰」の意味よりもかなり狭義な意味であると僕は思っています。釈尊の生年は紀元前5世紀頃と思いますが、この同じような時期にソクラテスと孔子が生まれています。仏教自体も現代の「信仰」の概念形成には大きく影響を与えているはずです。釈尊が捨てよといった信仰とは、非常に素朴なものを指していたのではないかと僕は思っています。(釈尊在世時にもバラモン教は相当深い哲学を有していた、という説もあるようですが、それを釈尊が信仰と呼ぶかどうかは僕にはわかりません)
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 15:40
 ひゃっきまるさん、こっちでもこん。^^

> 僕は原始仏教はてんで合理的とは思っていません。
> 例えば、「一切皆苦」ということが僕には理解できません。そして合理的に考えることによってこの結論にたどり着けるというようにも思えません。

 わめも「一切皆苦」とは思っていないかもですが、四苦八苦などを指す言葉と解釈すればまんざら理解できなくもありませんし、この苦を解決するための概念としては一概に合理的ではないとも言えない様に思いますし、またこの「一切皆苦」なども結局捨てるべき教えじゃないかとも思います。

> 出家者は妻帯・殺生してはならず、全てのものを捨てさり(所有してはならず)、煩悩を滅することで涅槃に至るとされますが、現代からすると非常に特殊な世界観といわざるを得ません。
> もし仮に釈尊が全人類の救済を願って、このような修行を広めることに成功していたら、全人類は滅びていることでしょう。

 これは涅槃に至るための修行法ですね。^^
 全人類が滅びるかどうかは分かりませんが、滅びなかったとしてもわめはこのような世界には生きたくないかもですw

> 原始仏教は単なる哲学なのではなく、実際の厳しい修行内容と僧の集団(サンガ)を伴った、「俗(在家)」とは一線を画するまぎれもない宗教であると思います。その中には当然我々に受け入れがたい世界観も含まれます。

 わめの思う原始仏教にはひゃっきまるさんがご指摘の上記のようなことは含まれていません。ブッダの直説が何であるか分からないと思いますし、仮に分かったとしてひゃっきまるさんが述べられているような教えであるならわめも同じような見解になりそうですが、仏教を思想的方法で抽出するならば縁起・無常・無我であり、わめはこれを原始仏教と認識しています。またこのような原始仏教なら宗教ではないと思いますし、信仰しようもありません。

> ただ、我々が原始仏教やそこから発展した仏教哲学のエッセンスから何事かを学び取り、(我々は在家であるにも関わらず)自分自身の生活に生かしていくことは有意義なことと思います。

 これにはこの記事のコメント欄でみれいしゃんと議論させていただきましたが功罪があると思います。

> 次に釈尊の言う「信仰」とは何なのか、という問題ですが、仏典の「信仰を捨てよ」の言葉が出てくる文脈からは、「神」や「人間を超えた原理」に祈ることによって奇跡的現象を引き起こすこと、つまり、「祈祷」や「呪い」のことを指しているのだと思います。
>
> 更に、釈尊が形而上のことで語りえないことに関しては沈黙を守った、ということからも、宗教的世界観(天国や地獄など)の虚妄に囚われてはいけない、という主張が読み取れます。
>
> これは現代の「信仰」の意味よりもかなり狭義な意味であると僕は思っています。釈尊の生年は紀元前5世紀頃と思いますが、この同じような時期にソクラテスと孔子が生まれています。仏教自体も現代の「信仰」の概念形成には大きく影響を与えているはずです。釈尊が捨てよといった信仰とは、非常に素朴なものを指していたのではないかと僕は思っています。(釈尊在世時にもバラモン教は相当深い哲学を有していた、という説もあるようですが、それを釈尊が信仰と呼ぶかどうかは僕にはわかりません)

 狭義な意味の信仰ですが、それがひゃっきまるさんがご指摘の奇跡・祈祷・呪い・形而上のことで語りえないこと(輪廻等)であるならば、広義な意味での信仰とはどのような宗教を信仰することなのかがわめには想像できません。(>▽<;; アセアセ
Posted by わめ at 2006年01月10日 16:47
> わめも「一切皆苦」とは思っていないかもですが、四苦八苦などを指す言葉と解釈すればまんざら理解できなくもありませんし、この苦を解決するための概念としては一概に合理的ではないとも言えない様に思いますし、またこの「一切皆苦」なども結局捨てるべき教えじゃないかとも思います。

「一切皆苦」というのはこの世の一切が苦であるという意味であって、だからこそ仏道修行者は全てを捨てて出家するわけです。「一切皆苦」と僧の生活というのは必然的に結びついています。

我々は暖かで快適な住居、美味しい食事、賑やかなテレビ、好きな相手や家族との生活、そのようなものに「楽しさ」を感じますし、健康で長生きしたいと願っています。そのような生活を捨てて、出家しようなどと誰が思うでしょう(釈尊は王族の地位を捨てて出家しましたが)。

そのように思いながら、一方で「一切皆苦」は理解できないこともない、と嘯くのは、率直に言って欺瞞のように感じます。

原始仏教といえど既存の宗教観から抜け出ているわけではなく、むしろバラモン教の延長線上にあると位置づけたほうが理解はしやすいと僕は考えています。例えば、「ブッダ」(目覚めた人)や、出家という概念はバラモン教にもともとあったものです。初期の仏典ではたびたび仏道修行者のことを「バラモン」と呼んだりしています。

>わめの思う原始仏教にはひゃっきまるさんがご指摘の上記のようなことは含まれていません。

釈尊自身も出家者の生活(人に施しを恵んでもらう、住居を持たない、妻帯しない、粗末な衣を着る)を送っており、初期においては仏道修行者というのは基本的に出家者を指していたので、原始仏教が思想だけのものであるというのは明らかな誤りであると思います。また思想だけを抜き出して「これこそが原始仏教だ」というのは勝手な振る舞いではないでしょうか。

>広義な意味での信仰とはどのような宗教を信仰することなのかがわめには想像できません。

現代では仏教も一般的に宗教と考えられています。宗教は信仰するものです。例えば禅宗などは自分自身での覚りを目指すものですが、これも一般的には信仰とみなされるでしょう。そこには「覚り」に関する宗教的世界観があるからです。この信仰とは、必ずしも形而上的世界や、超自然現象を想定せずとも成り立ちます。
また、前述した儒教の道徳観なども同様です。

ただ、わめさんが、そのようなものは信仰ではない、というならば、それはそれで否定するものでもないと思います。前述したように、宗教や信仰というのは定義が難しいのですから。
ただ、釈尊が「何」を「信仰」と呼んだのか、ということを僕ははっきりさせたかったのです。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 19:16
ひゃっきまるさん、だんだんわけわかめになってきているわめです。(^^;

> 我々は暖かで快適な住居、美味しい食事、賑やかなテレビ、好きな相手や家族との生活、そのようなものに「楽しさ」を感じますし、健康で長生きしたいと願っています。そのような生活を捨てて、出家しようなどと誰が思うでしょう(釈尊は王族の地位を捨てて出家しましたが)。
>
> そのように思いながら、一方で「一切皆苦」は理解できないこともない、と嘯くのは、率直に言って欺瞞のように感じます。

 うーん、ブッダ在世当時に言われた「一切皆苦」を現代からみるとそう思われることも理解出来なくはありませんが、それでも現代にあっても「一切皆苦」の状態の方もおられるでしょうし、誰しも思い通りにならないことや一般的には「四苦八苦(生老病死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦)」から逃れられないわけですから「一切皆苦」が理解できると言うのも欺瞞とは言えないと思うのだけどな。(^^;;
 まぁ楽しんでる瞬間だけみれば「一切皆苦」じゃないじゃんって言えなくもないけど、それがいつまでも続くかと言えば悲しいかな無常なわけで常に不安も付き纏っているようにも思います。

> 原始仏教といえど既存の宗教観から抜け出ているわけではなく、むしろバラモン教の延長線上にあると位置づけたほうが理解はしやすいと僕は考えています。例えば、「ブッダ」(目覚めた人)や、出家という概念はバラモン教にもともとあったものです。初期の仏典ではたびたび仏道修行者のことを「バラモン」と呼んだりしています。

 当時インドではバラモン教が栄えていたわけですし、そのパラダイムの上で言語は成り立っていたと思います。仏教と言えど当然その言語を使わないと人々には伝えられないわけですからそのことから仏教がバラモン教の延長線上にあるとするのは無理があるように思います。

> >わめの思う原始仏教にはひゃっきまるさんがご指摘の上記のようなことは含まれていません。
>
> 釈尊自身も出家者の生活(人に施しを恵んでもらう、住居を持たない、妻帯しない、粗末な衣を着る)を送っており、初期においては仏道修行者というのは基本的に出家者を指していたので、原始仏教が思想だけのものであるというのは明らかな誤りであると思います。また思想だけを抜き出して「これこそが原始仏教だ」というのは勝手な振る舞いではないでしょうか。

 いえ、仏教解明の方法として思想史的方法によってブッダの教えを探ろうということです。
Libra師匠の資料集より一部抜粋
『仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)』 http://freett.com/Libra0000/082.htm
結局予のいふ仏陀の説又は根本仏教の説は吾々の論理的推論の上に構成せらるゝものであって、其外には到底判らないといふことに帰着するのである(41)。
 すなわち、「仏陀の言葉」なるものを、われわれが直接知ることは、決してできない。いかに古層の原始仏典といえども、そこから「仏陀の言葉」そのもの(いわゆる「金口(こんく)の直説」)を抽出することは、不可能である。従って、われわれは、「仏陀の言葉」そのものというよりも、むしろ「仏陀の説」あるいは「仏陀の思想」を推( ,)理( ,)しうるのみなのである。それゆえ、われわれはここで、「仏陀の言葉」そのものを最古層の仏典より直接抽出しようとする文献学的方法≠捨てて、「仏陀の思想」を推理し再構成しようとする思想史的方法≠ノよらざるをえないであろう。

Libra師匠の資料集より参考ページ
『最後は自分の信念によって選びとるしかない(田村芳朗)』 http://freett.com/Libra0000/007.html
『中国における教判の形成の必然性(菅野博史)』 http://freett.com/Libra0000/021.htm
『仏教の消滅(小川一乗)』 http://freett.com/Libra0000/060.htm

> >広義な意味での信仰とはどのような宗教を信仰することなのかがわめには想像できません。
>
> 現代では仏教も一般的に宗教と考えられています。宗教は信仰するものです。
> また、前述した儒教の道徳観なども同様です。
> ただ、わめさんが、そのようなものは信仰ではない、というならば、それはそれで否定するものでもないと思います。前述したように、宗教や信仰というのは定義が難しいのですから。

