2005年12月07日

テーラワーダ仏教で言う障害者

 今回は『今、創価学会に思うこと 01』のコメント欄でLeoさんがリンクと引用くださったテーラワーダ仏教の『【48】 慈悲の冥想(続き)/業と障害者』について、わめの意見を書いてみたいと思います。

 その前にお断りしておきたいのが、この記事を書くに当たって「障害者」と言う言葉を何度も使わないといけないことで、これは一般的に便宜上使われている言葉で差別用語ではありませんし、わめもそのように理解して使っておりますしここでも使わせていただきます。

 ですがどうもテーラワーダ仏教の『【48】 慈悲の冥想(続き)/業と障害者』では差別用語としてこの言葉が使われ
完全な悟りを開いた人のみを『健常者』と認定することが出来る
と書かれ、決め付けているように思えるのです。
 
 
 まずは『【48】 慈悲の冥想(続き)/業と障害者』から一部引用します。

障害者、健常者という二つに分けて考える思考自体が、傲慢で差別的ではないでしょうか。

 ここで”二つに分けて考える思考自体が、傲慢で差別的ではないでしょうか。”とありますが、わめは差別的と考えてしまうところに差別はあるように思うのですが、障害者福祉に関して言えば便宜上区別するのは当たり前のことで、そのどこに差別意識というものがあると言うのでしょう。
 また一般的にも分けて使う場合は、旅行などで車の乗降や宿泊先にスロープはあるか段差は問題ないか、専用のトイレがあるかなどのその配慮のために使う場合がほとんどだと思います。言わば思いやりの心です。
 だから先程の”差別的と考えてしまうところに差別はあるように思う”と書いたのです。思いやりの心を持たない方がこのようなことを思ったり言ったり書いたりしてしまうのではないかと思うのです。もちろん例外もあるでしょうが、例外ではないと思えるのが”完全な悟りを開いた人のみを『健常者』と認定することが出来る”とのテキストです。これは明らかに差別的な言葉の使い方ではないでしょうか。
 この”完全な悟りを開いた人のみを『健常者』と認定することが出来る”と言うことであるならば、それ以外の人はみんな障害者と言うことで差別し、一般的に便宜上使われる言葉の健常者・障害者を平等に扱うとの解釈には賛成できますが、この両者を”完全な悟りを開いた人”から差別して非難されているように思えますし、障害者を障害者としてハッキリ貶めていることは明らかです。

 障害者の何が悪いのでしょう?
 これを書かれた方はどれだけ多くの障害者の方と語り、どれだけ多くの障害者の方の事を知っていると言うのでしょうか?

 『あなたより劣る人が障害者なのでしょうか?』この言葉を何度も何度も繰り返し投げかけたいです。

 障害者を不幸な人と決め付けるのはやめてほしいです。そりゃ心身のいずれかに障害を持ってますからそのギャップはあるかもしれませんが、そんなギャップは健常者も負けないくらい持ってます。

 むしろギャップを補うだけの、否それ以上の素晴らしい心とか感性とか並外れた能力を持っておられる方が沢山おられるのです。
 先程書いた旅行ひとつでも、健常者は障害者に配慮したりもしますが、障害者の方だって旅行の日程や行程・道順などを組んでくださったり、その配慮たるや健常者の及ばないくらいの細やかさがあったりする場合もあります。

 これももう一度言いたい。”差別的と考えてしまうところに差別はあるように思う”のです。

 そのような心でどれだけ綺麗ごとを言おうと、また”完全な悟りを開いた人”を持ち上げようと、それはその方の差別意識が生んだ妄想としか思えません。

 最後にもう一個引用します。

障害者の仲間なのに「君、障害者でしょう」と仲間を指すこと自体が、たちの悪い冗談でしょう。

 「君、障害者でしょう」というありもしない人を妄想して、たちの悪い冗談は言わないでください。

追記

『【48】 慈悲の冥想(続き)/業と障害者』で書かれていることは、テーラワーダ仏教でその教えを行じ、”完全な悟りを開いた人”になってもらいたいとの思いで書かれたことではあると思うのですが、障害者を”不幸な人と決め付けて”健常者も障害者と同じであるとして、健常者・障害者とを二つに分けて考える思考自体を差別意識とし批判しているのに、”完全な悟りを開いた人”とそれ以外の人とを二つに分けて考える思考自体(これも差別意識でしょ?)は肯定しているようで、そこに矛盾(差別はいいのか悪いのかどっちだ?)があると指摘したかったのであって、テーラワーダ仏教そのものを批判しているわけではありませんので追記しました。
posted by わめ at 21:58| Comment(34) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
悟ってない人は、頭が悪い人に分類されます。
頭が悪い人ってのは、それこそトンジンチに酔っ払っている人。ヤクチュウと同じ扱いなのですよ。
せっかく悟れるチャンス、ヤクブツから独立できるチャンスがあるのにね。
それゆえに、ヤクチュウの人に対して慈悲の心を持って脱出法をおしえているわけですよ。わたしもちょっと前まではヤクチュウだったんだ。でも今は立派に更正しましたよと。
つまりは、禁酒会とかと一緒ですよ。仏教はね。
馬鹿にしているっていうか、まぁ、しようがないでしょ。ヤクチュウなんだから。しっかりしろよという気持ちでしょう。

Posted by というか at 2005年12月08日 00:05
わめさん、こんばんは。

他の記事では場違いなので控えさせていただきましたが、こちらの記事は関連ということでよろしいでしょうか。
わめさんが『【48】 慈悲の冥想(続き)/業と障害者』に納得しないように私は創価学会の「宿業論」に納得しません。
(「宿業論」だけでないのですがそれは別の機会に)
元気な方が「宿業論」で逆境を開くというということはあると思いますが適さない場合があると思います。
Posted by Leo at 2005年12月08日 00:16
というかさん、コメントありがとう。

