2006年08月29日

橋の下で拾われた?

 子供(幼児)の頃、悪いことをしたり言うことを聞かないと、母親から「橋の下で拾った子供だから、また置いてくるよ」なんて言われたことってありませんか?
 それとか縁側に出されて鍵閉められるとか、私はこんな懐かしい経験があります。^^
 最近じゃこんなことはないのかな?
 でも「悪いことをしたり、言うことを聞かない」と、好きなTVを見せてもらえなかったり、おやつが貰えなかったりといったペナルティを受けたりした経験は皆さんあるんじゃないでしょうか。
 「・・・でしょ?」、「・・・しょうね!」、「わかった? ちゃんと聞いてる? 返事は? はいでしょ!」等々、最近私がよく遭遇する母親の子供に対する躾・説教・説得です。
 日本じゃこんなの今でも当たり前なのかもしれませんが、これってすごく悪い子供の躾・教育であるように私は思います。

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posted by わめ at 03:04| Comment(17) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月23日

人と人との間

 あることをふっと思い出し、柄にもなく寂しさが込み上げてきた。
 それは約10年間、一緒に暮らした人とのことです。
 まだ離れて3年半も経ってないし、今でもたまに電話やメールもきたりして、お互い過ぎ去った過去のことと思ってないのかもしれない・・・
 とはいえ、現在お互いそれぞれ一人で暮らしているわけでもなく、やっぱり過去は過去です。
 これは【自立 03】の記事で、私がある種の自立のキッカケとなった人のことです。

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posted by わめ at 01:52| Comment(18) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月22日

意識について

 自身の守るべきもの、守備範囲とでも申しましょうか、自分・家族といったものは我が身そのものの縄張範囲、友人・知人といった守備範囲、できることならのこうなって欲しいという希望範囲、細かくそういった範囲を立て分ければ以外とその範囲種別は多いのではないでしょうか。
 仏教では無我といって、自立自存するものなど何もない(無自性)と説きますが、それを自分の事として理解するためにも、自我意識及び自分と強く影響を及ぼし合う他者との相互関係について、明確に自覚を持つことは大切なことのように思います。
 縁起に依るひとつの現象に過ぎない自分であっても、そこにはちゃんと意識があり、自分という現象を守り続けたいと思うことは、この世に生を受けたものとして、正常なことのように思います。
 また、そこからでしかその先に進めないのかもしれません。

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posted by わめ at 17:26| Comment(15) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月20日

暫定真理と専門書

 熱力学の第二法則、一般相対性理論、万有引力の法則などは、暫定真理(反証可能性があり、反証・反駁に耐えている仮説)と私は呼ぶのですが、ブッダの縁起説も、その説のすべてではないかもしれませんが、暫定真理と呼べると思います。

 これら暫定真理は、直接的には一般相対性理論はともかく、知っていたほうが時と場合により役立つことがあると思います。
 間接的にはほとんどの暫定真理は、ある条件内であれば結果が予測でき、あらゆる分野で生かされ、私たちの生活に役立ってくれているといえるでしょう。

 これらそれぞれの暫定真理とは何かを知る方法として、専門書などを読むことや、現在ではネットで検索エンジンを使うことでもある程度は知ることができるでしょう。

 ブッダの縁起説も、仏教においては苦からの解放や、解脱・涅槃(寂静)などの心理状態に導く教えに活かされているようです。

 このことで注意すべきは、仏教からブッダの縁起説を切り離すことはできませんが、ブッダの縁起説は暫定真理として、仏教と切り離すことができるということです。

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posted by わめ at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月11日

輪廻説は仏教ではない

 この記事は当初2005/11/10に書いたものですが、この記事に新たに「佐倉さんの無我論への感想1〜5」のリンクと一部引用を加え、輪廻転生は仏教の教えではないことの援用とさせていただきました。

 軒ちゃんのブログの『過去世と来世は存在するか』の記事にコメントさせていただいた中で、Libra師匠の雑記の『輪廻説は仏教ではない』をリンクさせていただきましたが、その内容についてのコメントを以前掲示板で書いておりましたのでまずはコピペします。

 脳が壊れていくことで心が壊れていくというアルツハイマー病患者での事実は、心(性格やその方の人間性等)は脳の働きであると言えると思います。
 輪廻があるとした場合には、前世で脳が壊れるわけですから、心も壊れた状態もしくは心とは別の何かが輪廻するわけで、まったく別人格の自分になっているように思うのです。
 それなら、人が死んで焼かれ土に返り、またそれが植物などに吸収されそれを動物が食べ、人は意識・人格を無くしながらも、何らかの形で存在していくのと何ら変わりはなく、それは縁起そのものじゃないかと思うのです。
 そういった意味で一個の生物は、無数の命を取り込んで(ながら)生存活動を続けているわけで、またその一個の生命も死によって、他の多数の生物の中に取り込まれていく。これを輪廻と言ってもいいんじゃないかと思うし、そういったことを指すのが輪廻なら”ある”と思います。』
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posted by わめ at 11:48| Comment(15) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月05日

釈尊が肯定する信仰

 釈尊の「信仰を捨てよ」について、Libra師匠Leoさんと以前に議論しましたが、Libra師匠の言われる「仏教的信仰」を信仰と規定されるものの概念内に収めるなら、釈尊の「信仰を捨てよ」に該当する信仰とは言えないとの見解を私は示しました。
 しかしながら私の表現能力不足か、はたまた信仰という言葉自体が広範な概念を持つ言葉であるが故か、どうもすっきりと腑に落ちていかなかったという感が私には残ってしまいました。
 そこで改めて私の主張を明確にし、ご批判を頂ければと思いこうして記事にすることにしました。^^

 続きを読む 追記 2006/08/05 17:15
posted by わめ at 05:39| Comment(44) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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