 信仰を捨てよと言う仏教も信仰するものというのは、狭義な意味の信仰について説明していただきましたがやっぱりわめには理解が難しく思えます。
 それに道徳観などを信仰するというのも道徳観を重んじるのほうがしっくりくるし常識・良識を信仰するとも言わないと思います。^^

> ただ、釈尊が「何」を「信仰」と呼んだのか、ということを僕ははっきりさせたかったのです。

 仏教は信じる必要がない(誰もが理解できる)教えであるから『耳ある者に甘露(不死)の門は開かれた。信仰を捨てよ。(サンユッタニカーヤ 6:1、中村元訳)』と言われているように思いますし、本来の仏教は信仰対象では無いと思えるのですが・・・
Posted by わめ at 2006年01月10日 20:40
こんにちは〜
昨夜書いたはずのコメントがない・・・
きっと寝ぼけてボタン押してないですね。トホホ。
他のコメント欄もロムしてます。

これ見たことありますか?
http://www.chuogakken.org/seitenHP/index.htm
原始仏教聖典なのですが。
チョンガーさんに以前教えていただきました。
(音出ます)

ひゃっきまるさん、こんにちは〜
春田の蛙さんの所の書き込みをみて、
同じような体験と道のりをきたなぁと思ってます。
まだ学会で苦しんでいる人がいるのが切ないですね・・・。
ひゃっきまるさんのサイトをリンクさせていただき、お伝えしようとサイトにうかがったのですが、クッキー設定というものがよくわからなくて書き込めませんでした。のでこちらでお伝えします^^
今後とも宜しくお願いします。

わめさん、
わめさんが思う良識とか常識、または功罪の概念は、わめさんが日本で生まれ培われたものの中にいる為に当然に思うだけであって、国が変われば常識も良識もガラリと変わります。
人間の心に世界共通の部分があるとするなら、そのシンクロニティは日常も含みますがはなれた無意識や精神世界の分野にも及んでくると思います。
心の中は多様で無限に広いのですが、それを理解しようとするのは意識の部分なわけで、作用するのは自分の意識だけでは理解の及ばない無意識も含めて考えなければいけないでしょう。またそれが意識に作用してきます。
・・・ということを個別にどうにか説明してのけたのがお釈迦さん、という話も。
そのスピリチュアルな世界を宗教と呼ぶかどうかもまた人それぞれ。
また日本は特に「宗教」という言葉に毛嫌いする人口も多いかと思います。
今その言葉を使わない団体も増えてるでしょうね。
Posted by みれい at 2006年01月11日 19:05
 みれいしゃん、こんばんは。^^

> 昨夜書いたはずのコメントがない・・・
> きっと寝ぼけてボタン押してないですね。トホホ。

 Σ(=д=ノ)ノ アゥーン!!

> これ見たことありますか?
> http://www.chuogakken.org/seitenHP/index.htm
> 原始仏教聖典なのですが。

 原始仏教の経典から主要な部分を抜き出したもののようですね。^^
 この記事の前回コメントで書きました(引用・リンク含む)ように、わめは文献学的方法では仏教でないものまで仏教となってしまい、思想史的方法に拠らざるを得ないと思っております。

> わめさんが思う良識とか常識、または功罪の概念は、わめさんが日本で生まれ培われたものの中にいる為に当然に思うだけであって、国が変われば常識も良識もガラリと変わります。

 そうですね、当たり前(当然)のことを信じる(信仰)と言うのは表現がおかしく思います。
 パラダイムの違う他国の道徳・常識・良識を規範としようとする時に、合理・論理的に理解できないことについては信じる(信仰)ことが必要になってくるのではないでしょうか。

 人間の心の共時性とブッダの教え、何だかユングの(深層)心理学とも結びつきそうですね。^^

> そのスピリチュアルな世界を宗教と呼ぶかどうかもまた人それぞれ。

 どう呼んでもまた同じ呼び方でも指すものが人それぞれ違うのかもしれません。
 議論しあう場合には何を指しているかを明確にしていかないと空回りしそうですね。(^^;;

> また日本は特に「宗教」という言葉に毛嫌いする人口も多いかと思います。

 わめは宗教を毛嫌いしているわけではありませんからそのような方の気持ちがわかるかと言えばわからないと思いますしこれもまた人それぞれにその思いがあるのかもしれませんが、それでもそこに慈悲心というか人を思いやる心が働いている場合があるようにも思います。
 自分が嫌いなだけなら言葉にする必要は無いわけで、宗教を信仰することで苦しまれたりする方を出来るだけ少なくしたいとの他者への思いやりの心をわめは感じたりしています。
 この点においてわめも宗教を信仰することは個人の自由であっても、周囲の方のこともしっかり考えて頂ければうれしく思います。
 わめの知る宗教を毛嫌いする方達は、ネットを含む周囲の方のことを思いやる気持ち、果てはこの社会をよりよいものとしていこうとの思いからの発言が多いように思いますし、それは自分だけの狭量な損得から発せられる言葉ではないように思います。

 宗教の是非に関わらず皆さんがこのような心を持って頂ければうれしいです。

> 今その言葉を使わない団体も増えてるでしょうね。

 マルチ商法もその一種かもしれませんね。( ̄ー ̄; ヒヤリ
Posted by わめ at 2006年01月11日 20:15
>みれいさん

こんばんは。
リンクしていただきありがとうございます。

ぼくのHPは、単に2ちゃんねるの過去ログを集めただけのところですから、書き込むところはありませんよ〜。
おそらくクッキー設定で書き込めなかったというのは、2ちゃんねる「創価・公明板」の「日蓮ってver.13」のことですね。

>わめさん

釈尊も釈尊の弟子も出家生活を送っていたことはほとんど疑いようのない歴史的事実ですから、初期仏教がこうした修行を伴っていたことに疑問をさしはさむ余地はないでしょう。もし出家生活が不要であれば、釈尊はわざわざ王族の地位を捨て、妻を捨て、子を捨てることはなかったでしょう。

ですから、繰り返しますが初期仏教というのは思想だけのものではないし、れっきとした宗教といえるものだと僕は思います。わめさんが「覚りを求め、出家生活を送る人」を宗教ではない、と思うのならば、それはそれでよいと思います。言葉の定義の問題に過ぎないことです。

> いえ、仏教解明の方法として思想史的方法によってブッダの教えを探ろうということです。

『仏教解明の方法』に述べられているのは、「釈尊の思想」の実態を知るための試みであって、初期仏教の実態に関してのことではありません。ですから、わめさんが「勝手に」初期仏教の中から「思想」の部分だけを取り出して、これこそが初期仏教であり、禁欲的な出家生活は初期仏教とは何の関係もないものだ、というのだとしたらやはり大変横暴な行為と思います。

余談ですが、釈尊は対機説法という独特な説法の仕方をしたので、当時にあってさえも釈尊の思想のバックグラウンドにあったもの、言い換えると釈尊の覚りの内容は、不明なままだったはずです。

仏教の理論というのはほぼ全て、釈尊の死後に弟子達が釈尊の覚りの内容を推察し、弟子達なりの考えで理論化していったものでしょう。ですから『仏教解明の方法』のような考え方は非常に自然な発想と思います。

> 仏教は信じる必要がない(誰もが理解できる)教えであるから『耳ある者に甘露(不死)の門は開かれた。信仰を捨てよ。(サンユッタニカーヤ 6:1、中村元訳)』と言われているように思いますし、本来の仏教は信仰対象では無いと思えるのですが・・・

ですから僕は釈尊の言う「信仰」の意味が現代での「信仰」の意味よりもおそらく狭義の意味であろうことを述べました。宗教、信仰の定義は各人によって違う、というのがすなわち、現代において信仰の意味が広くなっていることのまぎれのない証明です。このことについてこれ以上水掛け論をしても意味はないと思います。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月12日 01:56
 ひゃっきまるさん、(*゜ー゜)vオハヨ♪

> 釈尊も釈尊の弟子も出家生活を送っていたことはほとんど疑いようのない歴史的事実ですから、初期仏教がこうした修行を伴っていたことに疑問をさしはさむ余地はないでしょう。もし出家生活が不要であれば、釈尊はわざわざ王族の地位を捨て、妻を捨て、子を捨てることはなかったでしょう。

 修行方法としては出家することがベストかもしれませんが、修行方法としては出家・在家と共にあったように思います。

> ですから、繰り返しますが初期仏教というのは思想だけのものではないし、れっきとした宗教といえるものだと僕は思います。わめさんが「覚りを求め、出家生活を送る人」を宗教ではない、と思うのならば、それはそれでよいと思います。言葉の定義の問題に過ぎないことです。

 わめの言う原始仏教とひゃっきまるさんの言う初期仏教とでは指しているものが違うように思います。(^^;;

> > いえ、仏教解明の方法として思想史的方法によってブッダの教えを探ろうということです。
>
> 『仏教解明の方法』に述べられているのは、「釈尊の思想」の実態を知るための試みであって、初期仏教の実態に関してのことではありません。ですから、わめさんが「勝手に」初期仏教の中から「思想」の部分だけを取り出して、これこそが初期仏教であり、禁欲的な出家生活は初期仏教とは何の関係もないものだ、というのだとしたらやはり大変横暴な行為と思います。

 言われるように”「釈尊の思想」の実態を知るための試み”であって、初期仏教の実態や修行方法についてわめは言っているわけではありませんし、初期仏教の中から「思想」の部分だけを取り出してこれこそが初期仏教だとも思っておりません。むしろ「釈尊の思想」から発展的に初期仏教は生まれたように思います。

> 余談ですが、釈尊は対機説法という独特な説法の仕方をしたので、当時にあってさえも釈尊の思想のバックグラウンドにあったもの、言い換えると釈尊の覚りの内容は、不明なままだったはずです。

 釈尊の覚りの内容を取り出そうというのが思想史的方法です。^^
 そして仏教から仏教以外の宗教にある教えを取り除くと”縁起・無常・無我『原始仏教の特徴(特異性)』”が残るように思います。

> 仏教の理論というのはほぼ全て、釈尊の死後に弟子達が釈尊の覚りの内容を推察し、弟子達なりの考えで理論化していったものでしょう。ですから『仏教解明の方法』のような考え方は非常に自然な発想と思います。

 初期仏教とはそういったものだと思います。

> > 仏教は信じる必要がない(誰もが理解できる)教えであるから『耳ある者に甘露(不死)の門は開かれた。信仰を捨てよ。(サンユッタニカーヤ 6:1、中村元訳)』と言われているように思いますし、本来の仏教は信仰対象では無いと思えるのですが・・・
>
> ですから僕は釈尊の言う「信仰」の意味が現代での「信仰」の意味よりもおそらく狭義の意味であろうことを述べました。宗教、信仰の定義は各人によって違う、というのがすなわち、現代において信仰の意味が広くなっていることのまぎれのない証明です。このことについてこれ以上水掛け論をしても意味はないと思います。