Leoさんじゃないけど、というかさんのコメントから盲信学会員のことを連想してしまいました。汗

でも信仰も使いようで役に立つと言うことを改めて教えていただけたように感じます。^^


Leoさん、創価学会の「宿業論」ならやっぱあっちの記事がいいのじゃないかな?w汗
Posted by わめ at 2005年12月08日 00:28
わめさん (^^;

>Leoさんじゃないけど、というかさんのコメントから盲信学会員のことを連想してしまいました。汗

”盲信と考えてしまうところに盲信はあるように思う”

”カルトと考えてしまうところにカルトはあるように思う”

”邪教と考えてしまうところに邪教はあるように思う”

ということなのかなと最近思うんです。
Posted by Leo at 2005年12月08日 01:22
(ノ´▽`)ノオオオオッ♪

それは”思い込み”と言うことだと思います。
Posted by わめ at 2005年12月08日 01:46
慈悲の瞑想48を読みましたけど、これって業の間違った解釈で障害者を差別している人達に対する話ですね。

アジアでは、間違った業論で障害者の人達を差別する人々が多いみたいです。






Posted by ナマズ at 2005年12月08日 03:14
わめさん
 僕がここへ書き込みをしていいものかどうか迷ったのですがなるほどこういうことがあったのですね。そこでリンク先のスマナサーラ長老の記事を読んでみました。特に最後の段ですね。言わんとすることを文字に書くのは難しいし、ある人の話し言葉を別の人がテキストとして掲載する際の慎重な配慮の必要性を感じました。確認の為に長いですが今一度引用します。

----------以下引用
★健常者とは誰ですか。真理に目覚めず、欲に溺れて智慧の目が開かない人々は皆、知識の、智慧の障害者です。俗世間の基準で、貪瞋痴の基準で、「私は健常者、あの人は障害者」と決めてよいのでしょうか。完全な悟りを開いた人のみを『健常者』と認定することが出来るのです。障害者の仲間なのに「君、障害者でしょう」と仲間を指すこと自体が、たちの悪い冗談でしょう。
引用終わり----------

 最初のワンセンテンスはあくまで世俗諦での話をしています。そして次は勝義諦にジャンプしています。しかし僕が思うに「完全な悟りを開いた人のみを『健常者』と認定する」というのは「完全な悟りを開いた人のみを『知識の、智慧の健常者』と定義する」と言うべきであると思いました。『健常者』に『知識の、智慧の』と形容詞をふることによって、そして「認定する」と長老が話しているパーリの原語がなんなのか分からないのですが「定義する」と置き換えることによって文脈自体が世俗諦に留まることになって 勝義諦> 世俗諦 というような上から見下ろす権威主義的表現から離れ、世俗諦にいる我々が努力して目指すべき勝義諦、つまり 勝義諦:世俗諦 という他者を歓待出来る文脈になります。「悟りを開いたかどうか」よりも「悟りを開く努力する」ことを薦め、そのために自己反省から未来を選択していくのが仏教であり、少なくとも同様の上座仏教である説一切有部の思想からはそう読み取ることが出来るし、そうでなければブッダの「わたしは僧団のみなさんを導いているなどと思ったことはない。悟った人に教師の握り拳はない。(非大乗系涅槃経群にみられるアーナンダへの遺言)」というブッダの論理は成立しないと思います。

 そして最後の「障害者の仲間なのに「君、障害者でしょう」と仲間を指すこと自体が、たちの悪い冗談でしょう。」というのは長老のPodCast法話を比較的よく聞いている僕から推測すると「自分だって貪瞋痴にまみれた知識の、智慧の障害者なんだから、身体の不自由な方を指して「君、障害者でしょう」と言うのはあまりにタチの悪い冗談でしょうに。」という感じの長老の話し言葉だと思うのですが、法話ではないテキストを掲載するサイトでその話し言葉をそのままに載せてしまうスタッフの配慮の不足を感じます。そう思うと長老の「認定する」という自動詞がパーリ語と日本語の文法の違いによるもので「定義する」という意味になるパーリ語であるか、あるいは上から下へのモノイイのパーリ語ではないことを願うばかりなのですが、『健常者』に『知識の、智慧の』と形容詞をふるほうが誤解がないということと最後の無造作な話し言葉のテキスト化についてを含めて、このエントリでの話題と EnjoyLife BBS での話題をテーラワーダ仏教会の ajita さんにメールで聞いてみようと思います。では。

********
生きとし生けるものが幸せでありますように
Posted by くまりん at 2005年12月08日 03:24
ナマズさん、こんばんは。^^

> 慈悲の瞑想48を読みましたけど、これって業の間違った解釈で障害者を差別している人達に対する話ですね。

そうだと思います。
実はわめもボランティアやっている時に、我々は肉体に障害はないかもしれないが精神的には誰もが障害を持つ者、決してボランティアをしてあげてるなんて気持ちではいけない。
障害を持つ方やその親御さんや、行政の担当者(ホントのプロが多い!)から何かを学び取るためのボランティア活動だと言ったりしてました。

ですのでここまでは同じ気持ちなのですが、たとえ仮想的な完全な悟りを開いた人(いないとして)であっても、そうでない人とを差別することには違いないしそうでない人を貶めることにもなるし、”完全な悟りを開いた人”への妄想を生むようにも思いますので納得ができないのです。

> アジアでは、間違った業論で障害者の人達を差別する人々が多いみたいです。

なるほど。^^
でもそれを文化の違う日本にそのまま持ってきてはいけないと思います。
Posted by わめ at 2005年12月08日 03:35
ああw 書き込みしたら先にくまりんさんが書いてくださってた。汗
ありがとうございます。

くまりんさんのコメントをよく読んでお返事します。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2005年12月08日 03:36
>なるほど。^^
でもそれを文化の違う日本にそのまま持ってきてはいけないと思います。

日本にある信仰仏教団体やカルト団体などは間違った業論で差別する事が多々あるから、そういう人達には知識として知っといてほしいかな。






Posted by ナマズ at 2005年12月08日 03:48
こんにちは。
もう12月、早いものですね。^^

慈悲の瞑想48 スマナサーラ長老のお話ですが、
わたしはなんにもひっかからず、すっと読めました。

いいお話だと思ったのですが・・・

私は何も知らないで書いているかもしれません。

宿業、なんだか重たい響き。
身内からでも、「業やね」などといわれたら
いやですねん。。。

最近は「いまここ」という感じで生きてます。
今できることからひとつずつ、です。^^

人生経験が乏しいので、深いお話を読みながら
けんめいに頭を使ってます。(^^ゞ




Posted by 葉末 at 2005年12月08日 11:26
葉末さん、お久しぶり〜o(^^o) (o^^o) (o^^)o キャアキャア♪

葉末さんの言うように、素直に拘りなく読めばそのとおりだと思います。^^

わめみたいに拘って読んじゃうからいけないのかな。笑

母親が子供の通学・通学路を目を皿のように徹底的に問題ないか検証しているようなものかもしれません。爆
こんな小うるさい親に育てられたら子供はどうなっちゃうんだろwヾ(_ _。)ハンセイ…

> 宿業、なんだか重たい響き。
> 身内からでも、「業やね」などといわれたら
> いやですねん。。。

 わめは本来の仏教は業を説いてなくて、人々からその業のイメージを払拭するために業についても語っている部分があると思っているのですが、そうとも言えない部分もあるようで何でも都合よく解釈してしまうのもよくないのかなと思ったりもしていますが、少なくとも業で縛り付けるといったことは本来の仏教にはなかったことのように思います。
 思い込みを生みやすいモノ・コトはやっぱり怖いですね。

> 最近は「いまここ」という感じで生きてます。
> 今できることからひとつずつ、です。^^

思い込みや拘りを生じない生き方のようで( ̄▽ ̄)b グッ!
Posted by わめ at 2005年12月08日 12:01
わめさん、お元気そうでよかった。
とってもいいお父様だよ。^^

母は、つらい悩みを業のせいにしたほうが「楽」という考えなのですよね。
そして信仰でがんばる人です。
こういうのには、何も言わないけど。
ただ、他人に対しても業がどうのと
差別意識があるように見えるところ
が嫌いです。←宗派の教義のせいだね?!

私は、業など無視。
できるだけ現実に動いて、努力してがんばる
(その代わり結構諦めも早いョ。)
という考えになったころから、このほうが楽だ!
と思えるようになりました。

ブログ楽しみにしています。








Posted by 葉末 at 2005年12月08日 13:35
葉末さん、お返事どもです。^^

> とってもいいお父様だよ。^^

アリガト!(´▽`) でもお父様じゃないもんw汗(お母さんとかオカマって意味でもないよw爆)
ってこの話題はお返事禁止。笑

> 母は、つらい悩みを業のせいにしたほうが「楽」という考えなのですよね。
> そして信仰でがんばる人です。
> こういうのには、何も言わないけど。

(*゜ー゜)(*。_。)(*゜ー゜)(*。_。)ウンウン

> ただ、他人に対しても業がどうのと
> 差別意識があるように見えるところ
> が嫌いです。←宗派の教義のせいだね?!

とも言えるし、そのお母さんの信じ方でもあるとも言えそうです。( ̄ヘ ̄;)ウーン

葉末さんの楽っていいですねぇ^^

わめも毎日楽しんでますよ〜ニコッ (゜▽゜)v(゜▽゜)v o(゜▽゜)o イェーイ!!
Posted by わめ at 2005年12月08日 14:43
 くまりんさん、範囲を広げてしまって取り留めのないわめのコメントになりましたが、ご理解(同意という意味ではありません)頂ける部分もあるかと思います。

 今回取り上げた『【48】 慈悲の冥想(続き)/業と障害者』から独見で感じ取れることを箇条書きのようになってしまいましたがご容赦ください。

 『瞬間瞬間、全てのものが変わっていくのです。命も生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで止まることなく変わっていくのです。』など、暫定真理であり動かすことのできない”私達が住む世界に限られた事実”であると思いますからいいと思いますが、『業はその無数の因のなかの一つです。』や『真理に目覚めず、欲に溺れて智慧の目が開かない人々は皆、知識の、智慧の障害者です。』などは、いいことを言っているとは思いますが、”知識の、智慧の障害者”や”業”についての一つの解釈の見解(定義?)にしか過ぎないと思います。”真理に目覚めず”も、テーラワーダ仏教の教えが真理(勝義諦?)を説くと言いたいようですが、これも真理であるかどうか分からないことであって”真理”の一つの解釈の見解(定義?)でしかないように思います。わめは真理と呼べるものを知らないしそれは一体何かと問いかけと誰もが反証が尽きるようなお答えをお願いしたいです。
 ただこれが方便とか巧みな手立てなどであるならその説明は必要ないとは思いますが(説明してしまっては元も子もないw)、少なくとも断定的に語るのはどうだろうと疑問に思いました。