 宗教、信仰の定義を決めて議論するのであれば水掛け論にもならないと思うのですが。(´・ω・`)ショボーン
 ただひゃっきまるさんの言われるように初期仏教は宗教であり信仰対象であるという点はわめも同意見ですが、この初期仏教は「信仰を捨てよ」に該当する”信仰”ではないと思われますか?
 わめは初期仏教には形而上学的な輪廻肯定部分が含まれると思いますので、釈尊の言われる”信仰”が狭義的な意味としても「信仰を捨てよ」の対象となると思うのですが。

 わめは「釈尊の思想」と推測する”縁起・無常・無我『原始仏教の特徴(特異性)』”が宗教でもなく信仰対象でもないのではないかと思っているということです。^^
Posted by わめ at 2006年01月12日 09:49
>わめは文献学的方法では仏教でないものまで仏教となってしまい、思想史的方法に拠らざるを得ないと思っております。

仏教は御釈迦さんの伝言ゲームですものね。

>わめの知る宗教を毛嫌いする方達は、ネットを含む周囲の方のことを思いやる気持ち、果てはこの社会をよりよいものとしていこうとの思いからの発言が多いように思いますし、それは自分だけの狭量な損得から発せられる言葉ではないように思います。

信仰で傷ついたとき、信仰や宗教に不信感でいっぱいである時に、その気持ちを気が済むまで素直に吐き出すという行為、またそれに同悲する行いは、わめさんがおっしゃるように大事な行いだと思います。そのなかで宗教が嫌いであったりしても、何の違和感もないです。
私も相当長い間「宗教」という言葉すら受け付けませんでした。「南無」に鳥肌立ってたし。

気をつけなければいけないのが、
宗教を嫌う人も、無宗教である人も、信仰を持った人も、問題とされる団体に属する人も、よりよい社会を願う気持ちは変わらないと思うのです。

問題は、それぞれが固執し、他の考え方に排他的になることなく、他の考え方を持つ方に対し寛容な姿勢をとれるかどうか、ということではないかと思います。
人の心もまた無常だから、機が熟せばいつでも考えて自ら無限に選択してゆくことは可能だし、
そのたくさんの選択肢があることは知っていただくことは必要だと思っています。

とここまで書くと、またわめさんの主張とあまり変わらない気がする私の意見でした。
Posted by みれい at 2006年01月14日 15:09
 みれいしゃん、こんにちは。^^

> 信仰で傷ついたとき、信仰や宗教に不信感でいっぱいである時に、その気持ちを気が済むまで素直に吐き出すという行為、またそれに同悲する行いは、わめさんがおっしゃるように大事な行いだと思います。そのなかで宗教が嫌いであったりしても、何の違和感もないです。

 わめのネット界隈でもこのような方のコメントに触れることがあります。
 心に溜め込んでしまうと心の病になってしまったり、既に心に病を持つ方にとっては悪化させてしまうようにも思います。
 みれいしゃんから聞かせていただいた振り子の話、反動というのですか、人間にはピッと中心で止まることは難しくて逆向きに傾いたりもすると思いますが、いずれ心は落ち着くと思いますのでそのような方には温かい目で見守っていきたいなと思っております。

> 私も相当長い間「宗教」という言葉すら受け付けませんでした。「南無」に鳥肌立ってたし。

 わめはそこまでなっていないな…
 学会活動はしていませんが未だに学会員さんとの交流もありますし信心以外の話では違和感なく楽しいお話も出来ますが、相手の方から「この信心だけは絶対」とかの言葉が時折飛び出してくることもありますので曖昧に頷いたりして誤魔化したりしていますが(汗)、このような時は案外当時のみれいしゃんと近い感覚かもしれませんね。笑
 またわめは今でも車に乗る時とかに無事故を願って(気を引き締める意味もあります)無意識的に題目を心で唱えてしまうことがありますが(汗)、それを恥じる気持ちもありません。安全運転を心掛けるのには役立っているように思いますから。^^

> 気をつけなければいけないのが、
> 宗教を嫌う人も、無宗教である人も、信仰を持った人も、問題とされる団体に属する人も、よりよい社会を願う気持ちは変わらないと思うのです。

 そうですね、どのような方でもよりよい社会を願う気持ちは変わらないと思います。
 ただどのような方でもそれを望まない例外的な方もおりますが。(^^;;

> 問題は、それぞれが固執し、他の考え方に排他的になることなく、他の考え方を持つ方に対し寛容な姿勢をとれるかどうか、ということではないかと思います。

 仏教系、特に初期仏教に関して言えば執着を絶つことが強調されて、それを信じるあまりよりよい社会よりもむしろ悪い社会であったほうが執着を離れやすいと捉える方もおられるようです。
 念仏や禅などはどうなのかな? わめにはよく分かりませんが…
 いずれにしましても考え方の違う方に対しては寛容であって欲しいと思います。

> 人の心もまた無常だから、機が熟せばいつでも考えて自ら無限に選択してゆくことは可能だし、
> そのたくさんの選択肢があることは知っていただくことは必要だと思っています。

 たくさんの選択肢があることを知ってもらいたいですね。^^
 人間はいつでも訂正可能でまたこの社会や周辺の方達も常に変化しているわけですから自らも変化していくことが自然だと思いますし、変わらないと頑張ったって無常から逃れられませんしね。

> とここまで書くと、またわめさんの主張とあまり変わらない気がする私の意見でした。

。.:♪*:・'(*⌒―⌒*))) スペシャルスマイル
Posted by わめ at 2006年01月14日 16:06
 みれいしゃん、Leoさんのサイトから寛容についてのテキストを発見しましたのでコピペさせて頂きます。^^

http://page.freett.com/leo020503/maxim.html から以下抜粋コピペ

 ところで、無知の知とはわれわれの側に真理を追究する意志があるからこそ意味をもつ教えである。したがってポパーの倫理は、真理の追究という営みのまわりに展開される倫理となる。真理を追究するためには、追求する者の倫理が必要である。そしてそれは方法論的反証主義として結実するものであった。ここに彼の倫理の根源がある。彼はそれを三つの原則にまとめている。

一、可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。 

二、合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。

三、真理への接近の原則。ことがらに即した討論をつうじて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 ポパーの倫理は、これらの原則から引きだされる。たとえば、可謬性を自覚したうえで討論をおこなおうと思えば寛容が必要である。真理を求めて討論しようとするときには、相手を潜在的に同等な者として承認しなければならないであろう。そうではなく、自らの方こそ知者であると思っていれば、討論ではなく、教化の試みしか生じまい。真理の追求はわれわれに謙虚さの倫理を教えてくれる。

(小河原誠 『ポパー──批判的合理主義』 講談社、1997年、pp.337-338)
Posted by わめ at 2006年01月14日 16:33
>わめの言う原始仏教とひゃっきまるさんの言う初期仏教とでは指しているものが違うように思います。

原始仏教と初期仏教は同じ意味です。一般的には初期仏教の方が偏見というか誤解を受けにくいように思うので僕はこちらを使っています。

これらは、「釈尊在世時から部派仏教に分かれる前の時代の仏教」を指す、単なる術語ですから、「わめさんの考える」とか「僕の考える」とかはありません。

ですから、

>むしろ「釈尊の思想」から発展的に初期仏教は生まれたように思います。

これは術後の意味としては誤った表現です。また、僕は釈尊自身も出家したことをあげて、それを初期仏教の実態としてあげているわけですから、その点に関して言えば、「釈尊の思想」と、「釈尊死後の思想」を分けることに意味はありません。

言葉の問題は些細と思われるかもしれませんが、むしろ我々の議論を混乱させている主原因がこうした基本的な用語の誤用からきているように思われる節があります。

「釈尊の思想」「初期仏教」「原始仏教」何と呼んでもよいのですが、これらの中に「縁起の思想」が含まれるとしても、これらは今まで述べてきたように宗教性がないとは言えません。

僕が言いたかったのは、初期仏教も宗教であるよ、というただ当然のことで、それにはわめさんも同意されたようですので、議論を終われるものと期待しています。

ただ、わめさんが「釈尊の思想」と呼んでいるものは、今後は「縁起の思想」とかいうように限定的な呼び方にされた方が、僕だけでなく他の方にとっても混乱を招かないのではないでしょうか。特にわめさんが、「縁起の思想」は宗教ではない、という主張をする文脈では。

あと、言うまでもなく「縁起の思想」は初期仏教だけではなく、大乗仏教や密教にさえもあるようですから、その点はお気をつけになった方がよいかと思います。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月15日 03:37
> 原始仏教と初期仏教は同じ意味です。一般的には初期仏教の方が偏見というか誤解を受けにくいように思うので僕はこちらを使っています。

 わめはそうとまで断言はできませんが一般的にそうであるならば釈尊在世に説かれた教えを推測して「縁起の思想」と表現させていただこうと思います。

> >むしろ「釈尊の思想」から発展的に初期仏教は生まれたように思います。
>
> これは術後の意味としては誤った表現です。また、僕は釈尊自身も出家したことをあげて、それを初期仏教の実態としてあげているわけですから、その点に関して言えば、「釈尊の思想」と、「釈尊死後の思想」を分けることに意味はありません。

 うーん、これはよく理解できませんが初期仏教にそれほど拘りはありませんのでとりあえずスルーさせて頂きます。

> 「釈尊の思想」「初期仏教」「原始仏教」何と呼んでもよいのですが、これらの中に「縁起の思想」が含まれるとしても、これらは今まで述べてきたように宗教性がないとは言えません。

 「縁起の思想」に宗教性が含まれるということでしょうか?
 また「釈尊の思想」に宗教性があるということなのでしょうか?
 『自灯明法灯明』のコメント欄で紹介させていただいたサイトの「仏編 2.釈尊の教え」で”『欲望にとらわれるな』ただ、これだけです。”と言われています。
http://www.asahi-net.or.jp/~vy6k-mrm/tao/tao003.htm
 また、
”『仏編 3.釈尊は先生』 http://www.asahi-net.or.jp/~vy6k-mrm/tao/tao004.htm では、まさに道徳です。宗教的な色がありません。”と言われておりますがこの見解はどう思われますか?
 わめはこれらと初期仏教を区別しているわけですが、

> 僕が言いたかったのは、初期仏教も宗教であるよ、というただ当然のことで、それにはわめさんも同意されたようですので、議論を終われるものと期待しています。

 ひゃっきまるさんはそれを初期仏教として一括りにされているようですが、わめは実在のブッダの教えと初期仏教では数百年の隔たりがあり、わめはそれを一括りにはできません。汗
 で、実在のブッダの教えと初期仏教を切り離すとしたら初期仏教についてのひゃきまるさんの主張にほぼ”同意”できると言うことなのです。

> あと、言うまでもなく「縁起の思想」は初期仏教だけではなく、大乗仏教や密教にさえもあるようですから、その点はお気をつけになった方がよいかと思います。

 「縁起の思想」を”大乗仏教や密教が取り入れている”ということには異論はありません。^^
Posted by わめ at 2006年01月15日 04:16
もう一度書きます。

初期仏教(原始仏教)は、「釈尊在世時から部派仏教に分かれる前の時代の仏教」を指す、単なる術語です。

>わめは実在のブッダの教えと初期仏教では数百年の隔たりがあり、わめはそれを一括りにはできません。汗

ですから、上記は誤った表現です。

> 「縁起の思想」に宗教性が含まれるということでしょうか?