 次に、テーラワーダ仏教の教えを説く(広める)ことが目的であったとしても、人間に語りかけているはずなのにこのテキストに登場する”健常者・障害者”に人間(日本の風土に育った)の匂いを嗅ぎ取ることができないのです。
 健常者も障害者もみんなこの時を生きてるんだぞ〜って、自分なりには精一杯生きているかも知れないんだぞ〜、人を語るならちゃんと私達のことを色眼鏡をかけないでしっかり見た上で書いてくれよと思う人がいるかもしれない。少なくともわめに関わりがある人がこのテキストを読めば、そのように感じる方は少なくないのではないかと思うのです。


 これはくまりんさんがコメント下さったことと重複するかもしれませんが、テーラワーダ仏教で悟りを開くことを最重要とされるのも分かりますし、自らが信じることが最勝であると思う気持ちもブッダの教えを正当に受け継いでいるとの思いも理解できますが、そうは思わない他者に対してその思わないことが誤りであるとの断定・前提の元で書かれたテキストのように感じますし、何が正しいかという思考(ブッダの教えが正しいか否かも)をしばらく停止して、様々な生き方が人にはあるということや、そのそれぞれの生き方が”悟りを開こうと努力する人以外”はすべて愚か(貪瞋痴にまみれた人)であるなどとの思い込み感情は捨てて(そのような思い込み感情があるように感じましたので)”認めていかなければならない”のではないでしょうか。くまりんさんがよくおっしゃっている”他者を歓待”と言うことにも、このような心の様も含まれているようにも思ったりします。

 今回は記事で書いたこととは少し違ったことを書いてしまいましたし、くまりんさんへのお返事とも言えなくなってしまったかもしれません。涙

 あっと、最後の『障害者の仲間なのに「君、障害者でしょう」と仲間を指すこと自体が、たちの悪い冗談でしょう。』の真意はわかっていた”つもり”です。ですが、記事で書いたようにそのようなことを言う人間(日本の風土に育った)は、見たことも聞いたこともなくていたとしても極少数であろうと思い、このたとえ自体が意味を成していないように思ったのです。

 わめなら『(健常者も)障害者の仲間なのに障害者に何かをしてやろうなんて何様のつもりで考えるのは、たちの悪い冗談でしょう。』となります。でもナマズさんからアジアと日本では文化・風土の違いがあるとの指摘を受け、今はそれを考慮せずそのまま日本語(直訳?)にしてしまったことに問題があるとの見解に変わっております。
Posted by わめ at 2005年12月08日 14:48
>でもナマズさんからアジアと日本では文化・風土の違いがあるとの指摘を受け、今はそれを考慮せずそのまま日本語(直訳?)にしてしまったことに問題があるとの見解に変わっております。

僕も長老の真意がどうあるかわかりませんので、テーラワーダ協会に聞こうと思ったのですが、くまりんさんが聞いてくれるみたいなのでやめときました。
Posted by ナマズ at 2005年12月08日 18:18
くまりんさん、わめさん、皆さん こんばんは。

くまりんさん解説ありがとうございます。

>最初のワンセンテンスはあくまで世俗諦での話をしています。そして次は勝義諦にジャンプしています。
>しかし僕が思うに「完全な悟りを開いた人のみを『健常者』と認定する」というのは「完全な悟りを開いた人のみを
>『知識の、智慧の健常者』と定義する」と言うべきであると思いました。

「勝義諦」と「世俗諦」の違いということがあるのですね。

>勝義諦> 世俗諦 というような上から見下ろす権威主義的表現から離れ、世俗諦にいる我々が努力して目指すべき勝義諦、
>つまり 勝義諦:世俗諦という他者を歓待出来る文脈になります。「悟りを開いたかどうか」よりも「悟りを開く努力する」ことを薦め、
>そのために自己反省から未来を選択していくのが仏教であり

そのようなことであれば納得できます。

>そうでなければブッダの「わたしは僧団のみなさんを導いているなどと思ったことはない。悟った人に教師の握り拳はない。
>(非大乗系涅槃経群にみられるアーナンダへの遺言)」というブッダの論理は成立しないと思います。

「教師の握り拳」、つまり「権威」とか「秘密の相承」などないということなのですね。
(「大パリニッバーナ経」読んでみます...)
Posted by Leo at 2005年12月08日 23:18
いや、悟ってない人は不幸な人ですから。
それが仏教の定義ですから。
定義なんだから仕方ないですよ。
一切皆苦は、仏教の基本です。
涅槃寂静にいたらなければ不幸なのです。

悟ってなくても幸せですというひとには、何も教えようとしないんじゃないですか?無理だもん。
いわゆる縁なき衆生ですよ。

大乗はおせっかいですから無理やり祈服するかもだけどね。
小乗(失礼)は、通りすぎるだけでしょう。

権威に反発するのは結構だけれど、真理は真理ですから。信じようが信じまいが。

それを信者だとか洗脳されているとか考えるのも自由なわけで、それゆえにいろんな宗教があるわけです。

ヤクチュウは幸せですよ。ヤクさえ続けば。
禁断症状がでなければすっごく幸せ。
正気じゃないときに、もうやめろというのは、まぁ無理でしょ。そんなもんです。

Posted by とゆーか at 2005年12月08日 23:54
ナマズさん、Leoさん、とゆーかさん、コメントアリガト!(´▽`)

と、(*^o^*)オ (*^O^*)ハ (*^。^*)ヨー!!  さっきまで寝てました。爆
Posted by わめ at 2005年12月09日 00:40
とゆーかさん、こんばんは。

仏教って一種の哲学のようなもんで、そっちが不幸でこっちが幸福ということはいってないようなんですが。
どうしてそのような解釈が生ずるのか疑問なところです、というかそういうお考えなのですね。

たとえば くまりんさんはこのようなことを仰っていました。これは考えさせられますね。
「人は縁起という真理を知り、無明と記号化された根本的生存欲への無知とその制御を知って
 人は自己自身の我が身の無常に深く頷きまた人生の苦を我がこととして深く味合うことが出来るようになります。
 そしてその時始めて人はまた他人の痛みを明確に我がことになぞらえて意識し、
 自発的な他者に対する慈悲が現れると考えるのです。
 理想は確かに「始めに大悲ありき」の他者との関係優先の思想でしょう。
 しかし悲しいかな人間はそんなに良くは出来ていません。
 だからこそ自分を戒め自己反省の時間の先頭に立って未来を選択し峻別することで他者に応えていくしかないんです。」
Posted by Leo at 2005年12月09日 00:43
はじめまして。

くまりんさんのブログから飛んできました。

「業と障害者」の件、僕も、とゆーかさんくらいの理解でさらっと読んでいました。「業」の思考って、いったん受け入れちゃうと健やか仏教ライフのお供になるんですけど、僕も受け入れる前はけっこう引っかかっていたことを、はたと思い出しました。うーん、あんときは、一体何にひっかかっていたんだろーか…。

その辺の配慮って必要かもしれないですけど、あんまりまどろっこしくしちゃうと文章のインパクトがそがれちゃうので…。ちなみに『パティパダー』への寄稿は長老ご本人がぜんぶチェックされてます。日本に25年以上いらっしゃるから、その辺のアンちゃんとは比較にならないほど、日本語も日本文化も精通されてます。

あと、アジア仏教びいきから見てちょいと気になるのが、

> アジアでは、間違った業論で障害者の人達を差別する人々が多いみたいです。

とゆー言説。別になんの悪気もないんでしょうけど、「(前近代の)悪しき業論を克服した日本人」という変なプライドが見え隠れしてるよーな気がしちゃうんですけど…。

少なくとも、「親の因果が子に報い…」みたいなメチャクチャな業論は、日本の江戸時代(あるいは明治の似非前近代?)のサブカルチャーにしかなかったと思います。逆にいえば、近代以降の仏教排斥の流れ(現代もその延長線上でしょうね)のなかで、「江戸時代のサブカルチャー」で勝手に勘違いされていた業論しか、日本人は知らなくなっちゃったんじゃないでしょうか? 

そーゆー日本の特殊事情を、特殊な方法で「克服」した日本仏教が、いきなりアジア仏教を見下してトップランナー気分になっちゃうのって、どーなんでしょうか?僕はアジアの人が「業」の思想で他者を差別してるのは見たことないなぁ。むしろ、民族とか宗教とか人種とか、近代化以降に持ち込まれた概念(見)によって、悲惨な差別が起こってるという気がします。

日本の仏教徒(仏教インテリ)の差別意識が強くなっちゃったのも、むしろ近代化によって持ち込まれた「ものさし(見)」を対象化しきれてないところに問題があるんじゃないでしょうか?

仏教を純化するつもりで、実は外来思想との「習合」に一生懸命になってた生き様ってのが、全然わかってないとゆーか…。

ちょっと脱線しましたが、業の思考は「身につけば」差別意識はむしろ消えていくと思います。経験的にも、いまだ「見」が先に立って一部の人間(主に仏教徒…)と時々ぶつかっちゃうのを除けば(苦笑)、生きものをいつくしむ気持ちとゆーのは、すごく強くなったと思います。蚊だって猫だって餓鬼だって神々だってねぇ、業で身体が変わってるだけですから。自分の眼耳鼻舌身意を通して作った世界のなかで、自分の仕事してるだけ。だったら、能力の範囲で悪いことはやめて、よい行いをして、幸せになって欲しいです。

生きとし生けるもの、自分の業で変な身体作っちゃって作り続けてるのは一緒だから、やっぱ智慧のまなざしで見たら『障害者』じゃないでしょうか?

いちお、生来の知識人間だからいつも経典(増支部あたりをぐったらぐったらと…)に立ち戻って、間違ってないかチェキしてますが、お釈迦様が業を語る言葉の自然さといったら…、ほんとただ当たり前のこと言ってるだけのように印象を受けます。

「とにかく差別したい」という俗情に巻き込まれてしまえば、どんな「見」でも同じことじゃないでしょうか。人間に差別すんなというのは、魚にむかって水で泳ぐな、と命令するくらいたいへんなことですよ。でもやってみなさいと、お釈迦様は仰ってます。差別を止めることが幸福への道だと。

「業」はパーリ経典をおおむね仏説とみなす立場をとればブッダの言語セットにガッチリ入ってくるので、誤解しようとすると安全装置が働くようになっているようです。だから仏道修行に役立つと、僕は実感しているのです。

では、お幸せでありますように。
Posted by ajita at 2005年12月09日 02:08
ajitaさん、初めまして。^^

曽我さんとのやり取りは拝見させて頂きました。

くまりんさんから連絡を入れて頂いたとはいえ、わめのブログにコメントを頂けるなんて光栄至極に存じます。

よろしければこれをご縁とし、これからもよろしくお願いいたします。m(_ _"m)ペコリ
Posted by わめ at 2005年12月09日 03:09
agitaさんはじめまして。

> アジアでは、間違った業論で障害者の人達を差別する人々が多いみたいです。

この前読んだ本に(物乞うブッタ)に書いてありましたので。

上座仏教の盛んなアジアでも間違った業論で差別するんやっていう驚きがありました。

この著作者の方はあまり仏教に詳しくないようです。

しかし、実際に現地にいって自分で確かめないと
いかんですね。

本やネットで見る限りは、僧に対する悪い評判が多いもので。

これも日本人からみる偏見からとうしてみてるからかな(葬式仏教の方々)