「縁起の思想」がどうかということは言及しません。「釈尊の思想」「初期仏教」「原始仏教」の中に含まれる、出家や覚りに関する観念等には宗教性が認められるといってよいだろうということです。

> ひゃっきまるさんはそれを初期仏教として一括りにされているようですが、わめは実在のブッダの教えと初期仏教では数百年の隔たりがあり、わめはそれを一括りにはできません。汗
> で、実在のブッダの教えと初期仏教を切り離すとしたら初期仏教についてのひゃきまるさんの主張にほぼ”同意”できると言うことなのです。

また議論が振り出しに戻ってしまっていますよ。
では、初期仏教ではなく、釈尊在世時の教えに限定して話をします。僕は、釈尊は実際に出家もしたし、釈尊の弟子達も出家をしたと考えています。そして釈尊の教えは、単に縁起の思想(もしくはその原型)を説くだけではなく、出家の生活を伴うものであったと考えます。この点をもって、釈尊の教えは単に思想だけの内容ではなく、宗教的なものであったと思っています。

わめさんが、釈尊在世時には釈尊や釈尊の弟子達が出家の生活を送っていなかった、と考えることも自由ですし(僕にはありえないように思いますが)、出家者の生活を宗教ではない、と思うことも自由です(僕には充分に宗教的と思いますが)。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月15日 05:10
 ひゃっきまるさん、こんにちは。

> 初期仏教(原始仏教)は、「釈尊在世時から部派仏教に分かれる前の時代の仏教」を指す、単なる術語です。

 初期仏教が「釈尊在世時から部派仏教に分かれる前の時代の仏教」を指す術語というのは理解できてます。(^^;
 ただ「釈尊在世時から部派仏教に分かれる前の時代の仏教」でも”釈尊在世時”と”部派仏教に分かれる前の時代の仏教”とでは教えの内容が違うのではないかと言うことをわめは言っているわけで、いわばひゃきまるさんは「おたまじゃくしも成長した蛙も”蛙”」という述語に含まれる、わめはおたまじゃくしも蛙には違いないですが成長した蛙とは姿形が違うのではないかと言っているわけでして、何のためにわめはそう言っているかと言えば”釈尊在世時”は宗教・信仰対象とは呼びがたく、それ以降の”部派仏教に分かれる前の時代の仏教”は宗教であり信仰対象であるのじゃないかとの見解を述べるために必要だからです。

> > 「縁起の思想」に宗教性が含まれるということでしょうか?
>
> 「縁起の思想」がどうかということは言及しません。「釈尊の思想」「初期仏教」「原始仏教」の中に含まれる、出家や覚りに関する観念等には宗教性が認められるといってよいだろうということです。

 ”出家や覚り”の宗教性とはどのようなものでしょうか。
 出家については実家を離れ海外留学・ホームスティみたいなことといった少し似たイメージもあるのですが、出家は修行方法で出家=宗教とは言い難いのではないかと思います。
 ブッダの覚りについては研究者が新しい発見をしたといったことのように思いますし、ブッダの覚りを体得するための修行方法も八正道でありそこに宗教性を見出すことがわめにはできません。
 と書いたものの、”出家や覚り”の(修行)内容にひゃっきまるさんの言われるような宗教性がまったくなかったかあるいは多少はあったのかの結論は”宗教性”の定義、個々の宗教観にもよりますし、はっきりした結論は出せないのかも知れません。
 ひゃっきまるさんも以前のコメントで「自分が生まれたことに意味はないし、死んだらそれで終わり、という考えを持っている人もいると思いますが、それも一つの宗教観であると僕は考えます。」とおっしゃられておりますし、これを宗教観と言うのでしたら”出家や覚り”も宗教性があると言えるのかもしれません。

> > ひゃっきまるさんはそれを初期仏教として一括りにされているようですが、わめは実在のブッダの教えと初期仏教では数百年の隔たりがあり、わめはそれを一括りにはできません。汗
> > で、実在のブッダの教えと初期仏教を切り離すとしたら初期仏教についてのひゃきまるさんの主張にほぼ”同意”できると言うことなのです。
>
> また議論が振り出しに戻ってしまっていますよ。

 すいません、実在のブッダの教えと死後の仏教では教えの内容が違ってきていることは事実で、どちらも初期仏教だからと一括りにできなかったものですからw汗

> では、初期仏教ではなく、釈尊在世時の教えに限定して話をします。僕は、釈尊は実際に出家もしたし、釈尊の弟子達も出家をしたと考えています。そして釈尊の教えは、単に縁起の思想(もしくはその原型)を説くだけではなく、出家の生活を伴うものであったと考えます。この点をもって、釈尊の教えは単に思想だけの内容ではなく、宗教的なものであったと思っています。

 縁起の思想は単なる思想です。
 ブッダの教えには修行方法も含まれていたと思いますし、それは出家や八正道だったと思います。これを宗教と言えるかどうかということですね。^^

> わめさんが、釈尊在世時には釈尊や釈尊の弟子達が出家の生活を送っていなかった、と考えることも自由ですし(僕にはありえないように思いますが)、出家者の生活を宗教ではない、と思うことも自由です(僕には充分に宗教的と思いますが)。

 出家者の生活が宗教と呼べるかどうかについて意見の分かれるところですが、わめもこのことに拘るつもりもないです。
 わめが拘ったのは「縁起の思想」自体に宗教性はないと言うことでこのことについてはひゃっきまるさんは言及しないと言うことですからこの件の議論は終えて、実在のブッダの教えに宗教性が含まれるか否かの見解の相違と、ブッダ死後の仏教には宗教性があるとの見解の一致をみることができたということですね。

  あと「釈尊が「何」を「信仰」と呼んだのか、ということを僕ははっきりさせたかったのです。」と言っておられるように、この件でわめは「本来の仏教は信仰対象では無いと思える」と書きましたが、この本来の仏教は絞り込めば「縁起の思想」を広く言えば「実在のブッダの教え」を指しているのですが「縁起の思想」については言及しないとのことで留保して、「ブッダ死後の仏教」は”信仰を捨てよ”の対象になる信仰なのか否かについて議論しようというのではなくひゃっきまるさんの見解を頂ければあり難いです。

 わめは「ブッダ死後の仏教」は形而上学的な輪廻が含まれると思いますので宗教であり信仰対象だと思っておりますので”信仰を捨てよ”の対象になる信仰と思っておりますが。
Posted by わめ at 2006年01月15日 14:13
 僕がわめさんと議論していて思うのは、議論の内容そのものよりも、議論や言葉や文章そのものが本来もっているはずの論理性にところどころほころびが見える故の意思疎通の困難さに大きく労力が裂かれている、ということです。

 議論をする際、言葉のルールを守って、論理的に行いましょう、という双方の合意があって議論は成り立つものと思いますが、言うは易しで、実はこれを実現するのはなかなか難しいようです。

 率直に言って僕がわめさんに感じている問題点は、議論相手(つまり僕)の意見を、ときどき自説に都合のよいように曲解して解釈することのように思います。それは、僕の意見をきちんと理解しないままレスしているということでもあります。

 わめさんの「解った」は今のところ信用できない、というのが正直なところです。

 もちろんこれは僕の側がそのように感じているのであって、わめさんも僕に対して議論上の問題点を感じていることもあるかと思います。


 これは僕自身に対しての自戒も含めていうのですが、議論をする際、最も大切なことは、自説を主張することではなく、相手方の主張を正確に理解することです。そのためには何度でも質問を繰り返しても、あとあとそれが無駄になることはありません。

 相手の意見を理解していると確証が持てるのは、相手の文章を読んで違和感なく理解できるときです。もしほんとうには理解していないのであれば、文章のどこかに違和感を感じるはずです。

 そのように読むためには相手に対する信頼と真摯な態度が必要ですし、だからこそ書き手も、できるだけ相手にとって理解しやすいように文章を推敲しますし、決して「わかってもらえなくてもいいや」などという気持ちで文章を書いてはいけないのだと思います。

 他人の文章を読むからにはそれ相応の時間を割くわけですし、全身全霊かけて「理解しよう」という意気込みで読むわけです。書く側は、読みやすくするための努力、理解しやすくするための努力を決して惜しんではならないのだと思います。

 また、局所局所でレスすることにとらわれて、議論の大きな流れや、相手が何を意図して、何を解ってもらいたくての文章なのか、ということに気をつけることも大切と思います。


 僕は他人と意見が異なるということはむしろ当然と考えています。初期仏教に関しては学者によってさえ意見が相違するのですから。

 議論の第一目的は、相手の主張を理解することであり、第二目的は、相手の主張を契機にして自分の考えを発展させることと思っています。

 であれば、例えば(1)両者の間で最終的に意見が一致することを目指して(もしくは相手の意見を変えさせることを目指して)、とか、(2)表面上異なるに見える両者の意見が実は同じなのだ、という結論(もしくは偏見、思い込み)をはじめから設定して、議論することは避けねばならないし、危険なことでもあります。

 我々は安易に(1)を採ろうとする傾向がありますし、議論が混線すれば安易な収束策として(2)を提案してしまったりしますが、どちらにしても議論に不誠実な態度であるという意味では悪しき態度であると思います。

 (1)でなければならない、(2)でなければならない、と思うことによって他者に愛憎が生まれてしまう可能性を考えれば、議論の終着点が意見の相違で終わってもよい、と考えることは大切なことと思います。またそれが真の平和であり、真の寛容なのだと思います。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月15日 15:30
 ひゃっきまるさん、こんにちは。^^

>  僕がわめさんと議論していて思うのは、議論の内容そのものよりも、議論や言葉や文章そのものが本来もっているはずの論理性にところどころほころびが見える故の意思疎通の困難さに大きく労力が裂かれている、ということです。

 そこ突かれると痛いw汗
 わめはいくつかの記事(最近だと『今年の総括』)で書いているように、チャットでの会話(議論?)が主な発言の場でチャットスタイルなコメントになりがちなんです。
 『チャットでは話し言葉で数秒から数十秒ごとのやり取りを何度も何度も繰り返すから意思の疎通も比較的楽だけど、掲示板やブログでは1回ごとのコメントに思いを綴らなきゃならないわけで、少しの言葉しか知らない&使ったことのほとんどないわめでしたから、言葉足らずや思うことを表現できない自分であったように思います。それは今でもそうなのですが(汗)』