Posted by ナマズ at 2005年12月09日 05:44
Leoさんへ
えー?そこで引っかかるの?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6
仏教の基本中の基本ですよ。
四(三)法印、四諦、八正道は。

これ以外は全て枝葉末節、詳細に説明されたものであったり、人に応じて説かれたものであったり。証明のための説明であったり。

くまりんさんの言説はそれはそれでいいんだけど、別にそれが本質的に仏教そのものだというほどの価値を感じません。アダプテーション(適応)の一例でしかないですね。

天人が人間より不幸なのは、幸せすぎるために、仏説を理解できないからなのです。ゆえに人間のほうが天人より幸せであると仏教は説くわけです。

世俗的な意味での幸せ度からいうと、梵天、神々(天人)、人、畜生、餓鬼、地獄というランキングわけがありますが、いずれにせよ、絶対的な意味で幸せといえるのは、涅槃のみであり、三界にはないというのが仏教の基本的な世界認識です。議論の余地はありません。

輪廻を信じないというのなら、また別の説明をする必要がありますが、正直いって仏教信じる意味はほとんどないでしょう。くまりんさんの意見のようないわゆる普通の道徳律を実行しようとする動機は輪廻転生を認めることから始まります。

どうせたかだか人生80年ということを認めたうえで、個人の極限の快楽の(幸福の)追求を行うような刹那的な人生観に対して仏教のロジックだけでは説得できないのです。

Posted by とゆーか at 2005年12月09日 18:50
とゆーかさん、こんばんは。

レスありがとうございます。

とゆーかさんは独特のトークで真理をさらりと語っておられるのかもしれないと推測しますが、
私にはつかめないのかもしれません。

>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6
>仏教の基本中の基本ですよ。
>四(三)法印、四諦、八正道は。

四諦八正道は存じておりますが、引用のリンクには「不幸」と書いてありません。
私は「苦」を「不幸」と言い換えるのはどうも新興宗教のようで抵抗感があります。

>輪廻を信じないというのなら、また別の説明をする必要がありますが、正直いって仏教信じる意味はほとんどないでしょう。

それには少し疑問があります。
輪廻思想を批判する和辻哲郎氏や浄土真宗の小川一乗氏らは仏教を信じる意味はほとんどないのでしょうか。

輪廻思想と無我思想の調和は不可能(和辻哲郎)http://freett.com/Libra0000/070.htm
釈尊は輪廻転生説を否定した(小川一乗)http://freett.com/Libra0000/077.htm
輪廻思想は仏教本来の思想か(舟橋尚哉)http://freett.com/Libra0000/078.htm
三時業説批判(角田泰隆)http://freett.com/Libra0000/079.htm

>どうせたかだか人生80年ということを認めたうえで、個人の極限の快楽の(幸福の)追求を行うような刹那的な人生観に対して仏教のロジックだけでは説得できないのです。

なるほどです。であるから創価学会をはじめとする新興宗教やその他の宗教が繁盛するのですね。
Posted by Leo at 2005年12月09日 23:36
Leoさんへ
残念ながら、そのような論拠をいくら出されても、私個人を説得することは不可能なのです。

それは、パーリー聖典と大作氏の著作とショーコー氏の著作と3つ並べられて、どれが正しいのか?
と問われたら、パーリー聖典を選ぶのが信者の正しい姿だからです。

誰かが別のことを言っているんだから、答えは違いがあるのではないかというのは世俗の思想です。

数学の問題を偏差値70の秀才が解けば、答えは決まってますが、偏差値30の人間が集まっても、答えなどでるわけがないのと同じ理屈です。

輪廻転生なんてのは、瞑想がある一定以上のレベルを超えれば当たり前の事実でしかないのですよ。

チベット密教系では、ずっと必死に死ぬときのリハーサルを延々とやってるぐらいの当たり前の事実なのです。瞑想してない人間の言っていることなど、偏差値30の数学の答えと一緒です。読む時間さえもったいない。

さて、論理で説得できない場合に、どうやって教化するかなのですが、これはアイドルの布教と同じなのです。素敵な人だな、素晴らしい人だな。このような人になってみたいと思わせる何かがないと、理屈では人を教化できないのです。

それを持って、その人が言うことだから信じてみよう。輪廻転生というのがあるのだな、だとすると、一生修行だな、心の完成を頑張らないといけないのだなという心が生まれて、教化できるということになります。

その段階で、くまりんさんの立場、つまり自分自身をきちんと省みないと、論理だけでは説得、教化できないという事実をしっかり認識する必要がでてくるのです。結局のところ、相手を説得しているうちはまだまだなのですが、まぁ、そういうことです。

ですから、Leoさんも瞑想するか、尊敬する誰かをモデルに言うことを信じるか、頑張ってください。

私は比丘でも僧でもないので、導く義務も能力もありませんから。

それでは。

Posted by とゆーか at 2005年12月10日 09:43
とゆーかさん、おはようございます。

>残念ながら、そのような論拠をいくら出されても、私個人を説得することは不可能なのです。

私はとゆーかさんを説得するつもりは毛頭ないですよ。私はこういう考えだというのを表明し
資料も引用しているだけなのです。ご安心ください。

>それは、パーリー聖典と大作氏の著作とショーコー氏の著作と3つ並べられて、どれが正しいのか?
>と問われたら、パーリー聖典を選ぶのが信者の正しい姿だからです。

私はテーラーワーダ仏教の信者ではないですが、3つの著作のなかでパーリー聖典を選択すると思います。
「誰が書いた」でなく「内容で」判断すると思います。
あと「正しい」がどうか判断するには批判力が必要な気がします。

>数学の問題を偏差値70の秀才が解けば、答えは決まってますが、偏差値30の人間が集まっても、
>答えなどでるわけがないのと同じ理屈です。

まず偏差値30を偏差値70しなければならないでしょうか?

仏典では周利槃特の物語があるようです。
http://www.akiminami-h.hiroshima-c.ed.jp/hanasi/shurihandoku.htm

>ですから、Leoさんも瞑想するか、尊敬する誰かをモデルに言うことを信じるか、頑張ってください。

今までの私のように妄想よりも、瞑想がよいように思いますし、「尊敬する誰か」は日蓮(大聖人)や
ブッダですね。頑張ってみます。
Posted by Leo at 2005年12月10日 10:04
Leoさんへ
もう一項目だけ問いかけてみましょう。

仏教に輪廻転生がないとするということにします。

苦諦(一切皆苦)がありますから、必然的に、早く死ぬことが理想になります。

どーせ死ぬんだし。どーせいいことないんだし。
面倒だからしんじゃいたい。できたらついでだから誰か殺してくれないかな。

この種の虚無的な人生観、自殺衝動を止める動機づけに顕著ですが、それを否定しようにも、そのあらゆる根拠を失うのです。

早く死ぬほうが正義なのですから、殺生戒が戒律として成立するわけもありません。

こういうわけで、ちょっと考えれば輪廻転生を否定するだけで仏教の倫理と論理がガタガタゆらぐのです。

輪廻転生を否定し、感情を交えずに論理だけで、自殺しようとしている人を思いとどまらせるロジックが思い浮かびますか?

ついでに、すでにほぼ老衰状態で寝たきりで死につつある老人の延命治療問題、終末医療問題なども、輪廻転生を前提にすればどういう対応をとるべきかは、ほぼ自明になります。
それを否定しちゃえば、対応策はまるででたらめ気分次第のものになるでしょう。輪廻転生がないということは、死生観がないということであり、それは確かに哲学ではあるかも知れませんが、宗教ではなくなります。

パーリー聖典のいたるところに書いてあり、なおかつ否定すると、仏教の論理も倫理もまるででたらめになる輪廻転生思想というものは、仏教にもともと備わっていると考えたほうが簡単になるのです。
Posted by とゆーか at 2005年12月10日 20:45
とゆーかさん、こんばんは。

とゆーかさんは何かを伝えようとされているのだと思いますが私のような凡人にはにわかにわからないのかも
しれません。そこのところどうかご容赦ください。

>こういうわけで、ちょっと考えれば輪廻転生を否定するだけで仏教の倫理と論理がガタガタゆらぐのです。

倫理として輪廻転生を用いなければガタガタゆらぐような宗教は私にとっては不要です。

>輪廻転生を否定し、感情を交えずに論理だけで、自殺しようとしている人を思いとどまらせるロジックが思い浮かびますか?

その人が輪廻転生の否定論者かもしれないし、私だったら「死ぬ気だったらなんでもできるよ。おやめなさい。」
というでしょう。誰もがそういう考えではないかもしれませんが、私にとって生きるとは「探求」であって(「探求」が嫌いな人だったら
「遊び」でもなんでも興味のあることを思い浮かべればよいでしょう)、人生80年ぐらいでは全然足らないぐらいです。

私の生存が終われば分子は分散してしまうでしょうが、私はたいしたことはできないですが、
何か書くなりして足跡を残したとして、それが後世の方に影響を与えるとしたら、それが私の(情報的)《輪廻転生》です。
(これはたとえであって、私がなにかたいしたことができるものではありません)
そういう意味では私はさまざまな過去・現在の人の(情報的)《輪廻転生》から存在していることなります。

>ついでに、すでにほぼ老衰状態で寝たきりで死につつある老人の延命治療問題、終末医療問題なども、
>輪廻転生を前提にすればどういう対応をとるべきかは、ほぼ自明になります。

来世を仮定すると丁寧な看護を行うのか、逆に来世を仮定すると安楽死を正当化するのか、私にはよく
わからないです。

>パーリー聖典のいたるところに書いてあり、なおかつ否定すると、仏教の論理も倫理もまるででたらめになる輪廻転生思想というものは、
>仏教にもともと備わっていると考えたほうが簡単になるのです。

輪廻転生が方便(巧みな手段)というのはわかりますが、(来世を仮定するような)輪廻転生はどのように確認できるものでしょうか。
確認できないものは存在しないと同等ではないでしょうか。

Posted by Leo at 2005年12月10日 22:57
輪廻転生の呪縛からの解放を説くのが仏教なのではないでしょうか。
Posted by Leo at 2005年12月11日 00:19
>輪廻転生の呪縛からの解放を説くのが仏教なのではないでしょうか。

ですから、あなたが輪廻転生はないと検証したというのでしたら、すでに呪縛を逃れているのですから、仏教は不要でしょう。

以前に言ったとおりです。

後生なしなら葬式も必要ないし、いわんや七回忌みたいな行事その他まるっきり無意味ですし、当然仏壇も家からなくせばよろしいのです。信念をもってやってください。少なくとも故人のために行うことではなく自分たちのための行動としてやるのがせいぜいになります。追善供養のようなギャグからは離れることです。省みて、いかに後生を前提とした行為にどれだけ縛られていたか見ればよろしいと思います。行為を行えば、認めたことになります。それが論理です。

無宗教者になるのが正しいのと違いますか?
現実的に自分自身のリアリティだけ追及してください。それもまた仏道のひとつの姿ではあります。

Posted by とゆーか at 2005年12月11日 15:55
ついでに、ちょうど良い記事がでたのであげておきます。
http://gotami.txt-nifty.com/journal/2005/12/_dhp_iv_pupphav_a103.html