>  議論をする際、言葉のルールを守って、論理的に行いましょう、という双方の合意があって議論は成り立つものと思いますが、言うは易しで、実はこれを実現するのはなかなか難しいようです。

 わめのように「少しの言葉しか知らない&使ったことのほとんどない」&チャット慣れした者には余計に難しく思います。

>  率直に言って僕がわめさんに感じている問題点は、議論相手(つまり僕)の意見を、ときどき自説に都合のよいように曲解して解釈することのように思います。それは、僕の意見をきちんと理解しないままレスしているということでもあります。

 そうかもしれません。わめは他者のコメントに対して読解力が弱い(そのこともよく書いてますがw)し、好意的に受け取る傾向にありますから”自説に都合のよいように曲解して解釈”もあるかと思います。

>  わめさんの「解った」は今のところ信用できない、というのが正直なところです。

 はい、わめの「解った(分かった)」は納得したとかよく理解できたと言うよりコメントを受け取ったという程度の意味でしかありませんから信用するのは危険ですw
 というか先程も書いたように読解力が弱いので誤解して受けとる場合も多く、今後の議論で理解できてくるとの楽観的な思いと、主題から外れた議論にすすまないようにとの思いから”コメントを受け取った”と言う程度にしている面もあります。

>  もちろんこれは僕の側がそのように感じているのであって、わめさんも僕に対して議論上の問題点を感じていることもあるかと思います。

 誰にだって個性があって議論上問題のない方など少ないと思いますし、相手に問題がなかったとしても軽い意味での互いの思考的パラダイムの違いなどでも議論が噛み合わないといったこともあると思いますが、そんなことは当たり前ですしそういったことではわめのほうが問題点が多いと思いますので滅多に他者に云々申し上げることもありません。

>  これは僕自身に対しての自戒も含めていうのですが、議論をする際、最も大切なことは、自説を主張することではなく、相手方の主張を正確に理解することです。そのためには何度でも質問を繰り返しても、あとあとそれが無駄になることはありません。

 はい、ですので答えていただけないことでも知りたいことは何度も(同じ)質問は失礼かと思いながらも言葉を少しづつ変えてやっているつもりなんです。涙
 それと自説というかわめの認識についての発言は、自身の誤謬の発見に努めたいとの思いからが大半なのである程度許容してご批判願えるとあり難いのですが…
 ”相手方の主張を正確に理解する”ことはわめには非常に難しくまた誤解も多くなるので、議論の積み重ねにより理解するためのより多くのテキストを得てそこから少しづつ正確に理解していこうとの考え方なのですが、これはリアルやチャットでは効果的な方法かと思うのですが、掲示板やブログのコメントとしてはよくないことなのでしょうか?
 またそれが主題や伏線的なことについてのことなら”何度でも質問を繰り返”すことは重要にも思いますがそうでないと思う場合には話が逸れてしまう場合もあり避けることも大事なことのようにも思ったりします。

>  相手の意見を理解していると確証が持てるのは、相手の文章を読んで違和感なく理解できるときです。もしほんとうには理解していないのであれば、文章のどこかに違和感を感じるはずです。

 違和感がないことと相手の意見を理解していると確証が持てることは違うように思います。
 それは互いによく似た見解を持っている(あるいは正反対)と錯覚を起こすことにもなり兼ねないと思います。
 むしろそのことで相手の意見を理解したつもりになってしまうことのほうが危険なように思います。
 わめ的には”自分”・”相手”から、それぞれの意見を取り出して、誰の意見とかそういう余計なものを切り離して議論し合わないとだめなんじゃないかと思うのですが。

>  そのように読むためには相手に対する信頼と真摯な態度が必要ですし、だからこそ書き手も、できるだけ相手にとって理解しやすいように文章を推敲しますし、決して「わかってもらえなくてもいいや」などという気持ちで文章を書いてはいけないのだと思います。
>
>  他人の文章を読むからにはそれ相応の時間を割くわけですし、全身全霊かけて「理解しよう」という意気込みで読むわけです。書く側は、読みやすくするための努力、理解しやすくするための努力を決して惜しんではならないのだと思います。

 わめはこのような態度を誰にも要求するものでもありませんが、このような態度は心掛けたいと思っておりますし努力もしているつもりなんですが、わめは如何せん小4程度の学力・文章力ですので議論していただく方には余程の忍耐力がいるのだろうなと反省していますし、この約半年の間に少しは向上したのかなと思ってましたが一人前にはまだ程遠いようです。涙
Posted by わめ at 2006年01月15日 18:51
>  僕は他人と意見が異なるということはむしろ当然と考えています。初期仏教に関しては学者によってさえ意見が相違するのですから。
>  議論の第一目的は、相手の主張を理解することであり、第二目的は、相手の主張を契機にして自分の考えを発展させることと思っています。

 わめは真理に一歩でもより近づこうとすることを第一の目的にしています。そのためには意見の違う方と議論をすることにより自身の誤謬を発見し、訂正していくのが一番の近道ではないかと思っております。
 そのためにも相手の主張をその相手から切り離して理解することは大切に思います。

>  (1)でなければならない、(2)でなければならない、と思うことによって他者に愛憎が生まれてしまう可能性を考えれば、議論の終着点が意見の相違で終わってもよい、と考えることは大切なことと思います。またそれが真の平和であり、真の寛容なのだと思います。

 1でも2でもなく、議論の終着点が真理に一歩でも近づく(誤謬の発見)ことであればうれしく思います。
 これも先ほど書いたことと同じになると思いますが、みれいしゃんのコメントに引用させてもらったLeoさんのサイトのテキストを再掲させて頂きます。

http://page.freett.com/leo020503/maxim.html から以下抜粋コピペ

 ところで、無知の知とはわれわれの側に真理を追究する意志があるからこそ意味をもつ教えである。したがってポパーの倫理は、真理の追究という営みのまわりに展開される倫理となる。真理を追究するためには、追求する者の倫理が必要である。そしてそれは方法論的反証主義として結実するものであった。ここに彼の倫理の根源がある。彼はそれを三つの原則にまとめている。

一、可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。 

二、合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。

三、真理への接近の原則。ことがらに即した討論をつうじて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 ポパーの倫理は、これらの原則から引きだされる。たとえば、可謬性を自覚したうえで討論をおこなおうと思えば寛容が必要である。真理を求めて討論しようとするときには、相手を潜在的に同等な者として承認しなければならないであろう。そうではなく、自らの方こそ知者であると思っていれば、討論ではなく、教化の試みしか生じまい。真理の追求はわれわれに謙虚さの倫理を教えてくれる。

(小河原誠 『ポパー──批判的合理主義』 講談社、1997年、pp.337-338)
Posted by わめ at 2006年01月15日 18:53
 ひゃっきまるさん、こんばんは。^^

 わめも少し反省してこの記事でのひゃっきまるさんとの議論を読み返してみました。(*´∇`*)

 わめがまず誤解を招いてしまった発言ですが、
『 ただ、ひゃっきまるさんのご指摘のように、それが多くを望み得ない民衆の苦を麻酔のように除くことには役立っているわけですから、宗教の本質がどうあれ権威権力者から最下層の人々にまで幅広く受け入れられていったことは事実で、わめも宗教の功の部分を否定するつもりはないです。^^』
この”ひゃっきまるさんのご指摘のように”は、「宗教の本質がどうあれ権威権力者から最下層の人々にまで幅広く受け入れられていったことは事実」に当たるのですが、その間に”それが多くを望み得ない民衆の苦を麻酔のように除くことには役立っているわけですから”が余計な言葉として入ってしまってこれを”ひゃっきまるさんのご指摘のように”と受け取られてしまったようです。

そのお返事として
『そのようなことは言っていません。僕は、僕らが通常当たり前と思っているような道徳観などが、気づいていようがいまいが、そもそもなんらかの宗教の世界観に由来している(日本の場合は儒教がメイン)、ということが言いたいわけです。わめさんも例外ではありません。なぜなら道徳的観念をもっていない人間などいないし、いるとしたら社会生活を送ることはほとんど不可能と思うからです。』と言われておりますが、これは上記でわめが書いた「宗教の本質がどうあれ権威権力者から最下層の人々にまで幅広く受け入れられていったことは事実で、わめも宗教の功の部分を否定するつもりはないです。^^」との意見と相反するものとは思えませんがいかがでしょう?

 また、初期仏教・原始仏教のお話についてですが、元々の発端は下記のわめの発言にあると思うのですが、
『 わめは原始仏教と言うかブッダ自身が説かれたことは合理的でそれは宗教ではないと思っています。
 またブッダ自身も宗教や信仰することには否定的だったとも捉えていて、わめはブッダ自身が説かれたことは宗教ではないと思っておりますので、ひゃっきまるさんの宗教観とわめのこの解釈が大きな相違点のように思います。
 まずはこの根本的?な相違点についてもっと議論をしていかないと先に進めないような気がしています。^^』
 ここで書いているように、「原始仏教と言うかブッダ自身が説かれたこと」、「わめはブッダ自身が説かれたことは宗教ではないと思っております」と言っていますように、原始仏教との言葉もありますが”ブッダ自身が説かれたこと”と明言しておりました。
 その後ひゃっきまるさんが、『釈尊も釈尊の弟子も出家生活を送っていたことはほとんど疑いようのない歴史的事実ですから、初期仏教がこうした修行を伴っていたことに疑問をさしはさむ余地はないでしょう。』と初期仏教という言葉を使いだしたわけで、「ブッダ自身が説かれたこと」を指していたことがいつの間にか「初期仏教」に置き換わってしまったように思いますしこれは術語の問題とも言えないと思います。
 (「ブッダ自身が説かれたこと」も宗教と捉えるか捉えないかに影響は与えないと思いますが)

 まだ誤解等があるかもしれませんのでもう少し読み返してみようと思います。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2006年01月15日 21:37
 初期仏教・原始仏教のお話ですが、事の発端は「わめは原始仏教と言うかブッダ自身が説かれたこと」と原始仏教とブッダ自身が説かれたことを混同して書いたわめにありそうですね。(^^;;

 わめには原始仏教とブッダ自身が説かれたことの明確な区別がついてなくて、これが誤解を与える原因なのかもしれません。
 以後気をつけます。
Posted by わめ at 2006年01月15日 22:55
僕は読むのも書くのも人一倍時間がかかるもので、全てのコメントに対しレスを返せない非礼をお許しください。

> はい、わめの「解った(分かった)」は納得したとかよく理解できたと言うよりコメントを受け取ったという程度の意味でしかありませんから信用するのは危険ですw

本当にそうなのであれば(そうではないように思いますが)、安易に「解った」などとは決して言わない方がよいでしょう。議論は、お互いに了解事項を確認しながら進めるものです。前に「解った」はずなのに、後で「解ってない」ことが判明したならば、議論は振り出しに戻ります。

> ”相手方の主張を正確に理解する”ことはわめには非常に難しくまた誤解も多くなるので、議論の積み重ねにより理解するためのより多くのテキストを得てそこから少しづつ正確に理解していこうとの考え方なのですが、これはリアルやチャットでは効果的な方法かと思うのですが、掲示板やブログのコメントとしてはよくないことなのでしょうか?