こういう死に方(かみそりはやりすぎですが)がインド系宗教の理想の死に方です。それは中国の禅宗、道教、チベット密教、インドヨーガの行者全てにあるひとつの形です。

サマーディに入って人は死ぬべきなのです。
それができないなら、やすらかな気持ちで天界(天国)へ。あるいは人間、畜生へ。
それさえ失敗すると、供養してもらう必要がでてきます。

後生を信じない人にとっては迷信です。
まぁ、輪廻も迷信も嫌いな人のようですから、関係ないでしょうけど。一応知識としては知っておくと、それ以下のおかしな宗教にはひっかからなくなるでしょう。
Posted by とゆーか at 2005年12月11日 16:18
とゆーかさん、こんばんは。

>ですから、あなたが輪廻転生はないと検証したというのでしたら、すでに呪縛を逃れているのですから、仏教は不要でしょう。

私は「輪廻転生はない」と完全に検証できていませんが「輪廻転生がある」とされることを示す状況と
「輪廻転生はない」とされることを示す状況とを比較し、「輪廻転生はない」に限りなく傾斜しています。

>無宗教者になるのが正しいのと違いますか?
>現実的に自分自身のリアリティだけ追及してください。それもまた仏道のひとつの姿ではあります。

私は現在心情的には無宗教者に限りなく近いです。
しかしリアリティの追及だけで仏道が可能であればそれは興味のあるところです。

>ついでに、ちょうど良い記事がでたのであげておきます。
>http://gotami.txt-nifty.com/journal/2005/12/_dhp_iv_pupphav_a103.html

「認識範囲の狭さという弊害」これは私にとっては耳の痛い話です。

>サマーディに入って人は死ぬべきなのです。

ブッダもサマーディに入ったとすると「どういうことなのだろう」と興味がわきます

>まぁ、輪廻も迷信も嫌いな人のようですから、関係ないでしょうけど。一応知識としては知っておくと、
>それ以下のおかしな宗教にはひっかからなくなるでしょう。

「輪廻」や「迷信」は「嫌い」なのではなく、確認できないものは確かなものでないとして
支持できないだけなのです。確認ができれば支持すると思います。

ただ「輪廻」や「迷信」があるとしたほうが(私が支持しなくとも)「楽しい」「希望がある」
らしいということはわかるような気がします。
文学や演劇や映画やドラマや漫画などの内容は虚構であって正しさを確認できない場合が多いですが
それらは「楽しい」「希望がある」ものだからです。
要するに「仏教」は「文学」などに近いということなのですね。
Posted by Leo at 2005年12月11日 20:55
Leoさん こんばんは。
どうもロマンティストですね。
楽しいから輪廻を妄想していると思っているんですね。
その感覚は外道の感覚であり、仏教徒にとって輪廻しつづけるというのは、地獄にいることそのものなのです。
そうじゃない仏教徒が居るし、そういう教えを仏教と称する一門もあったりするのでお話はややこしいのですけれど。

仏陀が涅槃に入る状況のお経については、くまりんさんに無責任に振っておきます。面識おありなようですから、お願いしてみてください。

現実的にだけで仏教を行う場合は、以下の本がとっかかりとしてよろしいと思います。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4901679082/qid=1134479362/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-7112561-2012269

ロマンティストのようですから、過去と未来の妄想を断ち切るにはどうするか試行錯誤してみてください。

初期仏教の場合は、サマディで死ぬより上というか並列の境地として、最初の悟りを得る境地があります。
上の本はその方向を目指す本です。
また、サマディで死ぬより上の最上の死に方が涅槃とされているのです。
外道と称される宗教は、サマディで死ぬのが最善だといわれている宗教です。この流れで如来蔵思想は仏教じゃないとかいう議論は、すべて涅槃をサマディの一種であり、仏陀がいまだ存在するという迷妄からきています。この手の論理を行う仏教は、本質的には仏説ではないと初期仏教からは見えます。
大乗は、そのサマディより上の阿羅漢とその他の沙門果を二乗といい蔑み菩薩を持ち上げましたが、結果として涅槃をその他のサマディの中に落とし込みました。これにより、梵我一如と無我の仏教の境目が見えなくなったのです。
初期仏教は徹頭徹尾、無我であり、涅槃を梵我一如の上の境地として掲げるのです。

和辻さんの論文の要約としては、我がないとすると輪廻の主体がないから無我なら輪廻思想が成立しないということのようですが、

阿羅漢に我なし
凡夫に我あり
阿羅漢は涅槃し、凡夫は輪廻する。

論理的にはその程度のことです。
仏陀が涅槃しても実存するかのような迷妄した論理で考えるから論旨が破綻するのです。

逆に言えば、無我を証しないサマディでは、涅槃にはいたらず梵天界にはいってもいずれ(永遠ののち)また三界に戻ってくるというのが初期仏教者の世界認識です。
つまり究極的には無我は絶対的な真理ですが、凡夫はそれを体験しないといけないという論理なのです。

ところが、凡夫に我があるというと、ああ、魂があるんだ、それで無限に輪廻するんだ。如来も輪廻するんだという邪見を持ってしまいますから、徹頭徹尾、無我(あるいは非我)を言うのです。

少々おしゃべりがすぎましたが、お釈迦様の涅槃の様子と参考の書籍を手にとってみてください。
あとは、くまりんさんとの会話のネタにでもしてください。私個人の無我思想の理解です。

それでは
三宝の加護がありますように。

Posted by とゆーか at 2005年12月13日 22:49
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