それは何度も同じ議論をするという意味なのでしょうか。もしそうであれば、僕にとっては甚だ苦痛です。また論理というものは「量」によって推し進めるものではないと思います。

(1)
>『 ただ、ひゃっきまるさんのご指摘のように、それが多くを望み得ない民衆の苦を麻酔のように除くことには役立っているわけですから、宗教の本質がどうあれ権威権力者から最下層の人々にまで幅広く受け入れられていったことは事実で、わめも宗教の功の部分を否定するつもりはないです。^^』

(2)
>『そのようなことは言っていません。僕は、僕らが通常当たり前と思っているような道徳観などが、気づいていようがいまいが、そもそもなんらかの宗教の世界観に由来している(日本の場合は儒教がメイン)、ということが言いたいわけです。』

上記の件ですが、(1)の文章の主旨と(2)の文章の主旨は全く異なると思います。わめさんには同じに読めるのでしょうか。


初期仏教を巡る議論も、本来はこんなに混線する内容でもないのです。ひどく単純なことです。

>「ブッダ自身が説かれたこと」を指していたことがいつの間にか「初期仏教」に置き換わってしまったように思いますしこれは術語の問題とも言えないと思います。

僕は原始仏教(初期仏教)は一貫して釈尊の教えの延長線上にあるものとして論じていましたし、また釈尊生前と死後の教えを区別する意図もありません。また、この議論において、僕は釈尊が出家者の生活を送っていたことを釈尊の教えの宗教性の根拠にしているわけですから、この文脈において問題はないはずです。

(1)
わめは原始仏教と言うかブッダ自身が説かれたことは合理的でそれは宗教ではないと思っています。

(1’)
僕は原始仏教はてんで合理的とは思っていません。
出家者は妻帯・殺生してはならず、全てのものを捨てさり(所有してはならず)、煩悩を滅することで涅槃に至るとされますが、現代からすると非常に特殊な世界観といわざるを得ません。

(2)
わめの思う原始仏教にはひゃっきまるさんがご指摘の上記のようなことは含まれていません。ブッダの直説が何であるか分からないと思いますし、仮に分かったとしてひゃっきまるさんが述べられているような教えであるならわめも同じような見解になりそうですが、仏教を思想的方法で抽出するならば縁起・無常・無我であり、わめはこれを原始仏教と認識しています。またこのような原始仏教なら宗教ではないと思いますし、信仰しようもありません。

(2’)
釈尊自身も出家者の生活(人に施しを恵んでもらう、住居を持たない、妻帯しない、粗末な衣を着る)を送っており、初期においては仏道修行者というのは基本的に出家者を指していたので、原始仏教が思想だけのものであるというのは明らかな誤りであると思います。また思想だけを抜き出して「これこそが原始仏教だ」というのは勝手な振る舞いではないでしょうか。

(3)
いえ、仏教解明の方法として思想史的方法によってブッダの教えを探ろうということです。

(3’)
『仏教解明の方法』に述べられているのは、「釈尊の思想」の実態を知るための試みであって、初期仏教の実態に関してのことではありません。ですから、わめさんが「勝手に」初期仏教の中から「思想」の部分だけを取り出して、これこそが初期仏教であり、禁欲的な出家生活は初期仏教とは何の関係もないものだ、というのだとしたらやはり大変横暴な行為と思います。

(4)
言われるように”「釈尊の思想」の実態を知るための試み”であって、初期仏教の実態や修行方法についてわめは言っているわけではありませんし、初期仏教の中から「思想」の部分だけを取り出してこれこそが初期仏教だとも思っておりません。むしろ「釈尊の思想」から発展的に初期仏教は生まれたように思います。

(4’)
では、初期仏教ではなく、釈尊在世時の教えに限定して話をします。僕は、釈尊は実際に出家もしたし、釈尊の弟子達も出家をしたと考えています。そして釈尊の教えは、単に縁起の思想(もしくはその原型)を説くだけではなく、出家の生活を伴うものであったと考えます。この点をもって、釈尊の教えは単に思想だけの内容ではなく、宗教的なものであったと思っています。
わめさんが、釈尊在世時には釈尊や釈尊の弟子達が出家の生活を送っていなかった、と考えることも自由ですし(僕にはありえないように思いますが)、出家者の生活を宗教ではない、と思うことも自由です(僕には充分に宗教的と思いますが)。

 僕としては(2’)で必要な言及は終えているつもりです。これ以上言葉を重ねることは無意味に思います。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月16日 02:02
 ひゃっきまるさん、こんばんは。^^

> 僕は読むのも書くのも人一倍時間がかかるもので、全てのコメントに対しレスを返せない非礼をお許しください。

 トンでもありません、わめは書くのが早いだけで的を射ないコメントが多くなってこちらこそ申し訳なく思います。
 んで、今回は反省の意味を込めてすべてにお返事は避けて、それは後日にさせていただこうと思いますが、誤解がある点についていくつか指摘させていただきます。

> 本当にそうなのであれば(そうではないように思いますが)、安易に「解った」などとは決して言わない方がよいでしょう。議論は、お互いに了解事項を確認しながら進めるものです。前に「解った」はずなのに、後で「解ってない」ことが判明したならば、議論は振り出しに戻ります。

 ”解った”と”分かった”ではどれほどの意味の違いがあるのかは厳密には分かりませんが、わめは”解った”とのコメントをした記憶がありませんし、”解った”より曖昧な表現の”分かった”との表現をすべて使っているように思います。
 この”解った”と”分かった”との意味の違いは一般的に考えればご理解頂けると思います。
 そもそもわめはそう簡単に相手の主張が”解る”とは思っておりませんし、事実ひゃっきまるさんにわめの主張が解ってもらっていないように、軽はずみに”解った”との表現は避けておりますし、わめが”解った”とコメントをしているとのご理解も誤解でありました。
 ですので”解った”つもりでも”分かった”とわめは表現しますし、あくまで”つもり”でそれは”思い込み”のように思います。
 その思い込みで議論が進み、思い込みを避けることで”振り出しに戻る”という見解には賛意を表せません。
 ですのでこの後の「安易に「解った」などとは決して言わない方がよいでしょう。」のコメントにも同様のお応えをするしかありません。

 また「議論は振り出しに戻」るとも思いません。事実ひゃきまるさんとの議論も進んでいるように思いますし、(2’)に((3’)も(4’)も同様かな?)おいて「原始仏教が思想だけのものであるというのは明らかな誤りであると思います。」と述べられておられますが、既にわめは「ブッダの教えには修行方法も含まれていたと思いますし、それは出家や八正道だったと思います。」とコメントしているように”解った”つもりでも”解ってない”場合があることをご理解頂ければありがたいです。

 また(1’)の”出家”について「出家者は妻帯・殺生してはならず、全てのものを捨てさり(所有してはならず)、煩悩を滅することで涅槃に至るとされますが、現代からすると非常に特殊な世界観といわざるを得ません。」とおっしゃっていますがこれのどこが合理的でないかについてはなにひとつ説明がなされておりませんし、このコメントを理解しようと思えば”現代からすると非常に特殊な世界観”いうことしか分かりません。涙
 わめとしては”現代からすると非常に特殊な世界観”には同意しますが、その目的からすれば非常に合理的に思います。
 ”出家”と宗教性の関わりについても何一つ示されていないように思いますが、このこともお気持ちを察すると主題ではないことですからスルーしてもよいかなと一応”分かった”ことにしておこうとのわめの気持ちが働いてしまいます。

 以上誤解されているかなと感じた点だけ指摘させていただきました。
Posted by わめ at 2006年01月16日 02:55
う〜ん、なんか、読んでると、
コーヒーに例えるなら、
ひゃっきまるさんがカプチーノの話をしてるとしたら、わめさんはエスプレッソの話をしている感じ。答えはでないさ〜違うもん。

なんか御釈迦さんが「ゴータマ・わめ・シッダルダ」になってるよ。「わめ・ブディズム」みたいな。
それはそれでわめさんの持ち味だし、救われる人もいるでしょうから構わないと思うのですが、
議論するなら「釈迦の生涯」の御釈迦さんとか、中村元さんの本あたりで照準を合わせてスタートしないと、どこまでいってもかみ合わない気がするよ。
ここらで一度終了したほうがいいと思われ。

ところでさらに横レスで申し訳ないのですが、
わめさん、ひゃっきまるさん、法華経と日蓮御書詳しいですか?
勧持品と寺泊御書の話、どこかで聞けないでしょうか?それとも、掲示板でされたことありますか?
Posted by みれい at 2006年01月16日 04:14
 いつもはROM者さん、初めまして。^^
 またわめのブログを読んでくださっているとのこと感謝です。ヽ(  ´  ∇  `  )ノ ♪

 誠に申し訳ありませんが”大人と子供”や”我執”発言はわめに対してなら問題はないですが、他の方になのでそのような決め付けは頂けないと思いますし、削除は遠慮無用とのことで削除させていただきました。m(。_。;))m ペコペコ…

 わめは「2006年01月15日 18:53」で引用させてもらった内容の「相手を潜在的に同等な者として承認」しておりますので”大人と子供”などとは思ってはおりません。

 また「2006年01月16日 02:55」のコメントに”棘”があると感じられたことについては、しっかり読み返して反省すべきかどうか考えてみますね。^^

 コメントして頂けたのに削除すること、再度お詫びいたします。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2006年01月16日 04:21
 みれいしゃん、こんばんは。^^ ってもう朝方だねw(>▽<;; アセアセ

> ひゃっきまるさんがカプチーノの話をしてるとしたら、わめさんはエスプレッソの話をしている感じ。答えはでないさ〜違うもん。

 よく分かりませんが読み手としてそうお感じなのですねw(^^;;

> なんか御釈迦さんが「ゴータマ・わめ・シッダルダ」になってるよ。「わめ・ブディズム」みたいな。
> それはそれでわめさんの持ち味だし、救われる人もいるでしょうから構わないと思うのですが、

 イヤン((▽\*)≡(*/▽))イヤーン わめは仏教徒じゃないもんw汗

> 議論するなら「釈迦の生涯」の御釈迦さんとか、中村元さんの本あたりで照準を合わせてスタートしないと、どこまでいってもかみ合わない気がするよ。

 そうかな…w
 縁起の思想を除けばひゃっきまるさんとわめとは仏教についてはそれほど見解の相違も少ないと思いますし、またわめは当然、ひゃっきまるさんも仏教については重要視されていないように思うのだけど。(ってまたわめの早合点かもw汗)
 それにわめは文献学的方法は嫌いだし、中村元さんは『スッタ・ニパータ』の所説を「ブッダのことば」とするトンでも発言をしてますのでご勘弁をwヽ(・∀・;)ノ アヒャッ!

> ここらで一度終了したほうがいいと思われ。

 ひゃっきまるさんがどう思われているかによりそれもアリかもですね。^^

> ところでさらに横レスで申し訳ないのですが、
> わめさん、ひゃっきまるさん、法華経と日蓮御書詳しいですか?
> 勧持品と寺泊御書の話、どこかで聞けないでしょうか?それとも、掲示板でされたことありますか?

 内容にもよるかもしれませんがわめは詳しくありません。もしかしてLeoさんなら・・・
Posted by わめ at 2006年01月16日 04:50
Leoさ〜ん、どこですか〜??
Posted by みれい at 2006年01月16日 20:30
>”解った”と”分かった”ではどれほどの意味の違いがあるのかは厳密には分かりませんが、

日本語において「解る」と「分かる」は同じ意味です。少なくとも一般的には。また僕はあえてこの両者が異なるものとして使い分けるということは一度も言っていません。

また僕が前回のレスで言った「安易に解かったなどとは言わないほうがよいでしょう」の意味は、相手の意見に同意した、という意味ではなく、相手の文章の意味を理解した、という意味です。

>「出家者は妻帯・殺生してはならず、全てのものを捨てさり(所有してはならず)、煩悩を滅することで涅槃に至るとされますが、現代からすると非常に特殊な世界観といわざるを得ません。」

一切を苦と見ること、輪廻からの解脱、覚者、涅槃、出家者の生活、といった諸々の世界観や考え方に関して、僕はバラモン教もしくはウパニシャッド哲学の宗教性という観点から議論が可能と考えています。

ただ、僕としてはこれ以上わめさんと議論を続けることは率直にいって難しいと考えていますので、問題提起をするだけにとどめておこうと思います。もしこれらのことに興味があれば、釈尊の同時代のインドにおける世界観や宗教について調べてみてください。

念のため誤解をさけるために言っておくと、一方的にわめさんに非があるといいたいわけではなく、僕自身の議論の進め方にも問題があるのだろうと思っています。ただ、このように議論が混乱することを収拾する能力が今の僕にはない、ということです。

他の方が感じているように、わめさんと僕が例えば我執により対立しているとか、カプチーノとエスプレッソのように論点がずれているために議論が難航しているとは僕は全く思っていません。我々は充分に相手の意見を尊重しようとしているし、自説に無意味にこだわっているわけではありません。また何が問題の核心かということさえ互いに了解はとれています。

我々の議論が難航するのは、おそらくは非常に単純に「議論のスキル」が互いに低いからであると僕は思っています。そして、わめさんと僕が一見表面上相互理解が困難に見えてしまうのは、わめさんと僕が「ありきたりな同意」や「わかったつもり」という安易な解決策を求めていないからであり、そのことをもって僕は大いにわめさんに同調を感じます。

>みれいさん

日蓮教学についてはあまり知りません。任用試験程度なら判ると思います。
Posted by ひゃっきまる at 2006年01月16日 21:45
みれいさん、わめさん、こんばんは。ひゃっきまるさん、はじめまして。
国内救助隊(?)のLeoです。

>内容にもよるかもしれませんがわめは詳しくありません。もしかしてLeoさんなら・・・

>Leoさ〜ん、どこですか〜??

もしかして、「寺泊御書」の、

「勧持品に云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈し」等云云日蓮此の経文に当れり汝等何ぞ此の経文に入らざる、
「及び刀杖を加うる者」等云云、日蓮は此の経文を読めり汝等何ぞ此の経文を読まざる」

「過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し、
 其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為る可し 」

関係のことでしょうか?

ネット上で解説は見当たらないのですが、書籍の口語訳であれば
『立正安国論ほか』中公クラシックス
http://item.rakuten.co.jp/book/1371968/
に「寺泊御書」が収録されています。

(ご存知と思われますが)原典は、
寺泊御書
http://sgi.daa.jp/gosyo/title/G123.HTM

妙法蓮華経 勧持品第十三
http://nakanihon.net/nb/hokekyou/wm13.htm
などがあります。
Posted by Leo at 2006年01月16日 23:24
わぁ。Leoさん、呼んだらきてくださって嬉しい♪ちょっとお久しぶりです♪

私はこちらを参考にさせていただきました。
http://nakanihon.net/nb/gosyo//teradomarigosyo.htm

法華経は同じものをペガサスさんのところで拾って見ています。
Leoさんの紹介くださった御書のサイトの全集はありますか?そちらも見やすそうです。

Leoさんが提示くださった部分も関係してくると思うのですが、

「或る人日蓮を難じて云く、機を知らずして麁議を立て難に値ふと。或る人云く、勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違すと。或る人云く、我も此の義を存すれども言はずと云云。或る人云く、唯教門計りなり。理は具に我之を存すと。」

このあたりに関心をもっています。

私こそ御書なんてさっぱりなので、みなさんに聞きたいことだらけなのです。
この話をどこの掲示板にすればいいのか。
わめさんの掲示板借りていいですか?


Posted by みれい at 2006年01月17日 01:05
 ひゃきまるさん、こんばんは。^^

> 日本語において「解る」と「分かる」は同じ意味です。少なくとも一般的には。また僕はあえてこの両者が異なるものとして使い分けるということは一度も言っていません。

 そっか、わめが使い分けているだけかもしれませんね。(^^;;
 一応そのニュアンスの違いのsourceもあるのですが、それでも「解る」と「分かる」にそれほど大差はないと思いますし、ここで議論するほどのことでもないかw
 わめが「解る」と「分かる」、そして「判る」を大きく意味が違うと拘っているだけかもしれません。
 よって内的なわめの解釈をそのままひゃっきまるさんに押し付けてしまったようでお詫び致します。

> また僕が前回のレスで言った「安易に解かったなどとは言わないほうがよいでしょう」の意味は、相手の意見に同意した、という意味ではなく、相手の文章の意味を理解した、という意味です。

 うん、そのように受け取っていましたが”相手の文章の意味”を正確に理解することはかなり難しいというのがわめの見解なんです。

> >「出家者は妻帯・殺生してはならず、全てのものを捨てさり(所有してはならず)、煩悩を滅することで涅槃に至るとされますが、現代からすると非常に特殊な世界観といわざるを得ません。」
>
> 一切を苦と見ること、輪廻からの解脱、覚者、涅槃、出家者の生活、といった諸々の世界観や考え方に関して、僕はバラモン教もしくはウパニシャッド哲学の宗教性という観点から議論が可能と考えています。

 これはどうでしょう、”一切を苦と見ること、輪廻からの解脱、覚者、涅槃、出家者の生活、といった諸々の世界観や考え方”自体に”直接”宗教性見出すことは困難に思いますし、バラモン教やウパニシャッド哲学と対立する形で仏教は生まれたとの見解のリンク(仏教の源流からスレ)は紹介させていただきましたが、ひゃきまるさんも反証されていない点から考えて今のところどちらも確証は得られていないと思いますので結論は出せないように思います。

> ただ、僕としてはこれ以上わめさんと議論を続けることは率直にいって難しいと考えていますので、問題提起をするだけにとどめておこうと思います。もしこれらのことに興味があれば、釈尊の同時代のインドにおける世界観や宗教について調べてみてください。

 わめは議論を続けていくことには困難さは感じておりませんし、わめの提示した”釈尊の同時代のインドにおける世界観や宗教について”の見解のリンク(仏教の源流からスレ)に対してひゃっきまるさんは反証のコメントをもらっておりませんので何を調べればいいのかが分かりません。汗

> 念のため誤解をさけるために言っておくと、一方的にわめさんに非があるといいたいわけではなく、僕自身の議論の進め方にも問題があるのだろうと思っています。ただ、このように議論が混乱することを収拾する能力が今の僕にはない、ということです。

 うーん、わめはキャッチボールがうまくいってないことに問題を感じるのですが…w
 投げられたボールを互いに返していけば解決することではないかと思うのですが。

> 他の方が感じているように、わめさんと僕が例えば我執により対立しているとか、カプチーノとエスプレッソのように論点がずれているために議論が難航しているとは僕は全く思っていません。我々は充分に相手の意見を尊重しようとしているし、自説に無意味にこだわっているわけではありません。また何が問題の核心かということさえ互いに了解はとれています。

 わめは前述のようにキャッチボールがうまく成立していないことにおいては”議論が難航”しているようには思いますが”我執により対立しているとか、カプチーノとエスプレッソのように論点がずれているため”で”議論が難航”しているわけではないと思う点では同意ですし、”充分に相手の意見を尊重”や”自説に無意味にこだわっているわけでは”ないとのご意見にはまったく賛成です。

> 我々の議論が難航するのは、おそらくは非常に単純に「議論のスキル」が互いに低いからであると僕は思っています。

 「我々の議論が難航するのは、おそらくは非常に単純に「議論のスキル」が互いに低いからである」には賛成できかねます。「議論のスキル」の高低などは前述の”キャッチボール”の例えを用いれば、互いに投げ返すボールのコントロールが悪い程度のもので、それによりミットでうまく受けられず逸れたボールを拾いにいく手間が掛かる程度のものではないかと思います。

> そして、わめさんと僕が一見表面上相互理解が困難に見えてしまうのは、わめさんと僕が「ありきたりな同意」や「わかったつもり」という安易な解決策を求めていないからであり、そのことをもって僕は大いにわめさんに同調を感じます。

 この点は同感ですしわめにとっては非常にうれしいコメントです。^^


 みれいしゃん、TBアリガト!(´▽`)

> わめさんの掲示板借りていいですか?

 わめの掲示板でよければいつでもどうぞ。^^
Posted by わめ at 2006年01月17日 03:47
ははは、カプチーノとエスプレッソ、
論点がずれてるというより、見識がちがうなぁと思ったんです。
いずれにしても歩み寄る方向性が一緒でなによりです^^

トラバ、すぐできなくてハラハラしましたが、出来ててよかった。
Posted by みれい at 2006年01月17日 14:24
 みれいしゃん、こんにちは。^^

> ははは、カプチーノとエスプレッソ、
> 論点がずれてるというより、見識がちがうなぁと思ったんです。

 見識も違いますし、わめは何より自身の持つ見識を壊したいとの思いが強いですから同意部分はなるべくスルーして異論のぶつかり合いになってしまう傾向にあるように思います。(^^;;

> いずれにしても歩み寄る方向性が一緒でなによりです^^

 上記で書いたように歩み寄ると言うのでもないと思いますですw
 でも目的観というのか、互いにただ知識を深め合おうというのでもないと感じる点でひゃっきまるさんのとのお話は有意義に感じています。(勿論みれいしゃんともね。(^-^))

> トラバ、すぐできなくてハラハラしましたが、出来ててよかった。

 TBはseesaaに引っ越してから変なのがよく飛んでくるので承認制にしちゃいましたから、こちらで許可しないと反映されません。汗
 不在時など(今回もw)は承認が遅れ申し訳なかったです。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2006年01月18日 14:18
ひゃっきまるさんへ

http://jbbs.livedoor.jp/sports/20126/

ここに貼っておきます。
もしよろしければ来てください。
他の方もいろいろ教えてくださいね。

わめさん、
伝言にお借りしました。
ペガサスさんも出張から帰ってきたらペガサス掲示板で法華経講義してくれそうです。
それまでに予習せねば。ドキドキ。
Posted by みれい at 2006年01月21日 00:10
みれいさん、わめさんこんばんは。

みれいさん曰く(於ペガサスさんの掲示板):
>情報通Leoさんに聞いたら、寺泊御書は、S学会ではやっていないんじゃぁないかという話も。
>こりゃぁペガサスさんに教わりにこなきゃ、と思いました。

Leo曰く(於わめさんの掲示板):
>創価学会教学部編 『教学の基礎 ◇仏法理解のために◇』聖教新聞社、2002年
>などでは「寺泊御書」に触れられてないです。

少し説明しますと、「寺泊御書」は完全にやってないとか無視しているわけでなく※、
最近の『教学の基礎』(入会者や任用試験受験者が読むと思われるテキスト)で全く触れられてないぐらい
「影が薄い」のではないかということです。

※たとえば、池田氏は「寺泊御書」の講義をしたそうです。

□ 随筆 新・人間革命 222 法悟空「新世紀の電源地・埼玉」
http://knight-1.s3.xrea.com/zuihitu-222.html
「私が講義した御書は、次のような諸御抄であった。
 「日厳尼御前御返事」「佐渡御書」「治病大小権実違目」「聖人御難事」「如説修行抄」「松野殿御返事」
 「生死一大事血脈抄」「三大秘法禀承事」「阿仏房尼御前御返事」「日女御前御返事」「寺泊御書」などである。
一回一回の真剣な講義が、同志の勇気の源泉となり、人間革命の力となり、世界広布への絶大なるエネルギーとなっていった。」

1987年、池田氏の指導で「寺泊御書」が引用されたことがあります。

□【東京・豊島、台東、墨田、目黒合同総会 1987-12-12 創価文化会館】
「日蓮大聖人の御在世当時には、信心の大きな組織はなかったと思われる。信徒の数も限られており、本格的な意味での「組織」は必要なかったのであろう。
 しかし、大聖人は、今日の組織のあり方、意義等を照らし出すような御文を随所で述べられている。
 例えば、「寺泊御書」には、「心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし」(951頁)との有名な一節がある。
 妙法を信じ、広宣流布への“志”をもち進む人達は、一処に集まって、法義を聴聞しなさいとの仰せである。
 広布への尊い“志”も、なかなか一人で堅持していくことは難しい。そこで、皆で集まって、仏法を研鑽し、励まし合うことが大切となる。」

あと、『大白蓮華』で「寺泊御書」が触れられていたことが、ここ10年内であったかどうか?あったような気もしますが
記憶が定かではありません。
いずれにせよ、ご指導ではどの御書を引用しても、「同志の勇気の源泉となり、人間革命の力となり、世界広布への絶大なるエネルギー」
になってしまうので批判や反省にはならないようです。
(「一処にあつまりて御聴聞あるべし」を「組織」論にしてしまうコジツケもみられますし...)
Posted by Leo at 2006年01月21日 23:23
創価学会教学部編 『教学の基礎 ◇仏法理解のために◇』聖教新聞社、2002年
についてのウラ話。

私が勉強したのはもっと古い版の『教学の基礎』でした(仕舞い込んでしまったので手元にないです)。

以前、私が日蓮宗の直人(なおひと)さん(ROCKさん)(創価学会員の誰よりも創価学会に詳しく
創価学会の資料をほとんど所持している方?!)に創価学会は会員間でも理解が違うし
時代によって教学がかわるから定まった教義がないのではないかと掲示板でいったところ、
「創価学会教学部編 『教学の基礎 ◇仏法理解のために◇』聖教新聞社、2002年」
が基本ではないかと指摘貰いました(!)。

日蓮宗の方から教わるというのもヘンですが、外部の方の方が逆によくわかるという
ことなのでしょう。
Posted by Leo at 2006年01月21日 23:48
Leoさん、さらなる詳しいフォローありがとうございます。
さすがっ。
そして私もちょっと早とちりしました。

>いずれにせよ、ご指導ではどの御書を引用しても、「同志の勇気の源泉となり、人間革命の力となり、世界広布への絶大なるエネルギー」
になってしまうので批判や反省にはならないようです。

まったくですね^^;

>「創価学会教学部編 『教学の基礎 ◇仏法理解のために◇』聖教新聞社、2002年」
が基本ではないかと指摘貰いました(!)。

新しい本なのですね。実家の学会関連本、全部学会員さんにあげてしまったけど、その中にあったのかしら。

>外部の方の方が逆によくわかるという
ことなのでしょう。

えてしてありえますね。

Leoさんもペガサスさんのところ見てるなら、
御書と焼酎持ってぜひ参加されてください(^^)
Posted by みれい at 2006年01月22日 00:40
みれいさん、わめさん こんばんは。

>Leoさんもペガサスさんのところ見てるなら、
>御書と焼酎持ってぜひ参加されてください(^^)

お声がけありがとうございます。
ペガサスさんのところ最近見てみました。
なぜか重くてみれない日があるのと、書き込みにはMSNのIDがいるのですね。
MSNのIDは何ヶ月か使わないと消失してしまうのでLeo向けでないかも。
(以前ID持っていたのですが消失しました)
残念だなあ。
Posted by Leo at 2006年01月23日 22:36
Leoさん、みれいしゃん、こんにちは。^^

> MSNのIDは何ヶ月か使わないと消失してしまうのでLeo向けでないかも。

私も半年以上書き込んでいないからID消失かもw(ノ゜凵K)ノあうぅ!!
Posted by わめ at 2006年01月24日 15:58
わめさん、みれいさん こんばんは。

MSNのIDってhotmailのアカウントのことですね。
仕方ないので(?)、わめさんの掲示板にカキコしてみます(?!)。
Posted by Leo at 2006年01月25日 21:49
わめさん、Leoさん

MSNはそうなんだ〜
私も時々重いせいかMSNの画面が真っ白で入れません。

アカウントはMSNメール使っているから大丈夫かな・・・

Leoさん、やはりわめさん掲示板で続けましょう。というか教えてください。
宜しくお願いします。

ペガサスさんもさっそく自掲示板で日蓮考察をはじめてくださってます。さすが元「仏教の源流」主。歴史を辿る旅。
あまり他の掲示板に移動しないペガサスさんですが(旅人なのにあまり足跡はつけない。仙人か)、わめさん掲示板にちょっと遊びにきてくれないかなw
Posted by みれい at 2006年01月26日 13:00
 宗教はやっぱり好きになれないと言い切れるアナタが羨ましい。きっと、神も、仏も必要ないからでしょうね。私など、一時も、と言うか、一刻も、信仰なしでは居られません。宗教は、罪人だから必要と言われます。犯罪歴は有りませんが、無数の生き物を殺めてきた私が、今も生きていて、少なくとも『感謝』という観念が染み出して、そこに信仰心が芽を出している。そんな感じ。
Posted by 羨ましい at 2007年01月08日 20:39
 羨ましいさん、こんばんは。^^
 って「羨ましい」がハンドルネームではないのでしょうが、他に呼びようがありませんので羨ましいさんと呼ばせて頂きます。<(_ _)>

 私にとってもっとも必要に感じるのが周囲の方の笑顔なのかもしれません。

 そのように思う私なのですが、私の周囲には信仰(宗教団体含む)によって苦しんでいる方が沢山おられます。
 また苦しみや悲壮感から逃れるため、信仰に縋るような方も多いようです。
 そのような周囲の方達ではありますが、私からすれば信仰を離れたほうが笑顔になれる方が多いのじゃないかと思えるのです。
 ですので笑顔を奪う宗教・信仰は好きになれないのです。

 もちろん信仰により救われている方もいるのでしょう。
 そのような方には素敵な笑顔がありますし、そのような方を見る時、信仰も捨てたもんじゃないと思いますが、誰しもがそうなれるわけじゃなく、むしろ信仰があるが故苦しむ方のほうが多いように感じるのです。

 ですので単純に申せば周囲の方の笑顔を奪うものを私は好きになれないのです。

 また周囲の方の笑顔を奪うという意味では、ねずみ講まがいのマルチ商法などもあり、これはネットでも広がってきていますが、これらに迂闊に手を染める方達も多く、気が付いた時には家族・親戚、友人知人等との人間関係が壊れ、仕事など辞めてしまった方は経済的にも大変な思いをされて苦しんでおられます。
 私はこのような周囲の方の笑顔を奪うねずみ講まがいのマルチ商法は大嫌いで、Enjoy系ブログ・掲示板を起こす以前からやっている他ブログ・掲示板等で警鐘を鳴らし続けております。

 それ以外にもいくつかやっておりますが、ともかく周囲の方の笑顔好きな私ですのでこのような記事、コメントも書いたりしています。

 羨ましいさんへのお返事に長々コメントを書いてしまいましたが、私は私、あなたはあなた、何が正しいのかどうかなんて誰にもわからないのですから、あなたはあなたの思う方向に進まれればよいように思います。

 羨ましいさんが、充実した人生を送られることを願います。
Posted by わめ at 2007年01月08日 22:58
はじめまして。
宗教の功罪で検索して此処に来た者です。
宗教に詳しく無いので難しい事は分かりませんが、私が思う事を率直に書いてみます。
歴史のある宗教は教祖?(広い意味で)がそれまでの生活等から得た経験からその地域やその時点での
社会では多くの人が幸せになれるのではと考えた事を話した(文章にした?)だけと私は思っています。
それが、その時点での考えが一人歩き、もしくは利用されているのが現在の宗教ではないでしょうか?
その為、弊害の方が多くなってしまっている?現実があると私は認識しています。
Posted by 俺様教? at 2007年01月28日 19:28
 俺様教?さん、初めまして。^^

 あなたの宗教の功罪についての見解には、私もその見解の大半に頷けました。

> その為、弊害の方が多くなってしまっている?現実があると私は認識しています。

 弊害の方が多くなってしまっている原因として、そのような宗教を完全な教えのように信じ込んでしまうような信仰者側の思考、またそのように刷り込んでいく宗教団体側の指導体質にも大きな原因があるようにおもいます。
Posted by わめ at 2007年01月29日 15:02
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